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「さよなら、そして、ありがとう(最終話)」

あぁ、とうとう見たくなかった現実が、目の前にやってきた。

母は特養で静かに旅立とうとしていた。三陸の寒村から中卒で都会へ出た母は、本当は田舎に帰りたかったはずだ。「一度都会へ出た女は、田舎には戻れない」という言葉に縛られ、生涯を都会の隅で生き抜いた。母の妹や弟たちは田舎に戻り、嫁ぎ先を見つけたというのに、長女の母だけが理不尽な重圧に耐え続けていた。そんな母の屈折した劣等感が、私への支配となって降り注いでいたのだ。

忘れられない記憶がある。

就職試験で大手企業の5次面接まで進んだときのこと。落選を知った母は、私がそばにいるのも構わず受話器越しに親戚へ向かって言った。「父親が亡くなって母子家庭だから落とされたのよ」と。私の努力も矜持も、彼女の卑屈な物差しで一瞬にして「不運な境遇」に仕立て上げられた。長男至上主義の中で親戚と最低限の距離を保つ兄に対し、私はすべてを切り捨てた。けれど、結局は母の呪縛から逃げられなかった。

母が特養に入ってからも、娘としての義務感から、私は最低限のお見舞いを続けていた。しかし、幻覚を見て子供のように笑い、私を「お姉さん」と呼ぶ母を見るたび、胸が締め付けられる思いだった。そんな折、世界的な感染症が流行し、面会が一切できなくなった。正直に言えば、会わなくて済むという事実に、私は心のどこかでホッとしてしまったのだ。しかし、その安堵はすぐに重たい罪悪感となって私を蝕んだ。最期の最後まで直接会いにいくことも叶わぬまま、私は母との時間から逃げ続けてしまった。

部屋に一歩足を踏み入れると、しわが刻まれ、小さくなった母の姿があった。

私は母の手を握ろうと手を伸ばした。けれど、指先が触れる直前で、ふと立ち止まってしまう。昔、あれほどまでに清潔を尊んだ母なのに、今のこの手は本当に清潔なのだろうか。物理的な汚れへの嫌悪感が、娘である私に襲いかかる。看取り人として他人の最後に立ち会うときは、潔癖症の私であってもそんなことは微塵も思わないのに。死にゆく母に対して、そんなことを考えてしまう自分はどこか壊れているのではないか。そんな自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、それでも私は母の手を握った。

その後、母が好きだった銘柄の緑茶を淹れて戻った。部屋中に爽やかな茶の香りが広まった瞬間、不思議なことが起きた。今まで虚空を見つめていた母が、わずかに反応したのだ。匂いというのは、最期の最期まで魂の奥底に残るものなのだろうか。

私は緑茶をガーゼにひたし、その温かさに少しほっとしながら、大きく開ききったまま閉じない、ひび割れた母の唇に緑茶を含ませた。途端に母がガブリと噛みついた。異物への生体反応か、それとも未練か。その直後、母の胸の上下が止まった。

お別れも言わずに慌てて職員を呼んだ。奇跡的に呼吸が戻ったとき、私は泣きながら「産んでくれてありがとう」と叫んだ。

その瞬間、冷たい感覚が走った。ああ、これはデジャブだ。ルーティーンを崩した看取りのときの遺族が、彼に対してした言葉と全く同じ。私はプロとして他人を悼んでいたはずなのに、母という「最難関の対象」の前で、結局は「娘」という役を演じていたのだ。

しかも、私が呼んでいないはずの親戚たちが、兄の勝手な連絡で駆けつけていた。

こんな時まで親戚の顔色をうかがう兄への怒りと、全てを投げ出してここから逃げ出したいという衝動に駆られる。母は本当に、死の間際にこんな騒々しい場所で、あの理不尽な妹や弟たちに会いたかったのだろうか。

母は、誰に看取られたかったのか。その答えを知る術はない。

ただ、彼女が守り抜こうとした「自分の人生」という城の中で、最期に私だけがその微笑みを見た。そして他の遺族と同じように、私もまた一粒の涙を、最期の最期にこぼしていた。

――それから、少しの月日が流れた。

私は今日も、黒い鞄を手に、見知らぬ誰かの最期へと向かっている。

あの日、母のひび割れた唇に緑茶を含ませたときの、あのガブリとした感触は、今も私の指に、そして心に消えない痕を残している。あの噛みつきは母の生への執着だったのか、それとも私への最期の拒絶だったのか、答えはもう出ない。

けれど、母という一番重く、複雑な存在を見送ったからこそ、今の私にはわかることがある。

人の最期に、正解なんてない。

美しくなくても、歪んでいても、それがその人の生きてきた証なのだ。

私はこれからも、誰かの人生の終わりを見届け続けていく。

プロとしての冷徹な目を持ちながら、同時に、一人の人間としての痛みを胸に抱えて。

鞄を握り直し、私は次の扉を開ける。

看取り人の仕事は、明日も、その先も続いていく。それが、母の娘として生きた私が、ようやく見つけた自分だけの自由な足跡なのだから。

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