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第35話 森の悲鳴と、暴走する王

「テオよ。貴様はファッションというものを、根本的に履き違えているのではないか?」


 俺は姿見の前でポーズを取りながら、呆れを含んだ溜息をついた。

 場所は俺たちに与えられた豪華な居室。ベッドの上には、城から支給された服や、日本から持ってきた服が山のように散乱している。


「いや、だからさ……。その漆黒のマントだか真紅の薔薇を胸に刺すのはやめろって言ってるんだよ! 見てるこっちも小っ恥ずかしくなるだろ。もっとこう、兵士らしく動きやすい服とかあるじゃんか!」


 テオが俺のコーディネートに必死でダメ出しをしてくる。

 足元では、いつの間にか部屋に居座るようになった白い毛玉フェンリル(仮)が、「メェ」と情けない声で俺のマントの裾を引っ張っていた。


 やれやれ、これだから凡人と羊は困る。


「甘いな、テオ。俺が外へ行くというのは、ただの散歩ではない。民草に支配者の威光を見せつけ、魂の格を理解させる神聖な儀式パレードだ。なればこそ、俺はこの『闇夜の支配者スタイル』で、彼らに俺の深淵を見せつけねばならんのだ」


「いや、絶対引かれるから! 頼むから普通の服着てくれよ! 一緒に歩く方が恥ずかしいんだよ! それに最近服気にしてんのはあれだろ? あの女の子と遊びに行く時のためだろ?」


 テオが泣きそうな顔で、白いシャツと茶色のベストを押し付けてくる。


(ふむ……。側近がここまで言うのだ。たまには『あえて庶民に擬態する英雄』という演出も、ギャップ萌えというやつで悪くないかもしれん)


「……チッ。仕方ない。今回は貴様の顔を立てて、その『村人Aスタイル』で妥協してやろう」

「よし! それでいい! 絶対そっちの方がカッコいいって!」


 テオが安堵の息をついた、その時だった。


 ウウゥゥゥゥゥゥ――ッ!!

 カンカンカンカンッ!!


 突如として、腹の底を震わせるような重苦しい角笛の音と、耳をつんざくような激しい警鐘が、城全体を揺らした。空気が一瞬で張り詰める。足元のフェンリルが、毛を逆立てて窓の外に向かって低く唸り始めた。


「なっ……!?」

 テオの顔色が、一瞬で戦場のそれに変わる。

「敵襲の警報!? いや、この鐘の鳴り方は魔獣襲来……しかも、最大級の危険度だぞ!」


「おいおい、騒がしいな。俺が着替えただけで、世界が驚愕の声を上げたのか?」


 俺が軽口を叩きながら窓の外を見ると、冗談を言っている場合ではない信じられない光景が広がっていた。

 城を囲む堅牢な石造りの城壁が、まるで砂の城のように内側へ向かって弾け飛んだのだ。もうもうと上がる土煙を切り裂いて、森の巨木をなぎ倒しながら、とてつもない巨体が城下町へと侵入してくるのが見えた。


 それは、いのししだった。

 だが、俺の知る猪とは次元が違う。体高は二階建ての家ほどもあり、全身の毛は鋼鉄の針金のように逆立ち、赤黒く変色している。口からは高熱の蒸気のような荒い息を吐き出し、その目は狂気に染まったように真っ赤に輝いていた。

 一歩踏み出すごとに地響きが起き、石畳が砕け散る。


「『迷わずの森』の主……『大猪グレート・ボア』だ! なんであんな森の最奥にいるはずの主が、こんな街中まで降りてきたんだ!?」

 テオが顔面を蒼白にして叫ぶ。


「ほう……。なかなかの迫力じゃないか。俺の散歩前の余興にしては、少しばかり騒々しいゲストだな」


 俺は武者震いで震えているであろう膝を抑え、窓枠に手をかけた。巨大な猪は、まるで何かに取り憑かれたように、無軌道に建物を破壊し始めている。


「行くぞテオ! せっかくの休日が台無しだ。俺が直々に苦情を言いに行ってやる!」

「バカ野郎! あんなの勝てるわけねえだろ! ……クソッ、あそこの防衛線はルルの持ち場だ!」


 テオは血相を変えて部屋を飛び出した。俺もその後を追い、崩壊した城壁の方へと全速力で駆けた。


***


 現場は地獄絵図だった。

 巨大な猪が巨体を振り回すたびに、石造りの家屋が紙細工のように吹き飛び、迎撃に出た兵士たちが木の葉のように宙を舞う。立ち込める土煙と、血の匂い。


「総員、散開せよ! 正面から受け止めるな! 足を狙って機動力を削げ!」


 瓦礫の山の上に立ち、凛とした声を張り上げているのはアリュールだった。

 彼女は自ら陣頭に立ち、長い剣を風車のように振るって猪の死角へと回り込む。そして、渾身の力を込めて猪の巨大な前脚へと剣を突き入れた。


 ガァンッ!!


 鋭い金属音が響く。岩をも貫くはずのアリュールの一撃。だが、剣の切っ先は赤黒い硬毛に阻まれ、火花を散らして弾かれた。


「くっ……! 硬い……! それに、こちらの攻撃をまるで意に介さないなんて!」

 アリュールが舌打ちをして後ろへ跳ぶ。直後、彼女がいた場所を猪の巨大な牙が薙ぎ払い、石畳を大きく抉り取った。


「隊長! こいつ、なんかおかしいっすよ! 痛覚がないみたいに暴れてます! 目が完全にイッちゃってますよ!」


 半壊した建物の屋根の上を身軽に飛び回りながら、ルルがボーガンで援護射撃を行う。放たれた矢は次々と猪の顔面や関節に突き刺さるが、怪物は血を流しながらも全く止まる気配を見せない。


「テオ! お前も絶対魔獣戦線に加勢しろ! 俺は敵の弱点を分析する!」

 遅れて到着した俺は、物陰から戦況を睨みつけた。


「言われなくても!」

 テオが剣を抜き、アリュールの援護へと走る。


 ニヴェア軍の精鋭たちが死に物狂いで波状攻撃を仕掛けるが、大猪の圧倒的な質量の前では時間稼ぎにしかなっていない。

 その時だった。

 猪が、不自然な動きでピタリと急停止したかと思うと、あり得ない角度で首をねじり、屋根の上にいたルルをギロリと睨みつけた。


「グルルルゥァァァァァァッ!!」


 空気を震わせる不気味な咆哮。それと同時に、猪の全身から赤黒い瘴気のようなものが爆発的に噴き出した。


「な、なんだこれ……! 息が……!」

 瘴気を吸い込んだ兵士たちが次々と咳き込み、その場に膝をつく。


「ひゃっ!?」

 屋根の上にいたルルも例外ではなかった。瘴気に当てられ、一瞬だけ視界が揺らいだ。そのコンマ数秒の隙が、命取りだった。

 ルルがバランスを崩し、彼女が足場にしていたひび割れた屋根瓦が、音を立てて崩落したのだ。


「しまっ……!」


 ルルの小柄な体が、瓦礫と共に地面へと叩きつけられる。

 息を飲み、痛みに顔を歪めて顔を上げた彼女の視界を覆い尽くしたのは、天を覆うほどの巨大な影だった。


 大猪が、前脚を高く振り上げている。

 その直下にはルル。

 振り下ろされれば、人間一人など容易くひき肉に変わる、絶望的な質量の塊。


「ルルッ!!」

 テオが血を吐くような悲鳴を上げ、手を伸ばして走る。

 だが、遠すぎる。


「ダメっ……間に合え……!」

 アリュールも剣を捨てて駆け出すが、どう計算しても間に合わない距離だった。


 ルルは迫りくる死の影を見上げ、恐怖で体が硬直していた。

 ルルの顔はすでに、死を受け入れた顔をしていた。

 ルルがゆっくりと目を閉じた。


 俺は走っていた。

 だが、俺の足では、俺が普段口にしているハッタリの魔法では、この絶望的な物理の壁を越えることはできない。


(間に合わん……! また、目の前で失うのか……!)


 俺の脳裏に、突如としてノイズが走った。

 血のような赤い閃光。

 瓦礫。誰かの悲鳴。そして、温かかった手が冷たくなる感触。


 ダメだ。

 それだけは、絶対にダメだ。


 英雄としての虚勢など、とうに消し飛んでいた。

 俺の喉の奥から、腹の底から、魂を絞り出すような絶叫が迸った。


「やめろおおおおおおおおおおおっ!!!!」


 俺の声が戦場に木霊した、その刹那。

 大気が、ビリッと震えた。


 ズドォォォォォォォォォンッ!!!!


 空から、隕石でも落ちてきたかのような轟音が炸裂した。

 巻き上がる凄まじい土煙と、鼓膜を破るほどの衝撃波が、俺たちを吹き飛ばす。


 何が起きたのか。

 晴れゆく土煙の向こう側、ルルの目の前で、振り下ろされたはずの巨大な猪の蹄は――完全にへし折られ、怪物は白目を剥いて地面に沈み込んでいた。


 そして、その巨大な質量をたった一撃で地に伏せさせた「何か」が、土煙の中にゆっくりと立ち上がった。

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