小話 最終回 オリンピック編(後編)
赤い瞳が青藍な空と海に揺蕩うフェリーと、灰色の煙を双眼鏡ごしに眺めた。
「チッ、もう時間だってのに、何も答えちゃくれねえか……」
「決まりだね」
雇人の男が階下に立ち、手すりに肘を付けながら告げる。それに対し双眼鏡を投げ捨てる赤い瞳の持ち主、カマラは厚い胸板を太陽に晒してうん、と、頷いた。重みのある足音で日に晒されたデッキを大股で歩く男はあれから10年――、上背のある背をのばし、因縁のジック・ラドを仰ぎ見る。
短く先の鋭い黒髪は当時のままだが、顔の輪郭は細長くなって角ばり、180を越えた体躯と体つきは完成された筋肉の束に覆いつくされ、異国の太陽に魅せる。太い眉はより凛々しくなり、そして何より特徴的な赤い瞳はぴんと張った浅褐色の肌とともに鋭い瞬きを放っていた。
「人質は今、どこら辺にいるンすかネ」
「予測としては地下の可能性が高い。機器にもそう反応がある」
紫外線探査機を持ったもう一人が、画面を前に滔々と述べる。
「よし、ならばそこに向かって襲撃するだけだな。一斉に揃っていくぞ」
「乗組員たちに反抗されるリスクはないっスかね」
脇を通り過ぎながら舳に立つカマラに、隊長であろう雇人は肩を竦めて笑った。
「心配するんじゃねえよ。たかがスポーツ選手どもだ。武器の一つも持ってやしねえ」
片眉をあげる男はスポーツを道楽とみなす嘲りでもって、その手に持つ銃の手ごたえを強める。
「だが、だからこそ殺すのは、ナシだ。紅茶野郎どもにそこまで立てつけられる程の国力を、俺たちは残念ながら持ってやしねえ」
「一番ムズい要求ッすねえ。……後遺症や不能の有無は?」
「問わない」
躊躇もなく言った声に、AK-47は大仰な音を響かせた。
「分かりました。まあ、久々に暴れてやりやすよ」
瞳に炎の色を翳しながら、やがて身体にもその熱を思い起こすのだった。
「よし、よろしく頼むぞ。仕事の時間だ」
「はい」
もう一度フェリーを見越し、カマラはAKのストックを握る。そのときに盛り上がった肩の厚みに隊長はにやりと笑った。
やがてデッキに全員が揃い、その先頭に立った隊長はフェリーへと指を突き付ける。
「さあ行くぞ! お前ら! 正義の鉄槌を身の程知らずどもに思い知らせてやれ!」
隊長のおめたごかしはどこまでも威勢よく、ある者は笑いを含めながら、またある者は本気で、それでも揃った拍子で答えて鉄の音を鳴らした。
隊員の一人が大きな円を空中に描き、ボードを海に叩き付ける。ひとりでに膨らんだそれに銃を持った者たちが次々と乗り込んでいく。一番最後にカマラは飛沫をあげたボートへと銃を掲げながら飛ぶように着地する。
「お嬢さん、待ってな。俺がぜってえ助けてやるからな……!」
己の胸に抱いたAKを握りしめ、騙されることも知らずに誓った瞳は皮肉にも純真な瞬きを放っていく。対して、顰めた眉は墨塗りのように太く、かつて悪魔と呼ばれたその禍々しさを久々に浮かび上がらせていった。
やがてボードはフェリーの脇を擦って留まる。続いてはしごが器用よく掛けられて、隊員たちは行き着く間もなく均等な幅を保ってよじ登っていった。「よく訓練された奴らだ」と上下に揺れるフェリーを仰ぎつつ、カマラも踏み出していった。
指定された時間はとうに過ぎた。宣言の通りの襲撃が始まる。
突入した最初の一人がフェリーのデッキに勢いよく足底を付いた。そぞろに続いて乗り込む隊員たちは音もなく身を屈め、AKの銃口を掲げながら状況を把握した。素早い男たちの対応もさながら、不可思議なことに仰々しく燻る煙以外は静かである。
やはり選手たちは地下にいるのか――と、男たちは無言で頷き合い、インプットされた通りの地図を元に右へと方向を変えた。渡り廊下に入ってすぐ地下に繋がる階段を掛け降りていく最中、足音とは明かに違う音が階段裏の方向から聞こえる。
わざとらしい程の大音から、隊長に顎をしゃくれられた数人の隊員は音のした暗がりへとライトを照らして進みゆく。開かれた真っ黒な部屋の扉へと一人が覗き込んだときに、隊員は目の前で壁にしがみ付く相手の顔をライトごしに捉えたのだ。鼻の下の影を浮かべて睨む男に、隊員はぎょっと背中を震わせるも素早く銃を掲げる。しかし、それは背後の気配によって遮られ、隊員が気付いて後ろを振り返った先には、ライトに照らされた白銀のソードが風を切り裂き――、彼の腕を貫いていた。
「んな……!」
前めのりになって倒れた隊員に驚くもう一人へと、今度は先の男がステップを踏んで飛び出した。倒れた敵をもなかったかのように飛び越えて着地する寸で、振り上げた腕からしなりを帯びた剣が相手の肩を斜めに切り裂く。声をあげさせんともう一つの拳で彼の顎を砕いた最中、血が飛び散る中で喰いしばる顔は恐怖と衝動に涙を散らしていた。
すると、廊下に残っていた隊員が今度は嘲りではなく殺意でもって銃口を掲げ――、遂に火花を散らした爆音が狭い船内で破裂した。
見えない弾丸が襲い掛かり、ソードを弾かれた男は引き攣った目で視界を捉えながら部屋の中へと飛び込んだ。弾丸の余波が彼の肩を抉り抜いたが当たらず、先制した選手二人はそのまま部屋の奥へ逃げ込み、向かいの扉に通じる廊下へと滑りながら走り抜く。それを追い駆ける隊員たちの姿に泣き叫び、弾幕を張られる最中で振り掛かる窓ガラスの破片に顔を傷付けながら、二人は大腕を振って彼らの視界から消えんと髪を靡かせる。
「俺たち、もう十分陽動やったよなああ!」
「ああ! 後はもう逃げろおおおおお!」
そして二人は突き当りの重々しい扉を同時に蹴り飛ばし、いきなり開かれた空と海の景色の中へ、腕振り上げて飛び込んでいくのだった。
***
隊員たちの銃声を背に受けて、残りの者たちも早足となって地下に急いでいく。すると、再び脇の部屋から大きな音が鳴り響く。今度は無視をして通り過ぎると、通り過ぎた背後からハチャメチャな威勢の声をあげて、唾吐き散らす男たちが将棋倒しとなって飛び出してきた。
「おい! 直前で転んでんじゃねえよお前えぇ!」
「馬鹿! 馬鹿野郎!」
「ぐはっ……すんマ……セン……マジでえ……」
敵前にして揉みくちゃに喧嘩をする彼らへと、振り向いた隊員が「素人が」と嘲りに口角をあげてAKを振り回し、天辺にいる男の脳天を銃床で潰そうとする。しかし――、先まで大慌てしていた天辺の男は寸時に真顔と鋭い眦となって敵を圧すと、咄嗟に斜め下に身体を捩らせることによって銃床を避けたのだ。代わりにうつ伏せに倒れていたもう一人の背中が砕かれ、悲鳴をあげた。
「んぎゃあ―っ! いってえぇぇえ!」
その間避けた男の方は、握った拳をもう一つの掌で叩き、その勢いで放たれた肘で敵の鼻を打ち砕く。続いて両手を仲間の背中の上に付き、浮いた右足を折り曲げては膝で男の頬を突いた。そこから仰向けに倒れようとする敵を足底で胸を砕いて留めを刺す。人でできた土嚢の上で、出来ようはずもないバランスを保った男を、向かいの敵は詰まった声をあげて驚く。一方で、船内の廊下にすし詰めになっている敵を捉えた茶色い瞳は、陰りの中で怒りの――、否、獲物を捉えた獰猛類の如く瞳孔を脈動させた。隊員はそこから彼の歴戦を悟る。
「狭いところだな……!」
つまりは――、見開く茶色い瞳は白い舞台を翳し、歪んだ口角をあげる。
「俺たちの専売特許だってことだッ!」
彼は獣の如く咆哮をあげ、人の背中を蹴り飛ばす勢いで着地しながら突進した。
「マットさぁん!」
それに背中を叩きつかれた男が自身が持っていたサーベルを振り上げて放つと、回転するサーベルを振り向くことなく後ろ手で掴んで受け取ったマットが覆面ごしに隠された敵の懐に素早く左足で踏み込んで――、その頬を歯にまで届く勢いでもって貫いたのだ。
「ぎゃあああああああ!」
身悶えて倒れた敵の背後から、別の男が拳を振ってストレートを決めようとする。それを突進した勢いで止まらないマットは顔面で受けそうになるも、咄嗟に頭を横に振っては敵の拳が僅かに鼻先に擦れた。代わりに――、マットが避けきることを信じた仲間が背後からサーベルを投げ放ち、ストレートで突き付けた拳が剣の先で貫かれたのだ。
敵の悲鳴が劈く中で、人の壁からそれぞれが白い防具を纏う身体として別れ、放射線上に飛び掛かっていく。
「そのままやったれえええ! お前らーーッ!」
倒れる敵を脇の扉の向こうへ突き飛ばし、サーベルを振り上げたマットの掛け声に、仲間たちも雄たけびをあげてマットの背後を追い越していく。狭い通路の中で黒い服を纏う敵は銃床を、白い防具の男たちはサーベルの先を盾のように叩きつけながら、圧し合っていく。が――、遂に真っ黒な銃口が鈍い光を瞬かせ、マットへ向かって雄たけびを掻き消す発砲音を弾かせた。何を捉える間もなくぐらつく視界の最中、自分の名を叫ぶ仲間の声がマットの耳に反響して聞こえた。
***
発砲音に追い立てられるように、残りの隊員たちは地下の入口へと足を駆ける。今までの妨害に憤怒した荒い息遣いは、有無を言わさず締め切られた鉄の壁をハチの巣にした。傾いた扉を隊長が蹴り飛ばし、誰もいなくなった白いピストを硝煙に塗れた靴底で踏み潰す。隊長は暗い視界を捉えつつ、左奥の暗がりに人の気配を察した。ハンドサインを合図に一斉に部屋の廊下へと駆け抜けると――、鼻孔が掬い取った気配に、一番後ろのカマラが通り際に声をあげた。
「ここっすね」
それは倉庫であろう扉。隊長が頷くと正面に立ったカマラが、筋肉で張った足を振り上げ助走をつけながら止まらぬ早さで蹴り飛ばす。すると――、アルミのようにあっけなく扉は向かいに倒れた向こうに、甲高い音とともに上擦った少女の声を聞き取った。
「こっちだ」
光を帯びた赤い瞳が流し目に見遣る先、数多の袋に尻もちをついて震えている少女が遂に露わとなった。逆光で真っ暗になった彼を、彼女は怯えた目で見上げていた。
「間違いない、目標だな」
悪魔は差し込んだライトの光に、赤い瞳を好調に瞬かせる。
「あっ……あっ……ああっ、あっ……嫌あ……!」
一方、少女は悪魔を見るような眦で震えるばかりだ。カマラは立膝をついて手を差し伸べる。彼女の脇には何人かの女性職員もいたがカマラにとってはよもやいないのも同じ。衝音とともに近づいてくる青年に、少女は泣き声をあげながらスケボーの底を掴んだ。
「やめて……! 来ないで……! ヒイッ……!」
涙を散らす彼女の必死な形相も露知らず、赤い瞳は彼女を宥めんとするばかりに迫ってくる。それにいよいよ少女も絶叫の端を弾かせて、スケボーで彼を視界から消さんと掲げる。
「いや、いやあ……!」
そんな抵抗も虚しく彼は遠慮もなく少女の手を掴んだ。一瞬の内に組み敷かれてしまったような恐怖と痛みに、少女の瞳に絶望が過った。
「大丈夫っすよ。俺が助けに来ましたから」
と、目配せる瞳はどこまでも遠いまま、遂に固まってしまった彼女をカマラは手を引っ張って立ち上がらせた。怒濤の力に操られたあまりに、腰を抜かしてしまった少女の様を無慈悲なほどに穏やかな眼差しで見下ろしながら――、けたたましい音をともに引きずり出していく。
「さあ、大丈夫だからね」
そしてカマラは、入口に立つ隊長の方へと顔をあげると、逆光に陰りながらも隊長は「よくやった」と言わんの緩めた眼で頷いていた。そこに姦計があることも知れず、カマラはただ純粋に彼の願いに答えたい一心で彼女を引っ張り出した。
するカマラは突然背後からの殺気を察し、ぶわりと髪を靡かせた。咄嗟に身を屈めるとその耳の上を白い刃が過って血の線を飛ばした。このままでは隊長に当たると悟ったカマラの腕は、本能で肘を突き上げ、刃を弾かせては軸線をブらす。隙が出来た寸時に振り返れば、光からぬっと出るように、禍々しく見開かれた狂気の黒い瞳とぶつかる。
「くそったれがあーッ!」
カマラの手が緩んだ隙を狙って、飛び出した男は少女を向かい壁へと引っ張って押し退ける。彼女の行く末を追い駆ける赤い瞳が代わりに捉えたのは、踏み込んできた白い防具の青年。うねりのある黒髪から目を剥く瞳ととも下から刃を突き立てて迫る。刃が為す風が先に通じて、カマラは避けきる間もなくいっそ相打ちだと右腕を捻り回し、片手で銃床のストレートを決めようとかかる。それを青年は怯んだあまりにステップして後ずさった。銃床振り切った先には既で避けきって仰向けに倒れ伏せんとする青年が――、刹那に互いの目を見る両者は思わず口走った。
「「なんてぇ……反射神経だよ……!」」
カマラに守られた隊長も、その姿を見て目を見張る。
「こいつは……やばい! ナラヤナだッ!」
隊長がカマラの脇をすり抜けて青年を踏みつけようとする。床板を響き割るくらいの勢いでも、青年は体を半捻りして避けきり、背中越しに刃を回して自身に当たらない角度をもって隊長の足を突く。その業にカマラの目も大きく見開かれ、対して隊長は悲鳴をあげて膝をついた。
「隊長ォッ!」
カマラが叫ぶも隊長へ顔を向ける暇もなく、片手の掌をついて態勢を整えたナラヤナが飛び出した。あの態勢からよくも――と、驚くカマラへ再び構え持ったサーベルで斜めに振り回す。が、カマラも扉向こうまで飛び出す勢いでその軸線から逃れた。続けてステップを決めて振るう刃が迫り、今度は斜め下へと避け、外れた刃が向かい壁に弾く。廊下に固まっていた仲間はそれにぎょっと身を怯ませた。
「気をつけろお! そいつは選手の中でもエース級だぞ!」
突かれた足を押さえながら叫ぶ隊長の声むなしく、銃床を横振りしてナラヤナに襲い掛かった一人はあっという間に踏み込まれ、二、三も連続で胸を突かれた。それに気付く合間に意識を失った仲間を盾に、その耳と肩の間から器用に刃がすり抜けて向かい相手の首を突いて声をも奪う。
「どいつも、こいつもどけえぇーッ!」
雄々しい怒声を渡らせる一方で、キュッと短い音でもって床を踊るステップとともに、振るう腕のしなりによって刃は器用に、ローブのように空中を舞いあがる。
「なるほど……これがオリンピックレベル……!」
次々と仲間を倒れ伏す白い背中を見遣る赤い瞳は一時は動揺に揺れ動くが、目を伏せて次に開いたときには冷徹な光を帯びた。そして、彼も素早く脇から得物を取り出す。対角線上に仲間がいるのに、銃を取るような馬鹿な真似はしない。取り出したのは眼下に照る光に反射した銀色のジャンビヤだ。
途端、殺気に目を凝らすのはナラヤナの方となる。選手の命といえる腰の髄を狙って貫こうとした刃に、思わず脇の壁に背中をつけて避け、続けて横に振り回された刃の辿りをサーブルで振り払う。遂に刃と刃が交差して――、銀の光が汗散る二人の顔を映し、目を剥く赤い瞳と黒い瞳とが脈打った。
カマラは彼の肩を捕まえて身体を固めてやろうと踏み込むが、それより前に足を挟ませたナラヤナが彼の足を蹴り飛ばして宙に浮かす。早さと力が同時に発した蹴り上げに片足を掬われたカマラがバランスを崩した途端、ナラヤナが二連続の突きを喰らわすが、それを今度はカマラが右腕のしなりで素早く振り切ったジャンビヤの刃で同時に弾かせた。互いに咄嗟にステップを踏んで距離を取り合ったのを契機に、同じ拍子で踏み出せば留まらない刃を交差し合った。互いにしか見えない線を辿って脈打つ瞳は星の巡り合いのようにぶつかり合う刃の光を追い駆けつつ、その基軸から外れようとする意志でもって横にステップずらしていく。すり抜ける腕の合間から殺意を突き付け合う若い青年たちの――、狭い廊下で繰り広げられる刃の攻防戦に、倒れる仲間たちが息を呑んでいる。すると痛みに足を押さえつけて蹲るままの隊長が怒声を浴びせた。
「なにぼーっとしてんだお前らアッ! カマラが奴を惹きつけている間にさっさと行くぞ!」
壁に押し付けられて呆然としていた少女が、肩を震わせ恐れの声をあげれば、「い、嫌!」と叫ぶと隊長の脇をすり抜けようとする。が、それを隊長が痛む足で咄嗟に横滑りして彼女の軸足を蹴り飛ばす。彼女は大仰に転んで床が激しい音を立てた。
「やめて! やめてー! いやあー!」
廊下へと引きずり出される彼女は泣き叫んで抵抗するが、男の腕力に適う術もなくばたつく足は宙に浮かされてしまう。なすがままに連れられていく最中に、背後で凄まじいステップと突きを繰り返すナラヤナへと少女が振り返って涙を散らす。
「助けてえー!」
その声に、頭を傾けて避けたナラヤナが意識に彼女へと目を向けてしまった。刃と刃が交差した刹那――、普通なら何ともない僅かな隙を赤い眼は見逃さなかった。ナラヤナの攻撃が一寸遅れたときをして、カマラは膝を突き上げる。それにナラヤナが腕で受け身をとろうと構えたのを契機に、フェイントをかまして膝の態勢を瞬時に替えれば、ナラヤナの頬に回し蹴りを喰らわしたのだ。受けてしまった初めての激痛とともに、弾かれた頭に錯乱に目が回った顔へと、カマラはくるりと身を翻しては今度は右足を軸にもう片方を脚を振り回す。
狭い廊下の中でカマラは向かい壁の機器をも弾き飛ばし、破片飛び散る最中に黒い靴底が過ってナラヤナの左頬が踵で蹴り飛ばしたのだ。反対側に突かれた衝動で柔い皮膚は波々と揺らぎ、歯が剥き出しになって砕かれた血潮が、破片と共に飛び散った。
「あがっ、あぁ……!」
遂に両膝を着いてしまったナラヤナは、頼みのサーブルをも床に落と、うつ伏せのまま倒れてしまう。それにカマラはトドメをさすまでもないと軽々と避けた。凄まじい鐘音に床が波打つ間際、転がったサーブルの柄だけは目ざとく見定め踏みつけた。そして後ろ足で振り切るように蹴り飛ばせば、ナラヤナの矜持たる証は、空虚な引っ掻き音とともに遥か彼方へ失われていく。
そこから声を上げることもなく血を流して動かなくなったナラヤナに、少女は上擦った声をあげるが、震える唇は彼の名を紡げない。いやいやと泣く声も、男たちの腕に渡り廊下から引き離され、少女は黒服の男たちに取り囲まれたまま連れ出されてしまう。カマラはその様子を一瞥すると、ナラヤナを捨て置いて付いていった。
「たっく! 思っていたより、しぶとい奴らだったなぁ!」
目標を確保して緊張が溶けた矢先、足引きずりながら先頭を駆ける隊長が、少女の叫びを打ち消すほどの悪態をつく。
「おい! 目標は捕ったぞ! ついていける奴はこのまま列に繋がれ! 行けないやつは支えてもらえ!」
様子を見渡す隊長の瞳に、立ちはだかる白い防具はもう見えなかった。壁の端々には血が飛び散り、硝煙漂う中でサーブルを粉々にされて倒れ伏す男たちのくすんだ髪の山々を見る。すると、そこに這い出る隊員に覆いかぶさり、鬼の形相で彼の頭を噛む髭面の男だけが、血にまみれながらも抵抗に歯を喰いしばっていた。そっちの方がヤバいのに流石だなぁと思いながらも、どうせこれ以上は動けやしないと、カマラは颯爽と出口の方と駆けていく。それに男が震えるながらこちらに手を掲げたのも知れず。一方で息も絶え絶えに壁によりかかり号令に戻る仲間たちを見て、隊長は眉を顰めた。
「たっく、苦戦しやがって……! 戦士の名が泣くぜ!」
しかし、後から指揮する部下が鼓舞するように呼びかける。
「ですが、誰一人斃れてはいません! 時間はかかるでしょうがこのまま全員戻れるかと……!」
「そうだな! どっちにしろこのまま戻りゃ全ては御の字だ! とっととずらかるぞ!」
列の真ん中で暴れる少女の叫びもないかのように、男たちの返事が木霊する。そしていよいよ、鉄の叩く音が煩わしく響き渡る最中、涙で霞んだ少女の眼に絶望の陽が差し込んできた。地下から出た青い空に睫毛も愕然と揺らぐ。担ぎあげられて身体が浮くとその目端に青い海が過った。このままではいよいよ連れ戻されてしまう――、パニックに震える中で、咄嗟に思い浮かんだ閃きに必死な勢いで振り返り、少女は階下にいるカマラへと歯を剥いた。
「ねえ、お願い! そこの人! 貴方はうちの国じゃないわよね! だったら! 助けて! 今から助けてよォ!」
それに対し、「いや、今助けてるんじゃないっすか」と言わんばかりに首を傾げるカマラへ、少女は階段から落ちる覚悟で飛び出そうとするが――、その襟首をわしづかみ隊長が母国語で耳打ちする。
『余計ことをすんじゃねえぞ。 俺たちの船中でここにいる全員にどうされたいか?』
悍ましい脅しに少女は髪をも硬直してしまう。その隙に再び腕をとられ、あっという間に視界から消えた彼女に、カマラは首を竦めるだけであった。
引きずる少女とともに男たちは滔々とデッキの上を横切り、ロープはしごが吊るされた手すりに向かっていく。カマラも銃を向けながら最後の列を守る殿として辺りを見渡していたが、黒い煙が放つ焦げ臭い匂いの中でも刺客は見当たらない。もう大丈夫か――、と思いかけながらも本能が緊張の汗を滴らせた。
「カマラ! 最後にお前が乗れよ!」
「了解!」
既にロープで降りている隊長の命にカマラは答えたが、互いに交わらない視線の中に、嫌な予感を感じていた。特に、隊長は又聞きしたある人物に遭遇していないことを懸念していた。
最初に聞いたのはエースのナラヤナ。その次に聞いた方が印象に残るのが人の性というものか、否、と、隊長は覚束なく揺れる板に乗せた足を見ながら瞬きをする。
その実力の程は聞いていない。だが「奴」には奇妙な逸話があった。何でも彼は……と、思いかけた途端、隊長とカマラは過った殺気に目を見開く。脳裏に過った翡翠の迸りとともに、突然白い影が死角になったブリッジの脇から飛び出してきたのだ。
「カマラァ!」
隊長は叫んだが間に合わなかった。白い影は一瞬にデッキに着地し、唖然とする隊長を通り過ぎる。そこから跳ねるように助走をつけ、手に持った煤まみれのパイプを槍代わりに投げつけたのだ。二ステップの足取りで敵の注意を反らしつつ、少女に向けて投げられたパイプが、彼女にはかすりもせずに隣の男の鼻をへし折るように衝突して跳ね上がった。
血が飛び散る中で倒れていく男に、怯える少女の開かれた瞳は一瞬にして白い防具に覆われていく。
「逃げてくださあい!」
爽快なほどの青年の声が弾ける。強張っていた手首を掴まれては、彼女は仰向けに倒れるほどの勢いで振り回され、少女が目を凝らした先には細長く白い背中が、腕を水平に自ら盾になって立ちはだかっていた。一方、白い影の真正面に構えるカマラは赤い目を開く。揺れる黒髪の隙間から鈍い光を放つ、自分とは対照的な翡翠の瞳に。
「でやぁぁあああああ!」
靡く黒髪の揺れにフェイントを仕掛け、翡翠の光が曲線を描く。トビウオのように空を狐円に飛ぶ様は銀色の瞬きととも、真っ直ぐカマラへと襲いかかってきた。カマラは既で後退り目前に迫る拳を避けるも、着地した拍子に続けた回し蹴りを喰らいかける。それをも何とか左腕を盾にして再び直撃を避けたが――、掲げた左腕の軋む音にはっと目を開いた。
「嘘、だろ……!?」
言いかける前に今度は目前に白い膝が迫り、遂にはそれを避けきれずに顎を砕かれてしまう。空を仰ぐように突かれた衝撃にカマラの唇から血が飛び散った。持っていた銃も同時に蹴り飛ばされ、錯乱した目を剝きながらも、カマラは必死に右手で顎を押さえる。それでも遠慮もなく次々と拳が追いかける。それを右に左にと斜めに頭を振って避けきりながら、カマラはぶら下がってしまう左腕の痛みに汗を飛ばした。
「おい、カマラ! 大丈夫かぁ!」
デッキから降りかけた隊長が助太刀に銃を構えるも、隊長の発砲はカマラの鼻先を切り裂き、それでも青年は踏み出す足取りを一歩をも引かない。それよりも、発砲に怯んだカマラの方を好奇とばかりに口角をあげるのだ。
「隊長! 先に行ってください!」
カマラは肘突きで青年の拳を弾かせつつ、口端の血を飛ばしながら叫んだ。
「俺ひとりで何とか! こいつを倒してお嬢さんを連れ戻します! だから!」
「だ、だが……!」
戸惑う隊長へ更に窮地が訪れる。部下がボードの上から異常事態を伝えた。
「隊長! 今10時の方向から別の警備船の反応ありーッ!」
「んだとぉ!?」
「先にこっち止めてからじゃねぇと、やばくないっすか!?」
眼下の声に急かされ、二人の戦いを前に隊長は悪態ついて銃口を空へ向けた。
「カマラァ! わりぃが先に行くぞ! 気をつけろよ! そいつぁサルタイアって奴だ! そしておそらく船にいる奴の中で……! 一番『ヤバい』のだぞ!」
船長の叫びは水飛沫とともに消えた。不可解な言付に意気込むと同時に、鈍痛に滲む左腕で拳を作ってカマラは唇を拭う。
「殺すなっつー言われてたけどよ……」
掲げる右腕の筋を張って握り、向かいの白影へと視界のピントを合わせる。途端に弾ける爆発音。その合図とともに悪魔は叫んだ。
「殺すつもりで来たほうが丁度良さそうだッ!」
口は屠るように開き犬歯を剥いた。赤い瞳に浮かぶ瞳孔は鼓動し、歪む口角は大仰に上がって笑いと同じ息を弾かせる。端正な男のひしゃげた形相に翡翠の瞳が目配せすれば、カマラは再び飛び出した。唇引き締めた青年――、サルタイアも隙を振り払うように続く。
僅かな先手でカマラがデッキの上を跳ねれば、次の一手を読み取ろうとサルタイアが下を向く。途端、カマラが足首を捻らせて動揺を誘った。軸足を砕くつもりか――と、避けようとしたサルタイアの長い足に向かって、素早く肘から下を半回転させ、拗ね撃ちでバランスを崩させたののだ。
「うわぁっ!」
読みに負けたサルタイアは、敵の目の前で横転してしまう。それにカマラが回転して取り出しだジャンビヤを彼の首筋へと振り回す。しかしそれと同時に肘を曲げたサルタイアの足は、カマラの右腕へと振り上げて足底で蹴り飛ばした。ジャンビヤはその衝動とともに空へと飛ばされていくが、間際にサルタイアの太腿を深く切り裂き、カマラは手ごたえに歪んだ笑みを零す。
「これでイーブン……ッ!」
では、なかった。向けられた顔の凄まじい形相には、痛みによる顰みがない。
「えっ……!」
答える間もなく反撃を喰らった。血に塗れた右足でカマラは腕を捻り回される。一瞬の隙とはいえ凄まじい力に痛みに眉を顰めたのはカマラの方となった。視界は青い空へとすげ替わり、背中に激しい衝突が渡ると、途端にサルタイアのもう片方の足底で、頭の頂きを連続に叩かれてしまう。
「ここからッ、出てけぇぇえええ!」
凄まじい雄たけびとともに、繰り返す割れるような痛みに、視界や意識も曖昧になっていく。力が緩んだとともに、最後の一撃によってカマラは向こう側へと飛ばされた。
カマラ前転しながら態勢を整え、一定の距離を保つ。サルタイアは右肘を着きながら立ち上がった。血が溢れてデッキを赤く染めていくのに、鮮血で艶やかに瞬く歯はまだ意欲に満ち溢れ、血潮に映る顔はどこまでも憎悪の炎を絶やさずカマラを睨む。これがもし先の男、ナラヤナだったならとう気絶しただろうに――、隊長の意味を察したカマラは初めて呻き声をあげた。
「くっそ……! 滅茶苦茶な野郎だな……!」
カマラがぐらつく頭を押えている間に、サルタイアは自分の肩から背中へと腕を回し、何かを掴んだ。そして、斜めに振り下ろして遂に現れるのは、血潮に瞬く銀色の光。相手に捨て身だと見せかけるために背中に貼りつけていたそれは、選手たる証の――、少女を救うための最後の剣となって、煙の中から細長い造形を露わにする。
手首を捻って握ったサーベルが、軋んだ音を立てながら刃が鈍い光を放つ。カマラも片方に仕込んだホルスターから最後のジャンビヤを取り出し、回転させながら柄を持って握る。掴む手応えと同時にジャンビヤもカマラの殺意に呼応するように瞬いた。
互いに肩を上下し、デッキの上をすり足で間合いをとっていく。刃で相手の注意をそらしながら状況を悟ってゆく。烟る煙、嫌に張り付く汗と煤、それが痛みと焦燥を煽らせながらも互いに譲れぬ闘志。
「次で最後にしなければ……!」
殺意の瞳が互いぶつかり、次に銀の刃が空を切り裂いた。踏み出したと同時に男たちの雄叫びが劈くと、背後に爆発が弾けて互いは影となった。しかし、降り掛かる火の粉に構わず二人は駆け抜ける。
そこで一瞬でも怯んだら負けだと――、覚悟を為して半円を描く刃が、目前でぶつかり合い火花を散らした。二人にとってそれは炎よりも恐ろしいものだった。赤い揺らめきの中で上下に揺らめく影を刃が振り払い、何度も攻防を重ねていく。鏡のように互いを映す血潮に滑りながら、それぞれ踏みしめて飛ぶを繰り返す内に、カマラが先に歯を食いしばった。
「なんなんだ! なんなんだよコイツは……!」
威嚇の叫びとともに戸惑う。
「なんでこんなにまだ……! 動けんだよ……!」
自分ならとうに出血多量で意識を失っていただろう――と、自分の足取りを乱す血潮に眉を歪める。追い立てられた焦りのあまりにカマラは急所を狙って踏み出すが、サルタイアが身を縦にしたことで躱され、通り過ぎ際に背中を向けてしまう。悪態をついて振り返る間際にサーブルの矛先が迫ってカマラの左目を突き抜けようとする。彼は反射神経で脇に逸れて避けるも、目尻からこめかみにかけてえぐられた皮膚片が飛び散った。
「しかもコイツも……! 殺すつもりで……!?」
血に汚れた眦を顰め、続いて迫った連続突きを手捻りで左右に弾き返したカマラは、彼の異常さを悟る。ただの選手にしてはあまりにも禍々しい覇気――、スポーツという枠組みに閉じ込められた狂気がようやく放たれた開放感に浸っているような予感が、血に染まる彼の僅かな笑みに裏付けられていく。
呻きを一声、斜め下と向けたサルタイアは、頭を振り回す勢いで正面へと迫るが、カマラが再び首を狙って刃を翳す。すると、サルタイアはあえて避けずに攻撃を受け入れた。首筋を切り裂かれてでも避けづらい角度からサーベルをしならせるのだ。サーブルがジャンビヤの軌道からすり抜けて微かに擦りあった刹那に――、カマラは肩をも抉られて、片手を抑えるのに塞いでしまう。足取り乱れデッキの手すりに腰を叩いたカマラを、サルタイアはこちらの有利と言わんばかりにゆっくりと歩きながら追う。
カマラはよもや人でなしを見るような心地で睨みつつ、身体は遂に逃げの態勢となって地下の入口へと駆けていった。一見柔そうな丸みを帯びたその翡翠の瞳に、今は恐ろしささえ感じて足取りを早める。
「そうだ……! そのまま! 出ていけぇッ!」
威嚇のようにサーブルを交互に振ってサルタイアは吼えた。カマラが背中を向けて飛び出せば、サルタイアはそこから最後のチャンスを逃さんと追いかける。袈裟懸けに切り裂かんと縦に振った軌道をカマラは側転して避ける、が--―、着地した途端に態勢が崩れた。それにすかさずステップを踏んでサルタイアが留めを刺そうとするが、彼もまた太腿の血が噴き出した拍子に構えが崩れて軸が逸れる。劈く鉄の音に目覚めたカマラが飛ぶように後ずさっていけば、そこで一つの節目を迎える。
「あ……?」
再び視界がぐるりと回る。藻掻いた手足は宙に回りカマラは背中から落ちていった。それは、階下に繋がるハッチに嵌ってしまったが故に。逃れられない浮揚感は縮み上がる胃さえも浮かばせて、傍からしても痛々しい重量のある衝音とともに、階下まで網掛けの階段を滑り落ちていくのだ。
「がっは……!」
遂にカマラは踊り場で仰向けに倒れ、全身にわたった痛みに息をすることさえ出来なくなった。それをサルタイアは血の滝を滴らせながらも悠々と、ハッチの縁に足音鳴らしては激戦を交わした相手の末路を見下ろす。カマラは血に塗れた口をぼんやりと開きながら、細長い黒影を見やった。彼の雄姿に絶望の陰がよぎり、せめてもの意地としても、弱々しい声を出すことしか出来ない。
「オリンピック相手に……二人も流石にきちかったか、なぁ……」
そうしている内に、おぞましい瞳には銀色の光がよぎり、その切っ先を大の字になったカマラへ向けてる。カマラはやぶれかぶれに揶揄めいた笑みを零しながら、手は悔しさに拳を握り床を叩きつけた。すると、その狭間に指に何かが触れた。その感触に、狙いを定める翡翠の瞬きとともに赤い瞳も光った。
サーブルがカマラの顔めがけて振り下ろされる。カマラは最後の力を振り絞り、一瞬の隙に身体を半捻りして避けきろうとする。その間際に振り上げた右腕に刃が掠めて血が飛び散っても、サーブルはカマラの耳を僅かに外れて床面を跳ねた。それに舌打ちしながら片方を動揺に脈打った翡翠の瞳が――、カマラの掲げた黒い『銃口』に汗を散らす。銃口の奥ではカマラが鼻血を垂らし腫れた頬を荒息で揺らしつつも、瞳だけはどこまでも禍々しく狙いを定める。そして、躊躇もなく引かれたトリガーと同時発射で火が噴いた。
一瞬、本能のあまりに避けきらんと定めた瞳は何も映さない。気付いたときには発砲の音はとうに通り過ぎて、サルタイアの胸に今までに感じたことのない痛みが炎のように渡る。
「あ……」
思わず手を下腹部に当ててみると、そこから溢れるように血ととも鈍痛が重なって滲み出てくる。
「そん、な……、銃がま、だ……」
青ざめた顔で態勢を崩し、手すりを掴んだサルタイアに、カマラの方が腰をあげて身を起こし、銃持つ右手をのばしたまま、動けなくなった的へと片目ごしに再び狙いを定める。
「ああ、そうだったようだ。残念だったな」
蔑む暇もなく荒息の合間に答えると、言い終わらない内に再び引き金を弾いた。一発、二発、階段をあがることに火を放ち、サルタイアの身体はどんどん肩を左右に揺らしながら後ずさっていく。カマラは痛む唇を引き締めて態勢を構えると、勢い増して階段を駆けあがり、その間に放つ銃声は澱みなく全てサルタイアの身体へと命中させた。
白い防具に血が飛び散って、真っ赤な鮮血が太腿とともに染めあがっても、それでも再び追い詰められたデッキの上でサルタイアは揺らぐ身体を無理に起こし、腕をぶら下げた倒れる寸前であっても翡翠の瞳は今だ闘志を僅かに灯す。
「全く、今立ち上がってるだけでもおかしい位ってのによ……」
と、カマラも鈍痛の中で感嘆の息を漏らしたが、それでも最後は眦鋭く息を吐けば、最後の一発を中途なく放った。心ならずかそれはどれよりも大きく空に劈き、サルタイアの細長い胴の真ん中を貫いた。血が一筋の濁流となって飛び散り、いよいよその反動に身を跳ね飛ばされたサルタイアは、炎の渦巻く楼の中へと――、壊れかけた扉とともに倒れてしまった。
途端に炎の手が囲い、カマラの頬を熱するほどに放たれては、火の粉が飛び散りカマラの目をも襲った。銃を取った手で顔を塞いで目を凝らせば。炎は楼を越えて屋上にまで燃え盛っている。
「やっと……終わった、のか……」
膝をつき、煙にけぶる空気を潰れかけた肺に溜めた。疲労に項垂れる身体をデッキの上に手をついて休めながら、カマラはやがて顔だけをあげて辺りを見渡す。目的の少女は逃げようとした矢先に受けた爆発の影響か――、右奥の手すりに仰向けになって倒れており、腕を海へとぶたぶた揺らしながらも、そりあがった胸の陰影がゆっくりと膨らんでは縮んでいる。そこから彼女の息遣いを察し、「良かった」と、笑みを零した。
あの恐ろしいサルタイアの気配ももう感じない。そこからはあっという間だった。カマラはふらついた足取りで少女の方へ向かえば、片手でぶらさがる彼女を揺り起こして片腕の中に収める。今だ気絶して目を瞑ったままの彼女を見下ろしつつ、厚い胸の中に彼女の身体を浮かせて固めては、再びデッキへと歩き出すのだ。
最後の敵を倒し、そして遂に娘をも取り返した確信に、炎を背後に影で覆いつくされた顔は好機に白い牙を覗かせて微笑む。が、しかし――、それに追い立てるように激しい音が背後から再び跳ね上がった。
三度目の爆発かと思った。無意識に振り返ると、入口から赤い炎が更に轟轟と渦を巻いている。その眼下に飛ばされたひしゃげた扉。それに目を向けた拍子にカマラの目が開かれる。通り過ぎた視界に一瞬、あるはずのない黒影が過ったからだった。
「な……!」
驚きのあまり彼女を抱く腕を強張らせる。勢い良く首をあげた先には、ゆらゆらと炎の舌に合わせるように、動く影が一定のテンポでもって炎から掘り出された彫像のように浮かび上がっては迫ってくるのだ。
「そんな、馬鹿な……!」
カマラも今度は動揺を露わに身体を斜めに後ずさる。意味もなく空いた手を振って今の状況から目を逸らそうと掲げようとするも、炎から現れた黒こげの足が、跳ねるようにデッキの上を叩きつけた。
それは、錆びついた己の血と煤にまみれ、すっかり黒くなった防具を纏うサルタイアだった。
一目見て惨状だというのに、左右に身体を揺らしながらもしっかりとデッキを踏みしめ、焦げ付いた黒髪の間から炎の明かりを借りた両目を開き、翡翠の瞳が今だカマラへと殺意で突き刺した。その瞳から赤い血を流しながらも、食いしばる歯は鋭い尖りを放ち、明後日の方向に捻じ曲がった足を引きずりながらも歩を進める。カマラはせせりあがった背中から恐怖に身を固めて慄いた。
その途端に思い出す。そうだ、こんな心地は初めてじゃない。今から10年前の走馬灯が、あのときと同じ翡翠の瞳によって蘇る。あり得ない筈の場から突然現れて襲いかかってきた同じ色の瞳に。
「まさか、お前……あの……!」
サルタイアは獣のような叫びで飛び出した。右手に刃の折れたサーブルを振って突き刺さんとする勢いに、カマラも無意識に銃を振りかざすが、引き金は柔い感触となって弾切れの音を残酷に響かせる。途端、脇から振りかざされたサルタイアのサーブルとぶつかり合い、互いに牽制の火花を散らした。が、勢い留まらないサルタイアの覇気に銃の方が跳ね飛ばされた。カマラがあっ、と口を開く合間に彼の視界は折り曲げた肘をバネに飛び出した拳によって覆われる。
それはスローモーションとなってゆっくりと焼きつけるように迫ってきた。思わず言いかけた言葉が漏れる。
「この化け――」
皮膚が骨にぶつかり凹む凄まじい衝音とともに、カマラはあられもなくひしゃげた顔となって鼻と口から血と唾を飛ばした。拳が深く頬に刺さったまま横に押し倒され、少女もカマラの腕から離れて脇に転がっていったが、よもやそれを追い駆ける術はない。血まみれでタプタプとなった脚がカマラの胴を舐めるように這っては、腹筋に固まったカマラの上にサルタイアは馬乗りになる。視界一杯に迫る、血に塗れた般若の形相が、鼻血滴る顔と並行に並んでは、よもやどちらのか分からなくなった血潮を飛び散らして、拳は再び煙渦巻く空に掲げられる。
「うああ! あああ! ああああ!」
振りかざす側が悲鳴のような叫び声をあげ、カマラの顔を交互に殴りつけていく。その度に固いデッキに後頭部が叩き付けられ、カマラの方はもう声をも出なかった。いや、出せなかった。紡ぐ為の唇は止まぬ拳の突きよって腫れあがり、両頬も痣とともに腫れあがって息をするのさえも出来ない。このままでは本当に死ぬ――、虚ろになっていく赤い瞳は自分の血が描く敵の拳の辿りを追うばかりだ。
「うあ、うあああああ!」
そして最後に――、虚ろいかけた眼目掛けて牙を剥くサルタイアは、翡翠の瞳に狂気をやどした瞬きとともに更に高く拳を振りかざす。そこから助走をつけて躊躇なくトドメを刺そうとした瞬、寸で彼の胴を腕が囲い込んだ。
「やめてえ!」
腕の持ち主は耳に劈く悲鳴をあげ、彼の身体を押さえるの少女であった。必死に握るように囲む腕と柔い身体の反発に、サルタイアの髪は揺れる。
「これ以上やったら死んでしまうわ!」
少女の声に正気を取り戻したサルタイアは、ぶわりと汗を飛ばし、動揺を整えるように荒い息で上下する。少女のすすり泣きが続くと、サルタイアはゆっくりと彼女の腕を掴み拳を下ろしたのであった。カマラはとうに気絶し血濡れの中で揺蕩う。それを見届けたサルタイアはほっと息をあげると、とたん崩れて彼の上へと倒れ伏した。少女は驚きに声をあげ、二人の肩を掴み揺らしながら、ずっと泣き声をあげて呼びかけ続けていた。炎は更に燃え上がっておく。
互いにとって異国の上で繰り広げられた激戦は、ここでようやく幕を閉じたのであった。
***
少女の叫びを聞きつけるように、次から次へと警備船たちが煙渦巻くフェリーへと波面揺蕩わせて駆けつけた。ぶら下がった梯子から飛び乗ってきた新たな警備員たちによって、フェリーに唯一取り残されたカマラはその場で連行され、果敢に立ち向かって倒れた選手たちも、次々と担架に運び出され足早に治療が施されることになった。
特にカマラとの激戦を繰り広げたナラヤナとサルタイアは重傷で、様々な手続きをすっ飛ばした中でムンダネウム側の最新治療を受けることになる。それは日本で培ってきたips細胞がムンダネウムとの協働とともにさらなる進化を遂げた技術が施され、その結果、カマラを含めて死亡者、後遺症者ともにゼロという快挙を成し遂げたのだった。
一方で、船を襲った犯人たちは逃げ切っては行方をくらまし、遂ぞ捕まえることが出来なかった。しかし、今後の調査については、現地に残った選手団とカマラを通じて行われていくという。彼らの身柄が確保されるのも時間の問題とされている。
そして少女は――、
「本当に、ああ、なんと御礼を言っていいのか……」
唯一無傷ではあったが、新たに用意されたオーバーサイズの患者服を着る少女は焦げたスケボーの端を胸に抱いて深々と腰を屈めた。その先には病院の日差しに照らされたナラヤナが、車椅子の上でギプスを嵌めた足を開いて座り、両肘をついたまま神妙に受け止めていた。カマラに蹴り飛ばされたときの怪我によって、頬から片目にかけて大きいガーゼが覆っている。
「悪いな、本当にお礼を言いたかった奴には会えねえでね」
少女がえっと目を瞬かせながら顔をあげると、ナラヤナは神妙な顔のまま言葉を続ける。
「本当はうちのリーダーにお礼を言いたかっただろう? なんたって、あんたを一番最初に助けたのは、彼なんスから」
少女は日の光に目を潤ませながら、鼻啜る音を立てる。
「ええ、それは勿論……あの人がいなければ今頃……」
と、言いかけてナラヤナの答えを待っている唇に、彼は淡々としたまま答える。
「でも無理っすよ。彼から断ったんすから。あんたにはどうしても会って話せる心地ではないって」
少女は驚かなかった。寂しそうに目を伏せて「そうですよね」とだけ小さい声をあげる。カマラは心の中で鼻を鳴らしつつ、ちくりと刺さる胸の痛みを感じないわけでもなかった。
実はリーダー、マットが託けた本当の言葉は、その字面は違わなかったが意味合いは全く異なっている。
ベッドに横たわったままのマットは、あくまで少女を慮った上で断ったのだ。あの子の傷にならないように、こんなへんちくりんなおっさんに、一生分の恩義を受けてしまったと重荷にならないで欲しい。さっさと自分のことは忘れて、新しい世界へとあの子には飛んでほしいからと。彼女がスケボーで空を駆けたときを浮かばせながら、マットはくしゃりと紙を握ったような顔で笑った。
「こういうのはやっぱり、同世代で分かち合うもんだぜ。だからお前が行ってこい」
しかしナラヤナは彼の言う通りに済ませることが出来なかった。彼に憧れ、彼の最後を四年も見てきた者として、少女をどうしてもマットの引退試合を目茶苦茶にした相手としか見れず、若さゆえの情動が、大人の矜持を受け止めきれることが出来なかった。
「あんたさ……」
そしてもう一つ、責任の自覚を問う意図を忍ばせて口を開く。
「部屋に追い詰められたとき、スケボーを武器にしなかったよな」
涙目に潤む瞳が指先で拭われた瞬間、ナラヤナの声に雫が飛んだ。
「あの悪魔野郎があんたを連れ去ろうとしたとき、あんたは盾にこそしたけど、それで投げ飛ばそうとしたり、振り払おうとはしなかった。……それはなんで、なんだ?」
少女は一瞬、目を引きつらせた。自分が抵抗をしなかった咎かと思ったが、自分を見るその黒い眼差があまりにも真っ直ぐだったから――、迸る心地のままに従えば、少女は自然とその腕でスケボーを掻き抱いていた。
そして、しばしの目配せとともに初めて深く胸に届く声で答えたのだ。その短くて小さな五本指に思いを込め、スケボーの縁を掴みながら。
「……これも私の一部ですから」
長い睫毛が舞いあがった瞬間、正面に受け止めたナラナヤが日差しの光を借りて瞬いた。アフリカの気候に似合わない爽やかな風が、木漏れ日から通り過ぎていく。
「そう、か……」
最後に一つひとつ、自ら確認するような声でナラヤナは応えた。そこからは二人見つめ合ったまま、やがてナラヤナの黒髪が背を向けるとともに揺らめいていく。車椅子は音を立てることもなく周っては、そのまま奥の光の先へとナラヤナを導いていく。
「同胞よ、また会おう」
その意味を悟るやいなや、少女と鼻を上擦らせて顔を上げると、「ありがとう」と、廊下に大声を響かせたのだった。やがて視界が光一杯になる最中で、その後ろでずっと自分を見守っているであろう少女へとナラヤナは背中で語る。
「そうか、俺は今、可哀そうな難民でも被害者でもない……一人のオリンピック選手を救ったんだな」
腕で顔を拭うナラヤナはそのときやっと、彼女を助けて良かったと初めて思えたのだった。
***
眩い照明の光が真っ白にピストを染め上げる。それ以外は墨を塗ったように黒い中から、白い防具を着た選手たちが大きな歓声とともに浮かび上がるように現れる。
今日の種目はナミビアオリンピック、フェンシングのサーブル男子個人戦。イギリスの競技団が事件遭遇のために一斉総棄権という大番狂わせで戦々恐々となった界隈の中で、たった一人、暗闇から乗り出した選手の登場が更に観客を湧かせていた。それは、棄権したはずのユニオンジャックのボウイを纏う背の高い選手。それは誰なんだと観客たちが首を傾げる中でも、選手の背後に立つ棄権選手たちが感嘆と呆れの眦でもって見上げながら、包帯と眼帯に覆われた互いの痛々しい顔を見合わせ笑い合う。
「いや、まさかなあ。このたった数日間で後日の個人戦に出れる奴が出てくるとか考えられたか?」
一人だけ車椅子に乗っているマットが声をあげる。
「俺も未だに、自分の見ている光景が信じられないっスよ」
車椅子のハンドルを持つナラナヤも片目だけで見上げながら答える。周りの者もそれに続いた。
「全くだ、看護師の話に聞くところにゃ、一番負傷してたんだってよ。なのになんで俺たちより早く治ってんだって話よなあ……」
「後遺症もトラウマも一切なし。治るスピードも普通の2倍だって噂だぜ」
「んで、ムンダネウム研究所からも遺伝子サンプリングのオファーを受けてるっていう……」
「お、それじゃあ遂に明かされるってかい。あの家に伝わる……ビアトリス家のご加護とかいう……」
「最早呪いの間違いじゃねえか」
「なあ聞いたか? なんとなんと、後からムンダネウムのリーダーとの面会も約束されてんだってさ」
「ムンダネウムのリーダー? 誰だっけそれ」
「ほら、あれだよ。あのアメリカにいた死神って呼ばれた……」
それを聞いたかなかったか、ユニオンジャックのボウイが徐に彼らの方へ振り向いた。それにマットが治った左腕を大きく振る。
「サルタイアー! 頑張れよー!」
マットのかけ声を先駆けに、選手や観客たちも応援を掛けた。
「サルタイア、行けー!」
「俺たちの雪辱を代わりに果たしてくれよー!」
背中に受けたナラヤナも眦を上げて微笑めば、逆光の影は微かに頷いた。顔は見えずとも互いにしか知り得ない合点がある。二人にはそれだけで十分。彼らに未来を託したマットはその様子を見上げれば「これからも仲良くな」と、白い歯を見せて笑ったのだった。
やがて、出場の合図がかかり、黒衣の影ーー、サルタイアは白いピストへと向かう。歴戦の傷さえ見せない堂々とした足取りで歩み対戦相手と向かい合えば、審判の大声とともに足を踏みしめて態勢を構えた。銀の刃が強い放線を綺羅びやかに見せる。
「いつか、必ずまた巡り会おう」
数多の国の歓声と視線を受け止める身体は情熱に昂る。防具の中に見えない翡翠の瞳は煌めくピストに反射していた。
今回の事件を通して思い知った、この世界のままならなさ。オリンピックをきっかけに知れた世界の縁取り。不思議とあれほど迸っていた怒りはとうにすぎて――、否、出し切ったかのように落ち着いて、ナラヤナだけではなくあれほど殺し合ったカマラでさえ、また会って話したい気持ちになっていた。
味方の澱も敵の思いも、これからもっともっと知っていきたい。その中で、このままならない血を受け継いだ自分の有り様を縁取らせていきたい。揺れる矛先は未来へと、サルタイアの視線は未だ知り得ない目の前の相手へと翳されていく。
「さあ、行きましょうか」
審判が腕が振り下ろされる。その合図に乗って白い脚は試合へと、音軽やかにそしてこれから辿る未来を踏み越えていった。
***
それから一年後の秋。長く続いた物語の最後の舞台は、再びのNYへ至る。時代の荒波を耐え忍んできた巨塔が僅かに綻び、年季の入った摩天楼が青空に煌めく様を、ブルックリンの丘に聳える赤い屋敷が見下ろしていた。
摩天楼よりも古の歴史を刻むロシア様式の屋敷プリーズラク・ハウスは、この間大改装を終えたばかりだ。むしろこちらの方が新築のように、散りばめられたレンガの粒によって真新しい瞬きを放っている。かつてはレンガに覆われた一階側面は芝生の丘に続くよう白い石膏で組み立てられた格子の二重扉となり、青い空を区切りとる長方形のはめガラスから日差しが床板を懐かしい色に染める。
しかし、それらは甲斐甲斐しく使用人たちによって開かれて、丘向こうのマンハッタンが絵画のように映し出されていった。一階に並べれた丸テーブルが幾つか外の芝生の上に置かれ、白いパラソルをも斜めに翳せば、屋内と屋外の風情どちらでも楽しめるパーティー会場の出来上がりとなる。今日は秋晴れ。風も穏やかな絶好のパーティー日和であった。
いよいよ開場時間も迫り、使用人たちが小皿に乗せられた華麗な食事を配膳していく中、先に準備を整えた二人の青年が脇のレコード台に佇んでいた。ふたりとも既に黒いタイが映える燕尾服姿となっており、一人は主催者としてもう一人はこの場を提供した家主として、仕上がっていく会場の様子を見守る。やがて、レコードから流れる調和のとれたオーケストラの音色に、背が高い方が翡翠の瞳を細めて微笑んだ。
「これは……ラフマニノフですか、いいですねえ」
「ありがとうございます。曾祖父のコレクションから引っ張ってみました」
それに対し、僅かに背の低い方は、明るいブラウンの瞳を好機に瞬かせながら相手を見上げで答えた。スマートな体型と輪郭を持った相手ーー、サルタイアと異なり、全体的にコンパクトながらも筋張った頬と尖った喉仏が男らしさを引き立たす。それにサルタイアは否応なしに思い出さずに居られなかった。瞳の色も肌の色も似てないが、かつてムンダネウムで巡り合った彼の伯父の面影。
「ベリャーエフさん、私のわがままに対してこんなに素敵な会場を用意してくださってありがとうございました。それにしても、本当に良い屋舗だ。よくぞ今まで残していかれましたね」
「ふふふ、英国のヴィアトリス伯爵様にお墨付きをいただけるなんて光栄です」
そうして彼、アルフレッド・ベリャーエフは悪戯っぽく笑った。その柔和な笑みから伯父の面影は消えていく。
「私も屋敷を管理しているから分かるんですよ。今どき、これ程の逸品を保つのも並大抵ではないでしょう」
後ろ手に指を組んでまじまじと邸内を見渡すサルタイアに、アルフレッド共感に目を細める。
「ですね。でも、全当主の伯父は自分のためなら、いっそのことペチカの薪にしてしまっても構わないとまで言ってくれてましたからね。何故か不思議なものでーー、自由にして良いっと言われてからは、私はむしろ守っていきたいと思うようになったんですよ」
両の目を上目遣いに微笑んだアルフレッドを、サルタイアは流し目に見遣った。
「伯父……ベリャーエフ……アーサー・ベリャーエフ氏のことですね……」
「アーサーで構いませんよ。そしてどうか僕のことも、アルフレッドと呼んでください」
「ありがとうございます。なら、アルフレッドさんもどうかサルタイアと」
「はい、サルタイアさん」
お互いフランクに行くつもりだったのが更に固くなり、そのやりとりに二人して同時にくぐもった声で身を屈める。
「あっは、そういえばサルタイアさん、僕たち何回もメールでのやりとりはしましたけど、あれはまだでしたよね」
「え、あ、は。なんでしょう?」
「ラインの交換」
その瞬間、サルタイアはくるっと身を翻して口を開く。
「……あーっ!」
木枠まで響き渡った大声に不意打ちを喰らい、アルフレッドも大仰に笑う。そして慌ただしくスマホを取り出しながら何だが互いに可笑しくなって、揺れる画面を突き合わせた。
「わー、そういえば、そうだった!何ですっかり忘れてたんでしょう!」
「緊張してからじゃないですか? 私も最初に受け取ったメールにびっくりして色々とそれどころじゃなかったですからねぇ」
「ですね、いや、はあ、あのときはお騒がせして」
「いいええ」
頭を掻くサルタイアに対して、アルフレッドは同じスマホ越しに見たその時を思い出しながら愛おし気に目を伏せた。
今から二ヶ月前のこと。ふとしたときに見知らぬ名前と懐かしい名前に激しく心が揺れた。久しく名前を言うことさえ憚られていた伯父の名前、彼とナミビアオリンピックを通じて知り合ったと名乗る同い年の青年は、彼との交流を通じてある驚くべき一端を知ったと語った。
それは、彼の伯父であるアーサー・ベリャーエフと目の前にいる彼の姉は、実は今から十年前に知り合っていた仲だったということ。それは彼のムンダネウム紛争と関わる大事であったということ。
それをきっかけにサルタイアは姉に声かけ、更に大勢が巡り合った物語を知ることになる。二人の身内が深く関わり合ったムンダネウムという組織の有り様と、サルタイアも会ったことがある美青年ジョージ・キッドを巡った悲劇。それに伴って知る様々な人たちの思いや人生を辿り、やがてサルタイアは一大の物語をより詳しくまとめていきたいと志すようになったという。
「それが、ムンダネウムの創立を書いた父を持つ、私の運命でさえ思ったのです」
数回のやりとりを経て、サルタイアは語った。それを言うまでどれだけの葛藤と自責があったことだろう。それでも運命を受け入れて貫く覚悟に、アルフレッドはサルタイアに貴族としての矜持を見た。
ただ、物語をまとめるにあたって、サルタイアは姉であるリオーナこと、カメラウーマンキティと名高い彼女から大事な助言を受けた。「まずは外堀を固めてからにしなさい」と。
決して良いことばかりがあったわけでない物語。当事者にいきなり見知らぬ相手が問いかけたところで純粋な思いの儘語ってくれることはないだろう。だからまずは、当事者の家族、中でも当時子どもだった世代から声をかけてみれば良いと。新緑の峰々を背後にカメラを胸にかけ、椅子に佇む彼女は続けた。
「親世代が密かに抱えている秘密を、知りたいと思っているのはきっと貴方だけではないわ。貴方がそうであったように、彼らにも燻ぶっている思いを貴方でしか知り得ない言葉で刺激してみなさい。やがて彼らがそれに向かい合ったとき、自ずと当事者たちも次世代のためにと、重い口を開いてくれるはず」
貴方に声をかけてくれたわたしのようにね。と、白枠からのぞく新緑の靡きを背後に寂しげに微笑んだキティに、サルタイアは密かな胸の疼きを思い出し、日差し照り返った悲しみの涙に瞬く瞳と同じ色は、徐ろに閉じていく。
「何たる悲壮なほどの……カメラウーマンとしての誠意であろう。お姉様。やはり貴女こそ貴族です」
口にしたら彼女が嫌がる言葉を、どうしても思い浮かばずにはいられない。それとともに湧き上がる、決して許されぬ、決して叶わぬ思いも一緒に押さえた胸の内に留めた。
その助言の通りに、教えてもらった姉の情報から、最初に声をかけたのがアルフレッドだった。アルフレッドも大いに協力することを約束し、こうして二人で協力し合いながら遂にこの場は作られた。
配膳が終わって給仕たちも後退り、鮮やかな料理をまじまじと眺めつつ二人は満足気に向かい合う。
「さあ、後は招待者を待つだけですね」
「ええ、開始時間まであと10分。はて、一体誰から来るのか……」
伯父からもらったブレゲの腕時計を確認するアルフレッドの一方、サルタイアは左脇の木扉から迫った気配に緊張と好機に背筋をのばす。
「あ……!」
途端に響き渡るノックの音。徐ろに開かれた二重扉の奥から、、ウェイターたちに案内されて出て来たのは、胸元を大きく開いた淡いピンクのドレスを纏い、セットアップした巻き毛の金髪の房を両耳に僅かに垂らした女性が、赤いヒールを鳴らしながら二人に手を振って来た。
「こんにちはー! 今日は招待してくれてありがとうー!」
真珠の髪飾りが照明に煌めくとともに爽やかな笑顔で挨拶する最初の招待客。明るい声につられて二人も歯を見せて笑う。
「ようこそ、来てくれました!……えっと、レイさん、でしたよね!」
「ええ、そうよ。貴方はサルタイアさんよね! はじめまして!」
長い脚を澱みない足取りで歩み寄り、サルタイアと少し早い握手を交わす女性は、英雄としてNYに語り継がれる殉職警官、アレクサンドリア・スミスの一人娘レイである。16年前、父の墓の前で泣いていた少女は22歳の大人の女性となり、二人と変わらぬ背丈となって華やかな笑顔を見せた。
アルフレッドに続きサルタイアの意思に真っ先に答えてくれたのは彼女であった。彼女もまた、幼い殊に事件で父を亡くしてからは、「どうして父は殺されればならなかったのか」と、ままならない世界の一端の正体を探し続けてきた。そしてサルタイヤよりもずっと前から、そのパイプを繋いできたのだ。
「貴方も早くいらっしゃいな」
アルフレッド手を取り合いながらも、ニヤニヤして彼女が見遣る先には、扉から丸みのある顔をおずおずと覗かせる蝶タイ姿の少年がいた。その赤毛交じりの金色の直毛を少し量の多いバームで固めた八の字眉、そして何より目を惹く赤い頬からサルタイアが指を差す。
「あれ……もしかして、アレキサンダー君!?」
「あっ、いや、そうっスけど……いきなり何スカ馴れ馴れしい」
少年はふてぶてしい口調で答えた。頬を膨らまして目線を避けようとする彼を、レイが遠慮なく袖を抱いて引き上げる。
「そうでーす! 彼こそ私の父さんの名前を引き継いだ、アレキサンダー・ヴォス君、でーす!」
大仰に手を差し伸べて紹介した彼女に、アルフレッドもおおと歓声をあげた。
「わぁ! すっかり大きくなってー!」
「いや、親戚でもないんスから!」
ますます眉を顰める少年の気持ちも知らずに、成人の若者たちは駆け寄っていく。
「だって私たち、貴方の赤ちゃんのころの話しか知らないんですもの!」
アレキサンダー・ヴォス。今から16年前に起こった一大騒動、NY市警とFBIの抗争の最中に巡り合ったFBI捜査官ポール・ヴォスとNY市警刑事のメアリーとの一人息子である。当時赤子だった男の子は今は16歳となり、母親譲りの小柄な身体に不慣れな燕尾服のぎこちなく整えている。それをサルタイアは「タイも曲がっていますよ」と両手で整えてあげながら振り向いて言った。
「にしてもレイさん。驚きましたよ。まさか、彼と幼馴染だったなんて……」
「ふふっ、メアリー姐さんが彼が生まれたときに、私たち家族に紹介してくれたんですよ。それからアレックスとはずーっと、姉弟みたいなものだわ!」
割り込んでは遠慮もなく彼の腕を抱き、自らの豊満な谷間に押し付けて屈託なく笑うレイ。それに対してアレックスは再び頬を膨らまし、ぶーっと息を吐いてはふてくされる。頬がより赤くなっている様子から同性故に察する他の二人。お互い肩をすくめながら笑い合ったのだった。ただ、サルタイアが「羨ましいですね、それでも貴方たちは本当に繋がってはいないんだから」と呟いたことを、アルフレッドは無意識に聞かないフリをした。
じゃれあう幼馴染を穏やかに見守っている間にも、次々とタクシーのエンジン音と合わせて人の気配を感じ取る。それにサルタイアはアルフレッドの案内で入口の木扉から回り込み、テラスから外を覗き込めば、脇道に止まったタクシーに気付いた。
タクシーの扉がウェイターによって開かれれば、逆光に陰った座席からさらりとサロンの裾が滑る。赤とオレンジの細やかな装飾が美しい重ね着から現れたのは、褐色の細長い腕。その颯爽とした仕草に見た者たちはどきりと胸が高鳴る。ウェイターに手を引かれながら新緑の芝生を赤いサンダルで立って現れた女性は、腰に巻いたスレンダンを掠める艶めいた黒髪を靡かせ、長い睫毛が覆う大きな双眼が立ち尽くす男たちを捉えた。
小さな褐色の顔に黒真珠のように煌めく瞳が、白眼とともに潤みを帯びて瞬き、ひかれたアイシャドウも星粒の如く彼女の瞳をより煌びやかに縁取っている。薄くも形が綺麗な唇はふっくらと厚みのあるオレンジのグロスで縁どられーー、少し下がった眉でほっそりと微笑めば、白い歯が均等に覗くとともに、星粒が黒髪のゆらめきに舞い上がったかのように輝く。
小柄ながらも華奢な体型が服装に映えて、ピンクのネイルで整えた長い手指を揃えて添える佇まいは、さながらモデル写真のように思え得た。
「あー! 貴女もしかして!」
見とれてしまっている燕尾服二人の後ろで、レイが大きな声をあげた。気配に気づいた彼女が星を飛ばしながらぱっと目を開くと、途端に覚束なく曖昧に微笑んでは身を屈めた。その一つ一つの仕草の変化にも男たちが動じているのも知らずに。
「あっ、あい。アリイシャでう。はじめましで」
突然、発せられた特有の癖から、瞬時に目を覚ました面々はしまったと口を開く。
「あっ、大丈夫でうお。これありまつから」
と、彼女も慌ただしく指を鉤状に曲げて耳のあたりを差すと、彼女の美しい顔立ちを更に映えさせるイヤリングかと思っていたそれは、彼女の耳まわりを覆う補聴器であることに気づいた。
「これで なんつか 聞き取れまつ。 後は私の話し方さえ おかちくなけりゃ」
申し訳なさそうに身を屈む彼女に、アルフレッドは咄嗟に首を横に振った。
「そんなとんでもない! そんなこと、全然気にしないでくださいよ!」
大仰な口ぶりでゆっくりと喋るアルフレッドはアリイシャの手をとる。それに続いてサルタイアも頷きながら手を差し伸べた。
「わあ、すげぇ美人……。な、なんなん?あんなモデルみたいな人も俺たちに関わりあったっけか?」
アレックスが前目のりに見蕩れていると、すかさずレイの鋭いツッコミが入る。
「なーに言ってんのよ! あんたのママとパパが出会うきっかけになった事件の当事者でしょ!」
「え……まさか、うちらの両親が獲り合ったって言う、あの四歳の女の子……!?」
「そーよぉー!」
気付いた瞬間から徐々に目を開いて驚くアレックス。アリィシャの今の姿に口を覆って思わず呟く。
「マジかぁ……大きくなったなぁ……」
更に大きなツッコミを喰らうことになったのは言うまでもない。
かつて、眼下に臨むNYを騒がせた4歳の少女は今は20歳の美しい女性となり、長いまつ毛が縁取る艶やかな目配せとともに、再びのNYの空に長い髪をそよがせる。華やかな様相とイヤリング煌めく補聴器を使いこなす様子には、命を奪われかけた9歳から改善した状況をも察せられて、安堵のため息も漏れた。
「まぁ ごんなおめかぢ 今でもそんな めっだに でぎるものじゃない でうけお」
そう冗談を言って笑う彼女の笑顔こそが一番美しかった。
やがて、美女の登場に見惚れて立ち止まってしまった男性陣を咎めるように、アリイシャの乗ったタクシーの背後に同じ型の車がキュッと音を立ててタイヤを擦る。バンッと勢い良く開かれたドアから続いて黒い裾で芝生を滑らす影が両足ごと現れる。そちらも首の付け根まで尖りのないすらりとした長い裾を秋風に靡かせるが、アリイシャのと違って真っ黒である。その身体を中央んに割るように並ぶ同じ色の16の釦、首回り中央から見える白の挟み込み襟から、男性陣は己の理性を取り戻す。
「え、なんでここに神父様が……?」
首をかしげるサルタイアはようやく彼の顔を捉えた。赤褐色の小さな顔に縁の細い丸眼鏡をかけ、大きな黒い瞳を持つ男性。オールバックにした短い黒髪を片指で掻きあげながら、サルタイアの方へと歩み寄る。
「はじめまして。わざわざ僕まで招待してくださって、大変光栄です」
溌剌とした声に、そこでようやく招待客リストとの辻褄を合わせサルタイアの翡翠色の瞳が瞬く。
「……ホセさん!」
「あははっ、その名前で言われるとこそばゆいですね。いつもは愛称の――、」
『ペペ』。南米のペルー、リマで起こった事件に関わった少年。姉から聞いた端々の出来事を寸時に思い起こしながら、サルタイアの開く口は驚きに震える。
「……そんな……あなた、神父様になられていたのですが……!」
「ええ、ガルシア神父様が成し遂げたかった意志を継いで、去年からようやく司祭になりました」
自らのカソック姿を胸に手を置いて恭しく身を屈める青年に、サルタイアは時の流れを思い、鼻を啜らずにはいられなかった。
「それは……まあ、侭ならないことだったでしょう」
「ええ、それはパーティーが開いたときにでも、ゆっくり語らせていただきますね」
「是非……あっ、そういえば、姉に金色のイエス様のチェーンネックレス、あげたの貴方なんでしたっけ!」
「ですです! わーっ!懐かしいなあ! と、いうことはキティさん、今でもとっていてくれているんですか!?」
「今でもお守り替わりにと持ち運んでますよ!」
「ええーっ! すっごく嬉しいなあー!」
手を取り合って握手すると、ペペ神父は目を伏せて微笑んだ。子どもの頃、慕っていたかつてのガルシア神父が、自分の街の治安を悪化させる麻薬取引の現場を教会にするという悪事を行っていた。当時、信頼した人の裏切りと神の不信に苛まれながら、ガルシア神父と同じ道を進む少年の思いとは如何ばかりであったか。
今、25歳の青年として青空に映えるカソックを纏う姿に、アルフレッドも背後から尊敬の眼差しを向けられずにはいられなかった。一方、ペペ神父はすぐ脇にいたアリイシャとも挨拶を交わしたが、眩い美女を前にして、その眼差しは男たちと話したときと変わらない。そこにも改めて「流石、聖職者」と感嘆の息を漏らすも、今度はレイが「そうじゃねーだろ」とアルフレッドたちにも鋭い突っ込みを喰らわせたのだった。
こうして招待客が次々と訪れ、賑やかになってきた会場を更にどよめかす事態が待ち受ける。
次の招待客は徒歩でやって来た。「近所」から来たであろう雰囲気を漂わす、きなれて履ぺたんこな赤のカンフーシューズで坂道を登る、手持ち袋を両手で抱える女性。
新緑色の満州服のスキャットからは白いズボンがのぞき、ボブカットの黒髪とともに可愛らしい笑顔で首を傾げ、パーティーの様子をのぞきこみながら手を掲げる。
「こんっにちはー!」
割り込んできた大きな声に少し無遠慮な気配を感じつつ、目をぱちくりとさせた様子からは悪意の欠片もない。それに振り向くサルタイアたちも無意識に笑顔になって迎えた。
「大麗さん、小麗さん!」
すると、金の刺繍煌めく満州服の脇からひょいともう一つ小さな顔が飛び出した。顔色の悪い顔に真っ黒なアイラインをはみ出るまで描き、紫のラメアイシャドウが黒黒しい程に目の周りを覆い、すぼめる唇はクランベリーのように濃く縁取られている。腰までのばした黒髪に絡む真っ白なメッシュと合わせて、スカル柄のタンクトップからはガリガリの胸の骨がのぞき、子鹿のような脚にはジャラジャラとチェーンも吊り下がっている。あまりにも場を弁えていないパンクロックな出で立ちの睨みに、燕尾服の男たちは唖然とした。
「ああ、ごめんなさいねぇ。全く似てなくなったでしょう」
先の女性の方が彼女の肩を引き寄せて抱く。その揃った顔を左右に捉え、絶妙に似通った容姿であることに気づき、更にサルタイアは震える指を差す。
「えっ、えっ、えっ、ふたっ、双子……」
「そうですー。全く妹の小麗がお騒がせしましてぇ」
一方のびのびした声で妹の両肩を掴む姉の方は、身をかがむと満州服から深い陰影のある膨らみをうかばせる。それに妹はますます唇を尖らせるのだった。
大麗と小麗、かつてチャイナタウンで名をはせた、伝説の柳葉刀使い杓高珊の親戚であり、柳葉刀事件の主犯、林文棋の双子の妹である。かつては全く同じ容姿、同じ色の満州服を靡かせ高燐の狭い店内を駆けまわっていた少女は、今は21歳の女性となってそれぞれの歩みを刻んでいた。
「私の方は高燐の跡継ぎ料理人として修行中なんです。忙しく準備が出来なくてごめんなさいねぇ」
おっとりした言い方で豊満な胸に手を置く姉の大麗。その指は火傷の水ぶくれで一杯だ。
「おお、料理人ですか。それは凄い」
「兄の方はお手伝いをしてもらっているんですよぉ。男と女が逆転してるなんて言われてますけど、もうそんな時代じゃないですしねぇ」
「全くです。お兄さんも無事に復帰されて何よりですよ」
「ええ、そしていつか私が跡を継いで親父さんが引退されたときには……、ヨーナスさんの出禁を解消したいと思っています」
穏やかな口調から突然神妙に出てきた名前に、サルタイアも無意識に顎を引いて構えた。
「あっ、ヨーナスさん……ですか……」
翡翠の瞳が映す動揺に、大麗は気まずそうに目を伏せて避けつつもはっきりと言い切る。
「親父さんの気持ちを慮れば仕方ないんですけど……、当時幼かった私の目からしても、姐さんがヨーナスさんの今いる立場を当然と思っているようには……どうしても思えなくて……」
大麗は三つ編みを靡かせながら彼を語る美しい少女の笑顔を思い出し、熱くなった目頭を指で押さえたのだった。サルタイアが寂しげに肩を優しく抱いて慰める脇では、妹の方が自身のライブ動画をスマホで見せながら、アルフレッドとペペ神父とで盛り上がっている。はしゃげた声を脇目に見守りつつ、二人は穏やかに微笑みあって固い握手を交わしたのだった。
続いての招待客は、レンタルサイクルに乗り、颯爽とストールを靡かせる青年だ。日差しから顔をひしゃげども太眉ながら整った形の眉毛と彫りの深い眦によって麗しい顔立ちは霞まず、彼に気付いたアリイシャたちの胸を高鳴らせる。一方で彼の方はひしゃげた視界から僅かな黒影を捉えては、大仰に浅褐色の両手を離し腕を振った。
「おおーい! 真打の登場だぞー!」
大声をあげ目を開けばルビーのように赤い瞳が瞬く。一方でアルフレッドの方はそこで「うげえ」と、懸念の声をあげた。
「うわあ、本当に来ちゃいましたよ」
「そりゃそうでしょう。彼も招待したんですから」
あっらかんと答えるサルタイアにも同じ目を向け、アルフレッドは唇を尖らせる。
「とはいえ、ですよ。サルタイアさんもサルタイアさんです。よくまぁ誘ったものですよ。だって彼とはつい去年本気で殺し合った間柄なんでしょう?」
そこでぺぺ神父も「えっ」と、声をあげて引いた。
「いやー終わった話ですしー、彼も彼とて然るべき罰は受けた後なんですから……」
「気持ちの問題ってのがあるでしょう。私だったらどんな後処理がされたって、彼とは二度と会いたくないものですよ。そして彼も彼ですよ。いくら誘われたからって……よくまぁあんな堂々と……」
けたたましい音が響いてアルフレッドは肩を震わせた。すると、芝生の上に放り投げられたレンタルバイクがカラカラと乾いた音を立てて車輪を回している。それを飛び越えた青年が両手をのばしてピースサインをしながら、擦り切れたサンダルで真ん中から会場へと踏み込んで行く。
「イッエーイ! カマラでーッす!」
ピースサインを突き上げて乗り込み、当たりをぐるぐる見渡しながら口笛を吹く彼に、アルフレッドはますます呆れて口を開いた。まるで家着のようにダボついた紺のスウェットと白いTシャツに、深緑色のストールを纏う彼の姿はいくら無礼講といっても相応しくない。最年長の29歳ながらも誰よりも子どもっぽいあるがままの姿を見せつけ、赤い瞳が目を惹く端正な顔立ちであるも、さっきまで息を呑んでいた女性陣も呆れのため息を吐く。ただ一人、その一つ一つの表情の麗しさにときめき手を組むアリイシャをのぞいて。
「カマラさん、ようこそいらっしゃいました」
そこでサルタイアも、屈託のない笑顔で手を掲げる。カマラはその気配に一瞬殺気を発したが、睨んだ先に見る翡翠色の瞳があまりにも綺麗だったのに、ふつと笑みが零れる。
「おうおう、サルタイアのぼっちゃんよ、あんたも随分酔狂だね」
不躾にサンダルの底をキュッと鳴らしながら踏み出していく。それにアルフレッドは咄嗟にペペ神父の背後に身を顰めた。
「ほんっと、つい一年前まで俺とブツ突き刺し合った野郎と思えねえなあー! なあ!」
にやけるサルタイアの頬を悪戯っぽく捻りながら彼の肩に腕を回すカマラに、「それ見たことか」と、ツッコむアルフレッドであったが、「やめてくださいよ~」と軽々しい様子でなすがままにされているサルタイアの余裕に、アルフレッドは更に慄くのであった。
「まあ、それが貴族の器ってものなんですかねえ……」
間に挟まれるペペ神父がぼそりと呟いたが、背後のアルフレッドが裾を強く掴み「それは絶対違います!」と、大声をあげた。
しばらくサルタイアと肩寄せ合うカマラであったが、本能的に自身が向けるべき気配を感じ取る。太い眉をあげた先には――、ウェイターに案内されて恭しく扉から会場に入ってくる細長い影があった。
長い黒髪をハーフアップに、耳から垂れた一房を慎ましく揺らす女性であった。灰色のロングドレスを靡かせ、ざっくりと開かれたところからは浅褐色の胸の谷間がのぞき、その凛とした眼差しと佇まいが、細長いシルエットとともに上品に魅せる。
厳かな屋敷の天井に戸惑い、それでも強かであろうとする、鋭くも切ない眼差しが、見開かれた赤い瞳にかつて望郷を映し出した。なつかしい澄んだ空と息を詰まらせるほどに日々の視界を覆ってきた、礫の山が連なる刃のような白い尾根。二人の間を靡く風の香りが互い捉える姿をはっきりと見せる。
「え、嘘だろ……お前、もしかして……グールか……?」
震える指が彼女を差す。すると、ウェイターが退き明かになった彼の姿に、グールと呼ばれた女性も涙ぐみながら、ほっそりとした顔をあげて唇を引き締めた。
「十年、ぶりね……! カマラ兄さん……!」
懐かしい唇の辿りに溜まらず、嗚咽も漏れ出してしまう。
「覚えていてくれたのね……! ありがとう……!」
彼の元に駆けつける前に――、思いが極まり彼女は顔を手で覆い泣き崩れてしまった。彼女はかつて、パキスタンのギルギットで、カマラとともに貧しい子ども時代を過ごした少女だった。カマラを追い駆ける武士をそそのかして襲い、留められたときに泣きながら自身の境遇ともに呪詛を履き散らした少女。27歳となった彼女は今まで隠し通したそのときの感覚を思い出す。
一方で、大股で駆け寄りながらカマラは彼女の骨ばった肩を抱く。
「えっ、なんで、なんでお前もここに……? てっきりお前は……ギルギットの方で……」
「そうだったはずだわ。でも、貴方が捕まったあとに私たちもNPO団体に保護されたのよ。そこで私、運よく職員さんの親戚の人に養子として引き取られて、今はイタリアにいるのよ。それを……あの人がね……!」
そう言いかけて、ますます泣いてカマラの腕の中に蹲るグールの代わりに、カマラは抱き返しながら徐に振り返ると、サルタイアは後ろに手を組んで頷いていた。
「彼女の招待も、私の姉が手配してくださったことですよ」
そこから赤い眦が更に大きく見開かれるとともに――、目頭が熱くなって、溶けるように涙が滲んできた。抱いた身体の厚さと重さが、あの閉じ込められた世界から逃れた彼女の人生に思いを馳せ、そして流れそうになる涙を隠すために、カマラは強く彼女の肩に顔を埋める。
「グール……ほんっと、良かった……! そういや俺……! 自分のことで手一杯で何にもしてやれなかった……!」
「ううん、貴方の施しがなかったら、とっくのとうにいなくなっていたのは、私たちの方よ……でも、本当はそんな役割を子どもの貴方に負わせるのは、本当に良くなかったわよね……ごめんなさい、私もごめんなさい……!」
指の隙間から涙を零しながらもグールは彼を見上げた。かつて共に過ごした理不尽な世界の在り様を、大人になった互いの顔を見つめ合いながら確かめる。
「だって、私もね……! ギルギットに残った他の子たちのこと……何にも出来なかった……!」
「それだったら、また、こいつに任せて居所を突き止めよう。またみんなと会える日作ろうな……!」
サルタイアへと親指突きながら、しっかりと抱き返して答えるカマラに、いよいよグールは声も出なくなって蹲りながら嗚咽の狭間で頷いたのだった。
訳を知らない周りの者たちも、二人の邂逅が如何ばかりのことであったかを慮り、おとなしく見守っている。その中でアリイシャだけが突然現れた彼女の登場に慌ただしく汗を散らしていたが、彼がグールを抱きながら見下ろす眦の緩みから、「あっ」と声をあげて咄嗟に察する。それは先に考えた恋敵というよりは――、まるで家族、それも妹を見ているような慈しみを滲ませていたからだった。
いよいよ開場のときが始まる。
ウェイターたちが食前酒のシャンパンを招待客に配膳し、未成年のアレキダンドリアとイスラム教徒のカマラとグール以外がその手に持ち始めたころ、それでも未だ合図をしないサルタイアへ、憮然とした面持ちでグレープジュースを選んだアレキダンドリアが言った。
「あれ、まだ始まらないんですか?」
それにすかさず、シャンパンを掲げ持つレンが答える。
「だって、本当の真打さんがまだなんですもの。流石に彼が居なくっちゃ始められないわよ」
「本当の真打?」
「うん、最後の招待客。仕事あがりって聞いていたから、きっと遅くなっちゃうわよね」
辺りを見渡しつつ笑みを零したレイに、アレクサンドリアはお腹を押さえながら首を傾げた。すると、ふと外の方へ見遣ったときに、レイの金髪が風とともに揺れ動く。
「あ……!」
風が伝えるその気配は開かれた窓向こう――、摩天楼を背後に黒髪の靡きでもって捉えられた。碧色の丘の縁から少しずつ明らかになっていく姿は、きっちりと固めた黒髪をほぐされ、苦々しく手にかけながら微笑む青年だった。着慣れたパーティースーツのジャケットも整えつつ、節ばった拳を振りながら屋敷へと向かう。僅かに開かれた切れ長の眦とともに、伏せた睫毛の隙間から艶を翳す黒い瞳が浮かべば、僅かな身長の不足も全く目立たない大人の風情が現れる。ずっと背のあるサルタイアの方が、緊張に背筋をのばして声をあげた。
「つ、遂に……!」
「タケシさん!」
そしてアルフレッドも思わず身を乗り出した。
「タケシお兄ちゃん!」
アリイシャもぱっと黒い瞳を輝かせながら彼の名を読んだ。懐かしい疼きに溜まらず裾を持って駆けつける。
「タケシお兄ちゃん! 十年ぶりだね!」
それに初めて気配に気付いた青年――、武士がふとそちらに首を向けると、まるで日差しと言う名のカーテンの向こうから飛び込んだように、アリイシャに向かって走り出す。10年ぶりの再会でもすぐに気付いた聡明さは、彼に細やかな笑みを浮かばせた。
「お、アリイシャ! アリイシャだな! 久しぶりー!」
尖る喉仏を鳴らし紡ぐ声は低く深みのあるものとなっている。それがまた甲高かった当時の少年は今は26歳の大人となって、誰よりも深い経験を交わしたものとしての風情を魅せる。
彼はかつてカメラウーマン、キティの相棒として世界を駆け巡った男子高校生、鈴木武士だ。今ここにいる誰よりもムンダネウムを巡った真相を知っている者として、サルタイアは言葉を交わす前に尊敬の眼差しで捉えていた。
「アリイシャ、お前喋れるようになったんだな! しかもそんな、大人になって……!」
「そういうお兄ちゃんは、あまり背わ……変わらなかったようつね」
「よせよ、これでも一応8cmはのびたんたぜ」
手を取り合ってかつての姿を比べ合うやりとりとともに、武士は手を掲げて笑う。当時であったらきっとふてくされていたであろうが――、時の流れは少年を大人に変えた。
「対してアンタは、随分と背が伸びたなぁ」
いたずらっぽく彼女よりも頭ひとつ分上の額に手をかざす彼に、アリイシャは眉を下げつつ微笑んで答えた。
「もうっ、そりゃ9歳のころからはのびつたわよ」
互いに目配せてかつて新緑の熱帯雨林に翳し見ていれば、やがて脇からサルタイアが手を組みながらおずおずと丘から下ってきた。それに気付く切れ長の瞳が、円なアリイシャな瞼を超えて翡翠の瞳を捉える。懐かしい疼きが十年経っても新鮮な心地となって蘇る。
「……あんたが……」
「はい……! サルタイア・ビアトリスです……!」
彼女の姿を思い起こした目配せが、想像していたよりも男らしい声でもって打ち消された。名前にも、自分よりも頭ひとつも上の姿にも、彼女を思い起こすものは何もなく、陰りの瞳が日差しによってかろうじて瞬いていた。ただ一つ、彼女と同じ色の瞳をじっと見る。
武士とサルタイアはそこで風が導くに合わせて、斜めに避けたアリイシャを間に硬い握手を交わした。
「こんな巡り合いもあるもんだな」
「本当に、私、貴方から色々と聞きたいこと、たくさんあるんです」
すると、丸い瞳を潤ませて唐突に感極まった声を出す。
「そんな畏まらなくっていいって。俺もちゃんと話すし、あんたからも聞かせてくれよ」
解すように微笑む武士に、再び上擦った声で「はい」と答えるサルタイア。それに武士は彼の肩腕を掛けた。
「だから良いってば。そういえばよ、キティの方は最近どうよ。新しい恋人とか出来たか?」
そっと耳打ちしながら、武士は突然本人の前ではとても言えない男同士のやりとりを仕掛けた。サルタイアはひゃっと肩を躍らせながらも寂しげに俯く。
「まぁ、もう有名人ですからね。こっちの気も知らずに、色んな人たちと危ない橋渡りまくってますけど……そういったのだけは頑なに受け付けないんです。……未だに十年前の写真を眺めながら、部屋の隅に閉じこもっているときがありますよ」
その答えに、武士も同じように僅かに眉を顰ませながら目を伏せ、呆れたように口角をあげる。
「そう、か……美しいままいなくなったものってのは罪深いものだな」
肩にかけた腕で額に手を翳し、深い吐息を漏らす武士に、申し訳なさそうに肩を萎縮するサルタイア。すると、丘の上から次々とかかってくる声へと答えるため、武士はそっと腕を離した。通り過ぎる間際に彼の肩を強く掴みながら。その横顔から「それについては、またゆっくり一緒に語ろう」と語りかけたのを察し、サルタイアは愛おしげに芝生を見下ろしながら、己の肩に触れたのだった。
さて、アリイシャの手にとられながら武士が芝生の丘を上がれば、屋敷の入口手前にはアルフレッドが待ち構えていた。
「ようこそ、いらっしゃいました……うぐぬぅっ」
言いかけところで突然、彼の肩に乗ってきた肘に頬を突かれて呻き声をあげる。
「よぉ、ブリ・タケシ」
「俺の名前は魚じゃねえっつの!」
つついた腕でピラピラと手を振るカマラへ、途端に武士も片眉あげて答えた。
「ほお、なんだい。ここでもうカマラァァァ!? なんて叫んじゃくれねぇの?」
そうして皮肉っぽく嗤うカマラには、逞しい脇腹を手の甲で小突きをお見舞いする。
「ばっか。あれから何年経ったと思ってんだよ。そういやあんた、身体以外は十年前とは成長してねぇんだな」
「おっ、言ったな? そーゆうお前は大人になっちゃぁいるが、身体はそのまんまなんだなぁ? その洒落臭え服もまるで人形飾りみてぇだぜ?」
「んだと? これでも一応8cmはのびたんだぞ」
「俺、11センチー!」
睨み合う黒い瞳と赤い瞳の閃光を見上げながら、アルフレッドが馴れ馴れしいやりとりに慌ててそれぞれを指差す。
「えっえっ、えっ、何? 貴方たち前に会ってました?」
「「いや、十年ぶり」」
途端真顔になって同時に答えた二人へと、何のことやらと頭抱えるアルフレッドであった。新調に煌めく床板を黒い裾を滑らせながらペペ神父が軽快に歩み寄る。
「タケシお兄ちゃん!」
10年越しの再会を臨むように大仰に手を振る神父に、武士は目を輝かせた。
「ぺぺーッ!」
先までの深みのある声から、突然溌剌とした勢いを為すあどけない笑顔に、見守る彼らにかつて鶯色の制服を着た16歳の少年を思い浮かばせたのだった。
こうして、拍手とともに迎えられた最後の招待客をもって全員が揃った。いよいよメインミュージックのラフマニノフ第二交響曲が流れ、屋敷のオープンテラスも一旦閉じられる。そこで全員が囲ってグラスを手に持った。
中央に立ったのはサルタイア、アルフレッド、武士。本来なら挨拶に立つのはサルタイアの筈であったが、一歩踏み出そうとした彼を目配せで留め、含み笑んだ顔を伏せながら武士の方が歩み出る。
「さて、ここに集まる参加者の皆さん、カメラウーマンキティとともに世界を旅したこの俺が、皆さんの代表としてご挨拶させていただきましょう」
皆それにさもあらんと、頷きながら微かにグラスを上にあげて応える。
「今から10年前、そして15年前、ここにいる者たちの人生に関わった世界の大事の一端を、これから私たちは紡いでいくことになります。その中には哀しいことも辛いことも、含まれていることでしょう。語りたくないこともきっとあるでしょう。私と同じように……」
サルタイアを差し、自身の胸に手を置いて、切れ長の眦は鋭い眼差しを伏せて続く。
「けれど、今、こうして私とグラスを持っているいるということは、それを乗り越えて向かい合うことを選んだ人たちであることと思っています。それは、私と同じように。保身よりも何よりもここに至らせるための――、最も人間的である何かがそうさせたのでしょうか。どうか、いずれその唇が語るときには、貴方を貴方たらしめるそれを是非、分かち合えれば」
饒舌な口ぶりにそれぞれの目に光が宿っていけば、翳されたグラスも瞬く。そのシャンパンを透かした向こうにかつての日々を映して、青年の瞳は僅かに潤みを帯びた。
「そして今日この日は、私たちの家族、兄弟、仲間、恩人が生きた路を、大人になった私たちが辿る門手の挨拶としましょう。私たちという未来のために築き上げた先人たちの路が、多大な幸福に満ち溢れていきますように。そのために私たちが出来ることを、これからも語りあっていこうではありませんか」
シャンデリアの虹色の瞬きへと、全員がググラスを掲げる。
「ええ、そうですね……!」
サルタイアの応えとともに、武士の白い歯が麗しい瞬きを放った。
「それでは、私たちの、そして世界の安寧を願って」
息を呑む音が一斉に聞こえる。そして――、
「「「「かん、ぱーい!」」」」」」
若い男女たちの瑞々しい声が未来の空を押し上げるように弾けた。パーティーが開かれると同時に、再び扉も開かれて、NYの街を見下ろす空が広がる。柔い風が軽やかに会場を通り過ぎ、観客たちを笑顔にさせた。
白いテーブルに並べられた料理に舌鼓を打ちながら、それぞれの好みに合わせて金メッキの皿を彩り、並ぶドレスと合わせて華やかな色を魅せていく。
レイとアレクサンドリアは双子姉妹に駆け寄り、年上同士がまるで親友のように女子トークを繰り広げて笑い合うのを他所に、アレクサンドリアは妹が片手で差し出すライブ映像をもとに、少しずつ少しずつ質問を紡ぎ出す。それに妹は年下の少年いじらしさに、そこで初めて笑みを零した。
アリイシャはカマラと抱き合ったグールを怪訝に見つめていたが、その様子を察したペペに背中を押され、ペペを通じてグールとアリイシャはおずおずと互いを挨拶を交わし合う。
一方で、アルフレッドとサルタイアはウェイターに運ばれた分厚いスクラップブックに目を輝かせていた。それを武士は後ろ手で受け取りながら、颯爽と二人の前に差し出す。
「ほれ、これが当時のスクラップブックだよ。俺も手にとるのは久しぶりだな」
「うっわー! これがですか! すっごい! 本物だー!」
「いや、何を大袈裟な……」
片眉をあげて戸惑う武士に対して、両手で色褪せたスクラップブック受け取るサルタイアはますます高揚した。
「何を仰いますか! これこそ一次資料ってやつですよ! このおかげできっと色々と話がまとまっていけます!」
まるで宝石箱を見るような眼差しで見るサルタイアへ、アルフレッドがワインを一杯飲んだ後に問いかける。
「あれ、サルタイアさん。やっぱりこあれから調べてきたことは小説にするつもりなんですか?」
「ええ、お姉さまが雑誌で書いた小説、『GUNMAN GEORGE』の続きもの、という形でやってみようと思います。調べてきた中には、詳細は避けるように条件付けられたものもありますしね」
「ほお……まあ、それは良いと思いますけど……でもサルタイアさん、小説書けたんですか?」
「う、うぐ……」
素直につっかえたサルタイアに、武士がエビぞりになって親指を突き立てる。
「なら、このスクラップブックを作った俺様に任せておきなさーい」
「確かに、貴方ほどの適任者はいないかもしれないですよね……」
一旦は納得するように頷くアルフレッドであったが、その隠し切れない疼きは、留まらない好奇心を滲み出していた。
「あ、あの……ぼ、僕も……」
「お、何? お前も書きたいの?」
照れ隠しに俯きながらも頷くアルフレッドを阻み、サルタイアも身を乗り出す。
「あ、ずるいですよ! 私だって参加させてくださいよー!」
「おっ、じゃあ共著って形でそれぞれ担当を分けて書こうか?」
「それはいいですね! で、サルタイアさん。どこを隠さないといけないのでしたっけ」
「えっと、K-7の部分は殆どNGになっちゃいまして……」
「ああーそれは」
武士も舌を出す一方で、アルフレッドは更にワクワクしたように盛り上がった肩を揺らしつつ腕を組んで考える仕草をする。
「ほほう、ほう。なら、どうやって誤魔化すか新たな設定が必要になっていきますね」
「それなら、GUNMAN GEORGEのこの設定が活かせられるんじゃないですか……!」
盛り上がる燕尾服の青年たちを他所に、てっきり料理に食らいついているかと思われていたカマラは、パーティーの様子を横目にスマホで電話をしていた。
「ほらっ、どうすっか『兄貴』。賑やかでしょう?」
和やかな会場へ画面を向けるカマラに、スマホから声が応える。くぐもった声から漏れるのは、深みのある、しかし武士と違って酸いも甘いも存分に通り過ぎた柔みをもある男の声。
『……たしかに、微笑ましいですけれど……せめて映像で見せて欲しかったものですねえ……』
「へへっ、俺がそんなハイテクなやり方を知ってる筈がありゃせんでしょう?」
尊大なカマラが丁重な言葉遣いで話す相手、見遣ったグールの瞳には画面に「ヨーナス」の文字を見た。
「で、どーですかヨーナスの兄貴。先の話、乗ってみてはいかが?」
流し目に伏せる赤い瞳はカーテンの影に陰って、にやりとあがる口角の端も黒く浮かぶ。画面を翳して聞かせようとしたのは、武士たちと笑い合うサルタイアの声。
「あの男、相当の手馴れですよ。さすが『あの女』の弟とだけあります。今からでもこっち側にスカウトを仕掛けておくのも良いんじゃないっすか」
「冗談じゃありません」
すると間髪入れずに彼、ヨーナスは否定した。
「私は既に彼女の恋人を手にかけているんです。それに続けて唯一の肉親まで奪うなんて……許されるものではありませんよ」
己への罪を自覚して言い放つ声は、NYから遥か遠くの――、ボストンの赤煉瓦へ放たれた。黒縁メガネが覆う曇り空を見上げるのは、ボストン署の端に立つ壮年の男。「狼」と呼ばれる彼は今日も強い視線を背後に受けながら、懐かしい声に当時を忍ばせて息を吐いた。柔い日照りに目を閉じて、賑やかな様子を微かに感じ入りながらヨーナスは壁によりかかる。逞しい肩から三ツ星の肩章を折り曲げて目を開く顔には口髭と顎周りの髭が覆う。当時の若者から壮年の男としての貫禄を見せる髭は、彼にとってのそれぞれの上司――、ウェッブとマルコムから模ったものだった。
「しかしっすねぇ、ヨーナスの兄貴。そうちんたらしてもいらねぇんじゃないっか。だって蘇ったんたじゃないっスか」
スマホの向こうで、息を呑む音が続いた。
「……あなたもその噂を信じるって言うんですか」
「ええ、だって現に俺だって体験してる」
カーテンの隅へと詰め寄り、耳打ちする仕草とともに赤い瞳が鋭くなる。
「俺がムンダネウムの海でイギリス船に乗り込んだとき、俺たちの船が妨害電波を流して孤立にさせたと調査では言われています。でもね、それっておかしいんですよ」
一寸の沈黙の後に続く。
「だって俺たち、妨害電波なんて流しちゃいねぇんですから。そんな心当たり、全くないんスよ」
ヨーナスがもたれていた壁から離れた。
「……ビデオ電話のやり方を知らない貴方に、そんなことが分かるものでしょうか」
「いえね、兄貴。戦いの際にゃ色んな勘が冴えるってもんさ。それこそあんたにも心当たりってのがあるでしょう」
開かれた黒い瞳が揺らめき、ヨーナスは降ろした指を折り曲げる。
「ねえ、兄貴。こんな風にさりげない風に自分の存在を知ろしめすやり方。まるでそっくりっスじゃないっすか……あの、『女』のやり方に」
「そんな……まさか……」
唇が震える。それはかつて彼が自らの手で斃した存在。彼女の頭を撃ち抜いた獲物は、日差しを吸い込んだ漆黒の造形となって彼の脚に今も、ある。
「違う、違います……。私は確かに彼女を斃した筈……」
握りしめたスマホは、今でもはっきりとその感触を染み付いている。しかし、カマラの声はあくまでも淡々としていた。
「まあ、とは言っても、気をつけておいた方が良いと思いますよ。……万が一のことがあったら、俺もサルタイアも、いつでもあんたのために駆けつけますから」
「その必要はありません」
ヨーナスははっきりと答えた。
「例え新たな事件になったとしても、貴方たちの世代には一切関わらせるつもりはありません。それは全て私たちが請負い、そして終わらせます。だから貴方たちは貴方の人生を全うしてください。誰かに運命を振り回されるのは……私たちだけで充分なのですよ」
また会いましょうと、再会の約束とともに電話は切られた。ヨーナスがスマホを下ろして振り返った先には、数多の知り合いを背後に添え、スキンヘッドになった上司のフェルナンデスが歩み寄る。年によって頬は垂れ下がり、瞼にも幾重の皺が刻まれるようになったが、小柄ながらもしゃんと背をのばし、颯爽とした足取りは10年前のままだ。
「ありがとうね、今年もウェッブの代わりに来てくれて。でも、本当に今日は大丈夫だったのかい。せっかくパーティーの日だったというのに」
ヨーナスは微笑みながら目を伏せた。
「また後日に集まる約束もしてますので。そちらも――、もう古い馴染との挨拶は済んだのですか?」
「うん、まあこっちもまた来年も会えるしね。そうかい。じゃあ、早速行こうとしようか」
そこでフェルナンデスも誘いの手招きをして微笑む。二人並んで歩きながら、やがてそっと身を寄せて神妙な声でヨーナスは言った。
「そういえばフェルナンデス殿、この前伺った昇進の件なのですが」
「ん?ああ? 四つ星のこと? あれは気にしなくていいよ」
陰った廊下の中でフェルナンデスは呆れたように首を傾げた。10年の付き合いと互いに階級が近くなった者同士、まるで親戚のような口ぶりになっている。
「あの話は俺から適当に断り入れておくよ。いやー、上も上で唐突なことを言うもんだよね。いくら成果主義の我が国とはいえ、流石に3、40代で四つ星なんて聞いたこともな」
「いえ、その話、受けさせていただきたいと思います」
「ええ!?」
飛び跳ねるフェルナンデスの驚きを他所に、ヨーナスは颯爽と腕を振りながら前に出る。
「なんで!? さっきまで君だって驚いていたじゃないか!」
「そうでした。でも、今こそ必要になってきたのです」
通り過ぎる間際、己のGLOCK18を掴む。
「これから私はもっともっと、強くならなければなりません。私自身が全てを指揮出来るまでに、そして、これからのことを全て、『私』だけで終わらせられるように……!」
天井へ顔をあげて遠い誰かの姿を思い浮かべながら、メガネの奥に浮かぶ瞳は決意に瞬く。
「ええ、行きますよ、私……!」
踏み越えていく廊下には、窓から差し込むメープルの赤い影が押しなべて、彼の後ろ姿を日差しとともに真っ赤に染め上げていく。まるで血の轍に似た赤い道を進みゆく彼へと、途端フェルナンデスの背中は震え上がって、その脚を勢いよく踏み出していた。
「ちょい待ちな! また悪い癖が出てるぞ! 勝手に俺らを引退扱いするんじゃないッ!」
そして彼もまた10年前と同じ―――、否、このボストンの廊下を駆け巡った遠い日と変わらずに追い駆けていく。
もう二度と、置いていかれはしない。かつて逝ってしまった相棒の姿を求めるように、フェルナンデスはヨーナスの白い袖へと手を伸ばしたのだった。
***
穏やかな時間が流れていく。
頭の中で鮮明になっていく未来に、心地よく瞳を閉じて顔をあげながら、やがてサルタイアは芝生の向こうに聳えるNYの街を見下ろした。青い霧に覆われるように浮かぶ摩天楼と真っ白な雲が広がる光景に目を綻ばせ、柔らかい風がゆらゆらと黒髪を靡かせる。その陰影に煌めく翡翠の瞳は多彩な色を過らせていく。
「私たちも、頑張りますよ……!」
胸に重ねた両手に心の中の剣を握りしめながら、背筋をのばすサルタイア。燕尾服に身を纏って構える姿は、背後のアルフレッドたちに「黒衣の」異名を悟らせる。
やがてパーティーに立つ彼らの高揚に応えるよう、再び風が芝生の草を散らして舞いあがり、これからを生きる者たちの歓声を沸かせたのだった。
終




