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「最期のブレスは、歌うように」

学生時代から社会人になりたての頃、私はあるバンドの女性ボーカリストに夢中だった。彼女の歌声は、私を元気づけ、時には慰め、どんな時も寄り添ってくれた。

 当時の私は生活に余裕がなかった。学生時代は金銭的に厳しく、社会人になってからは初夏から秋にかけて月150時間を超える残業が続く過酷な職場だった。今のような「働き方改革」という言葉もない時代、サービス残業が当たり前で、繁忙期を過ぎれば急に暇になるという極端な環境だった。残業代が出ないため、ファンクラブに入ることも、CDを買う余裕さえなかった。私はただ、メディア越しに彼女の歌声を楽しむことしかできなかった。

 そんな私とは対照的に、学生時代の友人は熱心なファンだった。なぜか閑散期になると、彼女はよく私をライブに誘った。彼氏との予定が狂ったり、友人が行けなくなったりするたび、前日や当日の朝に連絡が来る。当時の私は暇さえあれば、なんとかお金を捻出してライブ会場へ駆けつけたものだ。

 ステージの上の彼女は、力強い歌声で会場中を魅了し、熱気を一身に受けてキラキラと輝いていた。

 その彼女が、今、私の目の前で細い息をしている。私とそう歳は変わらないはずだ。

 かつて大きな会場で輝く彼女に憧れ、嫉妬し、「自分はなんて空っぽで、何ひとつ成し遂げられていないのだろう」と惨めな気持ちになったこともあった。あの眩しい彼女が、いま静かに眠っている。

 ふと、彼女の息子が以前インタビューで「母と同じ歳になったとき、自分はまだ何も成し遂げていない」と語っていたのを思い出した。どんなに遠く輝く存在でも、ごく普通の地味な私と同じような不安を抱えるのだと、その時ひどく驚いたものだ。

 煌びやかな時間は過ぎ去り、彼女は昔と変わらぬ美しい姿で、ただ静かに息をしていた。

 ご主人と息子は海外にいて、すぐには帰って来られない。彼女は生前、事務所の仲間やマネージャーに、最期の姿は見せたくないと伝えていたそうだ。そんな彼女の意向で、たまたまスケジュールが空いていた私が、この最期の時間を共有することになった。

 彼女は、最後まで強く、たくましく、美しかった。

 急に彼女は、天井に向けて結んだ手を高く上げた。そして一粒の涙をこぼしたかと思うと、あの大勢を魅了した声の主が、歌い出す直前のように大きく一度息を吸い込んだ。

 それが、最後のブレスだった。

 心の中で「さよなら」と「ありがとう」を伝えるのが私のルーティンだ。だが、この時ばかりは気持ちを抑えきれず、いつもの私を忘れ、「私に力をくれてありがとう。もうあなたの歌を聴けないのは、本当に寂しいです」とつぶやいた。

 胸の奥で、何かが壊れ、遠くへ消えていくような複雑な喪失感に包まれた。私は、自分にとって大切な、大きな何かを失ったような気がした。

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