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四十六冊目・ 長谷川一の寄稿文「今だからいう水俣病の真実」 について 綱渡りだった水俣病裁判(敬省略)

はじめに

このエッセイは、昭和43年12月号に文藝春秋に長谷川一が寄稿した「今だからいう水俣病の真実」 の読書感想文です。


これは己の忘備録でもあります。またもし心優しい人が読んで長谷川一氏(以下長谷川と敬称略)の功績と水俣病の悲惨さを再認識してもらえたらと思います。


先にどういうことかを知りたい人はこちら。彼は一般的には水俣病の第一発見者という位置づけです。当時は水俣病の原因となる工場排水を出した水俣工場附属病院長でした。厳密にいうと立場的には日本窒素肥料株式会社(以下チッソと略)側の人間です。しかし医師としての矜持を保ち奇病の原因を突き止めるべく行動された立派な人でもあります。


細川一 - Wikipedia

ja.wikipedia.org



当該エッセイを読みたい人はこちら。国立国会図書館にありますが、来館しなくとも有料ですがコピーを依頼できます。


今だからいう水俣病の真実 | NDLサーチ | 国立国会図書館

ndlsearch.ndl.go.jp



このエッセイを書いたきっかけ

過日わたしは熊本県内の水俣病歴史考証館にお邪魔しました。その時に昭和43年12月号に長谷川が文藝春秋に寄稿された原稿の一部が展示されていました。


チッソの工場の廃液が水俣病の原因なのかをはっきりさせるために、猫で実験したという話は長谷川のウィキペディアにもあります。で、わたしは実際にどんな感じだったのかと思いまして猫の実験小屋を見にいきました。資料館にあるのはレプリカらしいですが、木製の手作り感満載の清潔な小屋でした。実はわたしは当地に出向くまで長谷川は猫400匹全部使って400匹目で水俣病の原因を突き止めかつ証明したと思い込んでいました。が、それは間違いで猫400号は、単純に「猫の名前」 だったのです。なんというまぎらわしい名前……長谷川はなんでこんな名前をつけたのか、由来はなんだったのか、とはもう亡くなられているので聞けやしない。わたしは公害を扱った小説内で登場人物に長谷川は猫を400匹も使って実験したと言わしめてしまったではないか……わたしは熊本から岡山に帰宅するなり、速攻でその部分を削除しました。


そして画像にあった昭和43年12月号の文藝春秋の原稿をコピーでいいので全文読みたいと思いました。無事入手できましたので今回はその感想です。ただし、わたしの頭の中では水俣病の時系列がごっちゃになっていますので、西暦と当時の長谷川の年齢とあわせて書いています。(※カッコ)内にある文面は藤田が別の資料で閲覧した添え書きです。




経 緯

1954年(昭和29年) 長谷川53歳、

患者一号に出会う。原因は皆目不明。患者もすぐに亡くなられた。(※その前段階として数年前から猫やカラスが踊って死ぬ奇妙な現象が垣間見られていた)




それが最初だった。それからぽつぽつと原因不明の病気が勃発しては死亡。(※入院先は精神科病棟だった)熊本大学でもおなじような患者が勃発し、原因不明な状態だったので脳梅毒と名前をつけていた。やがて小児も入院してきた。




1956年(昭和31年) 長谷川55歳。


長谷川はこれらは中枢神経障害による原因不明の新しい病気だと確信して、保健所に届け出る。そしてこの奇病の原因をさぐっていた。当時の病院の内科医師は長谷川を入れて3名。時間の都合をつけて勤務後に患者が出た周辺をさぐる。すると伝染病だと思い込んだ家族がいた。そして地域ぐるみで患者を隠していたのがわかる。発生場所は主に貧しい地域で家の目の前の海から魚をとり、魚が主食のところ。医者にかかる費用も出せなく、家のすみか、地域のどこかで患者を集めて寝させていたところも。


情報収集しているうちに、海の魚が問題であると次第にわかってくる。

① 近県から取ってきた魚はなんともないが、その魚をカゴに入れて海に入れた後、猫にやると発病する。(※猫実験の前の段階でも猫実験していた)その海にはチッソの廃液が流れ込んでいる。 

② 勤務先のチッソの排水が原因でないかと検討をつけていく。(※長谷川はチッソの附属病院の病院長だったので自分が危うい立場になることを自覚するも上手に立ち回っていく)


1958年(昭和33年) 長谷川57歳 


公的に水俣病という名称が使われる


1959年(昭和34年) 長谷川58歳


有名な猫400号の実験開始……チッソが海に流している工業廃水を餌にかけてたべさせると中枢神経障害が出た。この奇病の原因はチッソの出す工業廃水であると確信を持つ。この寄稿文で長谷川は日時を正確に書いている。


→ 7月21日に開始、77日後の10月6日に水俣病様の症状を呈した……と。なんと3か月で発病する。


以下は長谷川の文の抜粋


…… この猫は、なついており水俣病の症状を待つ気持ちにはちょっと耐え難いものがあった。今日出るか、明日出るかと ……


猫に情がうつったのがわかるし、本当につらかったと思う。




石牟礼道子の登場

さて、この猫実験の話はこの寄稿文がまず最初に世に出た。これに関して水俣病裁判資料や証言に繋がったのは石牟礼道子の功績による。(寄稿文発表当時長谷川67歳、石牟礼41歳)


わたしは長谷川の寄稿文はチッソ発見や治療についての経緯と反省の弁を書いていると思っていた。しかし全文を読んでの感想は、この長谷川が、かなり頭の良い人だと思ったこと。


というのは、チッソ関係者、医療従事者側、特に熊本大学関係者、そして一番大事な患者側に悪感情を待たれないように書いている。それも計算尽くしの変な書き方ではなく、ごく自然に。


 ちなみに長谷川の最終学歴は東京大学医学部(※当時は東京帝国大学)……学閥を考えたら地域的に圧倒的に熊本大学医学部(以下熊大)出身者が強いはずだが、熊大側だって長谷川が地元でなく四国出身でしかも東大医学部を出た長谷川に対して言動を強く責める言葉もでなかったはず。

 何より本人が自責思考でなく、会社を強く責める側でなく、かといって威張る性格でもなく熊大の教授がきたら、ちゃんと説明もするし、オンオフスイッチがかなり強固で公的私的の世界線がかなり太かったと思う。

 通常の一般的な感覚を持ち合わせていたら、医師として、チッソの対応を責める側、なんとかしろと詰め寄る側で会ったら、患者が莫大に殖やしてしまったのは己の責任と思い詰めてしまう。うつ状態になってもおかしくないが、長谷川の寄稿文には自責や憐憫、そういうのものがまったく感じ取れない。


ちょっと不満げなのを感じたのは数か所のみ。


① 長谷川が発言しないのは会社からお金をいっぱいもらったからだろうと言われたとき。

② チッソ側からの発表で長谷川の書いたものでないのに、勝手に名前を入れられていたとき。


 でも反論しなかった。勝手にしろとばかり、一切不満の声をあげなかったというのがすごい。繰り返すが通常ならうつ状態になってもおかしくない。チッソが内緒で出したお金で黙っていたという推察も出てこないわけでもないが、我慢したとだけサラリと書き、恨みがましいところがない。逆に周囲に対して深い感謝の念を抱いていると繰り返し書けるのが凄いと思う。




 今だからいえる水俣病の話……これを書けたのは死期を悟っていたからというのもあろう。肺がんに罹患して治療していた。寄稿文の最初のほうに、元文学青年だと自分で書いているから最初で最後の告白とばかり、気負いなく、かつ誰も傷つけることのないように、気配りをしながら書いたのではないか。すごく頭の良い人。


 昭和時代の肺がんは抗ガン剤も皆無で助からないのが常識だった。まさに今だから言えると……でも患者訴訟は続いていた。この寄稿文が掲載されたのは昭和43年で長谷川67歳。石牟礼道子はその文面を読んで猫実験の話は裁判に役立つだろうと感じた。おそらく双方とも面識がなかっただろうがために、石牟礼は裁判関係者で長谷川と面識のある人にノートを見せてもらえと頼む。後は怒涛の展開である。


 ちなみに苦海浄土の正式な出版はまさに1969年。(※それ以前に同人誌並びに雑誌掲載はあった) 長谷川の寄稿文掲載はその前年の1968年の12月号。世間の関心が向けられるだろう裁判のまさに先取りといえるが、石牟礼の大手出版社の刊行はそれと並行してすすめられていたとしたら、文藝春秋は先見の明がある。猫400号は誰も知られてなかった話なら、それを引き出した編集者は長谷川の次の次の次ぐらいに偉かったと思う。なぜならチッソは被害の原因を早い時期に知ってたよという暴露だったからね……


 石牟礼道子はなんといっても苦海浄土を書いた本物の作家で被害者側に徹底して動いていたから。これもあって彼女の助言により患者側勝訴に向けた功績は大きい。ウィキにもちゃんと書かれている。


↓ ↓ ↓


※ウィキから抜粋


1969年春、合化労連新日窒労組執行委員長の岡本達明は、新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦にメーデーの挨拶を依頼。ほどなくして坂東は石牟礼道子から、「水俣に来る途中、愛媛の細川先生のところに立ち寄って、先生の手元にある猫実験のノートの内容を確認してほしい。今それができるのは坂東さんしかいない」との葉書を受け取る。


4月末、坂東の訪問を受けた細川は、「猫400号実験」に関するノートを坂東に見せた。(※長谷川は病院長退職、郷里で暮らしていた)


翌年の1970年5月、肺ガンのため癌研究所附属病院(東京都豊島区)に入院。その二か月後に水俣病裁判弁護団は、裁判長、弁護士が共に入院先の病室に赴いて尋問する臨床尋問をおこなうことを決定。細川の体調を鑑みて、病院側からは、一度きりの尋問しか許可されなかった。


同年7月4日午前10時20分から2時間、臨床尋問を受ける。「猫400号実験」について会社側(技術部)も知っていたと証言。


10月13日、肺癌のため死去。69歳没。





 患者の勝訴は長谷川の死後だった。3年後。裁判はとかく時間がかかる。しかもこの訴訟は民事だったし……でも結果として患者側が勝訴するというのは裁判史でも画期的なことだった。今では当たり前の感覚だが昭和の当時ではなかなかない話であったと思う。


 かくして長谷川は、東京の病院に入院中に、裁判の尋問を受けた。相当に状態が悪かったらしく質問は1つだけ。でもそれで十分だった。長谷川の証言、猫実験の証言で当時からチッソ側はチッソの工場排水が原因であると認識していたことが証明された。結果長谷川はその数か月後に亡くなったが、その後に患者側が勝訴を勝ち得た。


 そのやり方だとチッソも長谷川を裏切り者と怒れなかっただろうと思う。寄稿文には長谷川は公害に関する企業の対応は最低だったと断定しているので患者も長谷川を恨むところもないだろう。


 わたしは名もなき情報の最後の受取人ではあるものの、長谷川はじめ先人の苦労を偲びここに畏敬の念を抱いて筆をおく。苦海浄土もそうだが、この寄稿文を読めてよかったと思う。





noteにも同じ記事が掲載されています。

画像と資料置き場付。

よろしければあちらも覗いてみてくださいね。

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