第百十章『黒翼の覚醒』
漆黒の翼だった。
空を覆い尽くすほど巨大な双翼。
羽ばたくたびに黒い粒子が舞い、神殿そのものが悲鳴を上げるように震えている。
レオンハルトは息を呑んだ。
「……これが、本来の力か」
ノクスは宙へ浮かび上がる。
だが様子がおかしい。
赤い瞳は淡く発光し、焦点が定まっていない。
全身から溢れる黒炎は制御を失い、周囲すべてを破壊し始めていた。
ガブリエラは胸が締め付けられる。
彼が苦しんでいる。
そう分かるのに、近づくだけで身体が焼かれそうなほどの魔力だった。
怪物は愉悦を隠さず笑う。
『素晴らしい』
『それこそが“門”の力』
『黒翼の王よ』
ノクスの表情が歪む。
「……違う」
低い声。
だが次の瞬間、彼は頭を押さえ苦しげに呻いた。
脳裏へ流れ込む膨大な記憶。
血。
叫び。
崩壊した世界。
そして、自分と同じ黒翼を持つ無数の存在。
『帰還せよ』
『こちらへ来い』
『お前は我らの王となる器だ』
無数の声が彼を侵食していく。
ノクスは歯を食いしばった。
「……俺は……」
怪物が腕を広げる。
『抗うな』
『お前は人間ではない』
『人を守るなど滑稽だ』
その瞬間、ノクスの黒炎がさらに膨れ上がる。
神殿の柱が次々崩壊していく。
レオンハルトはガブリエラを庇いながら叫んだ。
「このままじゃ旧聖域ごと吹き飛ぶぞ!」
だがガブリエラはノクスから目を離さなかった。
彼は今、一人で戦っている。
五百年前と同じように。
誰にも助けを求めず、苦しみを抱え込んだまま。
ガブリエラは震える足で前へ進む。
「おい、待て!」
レオンハルトが止めようとする。
だが彼女は首を振った。
「今、私が行かなきゃ駄目なの」
黒炎が吹き荒れる。
普通なら近づくだけで命を落とすほどの魔力。
それでもガブリエラは進んだ。
一歩ずつ。
ノクスへ向かって。
「ノクス!」
叫び声が響く。
しかし彼は反応しない。
まるで遠い場所に閉じ込められているようだった。
ガブリエラはさらに近づく。
熱風で肌が裂けそうになる。
それでも手を伸ばした。
「帰ってきて……!」
ノクスの瞳が僅かに揺れる。
だが門の奥から再び声が響く。
『惑わされるな』
『その娘はいずれお前を裏切る』
『人間は皆そうだ』
ノクスの表情が苦痛に歪む。
黒炎が暴れ狂った。
ガブリエラは唇を噛む。
怖かった。
本当は今すぐ逃げ出したいほど恐ろしい。
それでも。
彼を一人にはしたくなかった。
ガブリエラは涙を零しながら叫ぶ。
「私はここにいる!!」
その声が空気を震わせる。
「あなたが何者でも関係ない!」
黒炎の嵐の中、ガブリエラは真っ直ぐノクスを見つめた。
「人間じゃなくても、化け物でも、失敗作でも――私はあなたを離さない!!」
静寂。
その瞬間、ノクスの瞳が大きく見開かれる。
ガブリエラは彼の胸へ飛び込むように抱きついた。
黒炎が彼女を包む。
レオンハルトが息を呑んだ。
だが炎は彼女を焼かなかった。
まるで拒めないように、静かに揺れている。
ガブリエラは強く抱き締める。
「もう、一人で苦しまないで」
震える声。
温かな涙。
それがノクスへ伝わっていく。
彼の身体から溢れていた黒炎が少しずつ静まり始めた。
赤い瞳に、微かな理性が戻る。
「……ガブリエラ」
掠れた声。
彼はゆっくり彼女を見下ろした。
そこにいたのは、“門の王”ではない。
彼が守りたいと願った少女だった。
ノクスの瞳から黒い光が消えていく。
だがその瞬間――。
怪物が叫んだ。
『させるかァァァ!!』
巨大な瘴気の槍が生み出される。
狙いは、無防備なガブリエラ。
レオンハルトが剣を構える。
「危ない!!」
しかし間に合わない。
槍は一直線に彼女へ迫る。
その瞬間。
ノクスの翼が大きく広がった。
黒炎が閃く。
轟音と共に瘴気の槍が粉砕された。
神殿中へ衝撃波が走る。
ノクスはガブリエラを抱き寄せたまま、怪物を睨みつけた。
その瞳には、完全な怒りが宿っていた。
「……俺の大切なものに触れるな」
低く響く声。
次の瞬間。
黒翼が空を裂いた。




