第百七章『旧聖域』
王都を出発したのは、まだ夜明け前だった。
薄青い空の下、冷たい風が雪解けの大地を撫でていく。
王城の正門前には数頭の馬と最低限の装備だけが用意されていた。
今回の調査は極秘。
大規模な騎士団を動かせば、人々に無用な不安を与えてしまう。
そのため同行するのは、ガブリエラ、ノクス、そしてレオンハルトのみだった。
「旧聖域まで半日ほどだ」
地図を確認しながらレオンハルトが言う。
「本来なら立入禁止区域だが、今はそんなことも言っていられない」
ノクスは無言のまま空を見上げていた。
彼だけは既に確信しているようだった。
あの瘴気は、ただの残滓ではない。
もっと深く、もっと古い“何か”が動き始めている。
ガブリエラは馬へ乗りながら胸元を押さえた。
紋章が時折熱を持つ。
まるで旧聖域へ近づくほど反応しているかのようだった。
その様子に気づいたノクスが手綱を寄せる。
「……平気か?」
「うん。大丈夫」
そう答えたものの、彼の赤い瞳は納得していなかった。
「顔色が悪い」
「ノクス、心配しすぎ」
「当然だ」
即答だった。
レオンハルトは前方を向いたまま小さく笑う。
「お前、本当に変わったな」
ノクスは眉を寄せる。
「何が言いたい」
「昔のお前は、他人を気遣う余裕なんてなかった」
「……黙れ」
そのやり取りに、ガブリエラは思わず吹き出した。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
だが――。
旧聖域へ近づくにつれ、景色は徐々に異様さを増していった。
森は静まり返り、鳥の声ひとつ聞こえない。
木々は黒ずみ、地面には不気味な紋様のような亀裂が走っている。
空気そのものが重かった。
やがて三人は巨大な遺跡の前へ辿り着く。
崩れた白亜の神殿。
かつて神へ祈りを捧げる場所だったそこは、今や黒い瘴気に覆われていた。
ガブリエラは息を呑む。
「……ここが、旧聖域」
その瞬間。
胸元の紋章が強烈な光を放った。
「っ……!」
激痛に膝が崩れる。
ノクスが即座に彼女を抱き支えた。
「ガブリエラ!」
頭の中へ大量の映像が流れ込む。
白い巫女たち。
崩壊する神殿。
黒い門。
そして――泣いている少女。
『門を閉じなければ、世界は呑まれる』
誰かの声。
次の瞬間、ガブリエラの視界が真っ黒に染まった。
彼女の口から、自分のものではない声が漏れる。
『器を……返せ……』
空気が震えた。
レオンハルトが剣へ手をかける。
「何だ今のは……!」
ノクスの瞳が鋭く細められる。
彼はガブリエラを抱き締めながら、神殿の奥を睨んだ。
そこには、闇があった。
ただの暗闇ではない。
“生きている闇”。
ゆっくりと蠢きながら、こちらを見ている。
その中心で――巨大な門が脈動していた。
まだ完全には開いていない。
だが確実に、向こう側と繋がり始めている。
ノクスは低く呟く。
「……封印が壊れかけている」
すると神殿全体が激しく揺れた。
崩れた柱の奥から、黒い影が這い出してくる。
人型に近い異形。
全身を瘴気で覆われ、目だけが赤く光っていた。
その数は、一体ではない。
次々と現れる。
レオンハルトが剣を抜いた。
「囲まれたな」
ノクスはガブリエラを背後へ庇いながら黒炎を纏う。
「下がっていろ」
「でも……!」
「お前を狙っている」
その瞬間、異形たちが一斉に咆哮した。
地を蹴り、三人へ襲いかかる。
旧聖域の奥深くで――新たな戦いの幕が上がった。




