第百六章『新たな始まり』
朝の光が王都を優しく照らしていた。
長く続いた黒雲は完全に消え去り、青空がどこまでも広がっている。
雪解けの雫が屋根から落ち、街には穏やかな喧騒が戻っていた。
王城の中庭では、騎士たちが修復作業に追われている。
崩れた石壁を運び、折れた旗を張り替え、人々は未来を取り戻すため前を向いていた。
その光景を、ガブリエラは回廊から静かに見つめていた。
「……平和、なんだよね」
ぽつりと漏れた声。
けれど胸の奥には、まだ消えない不安が残っている。
あの戦いの最後。
裂け目が閉じる寸前、自分へ向けられた“何か”の視線。
あの冷たい感覚を、彼女は忘れられずにいた。
「また難しい顔をしている」
低い声と共に、温かな上着が肩へ掛けられる。
振り返ると、ノクスが立っていた。
黒髪を風に揺らしながら、赤い瞳でじっと彼女を見つめている。
ガブリエラは少し困ったように笑った。
「そんな顔してた?」
「ああ」
即答だった。
ノクスは彼女の隣へ立つと、中庭へ視線を向ける。
「……無理に笑うな」
「え?」
「お前はすぐ隠そうとする」
その言葉に、ガブリエラは目を伏せた。
図星だった。
皆が平和を喜んでいる中、自分だけが不安を抱えている気がして、口にできなかったのだ。
ノクスは静かに彼女の髪へ触れる。
「俺には隠さなくていい」
その声音はどこまでも優しかった。
ガブリエラの胸が熱くなる。
「……怖いの」
小さな声だった。
「終わったはずなのに、何かがまだ残ってる気がして」
ノクスは黙って話を聞いていた。
否定もしない。
励ましもしない。
ただ、彼女の言葉を受け止めている。
だからこそ、ガブリエラは安心して本音を零せた。
「また誰かを失うんじゃないかって思うと……」
そこまで言った瞬間、ノクスは彼女を引き寄せた。
突然のことに、ガブリエラは小さく息を呑む。
「ノ、ノクス……?」
「失わせない」
低く、強い声。
彼の腕は驚くほど力強かった。
「今度こそ、絶対に」
その言葉には、五百年分の後悔が滲んでいた。
ガブリエラはゆっくりと彼の胸へ額を預ける。
規則正しい鼓動が聞こえる。
生きている。
ここにいる。
それだけで、涙が出そうになるほど安心した。
ノクスは彼女の髪へそっと口づけを落とした。
「お前が泣く顔は見たくない」
「……最近のあなた、甘すぎない?」
「誰のせいだと思ってる」
珍しく即答され、ガブリエラは思わず吹き出した。
そんな二人の様子を、回廊の奥からレオンハルトが見ていた。
「……朝から何を見せられているんだ俺は」
呆れたように呟く。
しかしその表情は穏やかだった。
騎士としてではなく、一人の男として抱えていた想いはまだ完全には消えていない。
それでも今は、二人が笑っていることが嬉しかった。
そこへ部下が慌てた様子で駆け込んでくる。
「レオンハルト様! 北部の観測塔から報告が!」
「……何だ?」
「魔力反応です。消えたはずの瘴気が微量ですが再観測されました」
空気が変わる。
レオンハルトの表情が一瞬で鋭くなった。
「場所は?」
「旧聖域跡地です」
その言葉に、離れた場所にいたノクスも反応した。
赤い瞳がゆっくり細められる。
「……やはり終わっていなかったか」
ガブリエラの胸元の紋章が微かに熱を帯びた。
同時に、脳裏へ断片的な光景が流れ込む。
黒い海。
崩れた神殿。
そして――巨大な“門”。
ガブリエラは息を呑む。
「これは……」
ノクスが彼女の肩を支えた。
「見えたのか?」
彼女は震える声で呟く。
「……まだ、“何か”が向こう側にいる」
沈黙が落ちる。
平和は戻った。
だがそれは、終焉ではなく――新たな始まりだった。




