第36話 帰還せし剛腕
ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
大地を砕くような爆音が鳴り響き、視界が猛烈な土煙に包まれた。
あまりの衝撃波に、俺は思わず腕で顔を覆い、風圧に耐える。
「ルルッ!!」
テオの悲痛な叫びが響く。
数秒後、むせ返るような土煙が風に流され、ゆっくりと晴れていった。
俺は恐る恐る目を開け、我が目を疑った。
「え……?」
地面にへたり込んだまま、ルルが間抜けな声を漏らす。
彼女の頭上、ほんの数十センチのところで、大猪の巨大な蹄は完全に静止していた。
いや、静止しているのではない。
ルルの前に立つ『一人の男』が、二階建ての家屋ほどの巨大な質量を、たった片手で――それも、下から押し返すようにして受け止めていたのだ。
「いやーギリギリ間に合ったか? ルル、怪我はないか?」
男が爽やかに笑う。
彼が蹄を下から受け止めた一点を中心に、空気がガラスのようにひび割れ、強烈な衝撃波がリング状に拡散して周囲の土煙を吹き飛ばしていた。
筋骨隆々とした長身。戦場には不釣り合いなほど眩しい金糸の髪。
背中には、真紅のマントが風にバサバサと煽られている。
その男は武器すら使っていない。
彼は素手の一撃で、大猪の振り下ろした蹄を下からカチ上げていたのだ。
「レ、レツ……殿下……!?」
アリュールが、信じられないものを見るように目を丸くした。
第一王子、レツ。
噂には聞いていたが、遠征中だったはずの彼がなぜここに?
いや、それよりも問題なのは彼の登場の仕方だ。俺の動体視力をもってしても、彼がどこから現れたのか全く見えなかった。まるで、空から音速を超えて降ってきたかのような――。
「下がっていろ。こいつは少々、手痛いお灸が必要みたいだからな」
レツがポキポキと指を鳴らしながらニッと笑って白い歯を見せた、その瞬間。
彼の太い腕の筋肉が、さらに一回り膨張したように見えた。
「オラァッ!!」
裂帛の気合いと共に、レツの拳が大猪の腹部へとめり込む。
ドゴォォォォンッ!!
という、肉を打つ音とは思えない重低音が響いたかと思うと、数トンはあるはずの巨大な大猪の体が、物理法則を無視して完全に宙に浮いた。
「なっ……!?」
俺は思わず絶句した。
宙に浮いた大猪は、そのまま数十メートル後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばされ、城壁の残骸に激突してようやく停止した。ピクピクと痙攣した後、完全に動きを止める。
たった一撃。
精鋭たちが束になっても傷一つ負わせられなかったバケモノを、素手で殴り飛ばしたのだ。
「うおおおおおおっ!! レツ様だ!!」
「レツ殿下が帰還されたぞおおおっ!!」
絶望に包まれていた戦場が、一瞬にして割れんばかりの歓声に包まれる。
「……なんだ、あの筋肉ダルマは」
俺は呆然と呟いた。
ただの物理攻撃ではない。あの瞬間、彼から途方もない気迫――あるいは魔力のようなものを感じた。
「た、助かったぁ……。ありがとうございます、レツ殿下!」
テオが駆け寄り、へたり込んでいるルルを抱き起こす。
「気にするな。間に合ってよかった。お前たちは下がって、怪我人の救護にあたれ。――あとは、お兄ちゃんに任せな!」
レツが親指を立てて、ウィンクを決める。
(お兄ちゃん……? 一国の王子が自分のことをお兄ちゃんと呼ぶのか? ここに弟もいないと言うのに……。威厳もへったくれもないな。だが、あの圧倒的な強さを見せつけられた後では、不思議と頼もしく聞こえるのが腹立たしい)
レツは歓声に応えるように手を上げながら、ピクリとも動かなくなった大猪の方へと歩み寄った。
だが、彼の表情は先程までの陽気なものから一変し、鋭い戦士のそれに変わっていた。
「……おかしいな」
レツが、大猪を殴り飛ばした自身の拳をじっと見つめながら呟く。
「どうかされましたか、レツ殿下?」
アリュールが怪我を押して近づく。
「いや、手応えが軽すぎた。こいつ、これだけの巨体と筋力を持っていながら、中身はボロボロだ。筋肉の繊維が無理やり引きちぎられるような反動を感じた」
レツは大猪の赤黒く染まった硬毛に触れ、険しい顔つきになった。
「自然の怒りや狂乱じゃない。こいつは……何らかの薬物か、あるいは『呪い』で、無理やり限界を超えさせられている。生命力を前借りにするような、悪辣な術だ」
「呪い……!? では、この間の城下町の事件と同じように、裏で誰かが糸を引いていると?」
アリュールが息を呑む。
「おそらくはな。……可哀想に。森の主として穏やかに生きていただろうに、こんな姿にされて」
レツは大猪の頭を、優しく、慈しむように撫でた。
その巨大な手から伝わる温もりに、俺は強い既視感を覚えた。
(……なんだ? あの撫で方、どこかで……)
俺が記憶の底をまさぐろうとした、その時だった。
ドクンッ。
まるで巨大な心臓が脈打つような、不気味な音が戦場に響いた。
気絶していたはずの大猪の体が、突如としてビクンと跳ねる。
「……っ!? レツ殿下、離れてっ!!」
アリュールが悲鳴を上げた。
大猪の全身から、先程よりもさらに濃い、ヘドロのような赤黒いオーラが間欠泉のように噴き出し始めた。
それは間違いなく、命を燃やし尽くす最後の暴走のサインだった。




