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第37話 対話する英雄

 大猪の全身から噴き出した赤黒いオーラは、まるで意思を持った炎のように渦を巻き、周囲の空気を泥のように重くした。


「チッ……! 自らの命を燃やして、無理やり動かされているのか!」

 レツが舌打ちをし、咄嗟にもう一発攻撃を入れようと距離を詰める。

 だが、大猪の動きは先程までの鈍重なものとは比較にならなかった。筋肉の断裂音を撒き散らしながら、常軌を逸した速度でレツの横をすり抜ける。


 その凶器のような巨体が向かった先には、負傷したルルとテオを庇うように立つアリュールの姿があった。


「しまっ……! アリュール!!」

 レツが叫び、地を蹴る。だが、どんなに彼が速くとも、大猪の特攻には数歩届かない。


「くっ……!」

 アリュールが折れかけた槍を構え、絶望的な迎撃態勢をとる。


 その時だった。

 俺の耳に、奇妙な声が聞こえた。


『――痛い……』


 大猪が発する、鼓膜を破るような狂乱の咆哮。

 だが、俺にはそれが、ただの獣の鳴き声には聞こえなかった。


『痛い、熱い……誰か、止めてくれ……! 体が、燃える……!』


 それは、泣き叫ぶ子供のような、あまりにも悲痛な魂の悲鳴だった。

 気づけば、俺の体は勝手に動いていた。


(おい俺、何をやっている!? あんな暴走機関車と正面衝突すれば、チリひとつ残らんぞ!)

 理性が最大級の警鐘を鳴らす。だが、俺の足は止まらなかった。

 いや、止めるわけにはいかなかった。


「ユ、ユウさんっ!?」

 アリュールが悲鳴のような声を上げる。

 俺は彼女の前に進み出ると、突進してくる巨大な赤黒い塊に向かって、無防備にスッと右手を前に突き出した。


「待て」


 俺の口から出たのは、静かな、だがひどく澄んだ声だった。

 自分でも驚くほど、その声には一切の恐怖が混じっていなかった。

 ただ、目の前で苦しんでいる存在を、どうにかしてやりたいという強烈な衝動だけがあった。


「そんなに暴れて……痛いのか?」


 迫り来る大猪の、血走った巨大な眼球と、俺の視線が交差する。

 その瞬間、大猪の目に宿っていた狂気が、ピタリと止まった。


『……え?』

 獣の心の声が、驚きに揺れるのを感じた。

 俺には分かる。こいつは、自分の悲鳴が「誰かに伝わった」ことに驚愕しているのだ。


 キィィィィィィンッ!!

 耳障りな摩擦音を立てて、大猪が急ブレーキをかける。

 俺の突き出した手のひらから、ほんの数センチの距離。大猪の巨大な鼻先から噴き出す熱風が、俺の前髪を激しく揺らした。


 だが、大猪はそれ以上、一歩も前に進もうとはしなかった。


「もういい。よく頑張ったな」

 俺は、無意識のうちに右手を伸ばし、大猪の硬く尖った鼻先を、そっと撫でていた。


 俺の手が触れた瞬間。

 大猪を覆っていた赤黒い呪いのオーラが、まるで朝日に照らされた霜のように、シュウゥゥと音を立てて霧散していった。


『……あたたかい……』

 安堵に満ちた獣の声が、俺の脳裏に響く。

 大猪は、俺の手のひらにすり寄るようにゆっくりと目を閉じると、そのまま糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 ズシン、と鈍い音が響くが、先程までの凶暴さは微塵もない。安らかな、ただの深い眠りについていた。


 静寂が、戦場に降りた。


「な、何が……起きたっすか……?」

 ルルが、腰を抜かしたまま呆然と呟く。

 アリュールも、テオも、駆けつけようとしていた兵士たちも、全員が信じられないものを見る目で俺と大猪を見つめていた。


「ふん……。当然の結果だな」

 俺は内心バクバク言っている心臓を悟られないよう、わざとらしくマントを翻し、冷や汗を拭いながら不敵な笑みを浮かべた。


「俺ほどの絶対的な『覇王のオーラ』の前に当てられれば、いかなる猛獣も戦意を喪失し、ひれ伏すのは道理というものだ。……ただ、少し手荒に扱われすぎていたようだからな。慈悲を与えてやったまでだ」


 俺の言葉に、いつもならアリュールやテオが驚きの声を上げるはずだった。

 だが、真っ先に反応したのは、少し離れた場所に立っていたレツだった。


 彼は大剣の柄から手を離し、目を見開いて俺を凝視していた。


「……お前……」

 レツが、震える声で呟く。


「なんだ、筋肉ダルマ。俺のあまりの神々しさに、言葉を失ったか?」

 俺が挑発的に返すと、レツは小さく、本当に小さく吹き出した。


「すごいなお前は……本当に。動物と会話でも出来んのか?」


「何を言ってるんだ? そりゃもちろん猪だって動物なんだから、耳を澄ませば声くらい聞こえるだろ」

 俺が訝しげに眉をひそめる。


 その言葉に、周囲の空気がピタリと凍りついた。


「い、いや、聞こえねえよ普通!」

 テオが素に返って、盛大なツッコミを入れる。

「ユウさん……猛獣の心の声が聞こえるなんて。あなたは本当に、計り知れないお方です……」

 アリュールは呆れを通り越し、もはや神でも見るかのような尊敬の眼差しを向けてきている。ルルに至っては「英雄様マジパネェっす……」と拝むように手を合わせていた。


 俺としては当たり前のことを言っただけなのだが、この世界の住人は動物との対話もできないのか。やれやれ、これだから凡人は。

 俺が肩をすくめた時、レツがふっと息を吐いた。


 そして、腹の底から響くような大笑いを上げた。

「ははははっ! 耳を澄ませば聞こえる、か! 違いない、そりゃそうだ!」


 笑いながら、レツは大剣を背負い直し、俺の方へとズンズン歩み寄ってくる。

 俺よりも頭一つ分以上大きな体躯。だが、彼から放たれる気配には、一切の敵意も、第一王子としての威圧感もなかった。

 あるのはただ、途方もない温かさと――何かを心底安堵したような空気だけ。


「お、おい、なんだ? 急に近づいてきて……」

 俺が警戒して後ずさろうとした、次の瞬間。


 俺の視界は、暑苦しいほどの真紅のマントと、鋼のような大胸筋によって完全に塞がれた。


「……ぐえっ!?」

 俺の肺から、情けないカエルが潰れたような声が漏れた。

 突然、レツに骨が軋むほどの力で思い切り抱きしめられたのだ。


「よくやった……! お前みたいなすげえ奴が、無事で……本当に、よかった……!」

 耳元で、レツが声を震わせて呟く。その声は、戦場で魔獣を殴り飛ばした男のものとは思えないほど、微かに震えていた。


(な、なんだこの暑苦しい筋肉ダルマは!? 初対面だぞ!?)

 俺は必死に彼の大胸筋を押し返そうとするが、まるで巨大な岩壁を押しているようでビクともしない。


「お、おい! 離せ! 俺の洗練された闇夜のオーラが、貴様の汗臭さで濁ってしまうだろうが!」

「はははっ、いいじゃないか! これも男同士の魂の語り合いってやつだ!」


 レツは俺の抗議を豪快に笑い飛ばし、さらにギュッと力を込めてくる。背中をバンバンと叩かれるたびに、俺の胃袋がシャッフルされるような衝撃が走る。


「レツ殿下! ユウさんが潰れてしまいます!」

 アリュールが慌てて駆け寄り、俺を救出すべくレツの腕を引き剥がしにかかった。


「おお、悪い悪い! つい嬉しくなっちまってな!」

 レツはようやく俺を解放した。俺はフラフラになりながら、大きく深呼吸をして酸素を取り戻す。


(……なんだあの男は。一国の王子というより、やたらと距離の近い親戚のおじさんじゃないか。だが……)


 俺は乱れた服を直しながら、深い眠りについた大猪を見下ろすレツの、その大きな背中を見つめた。

 平穏なはずだった休日は、突如現れた巨大な魔獣と、空から降ってきた型破りな第一王子の登場によって、予想外の結末を迎えることとなったのだった。

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