特別編:看取り屋に相応しくない心
久しぶりに向き合わなければいけない現場がやってきた。
今回のクライアントは、私が小学校の時に担任だった教師だった。彼は、恩師とは正反対の、いわゆる「モンスター熊教師」だった。
初日、彼は教室に入るなり机に腰掛けていた数人の男子をチラッと見て、理由も聞かず「全員席の前に立て!」と大声で怒鳴り、連帯責任だと言って前から順番に生徒の頭へ容赦なくゲンコツを落していった。今の時代では考えられないが、当時はそれが当たり前の光景だった。大きな体の先生で、北海道から来たという野生あふれる風貌はとても怖く、到底逆らえなかった。あの時、最初に全員へゲンコツをしたのは、自分の威厳を示すためのこじつけだったのではないかと、後からふと思った。
そして、なぜか私はその先生にひどく嫌われていた。
当時、私には4人グループの友だちがいた。1番の親友だったA子、B子、C美――今では名前を思い出したくもない面々だ。
家庭訪問の初日、「玄関先でお話ししますので、お茶もいりません」という学校からの手紙を真面目に信じた母は、言われた通り玄関で対応し、お茶の1杯も出さなかった。しかし、次にその先生が向かった親友A子の家では、手厚くもてなしたそうだ。後から親御さんが私にこう言った。
「うちでは特上のお寿司をとって、ビールでもてなし、ずっと話し込んでいたわよ。あなたの家はお茶も出さなかったって聞いたわ。暑かったのに先生かわいそうだわ。ほんと、話してみるといい先生ね」
手紙の通りにしたのは我が家だけで、他の家はみんな部屋に通してお茶やお菓子を出していたらしい。
高学年のプール掃除の前日、B子が「トイレ掃除の係だ」と発表されたとき、クラスの皆が「えーっ」と声を上げた。私も周りに合わせて小さな声で相槌を打っただけなのに、モンスター熊は大勢の中から私を名指しし、「そんなに嫌ならお前がやれ」と、私1人にトイレ掃除を押し付けた。
そして、忘れられないのが卒業式の翌日のことだ。
「次の年度から教育委員会に行くことになったから、引っ越しの作業を手伝ってくれ」と言われ、私たちのグループと、成績が良い別の女の子2人が駆り出された。
先生が「いらないものをあげる」と言っていたので、私も少し期待していた。すると先生は私だけに「1人で図工室にこれを返しに行ってこい」と命じた。「1人は嫌だ」と断ったが、「これをやるから行ってこい」と、使い古したボールペンを1本渡してきた。何回もしつこく言われ、仕方なく1人でとぼとぼと向かった。
戻ってきたとき、残りのみんなは何やら和やかな雰囲気で、私はとてもその輪に入れなかった。
その翌日、C美の母親と職場が同じだった母から聞いた話に、血の気が引いた。
「昨日、先生の引っ越しを手伝って、みんな中学校の入学祝いをもらったんだってね。お宅だけもらえなかったんだって?」
C美の母親は、わざわざ母にそう言ってきたのだそうだ。なぜわざわざそんな傷つけるようなことを言うのか。母もまた、職場の人に「自分だけもらえなかった娘を持つ親」としてマウントを取られたことが悔しかったのか、私に対してひどく腹を立てていた。
本当は黙っていればわからないのに、母はそれを私に話し、自分のやり場のない気持ちを私にぶつけて傷つけたのだった。
そんな苦い経緯のあった相手だった。
急な依頼で空いていた私が担当になり、届いた書類の氏名を見て、忘れられないその名前に気づいた。詳しく事情を聞くと、やはりあのモンスター熊だった。
私は「近しい間柄や関わりのあった方の依頼はあまり受けないようにしているんです」と遠回りに断ったが、ご家族はこう言った。
「あいつ、外面だけはよかったから、可愛がってた生徒には『いい先生』なんて言われてたけど、一部の生徒からは本当に嫌われてたのよ。『贔屓教師』だってね。私も娘だけど大嫌いだった。でも、最後くらい誰かが立ち会わないと世間体もね……。どんなに嫌っててもいいから、とりあえずその場で見守ってくれればいいの。他の人がいないなら、あなたが看取りをしてあげて。最後、言いたいこと言ってやっていいんだから。悪口でも暴言でもいいわ、自業自得なんだからさ」
そう言われてしまっては、断りきれなかった。
中学校にあがった頃、その先生に小さな娘がいて、奥様をがんで亡くしたという噂を耳にしたことがあった。その時、私は「ざまあみろ、人を踏みつけにする人間はそれくらい罰が当たればいいんだ」と心の中で思ってしまった過去がある。多感な時期だったとはいえ、そんな黒い感情を抱いた自分はおかしいのではないかと、ずっと悩み続けてもいた。
だからこそ、この仕事を引き受けるべきではないと会社の上司にも相談したが、「他に担当できる者がいない。ご家族も事情を分かっているうえで、君が大丈夫ならお願いしたい」と言われ、私はあの頃の自分と決別するために、この看取りを引き受けることにした。
病室のドアを開けると、かつてのあの巨体は影も形もなく、げっそりと痩せこけ、肌の色が悪い、しわしわの老人が横たわっていた。
私は上から見下ろしながら、「私はなんで、こんな人物にあんなにも恐怖を覚えて怯えていたんだろうな」と、どこかぼんやりと考えていた。
そして、ベッドの足元に椅子を置き直し、そこに腰掛けた。さすがに手を握る気にはどうしてもなれなかった。「こんな冷たい気持ちの私が、この場にいていいのだろうか」と自問自答しながらも、「これは仕事だ」と必死に自分に言い聞かせた。
小さくしぼんでしまったこの人物は、教員時代、何百人、何千人もの生徒の人生に関わってきたはずだ。それなのに、最期のときは誰もそばにいてやらず、静かな病室でたった一人、人生の幕を閉じようとしている。家族にもどこか見放されている。
――あぁ、自業自得なのだな。
そんなプロらしくない冷めた考えが頭をよぎり、私は慌ててそれを打ち消した。やっぱり、私はどこか壊れているのだろうか。
やがて、彼の長い人生が終わった。
いつもの仕事であれば口にする「さようなら」と「ありがとう」の挨拶は、最後までどうしても出てこなかった。モンスター熊を相手に挨拶のルーティンをする気など、起きるはずもなかった。
私は結局、彼のことを最後まで許せなかったのだと思う。
最後に、心の中でつぶやいた。
――もう二度と、あなたに怯えることはありません。この最期のまわりの状況が、あなたの人生の結果だったのね……。
私はモンスター熊の家族に知らせるため、静かに病室のドアを閉めて外に出た。




