あとがきに代えて
CKの本編を終えた後、約一年をかけてこちらの短編集も書き終えました。これでGG、CKに纏わる物語は全て終わります。これ以上彼、彼女たちを書くことがないという喪失感が思っていたよりも大きく、やり遂げた達成感とともに、寂しい気持ちで一杯になっています。
本編、短編と合わせ、約120年単位の時代を駆け巡った長編小説でしたが、ここまで来るのに私も随分と長い日々を過ごしたように思えます。少しだけ思い出話をさせてください。
当時、高校を卒業し18歳を超えたばかりの私は、その中で観た「スピードグラファー」というアニメに大きな衝撃を受けていました。OPは今時の流行りから外れた古い洋楽だったことに驚くと同時に、止めどなく流れるエロック(エロ×ロック)な描写と合わせてハードコアSFでもあり、壮年の男と女子高生との恋愛ものでもあるという、何でも詰め込んだ話をたった1クールで納めたアニメに、深いインスピレーションを受けました。ただし、「要素を詰め込み過ぎる」、「癖が強すぎる」、「あまりにもカオスすぎる」という批判も多く、今では「ゼロ年代のマニアック的人気アニメ」という位置づけになっています。
それでも、どうしても頭から離れなかった私は、ある日、38度の熱を出し朦朧とした中で、スピードグラファーのストーリーを自分好みのキャラクターに置き換えて想像するという遊びをしていました。(熟睡は既に超えて目は冴えていたのです)舞台は好きな洋画の舞台であるNYにして、主人公のカメラマンは女性にし、そこで出会ったのは女子ではなく、男子高校生にして出会うというストーリーにして……。
するとそれが思った以上にノってしまいまして、自分の物語にしたいと願うようになりました。それがキティと武士の原型です。(流石に大人と子どものカップリングは出来ませんでしたが……)そして、二人を執拗に追い駆ける銀座ひばりさん(スピードグラファーの中で一番好きなキャラでした)的立ち位置にジョージが浮かび、そこからどんどんスピードグラファーのストーリーを超えてヨーナスやアーサーなど新しいキャラクターも作られるようになりました。そこから、当時(今も)興味があった世界情勢を含ませ、同時期に好きになったもう一つのアニメ「 Serial Experiments Lain」からサラのキャラクターも構想に入れました。大学生の講義で学んだワイマール共和国の政治史にも興味が出て、ゲオルクを通じて大戦以前のストーリーも入れてきた結果、90年代風バトルアクション&SF&社会問題&政治紛争&歴史&恋愛という、正にスピードグラファーになぞった通り、全て詰め込んだ長編作品が出来あがった次第です。
勿論、話が破城することのないように書いていきましたが、商業ではとても書けない、現実と照らし合わせた展開や、そして自分の好きや思いをふんだんに込めました。荒波の中で社会人の一人として生きる自分には、この物語は必要でした。そして、作品を読んでくださる方もいらして、私は大いに救われました。ここで改めてお礼申し上げます。本当にありがとうございます。
120年の時代とおよそ100人を超えた人たちの、世界を廻った物語はここで終わります。私たちの世界はこれからも続きますが、その一端として彼、彼女たちの物語が読んだ人の糧になれたのなら、これ以上の幸せはありません。そして私の方は、『完全版』という形で再び長い推敲の旅に向かうとします。
その節目として、最後のご挨拶をさせていただきます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
2024.11.1 根井舞瑠
ここから先は、短編集最終回の結末にそぐわない後の展開が書かれています。最終回の余韻のままでいたい方は、閲覧をご遠慮ください。
***
ムンダネウム紛争から18年後。そのときから変わらない造形を留める真っ白な塔――、アウトルックタワー。その最上階にて二人の男女が初めて握手を交わした。
一人はラフなシャツの袖と長い黒髪を靡かせて駆け寄る、褐色の肌が満ち満ちと張った美しい女性。もう一人は灰色の薄いカーディガンを靡かせて歩み寄る、真っ白な短髪と同じ色をした粗削りの造形が印象的な老人。
女性の名はアリイシャ・ドスダムと言った。男の方はこの塔の主であるアーサー・ベリャーエフと名乗った。互いに初対面であった筈だが、まるで懐かしい邂逅も果たしたような眼差しで見上げ、また見下ろして握手は長い間続いた。30年前のNYで歯車がかち合えば出会っていたかもしれない二人。知っている者から互いのことはよく聞いていた。
やがて、中央に用意された半円状のソファに腰掛け、膝に手をついては二人は緩やかに語り合う。
「話に聞いたことだと、貴女はまだ幾ばくかない少女でしたから。まだ同一人物だとは見えないものです」
「ふふふ、なんたつて、わたし38になりまちた。もう子ども5人もいるんでつお」
「それはそれは」
それからアーサーの灰色の瞳は、ソファの中央にちょこんと座る少女を見る。二人の会話に全く耳を貸さずガラス張りにされた一面の景色を眺めている彼女はアリイシャの長女である。並ぶ母娘はまるで姉妹のようであったが、やはり時の流れはその事実として、アリイシャの筋張った手の形に気づかせた。その手で長い前髪をかきあげながら、今度はアリイシャがまじまじとアーサーを見る。
当時より血色が良くなっていたと聞くが、彼も時の流れには逆らえず、鋭い灰色の瞳を覆っていた瞼は深く窪み、下瞼には幾重の皺が刻まれては陰影が否応なく目立つ。真顔のままでも目尻と額の皺も消えず、頬の皺もくっきりと見えるようになっている。短髪のままで良かった髪はオールバックで掻き上げないといけないまでに薄まった。
それでも、当時と比べてシミが目立たない色白の肌は乾きながらも変わらず、オーダーメイドした30年前の服は、今日も袖の先までピッタリだ。
「私もすっかり、おじいさんになりましたよ」
微かに嗄れた声とともに、彼女より血管の筋が浮かぶ白い手の甲を見せると、アリイシャは「お互いにここまで長生きできたのは奇跡でつよね」と、微笑んだ。それにアーサーは首を振り、「それは私だけのセリフですよ」と、言った。その間際に彼の右頬を斜めに裂く深い傷が真っ白に光を受ける。それを見た娘が太い眉を顰める。
「ねえ、ママ。本当に大丈夫なの?リーダーの顔がこのまんまなんじゃ、ママの手術ってうまくいくの?」
「コラッ! なんつてことを言うの!」
小突いたアリイシャをアーサーは手を掲げて抑えつつ、解した口調で娘に諭す。
「違うんだよ、お嬢さん。この傷はあえて残してるんだよ。……けじめとしてね」
「ああ、国を裏切ったことへの?」
「だーかーらー! もうっ!」
騒がしくなった母娘のやりとりに、少々面くらってアーサーは顎を引く。浅褐色の肌に毛先の尖った黒い髪と、そして鋭い指摘をズバズバと突きつける堂々な態度の少女。太い眉毛の間近に位置する眦を見直しながら、遠い日を思い浮かばずにはいられない。
もしその瞳が赤かったならば、彼女は父親とそっくりなのだ。かつてアーサーに銀色の刃を突き付け、殺意の瞳に睨んだときのことが過り、当時と変わらない灰色の瞳に影は落ちた。
アリイシャは何も、アーサーに会うためだけにムンダネウムに来たのではない。彼女は主婦業と子育てを兼ねながらイラストレーターとしての仕事を勤め、夫からの後押しと村人たちからの支援を経て、ついに手術を受ける機会を得るのだ。それは、耳の器官移植、正常な機能を人工生成した器官と取り替える手術でもって、遂に彼女は耳が聞こえるようになる。二十年前では到底あり得なかった偉業が、このムンダネウムにこそ果たされる。
やがて母娘喧嘩もそこそこに、アリイシャは愛しい旦那に似た髪質を撫でながら、アーサーの方に体を向けて笑う。
「うふふ、はやく、この子の本当の声をききたいでつね」
キュッと細まった目尻にうかぶ皺のいじらしさにアーサーも膝の上に白い指を重ね、穏やかに口角をあげた。
「ええ、とても元気で素敵な声ですよ。楽しみですね」
と億劫もなく言った老人に、途端に顔を赤らめて髪をいじって目を逸らす娘へ、柔い笑いが白く広い天井に渡った。そしてアリイシャも自分を見る灰色の瞳のはっきりとした輪郭から、手術の無事を確信して肩をあげるのであった。
三人の前に広がるムンダネウムの遠望は、今日も地平線まで建築が進む白い世界を魅せる。紛争後からアーサーの采配によって目覚ましい復興を遂げたムンダネウムは、最新の建築様式と、技術とを最大に活かした建物が並び、アリイシャは眼下から透明な天井ごしに動く人の頭を差してはしゃぐ。一方でアーサーは、今日も青嵐な空を見上げ、白青の境界線から飛び抜けたピラミッドを見つめていた。
精錬された影落とす建物群と違い、傍目から見ても凄まじい紛争の跡を鉄骨も剥き出しに野ざらしにされた建物の名は、『ジッグラド』。それは数千年の歴史を持つエジプトのピラミッドを彷彿とさせ、古に、そして遥か彼方にあるように佇む造形が鈍い銀の光で浮かぶ。
「なぁに、あれ。みっともない。片付けりゃいいのに」
嫌そうに顔を顰めて指差す娘の肩を、アリイシャは抱いた。
「そんなこと言わないの。あのピラミッドはそのままにつるのが、ここを維持つるために必要な条件なの」
「へぇ、なにそれ」
釈然としない声に答えるよりも、アリイシャは肩に置いた手を掴んだ。娘の頭越しに今度はアーサーを見上げれば、彼は白い月とともに並び、筋の通った鼻と角の鋭い顎が青い空にくり抜かれたような造形を為す。
白い肌に霞みそうな輪郭の中で、窪んだ眼だけが満ち満みとしてジック・ラドを捉える。その灰色の瞳孔に、アリイシャはずきりと軋んだ胸を手で握った。彼女は彼の目配せが紡ぐ切ない動きを知っている。耳が聞こえづらいからこそ、大きな瞳は誰よりも見える。僅かにアーサーの薄い唇が開きかけるも、決して言葉を紡がないのが哀しい。
「貴方も……愛した人を亡くされたのですね」
アリイシャも口にしなかった。呟けば何か答えを受けそうな気がしたけれど、彼の真意を感じるらめにある『言葉』はあまりにも余計すぎて。
やがて三人は揃って、ジックラドの頂きの先へ広がる空を見上げたのだった。
***
空は今日も彼方に広がり、眼下一面の白い世界に影を落とす。その最中に紛れるよう、慎ましく佇む病院の一角でその日、ムンダネウムのリーダー、アーサー・ヴィゴローヴィチ・ベリャーエフは亡くなった。享年85歳の大往生だった。
最期までムンダネウムの技術を拒否し続け、数多の病を重ねた身体は骨と皮だけになり、白いベッドに痛々しく骨ばった腕が石のように固まっていく。その白い手の中には最期まで黄色いG-shockがシーツに波を作って転がり、それを徐に外しながら一人の男が亡骸を見下ろしていた。
医師たちによって恭しく繋がっていたチューブが外され、ようやく身軽になった亡骸を見越し、男は蓄えた口ひげを揺らして間近に向かいあう。綻んだ白髪交じりの前髪を垂らした拍子に、目尻に刻んだ皺に沿って滴る涙が、死相に黒ずんだ丸い目窪に溜まっていく。やがて震える口から「長い間、お疲れ様でした」と立ち上がり、深々と頭を下げたのだった。不可思議に首を傾げる面々の中で誰かが「あれが彼が生まれた国の礼儀なんだって」と囁いた。
葬儀は長年ムンダネウムのリーダーを請け負った立場とあってか、大勢の涙の下で行われた。彼の遺言通り、紛争の慰霊碑の前に開かれた斎場では、眩い日差しが突き刺さる晴天に晒されながらも喪服姿の男女の列が灰色のコンクリートに影をなす。
これほどの参拝客は本人が望んだものでは無かろうにと、テントの天蓋を仰ぎ見ながら、視界一杯に広がる黒影たちを見定め、口髭の男は喪主の証である左胸の白薔薇を肩を竦めた拍子に揺らす。それこそがアーサーが物言わぬ者となった印のようにも思え、嗄れた鼻先を下ろす先には、静謐な風情を纏う黒い棺の中で、祈りの形になったアーサーが納められている。そして、死したからこそ、ようやくムンダネウムの地に膝を着くことを許された、彼の妹と甥が泣き伏せて蹲る。
「酷いっ、酷い話だわ、お兄様。ようやく顔を合わせた瞬間が、永遠の別れのときなんて……!」
皺くちゃの指を揃えて顔覆う老婆の妹を嗚咽を噛みしめる息子が支え、細ばった黒い袖を彼の息子たちが助けた。それぞれアーサーの近親者ではあるが、棺の底に沈む彼とは似ても似つかぬ容姿が一つの終わりをも示していた。やがて家族の泣き声を置き去りに葬儀は進んでいく。しかし、その中では因果によって建つつムンダネウムの宿命か――、騒然とした声も渡った。皆の注目を浴びたのは並べられた悼みの花輪の内の一つだ。白い薔薇に覆われた慎ましさと華やかさを兼ねた花輪のプレートに筆記体でヨーナス・トラヴィスと書かれている。
「よりによって、ヨーナスさんの、が……」
白いリボンが靡いた隙間に見える文字に騒然とするのは、背の高い喪服姿の青年だ。栗毛交じりの黒髪がその猫っ毛故か、柔い風でも高い位置から解れている。その上背から細見の印象を見せるが、スーツが見せる肩の張りは逞しさをも覗かせた。
「何、知り合いなの?」
やがて背後からベールごしに恋人が問いかける。彼は俯きながら答えた。
「うちの親がね。ヨーナスさん……今はNYPDの本部長を勤めている相当なお偉いさんだよ。実は……ベリャーエフ氏とは旧知の仲だったんだよな……」
「あら、そんなこと聞いたことなかったわ」
「40年も前だしね。しかも、一時は決別したというし……」
「なら、亡くなった後に解消をしたということなのね……。律儀な方じゃないのよ」
聡明で察しの良い恋人は彼の腕を握りながら、目を伏せて厳かに佇む花輪を見つめていたが、対する彼の瞳は陰りに沈む。
「だと……いいんだけど……本当は牽制の意味もあるんじゃないかって……」
「えっ、亡くなった方に?」
「いや、彼に」
空を仰ぎながら顎をしゃくった先に、テントの影に俯く喪主を捉えて眉を顰める。その間際、日差しが照らす瞳の色は翡翠色に瞬いた。
「今やムンダネウムのナンバー2になっているあの男さ」
すると恋人も、懸念の雰囲気を漂わせて流し目に彼を見た。
「ああ、確かに怪しいわね。……長年続いてきた英国の警備体制を瓦解させたのは確か彼でしょう……? 経費削減と技術分配の平等性のためにとか、それらしいこと言っちゃってね……」
「そうだね、当時のジェレミー首相はついこの間亡くなっているし、そして彼は古参メンバーの中であっても、ムンダネウム紛争にかけては唯一の無関係者だ。当に自分の無辜な立場と、最高のタイミングで推しはかったことなんだろうな……けれど……」
それが一部のメディアでは「ムンダネウムの不穏」として囁かれている。それにヨーナスも感じ取っては、「お前をいつも見ているぞ」と示したメッセージなのかもしれない。男性は再び花輪に目を凝らす。
「蛇は決して腹を見せないってことね……。本当は一体、どんな黒い肝があるのかしら……」
一方で恋人は裾に摘まむ力を強めながら肩を強張らせて男を睨む。すると、蛇と呼ばれた男はふと俯いた顔から微かにそちらを見上げて目配せした。死神が横たわる棺を隔て、下瞼の皺をあげて目を細めるその瞳は真っ黒で、彼女は思わず彼を盾にして身を顰めた。それに嗤ったのか、それともただ風が過ぎただけなのか――、男の口髭が微かに揺らめいた。
***
やがてアーサーは共同墓地の高台に、ゲオルク・ライヒート、カルク・コーヘンと並んで左端に設けられた墓に埋められる。それぞれドイツ語、ポーランド語に書かれた十字架に対し、白い墓標に書かれた彼の名前は英語表記だ。それは最期まで「アメリカ人」だと名乗り続けた、彼の意志を反映させたものだった。
高台から下った先には、木立の陰に涼むゲオルクとカルクの墓を見守るように、日差しを一身を受ける十字架が真っ白に聳えている。キリスト像が刻まれた墓にはスペイン語でホセ・シモン・アーンズの名が書かれている。その側には生きている人間が拳を腰に添え、仁王立ちに構えて高台に並ぶ黒い列を臨んだ。
「いよいよ……当時のメンバーは貴方だけになってしまわれたのですね……」
仁王立ちの脚の間に細長い影が差し込む。白薔薇の花束を両手に抱え持つ男性が、背後から声をかけた。それを皺が刻んでも流麗な切れ長の黒い瞳が彼を捉える。
「アルフレッド君……こんな形でしか伯父さんと再会することが出来なくて……ごめんね」
鼻先だけ向けた男はその老成した姿より溌剌とした口調で答える。――も、間際に解いた指は構えの仕草を静かに描く。
「仕方ありませんよ、伯父の意向でしたからね。でもこれからはちょくちょくお墓参りに伺わせていただきたいと思います」
葉と葉が擦れる音とともに、男の整った眉が徐ろに上がった。
「ちょくちょく、ね」
「……何か問題でも?」
試すような口振り。背を向けたままの男は陰りの中でにやりと口角をあけた。当時と変わらない犬歯がのぞく。
「いんやぁ、別に良いよ。そりや家族だもんね」
すると、神妙に構えるアルフレッドをそげにするような素振りであっけらかんと空に手を振る。そして、ポケットに手を突っ込みながら腕を掲げたまま高台の方へと歩み去ってしまった。
アルフレッドは追いかけなかった。男の背中を見送りながら滴る汗もそのままに、窄めた唇からゆっくりと息を吐く。彼が唐突に仕掛けた素振りには当然理由があった。
***
「この男に近づき、監視をしてもらいたい」
一つしかない照明の真下にして、老人が呻く。それに恐れながら背筋をのばすアルフレッドの前に、書類が乱雑に落とされた。バラバラと別れた書類の隙間から、老成した男の写真が目に映る。白髪交じりの髪をオールバックに固めた口髭を蓄え、喉仏が目立つ筋張った男。既に50歳を越えるのは目に見えるが、正面を向ける眦は整っていて、端正な風情はまだ霞まないアジア人の男であった。
「彼は……」
「タカユキ・トドマツ、日本人。君の伯父さんの亡き後、ムンダネウムのリーダーを受け継ぐ可能性が最も高いと言われている男だ」
すると、アルフレッドと向かいに座る老人が忌々しい風に答えた。車いすをまるで王座のように佇む風格には、連れてきた点滴のチューブをもものともせず、白濁した黒い瞳から覇気を漂わす。しかし、よもやブルドックのように垂れ下がった頬を揺らす痰交じりの咳は留まることもなく、俯きがちな態勢はそれ以上身体を起こすことが出来ない。
テーブルに置かれた腕には幾つもの針と繋がれて、逆に栄養を吸い込まれているのではないかと見間違う程に、骨と皮だけになって乾燥した冷たい重みを為す。それでも、先に亡くなったとアーサーよりも遥かに年上だというのに、彼は屍のようにありながらもまだ生きている。それは、止めどない復讐への意志が為したことだった。
「そして……この男が……おそらく私の姪……ミナの足を在処を知っている可能性も高い……」
白濁した瞳が照明の光を受けてアルフレッドを見上げた。思わず後ずさりアルフレッドは「ヨンスおじ様」と上擦った声をあげる。
「どうしてそんなことが言えるのです……!」
「この男がかつてNYにいたころ……、知り合ったミナに執着していた。そして彼女の最期を看取った相手であることも明らかにされている……。だとしたら……今まで探し求めてきた足の行方を……この男が握っているというのも、不思議ではないだろう……」
「だと、しても……ですよ」
「ああ、ただの憶測しかすぎない。けれど、どんな結果であろうとしても、それでもせめてこれだけには……けじめを付けたいんだ。君の伯父さんが亡くなってしまった今……私にはもう……これしか生きがいが残っていないのだから……」
アルフレッドは彼の刺すような瞳に打ちひしがるざる得なかった。自身の伯父が彼にもたらた大きな罪をも知っている。しかし、終ぞ彼を貶める計画は、彼の死によって果たされることが出来なかった。似ても似つかぬ親族を睨むことでしか果たせない無念から、アルフレッドが拒否することなど出来ようはずもない。一方、老人――、ヨンス・カンジョンはまた一つの姦計をも眼光の中に含ませていた。
アルフレッドは女性初FBIの長官サーラー・アリとも知り合いであり、彼から「最近のムンダネウムの不穏」をもリークされていることを悟っていた。
ここ30年を通じて、原因不明の電波異常が各地、各年ごとに発生しており、それが半円状に行ったり来たりしながらも少しずつムンダネウムへと近づいているということだ。それを微かに「魔女の再来」と懸念されている。サーラー・アリはムンダネウム完全撲滅支持の先駆者であり、さすれば唯一、アーサーの親族として葬儀に招待された彼に、何かしらのスパイ活動を唆されているに違いないのだ。その中には、後にリーダーとなるトドマツの監視もきっと含まれているだろうと、ヨンスは察していた。
組んだ指から覗く眼光に迫られて、アルフレッドは口を噤んでしまった。アーサーの甥という宿命を背負った彼は、こうして二人の思惑に否応なく巻き込まれていく。
「……分かり……ました……」
拳を握りながら答えるも、アルフレッドはヨンスと目を合わせなかった。それでも、ヨンスはゆっくりと笑みを浮かべる。一瞬緩んだ目配せから、何十年経っても忘れ得ない、永遠に若い女性のままでいる姪の姿を、照明の奥からはっきりと思い浮かべるのだった。
「待っていてくれミナ。今度こそ君を……! 取り戻すぞ……!」
***
深夜のムンダネウム。星屑散りばめられた夜空の下で暗闇に紛れた黒いホバーバイクが一直線に駆け抜ける。運転手の手腕によってか静音に走るバイクのランプは上向きに、シャッターに遮られた先にある守衛室を照らした。
「何なんですかぁ、ここは立入禁止で……」
出窓から身を乗り出した守衛が、街灯によって縁取られた運転手の姿にひぃっと小さな悲鳴をあげる。
「す、すみませんでしたぁ! どうぞ!」
素早くシャッターの向こうへと腕を振った守衛に、運転手も「おつかれ」と、軽く会釈した後に颯爽と通り過ぎていく。再び閉じられていくシャッターの向こうへと消えていく相手を見送っていると、仮眠から目覚めた先輩が欠伸をしながら問いかけた。
「なになに、どうしたの」
「ああ、先輩。さっき『新リーダー』が建物の中に入りまして」
「新リーダー……って、就任するのは明日からよ。まあ、『彼女』に会いに行くのはいつものことじゃない。なんで今更?」
「それが……今日は自ら運転してまして……一人だったもので」
すると、眠気に沈んだ彼女の眼が途端に覚めた。
「一人、ですって?」
驚くのをよそに後輩は欠伸をしながら仮眠室へ転がり、代わりに先輩は立て付けの悪い椅子を揺らしながら顎に指を添えた。
今まで新リーダーが人を連れずに来たことなどあっただろうか。それなのに何故、よりによって就任の前夜に。懸念に身体が嫌な湿り気を滲ませるも、今の彼女に彼を留める術はない。アーサー亡き今において、このムンダネウムはよもや全て彼の物になるのだから。
「トドマツリーダー……大丈夫、ですよね……?」
リーダーになる彼がこのムンダネウムを再び戦火に陥れるようなことなどないと信じつつ、守衛室の角を見上げる先には暗闇に聳えるジック・ラドではなく、彼女が幼き日に見た炎が揺らめいた。
***
ガラスの層に四方を囲まれた廊下の中央を、ムンダネウムの新しいリーダーこと、日椴敬之は一人きりで進む。先は遠く仄暗かったが、それでも怯まない背筋は真っすぐにのばしながら腕を振り、ガラスから幾重にも重なって映る横顔が露わになる。
「ここまで来たんだなぁ」
ため息交じりの大きな声で漏れ出す言葉。それは、ナミビアの地に降り立って数十年、久々に口にした日本語だった。母国語を吐き出すとともに吸い込んだ空気をたんまりと含めると、彼は走馬灯のように今までのことを思い馳せる。
ムンダネウムに留まってから34年。自身の生まれた国よりも長く留まったこの地で、椴は壮大な人生を送ってきた。ムンダネウムのリーダー、アーサーの右腕として働き、彼が持ち得ない人懐っこい笑顔と前職で活かした会話力で様々な大物との関係を培いながら、ムンダネウムの発展の礎をともに築いてきた。アジア人故に幼く見られる容姿のため、髭までつけて貫禄をつけながらその骨身を砕いた尽力は認められ、ここを一人で歩く立場を遂に手に入れる。
今ある自分自身の形を、甲高い足音が示す。
一方で、ムンダネウムの大きな技術の一つのうち精神の充実のために、椴は自身が性被害者であることを公表し、同じ被害に苦しめられている人々のために時には自ら実験体になりながら、彼らのための治療環境の充実にも尽くした。
そのお陰で自身の性的自傷行為も随分と落ち着き、ムンダネウム幹部の一人、モニカとは随分経った後に大人同士の穏やかな恋人関係を紡いできた。その彼女も後に――、五年前に亡くなっている。
目を閉じて悼みながらも、止まらない椴松の勇壮な足取りは突き当りの暗がりの奥へたどり着いた。ゆっくりと階段を降りていけば、差し込んできた光に横顔が微笑みに描かれる。一目配せとともに椴松の瞳に色が帯びる。
それは、地下に広がる無機質なラボラトリーを照らす光。そして、天井の照明ではなく見上げる彼の視界を一杯に阻む、ガラス製のチューブに浸された溶液の反射光だった。足音は止み、恍惚なため息が銅管に覆われた天井へと放たれる。茶色い瞳は細めながら、開く口から犬歯が覗く。
「やっとここまで来たよ……ミナ……」
久々にその名を呼んだ。早老とは思えない愉悦が声となって現れる。
それはどんな治療を経ても、どんな人とも巡り合っても一片も変わらなかった――、否、変えられることも出来なかった彼女への恋慕。
その先にあるのは、泡に覆われて揺蕩う千切れた女の片足だった。
もし生きていた者であったなら、とうに彼と同じように年齢で細ばっていた筈。しかし、34年経っても当時のままの若い女の柔い丸みのままで固まる足は、つま先までの曲線を為して泡の中で溶液に浸っている。
それこそがここにいる本当の理由。足の先にはかつて身体があり、長い黒髪を靡かせる哀しい女の姿であったことを知る唯一の瞳は、足を仰ぎまるで蛇ように瞳孔が細ませた。蛇は決して忘れていない、悪魔からの誘惑を。
『ムンダネウムの技術でも何でも作って、彼女を蘇らせればいい』
それこそが留まり続けた全てだった。そうでなければ、生きる意味などとうにない。今までの人生を辿っても心変わりはない。むしろ時が経てば経つほどにますます募るばかりだ。また、自身を「ムンダネウム紛争の無関係者」とみなした世間の人々にも腹が煮えくり返るような憎悪を顔を覆って閉じるその手の中で噛みしめる。
何が関係者であるものか。自分はかけがえのない愛しい女性をあの紛争で亡くした当事者そのものだ。
ミナの存在がとうに忘れ去られたように感じて、どうしても許せなくなる。それが故に、切望は更に込みあがっていく。
「さあ、出番だよ」
そこからゆっくりと、儀式の如く腕を伸ばす。徐に指が差すのは、封じられたジック・ラドのスイッチ。それは、また、30年を懸けて電子の海に漂い続けた『彼女』を元の「脳」に戻すためのものだ。
前のリーダーだったアーサーもまた待ち続けていた。「待っている」と椴の前に語った不可解な言葉はやがて、忌々しい世界の害悪として滅された魔女こと、サラ・コーヘンがまだ生きていることを気付かせた。
魔女は狼によって斃される直前に、実はその寸でで全ての意識をどこかの電気機器に移したのだ。しかし身体は潰えて帰る場所は無くなり、彼女は電子の海を40年も揺蕩い続ける生き地獄へと堕ちることになった。眠ることもなく休むこともなく意識だけが右も左も分からないままに、己の留まるべきところを求め続けてきた。数多ある電波障害は海の中で引っ掻くように出来た、『足掻き』の跡だったのだろう。
果たしてそれが生きているというかは分からないが、アーサーはいずれ自身の尽力がかつての罪を浄化し、彼女の脳の代わりになるジック・ラドを蘇らせる機会を作るためにここに居続けたのだ。
アーサーは決して語りはしなかったが、椴松は気付いていた。彼が哀しそうにジック・ラドを眺めていたことを。そして時々、暗闇に紛れて彼女から託された時計を胸に抱いて嗚咽を嚙み殺し蹲っていたことを。終ぞ果たせることの出来ない願いを胸に留め、最期に見た光景もきっと空に揺蕩うジック・ラドだったに違いない。それがどれほどの無念だったか、椴松は目を瞑り眉間に皺を刻ませる。
「ただ、俺はそんな思いなんて……ごめんっスよ」
開かれた瞳は蛇のそれとなる。人は皆のためには生きていけない。かけがえのない誰かのためにこそ生きる。そのために尽くしてきた全てを、今度は自分のために存分に使わせてもらうと彼は進む。死した一部から人間を蘇らせる禁忌を侵すために、そして誰にも侵されないために、ボディーガードに必要な彼女を蘇らせる。
蛇と魔女と幽霊とで世界が再びひっくり返り、かつての仲間と敵となって刃を交わることになろうとも、数多の血肉が再び流れることになろうと、彼にはもう愛しい足しか見えてない。
しかし、ゲオルクのように軍人としての技量もなく、アーサーのように政治家としての能力もないこの第三の男は、果たしてどこまで行けるだろうか。
サラ・コーヘンでさえ、電子の海を漂う最中でどれだけ「記憶」や「意識」を保っていられたのか分かりはしない。そして蘇らせようとするその命は本当に「ミナ」になるのか、果たして「誰」になるのだろうか。それでも愛に狂い、愛に狂わされた男は血の轍を這うことを選ぶだろう。
両腕を広げ、踏み出したと同時に現れた彼は、纏った衣から脱皮した蛇のように真っ白な姿となり、邪悪の笑みを浮かべながら答える。彼女が託した最期の言葉に。
また、会いましょうね。
「ああ、会おう……!」
指は触れる。それが示す先は、あなたがこれから生きる世界。
GG&CK番外編 完




