第38話 英雄の乗騎と、忍び寄る影
ズズゥン……。
地響きのような鼻息と共に、気絶していた巨大な猪がゆっくりと目を開けた。
先程までの血走った狂気は消え失せ、その瞳は本来の獣が持つ穏やかな琥珀色を取り戻していた。
「おっ、お目覚めか。だが油断するなよ、まだ暴れるかもしれねえ」
レツが即座に大剣の柄に手をかけ、テオとアリュールも武器を構える。
だが、二階建ての家屋ほどもある大猪は、敵意を見せるどころか、よろよろと立ち上がると、一直線に俺の方へと歩み寄ってきた。
「ユウさん、下がって!」
アリュールが声を上げるが、俺は片手を上げてそれを制した。
大猪は俺の目の前でその巨体を低く沈めると、「ブゥン……」と甘えるような喉鳴らしをして、巨大な鼻先を俺の胸元にすり寄せてきた。硬い毛の感触と、獣特有の匂いがするが、嫌な感じはしなかった。
(ふむ……。完全に俺の『覇王のオーラ』に屈服し、忠誠を誓ったというわけか。伝説の英雄には必ず神獣の乗騎が付き従うものだが、まさかこんな巨体を従えることになるとはな)
「よしよし。お前も俺という主に出会えて本望だろう。今日からお前の名は『ベヒーモス』だ。誇りに思うがいい」
俺が鼻先を撫でてやると、ベヒーモスは嬉しそうに目を細め、短い尻尾をパタパタと振った。その衝撃だけで周囲の瓦礫がカラカラと吹き飛ぶ。
「す、すげえ……。あんなバケモノを手懐けちまうなんて」
テオが剣を下ろし、ぽかんと口を開けた。
「だが、お前のその巨体で城の中を歩き回られては、せっかくの俺の優雅な生活が台無しだ。普段は『迷わずの森』の奥で待機しておけ」
俺がそう命じると、ベヒーモスは少し寂しそうに「ブゥ」と鳴いた。
俺は口元に指を当て、鋭い口笛をヒュウッと吹き鳴らした。
「いいか。俺がこの口笛を鳴らしたら、地の果てにいようと駆けつけろ。そして、俺の敵をその巨大な蹄で踏み潰せ。分かったな?」
俺の言葉に、ベヒーモスは「ブオォォォッ!」と力強い咆哮で応え、深く頭を下げた。そして、未練がましそうに何度か振り返りながらも、ドスドスと地響きを立てて森の奥へと帰っていった。
「……信じられん。あんな巨獣を、言葉だけで従わせるなんて」
アリュールが感嘆の溜息を漏らす。
レツも腕を組み、面白そうにニヤリと笑っていた。
「はははっ! やっぱお前は規格外だな! 頼もしい弟分ができて、俺も鼻が高いぜ!」
レツがまた俺の背中をバンバンと叩く。(だから初対面だと言っているだろうが、この筋肉ダルマは!)
***
ベヒーモスが森へ帰った後、城壁の修復と怪我人の救護が始まった。
俺は居室に戻る前に、レツとアリュールが瓦礫の影で深刻な顔をして話し込んでいるのを耳にした。
「……間違いない。こいつは、魔族の領土で使われていた『凶化薬』の残滓だ」
レツが、ベヒーモスが倒れていた地面の赤黒い血痕を指で拭い、匂いを嗅ぎながら言った。
「凶化薬……。ではやはり、ザルガンディアの仕業ですか?」
「いや、あいつらはもっと力任せな戦い方をする。こんな陰湿な毒を、わざわざ街の地下から森へ流し込むような真似はしねえはずだ」
レツの瞳が、剣のように鋭く細められた。
「これは……もっと質の悪い『組織』の匂いがする。最近、城下町の地下水道付近で、怪しい黒装束の連中を見たって噂があるんだ。……アリュール、親父(国王)には内密に、地下の調査を進めてくれ」
「……承知いたしました」
アリュールが静かに頷く。
(ふむ。魔王軍の残党か、はたまた裏社会の組織か。俺の治める予定の国で好き勝手をするとは、いい度胸だ。いざとなれば俺が直々に制裁を下してやろう)
俺は密かに決意を新たにし、その場を離れた。
***
数日後。
俺は気分転換を兼ねて、城下町の下町エリアを一人で歩いていた。
テオは訓練、ルルは持ち場の見張りだ。護衛のカイとかいう影の薄い男は、適当な理由をつけて撒いてきた。英雄の休息に、無粋な監視の目は不要だからな。
貧民街特有の、煤と泥の入り混じった匂い。
だか、嫌いじゃない。こういう猥雑な場所にこそ、隠された伝説のアイテムや、情報屋が潜んでいるのがお約束だからだ。
入り組んだ路地裏を歩いていると――不意に、不思議な音が耳に飛び込んできた。
『……星よ……巡る星よ……』
歌声だった。
透き通るような、それでいてどこか哀愁を帯びた、鈴を転がすような少女の声。
(……なんだ? こんなスラムの奥底から、こんな美しい歌声が?)
俺は導かれるように、薄暗い路地の奥へと足を進めた。
崩れかけた石壁の影。そこに、小さな廃教会のような建物があった。
ステンドグラスは割れ、屋根には穴が開いている。だが、その穴から差し込む一筋の陽光の下で――彼女は祈っていた。
ぼろぼろの白い貫頭衣を身にまとい、銀色の長い髪を床に広げた少女。
年はイシュタルより少し上くらいか。透き通るように白い肌と、星空をそのまま閉じ込めたような深い瑠璃色の瞳。
その姿は、この泥にまみれたスラムにあって、あまりにも異質で、息を呑むほど美しかった。
俺の足音に気づき、少女がゆっくりと振り返る。
彼女の瑠璃色の瞳が、俺の姿を捉えた瞬間。
「あ……」
少女は目を見開き、花が綻ぶような、あるいは奇跡を目の当たりにしたような、圧倒的な歓喜の表情を浮かべた。
「ようやく……ようやく、お会いできました……!」
少女は俺の前にふらふらと歩み寄ると、そのまま石の床に膝をつき、祈るように両手を組み合わせた。
「我が神よ……! ずっと、ずっとお待ちしておりました……!」
(……我が神?)
俺は思わず周囲を見回したが、ここには俺と彼女しかいない。
俺は、彼女――ルナリアと出会った。
この出会いが、やがて取り返しのつかない怒りと絶望の引き金になることなど、この時の俺には知る由もなかった。




