㊲この世は何で出来ているか
大層なタイトルの割には中身がないので、期待しないでね。
あくまでも個人の感想です。
この世の中というのは、おそらく数学で出来ているのだろう。
なぜそう思うか?
私が編集などの仕事をしているのをご存知の諸兄も多いと思う。
文字組、デザイン、これらはすべて数字に置き換えることができる。
ポイントやインチ、ミリ。
また%などすべて数値である。
illustratorのパーツもすべて座標やCMYKの割合で構成される。
実に数学的なのである。
黄金比、これは別に印刷に限ったことではないのだが、紙のサイズ、余白の割合などをみても、数字で再現できるのだ。
おかげで、私のような木っ端デザイナーもどきでも、それっぽいものが作れる。
佐藤可士和のような、面白いものは作れないが、似たような雰囲気のものは作れるのである。
まあ、隈研吾のように、木材の年輪や劣化を愛するのは模倣したいとは思わないが、彼もまた数学に取りつかれた、設計というジャンルの大御所なのであろう。
そして、私の大嫌いなAI。
彼(または彼女)は、数字の申し子なのである。
まあ、01がベースであるので、この世のコンピューターと呼ばれるものは、皆数字無しでは語れないのだ。
それだけじゃない。
ノーベル賞も基本的には数字で証明することができる。
(できないものもあるよ)
有理数、無理数、虚数など、様々なものはあるが、大抵この世の理は「数字」で再現可能なのだ。
だから私は数字にならない、「感情」というものが嫌いなのである。
好きか嫌いかを割合で示すことは可能だろう。
だが、何故好きか、という理由においては数字が関与することがあまりにも少ない。
まあ、感情の元となる原体験があり、それが判断や回答の基になっているとは予測しているのだが、とにかく予測不能なのである。
そして、大抵はいつ爆発するかわからないし、何が起動スイッチなのかもわからない。
私自身、まったく感情がないとは言わない。
それは過去のエッセイを読んでいただければわかると思う。
私こそ感情の権化と言ってもいいかも知れないぐらい、気まぐれな存在なのである。
だが、私はそれも納得している。
この世の理はおそらく数字や数学なのであろうとは思う。
一方で、人間という存在、極論を言えば私そのものは「哲学」なのだと思っている。
別に私は哲学を学んだわけでもなければ、誰かに師事したわけでもない。
ただ、論理的帰結(一度使ってみたかった言葉シリーズ)により、そうではないかとの途中経過を得ている。
生きるとは何か。
人間とは何か。
正直な話、どうでもいいんだけどね。
ただ、金や自慢、暴力や暴言。
そう言ったものは大嫌いなんだ。
お金は好きだよ?
あれば便利だしね。
でも他人が持っているのは面白くないじゃない?
これもすべて、最初の方に生きた男女が林檎を食べたせいだよね。
もしくはどこかの誰かが箱を開けたせいだよね。
私は悪くないのだ。
よって、私には原罪などないし、好きに生きていいんだと思っている。
さて、哲学ってなんだろうね。
私は考えても仕方のないことだと思っている。
もし答えが出るなら、それは各個人によって違う答えになるだろうし、死に間際にしか答えを得ることができないと思っている。
宇宙の始まりも、終わりも、私は知りようがない。
日本の過去の出来事でさえ、正しく知ることもできないのに、はるか数百億年前の出来事を知るすべも、理解する頭もない。
また、それを誰かに教えて欲しいとも思わない。
教えてもらったところで、それが真実だと証明する術がないからね。
司馬遼太郎氏の功罪については、皆さんも一過言お持ちと思う。
私はもともと好きではないので、まったく読んでいないのだが、歴史ドラマなどの原作になれば、嫌でも目にしてきたんだと思う。
昭和から生を受けた人間が、自分の作品のために、過去の人物に脚色を加えて本にする。
まあ、フィクションというジャンルなのだから、何をどう扱おうが自由だけどね。
皆さんも、なろう小説を読む際は注意された方が良いですぜ。
いつか、異世界転生や転移が当たり前の時代になった時に、もっともついていけない人間になりかねない。
あの作品ではこうだった、スキルがあるはず、何かしらサポートが……
期待しちゃいけないよ。
人生なんて苦難の連続なんだ。
だが、苦難はやがて慣れる。
あんなに嫌だった医者での検診も、この歳になると苦痛などよりも、待たされる方が嫌なのだ。
椅子を占有している人物どもにいらだちを覚えるのだ。
人間どうせいつか死ぬのである。
その時に哲学の答えが出るのなら、私はそれを楽しみに生きようじゃないか。
何年続く物語かはわからないが、結末はこの目でみたいものだ。




