特別編その4:新しい家族の形と、残された帽子の匂い
今日、私は動物病院の一室にいる。
目の前には、横たわってお腹を大きく上下させ、口を開けて荒い息をしている小さな白いワンちゃんがいる。
飼い主ではない全然見知らぬ私がここにいることを、この子がどう思っているのかは分からない。
「大切な家族を、誰にも看取らせずに一人で旅立たせたくない」
そんな飼い主さんの切実なお思いから、私はここに呼ばれたのだ。
最近でこそ、会社側も柔軟になり、家族同然のペットが旅立ちそうな時には休暇を取ることを当然と受け止めてくれる職場も増えてきた。けれど、すべての職場がそうではない。どうしても仕事を休めない事情を抱える人もいる。今回のクライアントは、どうしても外せない長期出張が入ってしまっていた。そのために、私のもとへ依頼が届いたのだ。
家族同然のペットを看取ってほしいという依頼は、過去にも何度か経験がある。この動物病院もそうした事情に理解を示し、柔軟に対応してくれる数少ない病院の一つだった。
この子を少しでも落ち着かせるため、私はクライアントからお借りした帽子を抱えてきていた。いつも散歩に行く際、飼い主さんが被っていた帽子だそうだ。一人と一匹で、毎日毎日、一緒に歩いた日々の記憶が詰まっている。
その帽子を小さなワンちゃんの鼻先にそっと近づけると、一瞬びくっと体に反応があった。
そして、少しだけ顔を上げてキョロキョロと周りを見回し、またすぐに力なく顔を戻した。大好きな飼い主さんの姿を探したのだろうか。
私は何も言わず、ただ横で静かに寄り添い続けた。
やがて、私の仕事用スマホに飼い主さんからビデオ通話が入った。
すぐに応答し、画面の向こうの飼い主さんの姿と声が届くよう、スマホをワンちゃんの目の前にかざした。画面の向こうで、飼い主さんは必死に、優しく、ワンちゃんへ呼びかけている。
すると、最後の力を振り絞るように、ワンちゃんは首をスマホの方へと向けた。
「クゥ〜ン……」
ひと声愛おしそうに鳴くと、スマホの画面に映る飼い主さんを一度だけペロリと舐め、静かに顔を伏せた。そして、そのまま動かなくなった。
静まり返った診察室に、スマホ越しに聞こえる飼い主さんの号泣だけが、ずっと響き渡っていた。
しばらくして、飼い主さんが「……ありがとうございました」と静かにつぶやき、そっと通話が切れた。暗くなった画面が、静寂を取り戻す。
私は初めてその小さな体に触れ、「お疲れ様でした。ありがとう。さようなら」と一度だけ優しく撫でてから、音を立てないようにそっと部屋をあとにした。




