小話 エベレスト編(後編)
朝。今日もヒマラヤの空は快晴で風が峰々を滑る。風から避けるように角度の鋭い瓦礫の上に這いつくばるキティは、鼻から上までを覆う赤いフードを掴んだ。
「ううっ……! なんて寒さの……!」
ゴーグル越しに見上げる空は青いのに、まるで吹雪の最中にいるような寒さ。さっきから身体の震えが収まらない。
「ふふっ、何しろ8000メートルの世界ですもんね。10メートルあがるごとに一度も温度が下がりますよ」
「マジで!?」
ゴーグルの縁にさえ冷たさが伝わりキティが思わず眉を顰める先には、リタとラクパが数メートル登った先で悠々と振り返り、くぐもった声で答えた。
「大丈夫? 少し休む?」
労う声も少し笑みが含まれていることに、キティは憮然とする余裕もなくて、身を捩らせて彼女を盾にする他なかった。
脇目に見る山の景色は、空と地の境目が斜めに視界を横切る、鋭利で単調な異世界が続くばかりである。左右対照に白い波面のように雪から隆起する礫が広がる同じ景色であり、背後は白と灰色の地平線、そこから頂上を仰げば尖りはまた見えない山の峰と青空。草木の生えず遮りもない場である筈なのに、まるで広い部屋に閉じ込められたような感覚が胸を過った。
なんだんだここは、と、キティはヒマラヤの風を目一杯に受けつつ、それでもなんとか岩を手袋で掴んで二人を仰いだ。一刻も早くここから逃れたい、それこそが登頂へのモチベーションとなる。
「大丈夫です。行きましょう!」
キティは立ち上がり、勢いつけて杖を握りしめる。それに二人は目を瞬かせつつ、お互いにフード越しに「さすがはAK弾を受けてもピンピンする女」だと秘密の目配せを交わし合った。
三人はそこから頂上とは水平に横切り、小さな山と谷を繰り返し越えるルートを辿っていく。彼女たちは登頂を目指すのではないので、峰と谷の景色が交互に入れ替わっていく。その軌跡はキティをしばし慰めさせた。しかも、谷に入れば風もピッタリと収まるのだ。
「ちょっと、そうだったら早く言ってよ!」
すっかりハイになったキティはブーツの角で小石を蹴り飛ばしながら追い駆けるが、悠々と下る二人は冷徹に言い放った。
「「でもその分、転びやすくなるからね」」
キティは足を踏み外し斜面を転がった。
「だから! そうだって! 早く! 言ってよおおおお!」
身体を回転させながらも大声を止めないキティを二人は目で追いかけ、ぼんやりと口を開く。ラクパにいたってはフードを徐に外し、「すげえ……」と、感嘆の息を吐いたのだった。
そんなやりとりからしばらく、時間がたつ毎に三人は無口になっていく。それは疲労によるものだけでない。峰の先にあるところへ、待ち構えている者を迎えるために心を整えているのだ。
「遂に……ですか?」
キティがカメラベルトを掴んで二人の背後から声をかけると、リタの方が頷いた。
「ええ、峰を超えたらすぐ目に映るはずだわ。心してね」
キティは俯き、腹の位置に揺れるカメラのフレームを握りしめる。最後の峰に登れば太陽によって縁が瞬いて三人を染め上げた。その先には真っ白な礫の台地が広がり、突風が女たちの髪を掬い上げる。それによって開かれた視界には、逆光に覆われた人影が、遠くの方に横たわっているのが見えた。
キティはあっと青白い唇を開くが、声は風が横切って消えた。乾いた空気が影を映し出し、覚め覚とした瞳が映す先には、白い波面と岩礫の渦潮の上で漂うようにうつ伏せになる人の形がある。背すじがせせり立ちキティは息を呑んだ。
前の二人はというと、何も答えるわけでもなく山を跨いで乗り込んでいく。幅の開きを一定に保ちながら降りていく様子に、キティも慌ててついていく。凄まじい風が横から吹いて再び足元を滑らされるが、並ぶ三人のフードは位置を固めたまま揺らがなかった。風とともに杖を刺す音だけが響く中で、女たちの目線は真っ直ぐに、動かぬ人へと向けられた。
「彼が……、ジョージ・マロリーよ」
やがて、大きな岩をブーツの縁で蹴り飛ばした矢先で立ち止まるリタが呟いた。遂にとキティも栗色の髪を舞い上がらせる。リタとラクパの影の狭間で、翡翠の瞳は黒影から真っ白な、裸になった男の肩の盛り上がりを見た。
「ああ、あああ……なんて……ことなの……」
思わず膝をついてしまう。話にはとうに聞いていたのに、目の前にしてしまうと心臓がかつてのときのように不均等に高なって、必死に息を求めてしまう。今、百年の時を隔てて彼と彼女は巡り合ったのだ。
ジョージ・マロリー。かつて、エベレスト登頂を目指してヒマラヤの大地に潰えた登山家。普通ならとうに土の中に溶けて消えるはずの遺体は、ここ8000m級の山においては、微生物さえ生きれない世界で腐乱することもなく留まり続けるのだ。
過酷な環境と険しい崖壁が下界に戻ることも許されず、山に潰えた者たちは永遠に雪を寝床とすることになる。それが昨夜、ラクパが語った墓場という意味であった。その意味を噛みしめながらキティは百年前の遺体を初めて目にし、翡翠の瞳は動揺に震える。彼の身体は滑落の後と見られ、坂の途中で転がるようにうつ伏せになっている。しがみつくように風上の方で両腕を伸ばし、伸びきった足は細ばっていた。色褪せた重ね着のぼろ布から孵化するように浮かぶ背中は蝋となって、人のものかと疑わしくなるような無気味な白味を帯びていたが、微かに浮かぶ筋肉の影が違いなく成人の男であることを示す。
首はもげてなくなり、丸見えになった臀部や足は幾年の雨風、そして雪に削られたのが抉り抜かれて裸であるのも気付けなかった。その部分からは黄土色の皮脂が塊となって空洞となり、ふくらはぎからはささくれた骨がそれぞれ二本の筋を引いて剥き出しになっている。
確かに人の形ではあるが、遺体というよりは大英博物館のミイラや遺跡を見たような――、人の形をした「作り物」ではないかと錯覚する。これが山で死ぬことなのかと、次第に冷たくなっていく胸の内とともに、無口になった唇は青ざめて、礫の台地に吹き荒む風によって更に小刻みに震えていく。
「本当に……彼が……ジョージ……なんでしょうか……」
思わず口にした言葉に、答えたのは礫を磨り潰す音だった。隣から真っ黒なフードを纏ったリタが前に出て徐に腕をのばす。彼の首元を手袋を嵌めた二本の指で摘まみ、白いラベルを引きずりだすとそれをゆっくりと捲った。
「間違いないわよ……だって、書いてあるでしょう?」
キティの方へ顔を向けて諭す指の先には、いやに黒文字だけははっきりと映る無機質なラベルの文字が刻まれていた。「G・ハーバート・リー・マロリー」。その瞬間、キティはああ、と擦れた声をあげて、分厚い手袋で己の口元を覆った。文字を見たときにして初めて自覚する。ぼんやりと霞む視界でも揺るがない真っ白な死人の背中。ああ、やはり、似ていると、十年前に見た、真っ白で美しい鼻先の尖りがスモッグのように過れば、身を屈ませてしまう。
「大丈夫……? ちょっと、休む?」
今度の言葉に笑みは含まれていなかった。キティは横たわるマロリーの側でしばらく立てた膝の上にうつぶせていたが、やがて顔をあげると、向かい風に怯まない眼差しで山の峰々を睨む。開かれた睫毛に冷たい雫が舞い散った。
「いいえ……、行きましょう。少しでも、カメラを見つける可能性を高めるためには……ウカウカしてはいられません」
震える腕を強張らせ、肘を手につけて立ち上がる。その鋭い鼻先を見上げてラクパも頷いた。
「そうですよね……。彼を目の前にしては」
「ええ、今度こそ、よね」
何回も命を懸けて挑み続けたリタとともに、三人はマロリーの横に並び、同時に目を伏せたのだった。胸を押さえた手の中に彼の冥福と、約束を誓って。
それでもマロリーは誰に答えるでもなく、今も突伏せて風に靡かれるがまま。三人は薄目の内に彼の姿を捉え、風に揺れるボロ布を彼の餞の代わりとみなしたのであった。
聳える峰々が囲む瓦礫の原で、生きとし生ける者の足踏だけが響き渡る。次の坂をあがるところでキティは一瞬振り返り、再び遠くなった彼へと小さな口を開く。それは彼の名前。声はか細く、また、宿年の思いが含まれていたのを、リタとクラパは黙って背中で受け取った。
***
一行の登山は節目を辿る。二日続けての捜索の初日はカメラの所在を巡る最後の候補地に行き着くことだ。それは、滑落した彼の遺体現場より標高幾ばくか高い、登頂ルートに位置するクレパスが点在する地点である。カメラは下山の途中でクレパスに落とし、持ち帰ることが出来なかったと推理した上で、リタの異母兄が探索したデータを元に当時のクレパスの中に潜るつもりなのだ。
そこから先の道は雪の膜が覆い、杖とアイゼンで刺しながら突き進んでいく。リタ、キティ、ラクパの順に列になって歩く内に、キティは態勢を斜めにしなければならない辛さと続く登山の疲労に重ねて、息を吐けども吸えども手応えのない薄い空に恐れた。焦燥感を煽らせて高鳴る胸の鼓動と、大きくなる荒い息にもうっとおしさを感じる。
これが、誰もが一度が憧れたヒマラヤの登山なのか、と、ゴーグル越しに眉を顰めて空を仰げば、フィルターを抜けて突き刺さる五星の光にうめき声をあげた。空は吸い込まれるほど青いというのに、分厚いゴーグルを嵌める理由を今更になって思い知る。
天に近いこの地は太陽にも近くなり、草木も生えず遮りのない坂を横切る自分たちに、容赦なく強い紫外線を降り注ぐのだ。気温は低く暑くはないのに服にマフラーに、そして僅かにはみ出した皮膚にじりじりと焼き付く痛みに似た感覚が刺さる。
外界ではありえないちぐはぐさに、焦燥感が煽られる。それに続いて、いつの間にか地面の灰色が見えなくなり、雪の層を辿るようになっていく女性陣に対して、雪は反射板のごとく下からも光を差してくる。おちおち景色を楽しむ余裕もなく、キティは目を瞑りながら手に持つ杖と意志が繋がる四肢の感覚を頼りに太腿を振り上げるのだった。背中のリュックの中にある、我が分身たるカメラの存在を荒い息とともに確かめながら。
それから気の遠くなるような時を、何回繰り返したことだろう。やがて、意識を失いかけたキティがぐらつく頭で大きく左右に振ったとき、真っ直ぐに背筋をのばして歩くリタの向こう側に真っ白な原が見えた。少し角度が平らになった広大な原。誰に何を言われるでもなく、酸欠の頭に直感が過ぎる。
「ここですか!?」
己の声に息が苦しくなり、再び意識を失いかけたキティは足を踏みしめて身を屈める。その間際にラクパの方が答える。
「そうです! ここです!」
彼女のが女神の思し召しに聞こえ、キティの白い息が歓喜に渦巻いた。それを突き抜けるように踏み出せば、その先に見えるのは青い空と平行した一面の雪の原。遠目から見える黒い波面がクレパスの縁なのだとうかがえる。
「やっと……! やっと着いたあ……!」
両腕を雪の面と水平にのばした赤い袖が青い空に照り返る。拳つきあげるキティの黒手袋を見上げるラクパも高調した頬をあげて口角をあげる。
「ええ、キティさん。初登山ながらよく頑張りましたね!」
さすがはシェルパであった。キティが声をあげるのに必死になっている一方で、はっきりとした口調は先までと変わらない。彼女も目的が終わったことに拳を握り、アイゼンを強く振り上げて歩調を早めた。ザクザクと音を響かせてキティの右に回り込み、片足を坂道と踏み降ろして、彼女もまた銀世界を臨む。すると、大きく黒い瞳が映した景色は、一瞬にして開いた唇を閉じさせた。
「ラクパ……? どうしたの……?」
キティが固まった冷たい気配に目を凝らそうとする寸時、そういえば先からリタの反応もないと首は無意識にそちらに向けていた。すると、リタの鋭い横顔は冷徹な余波を帯びて、微動だにせず立ち尽くしていたのだ。
「なんて……こと……なの……」
「やっばいですよ……これは……」
訳も分からず慌てふためき、愕然とする二人を交互に見るキティを他所に、一見何ともなく静謐に佇む雪の原を、二人はおぞましいものとして眼光を震わせていたのだ。
「えっ、何、どうかしたんですか?」
休む間もなく首を左右に回すキティに対し、二人はやがて前を向いたまま愕然として呟いた。
「ここ……雪崩が起きてる……」
「ええ!?」
「キティさん、大きな声出さないで!」
ラクパはもっと大きな声をあげて唇に人差し指をつけた。ゴーグルから剥いた白目を浮かばせて掠れ声で迫る。
「きっと昨日の夜に聞こえた雪崩ですよ……! よ、よりによって……! こんなときに……!」
「え、何?」
「昨日の雪崩が実はここで起きていたってことよ。今、一面雪崩跡で小さなクレパスが埋もれている状態なの」
「ええ!?」
脇から差し込まれた声。それにようやく状況を察したキティも目を剥いてリタの方へ顔をあげる。その先には非常事態に腕を組んで唸るリタが、やがて震える頭を俯かせていた。
「今でもこの光景が信じられないわよ……! 夏季とはいえ、この高度からの雪崩なんて今で聞いたことなかった……! ありえない……! ありえないわよ……!」
「それってつまり……」
温暖化の影響だ。
キティの冷え切った耳から男の声が遠くに聞こえる。目を凝らした翡翠の瞳には今だ広大な雪の原が青空の光を受けて眩く瞬いている。美しいとも見える景色が、数十年の環境破壊がもたらしたものなのだ。人間の業の末路は思いがけないところで唐突に、そして無言に鋭利な刃のように襲いかかってくる。
「ねえ……これ、諦めましょうよ。リタさん……」
やがて、長い沈黙に打ちひしがれて並ぶ三人の中で、クラパが恐る恐る呟いた。
「これじゃあ……幾ら手もとに地図があっても、いつクレパスの中に落ちてしまうか分かりません。万が一避けて目当てのクレパスに入れたとしても、その勢いで雪崩が再び起こってしまうのかもしれない……。生き埋めにでもされたら……! あまりにも危険すぎます……!」
「そんな……」
固まったまま動かないリタに代わり、キティが慌てて顔を向けた。
「ここで諦めてしまうなんて……それってつまりは……、二度とカメラは見つからないってこと……?」
「運命は昨日の夜から決まっていた、と、いうことですよ……!」
歯を食いしばりながら目を瞑るラクパは、唸るような声をあげて首を振る。
「でも、それじゃ……今までの悲願が……挑戦の行き着く先が、こんなあっけない幕切りってことになるってことなの……? あんまりよ……!」
「人の生き死には替えられませんよ!」
リタの黒い瞳が怒りの炎に開かれて、呆然とするキティの髪を舞い上がらせる。
「貴女にとってはただの雪原に見えるかもしれませんが、私たちにとってはこれは最早、暗闇に紛れた地獄の蓋です! この罠にハマって今まで何人の登山家たちが死んだことか……! とても人では乗り越えられるものではありませんよ……!」
色味の変わったラクパの瞳は、キティの背後にある空を仰いでかつての雪壁を思い浮かばせていた。
ピッケルを打った瞬間に壁ごと剥がれた雪の層。崩れ落ちた雪とともに咄嗟に捕まえた袖もむなしく眼の前で滑落していく仲間の姿。次の瞬きで浮かぶのは、眼下に四肢をのばして伏せる青い背中だった。そこから滲み出る赤黒い血が皮肉にも雪に映えて、ラクパは汗の粒を吹き上げて目を瞑る。
「諦めましょう……!」
短い言葉で全てを込めた。苦い記憶を滲ませる呻きととも、下ろした拳を震わせて俯くラクパに、キティは怒りの眦を向けられた以上の本気を感じ取り後ずさる。
「でも……! でも……!」
それでも上ずった声をあげてまだ抵抗を抑えられず、空とともに現場を見遣った。風はいつの間にか止み、真っ白な原は今だにキティの誘惑を煽らせる。これが山の魔力というものか、それぞれの視線の含意が交わらずそらし合う二人の最中をよそに、やがて事態は急展開を迎える。
「リタ!?」
「リタさん……!?」
キティが咄嗟に振り返る。リタがゆっくりと通り過ぎていたのだ。呆然と口を開くその横顔に対して、身体は頭も水平に揺るぎなく、そして滑らかな勢いを為して――、やがて雪の原へと入っていった。
「ちょっと、何して……!?」
悲鳴混じりの声は、空の彼方へ掻き消えていく。クラパの吐き出す吐息もむなしく、瞬きをしたときにはあっという間にその背中しか見えなくなった。
「何やってるの、リタ!」
「や、やめてください……!」
キティは手をのばし、クラパは口を抑え必死に引き留めようとする。しかし、雪崩れを避けるために出した小さな悲鳴故に反応しない。いや、あえて無視をしているのだと、涙を潤ませるクラパだけは、表情の見えない背中の真意を覚っていた。
自分よりもずっと経験を培ってきたリタが、危険性に気づいていない筈がない。ならば、リタは今、一人死ぬ覚悟でアタックを仕掛けた。
「な、なんで……!?」
寒さとともに動揺に声が震える。
あのとき、仲間を失った悲しみを誰かに味あわせたくないと力なく笑ったあの横顔は何だったというのだ。雪の反射に艶めく笑窪の盛りに阻まれて、瞳の奥の真意は読み取れない。ラクパはリタの足踏に盛り上がる雪の動きと、リタの顔を交互に見ながら高鳴る心臓を握りつぶすように胸を引っ掻いた。
キティもまた不可思議に片眉をあげて雪原に揺らめくリタを目端に睨む。二人の動揺を煽るように雪の割る音は軽快で、長旅の後でもものともしない足取りはくっきりと足跡を刻ませる。キティは足跡の辿りが恐ろしいと思ったことはなかった。必死に追い駆ける翡翠と黒の瞳に答えてくれるのは、焦げ茶に日焼けした髪の靡きだけ、それは一瞬、背中を向けたまま踞るジョージ・マロリーの裾の揺らめきを思い起こす。
リタの背中は遠くなり、片手に地図を掲げながらも首は上がったまま、薄緑色に透き通る氷壁にと向かっていく。それは大きなクレパスの隆起。息の詰まるような時を経て、難なく進んでいく一流登山家の歩みに、刹那、素人のキティは思い馳せてしまった。
「もしかして……、このままうまくいくんじゃないか」
長い緊張に耐えられなくなったふとした気の緩み。しかし、そのときにこそ自然は唐突に牙を剥く。
音よりも先に目で悟った。引きずったリタの靴先から雪にヒビが入った。キティがあっと口に開けた矢先から蜘蛛の巣状に広がって、ドドトと地響きを立てて五角形に切り裂かれた雪が塊となって崩れていく。
「リタさん、逃げてー!」
ラクパが身を乗り出して叫ぶ。そのときに初めてリタは彼女の方を見た。リタは仰向けになって転がり、舞い上がる雪くずにヒッとラクパの声が上ずる。斜面を滑った足底が引いた雪の筋とともに滑る彼女ごと巻き込んでいくのだ。
「ああああああ!」
リタが叫ぶのもむなしく、怒濤の最中でリタは仰向けのまま二人の前を通り過ぎていく。否、雪が波のように彼女の身体を覆い尽くして頭ごとひっくり返したのだ。それを何度も、何度も。礫の如く回る彼女は叫ぶ声さえかき消されて、二人は吹雪越しに追い駆けることしか出来なかった。そして遂に、ガコンッて嫌な音だけが切り裂くように響き渡る。目を凝らした二人が見たのは、青い空へと雪の波から突き出るクラパの丸まった背中。
それは自らの意思ではなく、クレパスの縁にぶつかって身体が弾き飛ばされたもの。勢いに乗せてふわりと上がったリタの身体は、宙に浮く合間もなく雪に飲まれて見えなくなった。
「落ちた……!?」
キティは叫ぶ。ラクパも同時に目の前の光景の意味を覚り、逆に声が出なくなった。リタを飲み込んだ雪崩は下方彼方へと消えて、舞い上がる雪砂の向こうからはゆっくりと平地が浮かび上がる。しかし、丁度リタがいなくなったところから見えるクレパスの尖りに、キティはいよいよ確信に胸が跳ね上がった。
「リタさーん!」
灰色の靴底を踏出して、遂にキティもクレパスの原へ飛び込んだ。咄嗟にクラパが「駄目ですよ!」と、涙に溜めてキティの赤い裾を掴むが、栗色の髪がうねりをあげて振り返る。
「人の命には替えられんでしょうが!」
無意識に出た言葉だった。咄嗟にラクパの手が止まり、キティは目配せる暇もなく駆け出していく。いつまた始まるか分からない雪崩に怯えから逃げるように駆け抜ける足取りは鮮やかに、上下に揺れる視界から恨めしくクレパスの庇を睨みながらゆるぎない。
「リタさーん!」
キティもそこで初めて大声をあげて眦を吊り上げた。滑るようにクレパスの縁に身体の向きを並行にし、スライディングをして止まった。パラパラとクレパスの中へ落ちていく雪を追って眼下を見下ろすと、翡翠色の雪の層がバックリと仄暗い底を見せてキティの揺れる靴底を絡みとらんと誘う。リタの姿は見えなかった。
「リタさーん! リタさん! リタ、さーーん!」
口を手袋に囲いながらクレパスの底へと更に声をかけていくも、返ってくるのは反響して返ってくる自分の声だけ。「これは、自分から降りていかなければならないのか」思わず吸った息が短い悲鳴となって掠れる。分かったならば後はやるのみ。目の前の深さに怯える前にキティは振り返り、立ち尽くすラクパの肩を震わせる。
「ラクパさん! 救助隊のヘリを呼んで! この標高と天気と時間なら、直上に来ることくらいは出来るでしょ!」
キティは膝をつき、下ろしたリュックの中から金具の音を鳴らす。
「私が今からクレパスの中に降りてリタを穴から引きずり出す! その瞬間からヘリがリタを引き上げるように手配してもらって!」
震える手で取り出した金具の先を摘み、ねじ込むように雪の上に突き刺す。
「キ、キティさん……! 駄目ですよ……!」
首を振るラクパの声で食いしばる歯も恐れに緩みかけるも、その反動にキティは俯いたまま叫ぶ。
「急いでッッ!」
雪の草原を突っ走るようなキティの叫び。距離を隔てて突き抜ける翡翠の睨みにラクパは肩を跳ね上がらせる。涙を散らし声も出ないまま、けれど、目だけは太陽の光を借りて瞬き、その視線は途端に背後の雪原へと駆け巡った。
黒髪の端が白い地平線の向こうに消えたときをして、キティの鋭い眦は雪原にと向けられる。
「いける……! いける……! いけ、る……!」
素人の瞳は、変わらない雪の景色に全てを賭した。靴先を氷壁で突いて硬さを確かめ、アイゼンが深く突き刺す雪の音に頷き、そしてザイルを握りしめて手応えを手袋越しに掴み――、クレパスを見下ろすのは最後にした。
「うあ、あああああああああ!!」
そして自ずから宙を浮かせ、キティはクレパスの中へと飛び降りたのだ。視界から青い空は消えて、落下とともに半透明の氷壁がガリガリと素早い音を立て、ザイルを掴む腕の力でバランスを取ったキティの鼻先に迫る。
「わあ、わあああああああ!」
声の気迫で避けながら、つま先で氷壁を引っ掛けて必死にバランスを保つ。せめてとばかりに目を瞑り胃袋が落下している恐怖に耐えんとする。氷の粒が震えに鳴らす歯に当たって白い光を放った。
「ぎゃあ、ぎゃあああああああ!」
女の声とは思えない引き絞った叫びがクレパスに素早く通り過ぎていく最中――、顎を引いた拍子に開いた顰めっ面は捉える。水平に落ちる靴の奥に映る光景は、いつの間にかほの暗くになっていて、僅かな光の縁取りが丸まった人の背中を描いたのを。
「リタさーーん!」
氷の粒に顔を叩かれていたキティはそれでも彼女の名を叫んだ。途端に引き寄せられていく背中にはっとして再び歯を食いしばり、足の力を強めて必死に落下の制御をかけた。ザイルを掴む腕の力も振り絞り一気にかけたブレーキは、背中に当たる直前に止まった。
「助けにきたわよ!」
雪の粒を散らしながら身を乗り出したキティは、息もつかせず裏声をあげる。剥いた翡翠の瞳は、クレパスの氷壁から突き出た庇に丁度良く身体を収め、丸まる紫色のジャケットが鮮やかに映った。それは違いなくリタのもの、ようやく見つけることが出来たとキティは震え上がった。蹲った体勢から体や顔は見えなかったが、目を凝らす限りでは、外傷も血の跡もまだ見当たらない。ほっと息づくとともに汗もどっと滲み出る。
「リタさん! 今から引き出すわよ!」
キティの呼びかけに反応はなく、ジャケットはぴくりとも動かなかったが、意識を飛ばしているだけだと必死に思い込み、希望に翡翠の光が瞬く。問題なのは不安定な線の刻みを為す庇だ。このままリタの重量に耐えきれる厚みでないことは脇から見て取れる。ちょっとした振動で折れて奈落に落ちてしまったら、今度こそ助けられない。目端に映る真っ暗な闇に、キティは汗ばんだ眉間に皺寄せて目を瞑った。
全ては時間の勝負だ。動かないリタの直上でキティは慌ただしくて身を捩らせた。腹を囲うロープを強く引き締めて、体を倒しながら海の底に漂うダイバーの如く手足を藻掻き、リタを抱きかかえる体勢へと整える。ゆっくりでは駄目だ。と、ヒビの線が濃くなっていった庇を睨みながら思考を巡らす。飛び込むようにして一彼女を掴み上げなければ間に合わない。リタの命運はキティが飛び込むタイミングに賭けられた。全ては震えて下ろされる、その赤い手袋の中に。
「大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! いける! いける!」
寒さと緊張にかじかむ手を押さえて必死に意気込む。やってやる、やってやるさと、集中に狭ばる視界に目を凝らし、膝を曲げて助走をつけるために氷壁につま先を引っ掛ける。
そのときであった。太陽がクレパスの真上ににすっと登った。
そして、仄暗い海の底に一筋の光が差し込んだのだ。まるでカーテンの靡きのように斜めから半透明の筋を引いて青く透き通った氷壁に反射しては、俯いたキティの身体をそっと撫ぜる。過った光に視界が眩しくなった瞬間――、キティは初めて存在に気付く。光の波面が縁取るのは、リタと向かい合うようにして小さな尖りに引っかかっていた皮のベルト。キティが飛び降りた衝撃の名残にゆらゆらと揺れて銀の金具で繋げられた、黒い箱がぶら下がっていた。
「……!」
その正体を知る前に、箱は一点の星を瞬かせる。否、箱ではない。斜め下から豆粒のようなレンズが縁取るのは、鈍光。翡翠の瞳は今度こそプロの眼で、そして馴染み深い心地でもって正体を悟る。闇に揺らめくジャバラ、その先から覗く金縁のフレーム。間違いない。それは、メールを受け取った瞬間から何度も思い描いてきた、旅の目的の全て――、ジョージ・マロリーのカメラ。
虹の光に照らされた氷壁を背後にぶら下がるカメラは、黒を鮮やかに映して、キティに圧倒的な造形でもって引き付けた。キティと、リタがこの死の世界まで降りてきた象徴となって。
何故ここに、と、唇を動かす間もなく悟る。ジョージも当時、下山の途中でこのクレパスの中に誤って落としてしまったのだろう。持ち主の手から離れてしまっても、彼が死したとしても、彼の無念や執念を受け継いだカメラだけが、この張り詰めた氷の世界に百年もの間、奇跡的に有り続けていたのだ。
持ち主だったマロリーの蝋化した背中が過った瞬間に、対比した黒に目を凝らしたキティは、涙ぐみ鼻を啜る。
眼の前に揺らぐ愛すべきカメラの中にはあるのだ。ジョージの、否、全世代の、全世界の登山家たちが追い求めてきた、ヒマラヤに宿る神からのアンサーが。
しかし、どちらともは選べない。キティの前に絶妙な距離を保つリタとカメラのどちらととも器用に掴み取るなど不可能だ。また、どちらかを選べば、その弾みによっていよいよ片方は奈落に落ちることには違いない。
キティは今、選ばなければならなかった。リタを取るか、カメラを取るか。
「いや……! 私は何を言っているんだ……!」
過った選択を払うように、キティは栗色の髪を振り回した。途端に唇をへの字に引き締めると迷わない内に飛び出した。雪が舞い散る最中、キティは大の字に四肢をのばす。腕が求める先は紫色の背中。勢いにのって脇のカメラのベルトが上がったことなど見ないふりして目を剥いた。
カメラのために人を見捨てるなんてありえいない。滑空の最中に引き締める唇がひび割れて血も舞い上がる。
「人の命に替えられるものなんて、あるものか!」
胸の内に声を弾かせて力をみなぎらせては、今度こそは視界目一杯にリタを捉える。残った力全てを彼女のためにと赤い手袋は五つの指に分かれゆく。遂にその手がリタの身体を掴みかけた。一瞬の刹那、キティの瞳は脈動に再び開く。リタの身体が突然跳ね上がった瞬間を前にスローモーションに映像が移り変わる。
包まれるはずだった彼女の身体は突然捻って、腕を振り上げたのだ。その、最後の救いの手を弾かせて。
「な……!」
その崩れ落ちる庇。氷の屑とともに闇の中に消えゆく間際に、リタもまた向かいにぶら下がる黒い箱へと飛び出したのだ。そこからキティは宙に舞い上がる髪の隙間からリタの横顔を見た。口の端から血を吹いて、そしてどこまでも鋭い目が、白線を引いて鈍い光を放っていた。
「リタ……!」
キティの叫びにリタは、宙に浮いた最中で笑う。口と鼻から血が飛び散る、その浅ましささえ視界から消し去るような――、柔和な微笑みでキティを細め見る。それに対し、ベルトを掴む腕は逞しい勢いを為し、キティの胸の中へと突き上げるのだ。キティはその瞬間、無意識に彼女の腕を受け取った。しかし、落ちる重力を女の腕だけで支えることは到底無理で――、大きな布擦れとともに無慈悲に、そして一気にリタの白手袋はキティの指からずり落ちていく。その間際、両手で握りしめたベルトだけがその間に挟まれた。
ああっとキティが声を上擦る間に、リタの頭は地獄の底へ向かって緩やかな半円を描くように落ちていく。最後に、キティの腕の中で留まるカメラの瞬きを見て、太陽の光を見上げながら顰め面に、それでも微笑みは絶やさぬままに、最後に言った。
「ごめんね」
そこからは、あっという間に彼女の靴底しか見えなくなり――、そして大きく氷壁とぶつかる鈍音とともに底の影と一体となって消えゆく彼女を震える視界が無常に映す。身を揺らされながらも一切が止まった刹那。しかし、眼下にぶら下がるカメラの瞬きが翡翠の瞳を照らしたとき、あふれ出る感情は絶叫となって、氷壁が囲む世界に響き渡る。
「リタ……! リタアアアアアア!」
獅子の如く咆哮で涙を流すキティの雫が、揺れるカメラを避けて底に落ちていく。キティは一人、誰もいなくなってしまった氷壁に取り残されたまま泣き崩れた。ただ、その手に掴むカメラだけは力強く握り締めながら。
***
キティはその後、数時間も氷点下の中で取り残されたままだったが、無事に救助を受けて麓まで下り病院で診察を受けた。
「信じられないことだが、特に異常なし」と診断されたものの、分厚いポンチョを身に纏ったままのキティの顔は呆然としたまま青ざめており、陰鬱に影っては廊下の端に置かれたソファに座っている。その隣には真っ赤に目を腫らしたラクパが座り、片手で啜る顔を拭きながら蹲るキティの背中を撫ぜていた。かつて、リタがしたときのように。
「キティさんは、貴女は何も悪くありませんよ」
キティはその言葉に答えず、俯いたまま鼻を擦る。手袋に擦れた鼻先がじんと滲んだ。
「どうして……リタさんはあのとき……前に進んでしまったのかしら……あんなに最後だって言っていたのに……」
「最後だったからこそでしょう」
あまりにも冷たい廊下の中で大きく響き渡ったのだから、キティが斜め上へと顔をあげるとキティには顔を向けず、膝の上に手を揃えるラクパの横顔が白い尖りを放っていた。
「最後だったらからこそ、今度は命をも賭けたかったんでしょう。登山家として、その気持ちは分からないでもありません」
鋭い眦で壁のその先を見る未来の登山家は言い切った。あまりの眩さにキティは堪らなくなって彼女の代わりに涙を流す。キティには登山家としての、彼女たちの矜持を慮ることは出来ず、差し込む日差しが残酷だとしか感じられなかった。
そも、「他の人にこんな思いまでさせたくない」と言ったのはなんだったのかと思いたくもなる。それを問い詰める宛もない中、せめてとキティは瞑った瞳の奥で、最後のリタの顔を浮かべる。あれは最後まで成し遂げようとし、全てがダメだったと悟った瞬間の笑みだったのかもしれない。それがよりによって登山を知らぬ自分に向けた「ごめんね」だったなんて。
数多の人の死に目を見てきた心の傷をリタは知っていた。だから、また人の最期を看取ることになってしまったキティへのせめてもの懺悔だったのだろう。悟れば悟るほど虚しさと悔しさが混み上がってきて、行き場のない情動に冷たい手で涙滴る頬を掴んだ。
やがて廊下にガタンと大きな音が響き渡る。二人同時に顔を向ければ、暗室から見知らぬ男が扉を開いて出てきたのだ。
「やったぞ、出来たぞ……」
顔は呆然として小さい声だったのに、はっきりと感じてる眼の引き攣りと切迫した覇気に二人同時に顔を見合わせる。
「ジョージ・マロリーのカメラに残った写真が……! 現像出来た……!」
報告する間も惜しいと言わんばかりに声を捲し立て、真っ暗な部屋へ手招きする男。二人も席を立てる音を鳴らして早足に駆ける。それに周りに待機していた者たちも、それぞれの言語で驚きの声をあげながら続いていく。
彼らは遂に、歴史的瞬間を見ることになる。偉大なる登山家、リタの命を引き換えにしたその証は、果たしてどのような結末を彼らに諭したのか――、その事実を百年の時を経て見せる小さなジャバラのカメラは、開かれたカーテン越しに差し込む光を反射して悠然と佇んでいたのだった。
***
一人の命を呑み込んだエベレスト山は、その前と変わらず、素知らぬふりで白と灰とを入り混じらせた尖りで雄々と空を貫いている。残酷な自然の美しさを前に、人間ばかりがその麓で大騒ぎするばかりだ。白いテントを囲った人たちは戦々恐々と目配せ合い、口走りながら駆け抜ける中、その要因に一番間近にいたはずのキティとラクパは遠くの位置から背を向けて、ともに整然とする山を眺めていた。
「ラクパ……今日までありがとう……私、明日の朝には発つわ」
キティは最後であろうヒマラヤの光景と風の感触を刻もうと、腕を広げながら一杯に受け取っている。
「キティさん、こちらこそ……。どうですか、胸は決まりましたか」
一方で黒い瞳は真摯な眼差しで少し高い隣の顔を見上げた。側にはためくタルチョとともに黒い髪は今日も渦巻く。その問いに翡翠の瞳――、キティの睫毛は伏せて沈黙の内に腕を下ろした。
「貴女はどう……? これからの登山の道、不安には思わない?」
代わりに問いかける言葉から、おのずと答えを貰ったような気がして、ラクパも寂し気に目を伏せつつ「不安に思わないことはないですが」と、呟く。
「それでも、私は進むつもりです。この先、登山はますます困難になるでしょうが、一方でより登りやすくなるための技術だって進んでいるんです。勿論、環境保護にも適応できる技術が……ましてや、リタさんやマロリーを下界に連れ戻せる方法だって出てくるのかもしれない。そう思っていたら、うかうかなんてしていられませんよ。キティさんの方こそ、それこそよく分かっているんじゃないですか」
ラクパの目配せに、キティは山を臨んだまま白い息を吐いた。霞む太陽の日差しに思い出す。リタを喪い、氷壁に閉じ込められてから数時間後、垂れ下がるロープにしがみついて引き上げられたとき、クレパスの縁を握った瞬間に仰ぎ見たのはホバーバイクの影。その先から放たれた光に、凍り付いた翡翠の瞳は確かにあのとき溶けたのだ。
「……あの頃から随分と、蔓延るようになったじゃないの」
ホバーバイクの側面に書かれた「ムンダネウム」の英字体を見た心地を思い出し、ふつと自嘲しては俯いた。その言葉はラクパには聞こえない。代わりに甲高い声が彼女の背中を押した。
「ああっ、キティさん、すみません。呼ばれたようで……じゃあ、また……」
「お疲れ様、気を付けてね」
そこで二人は目を合わせ、祝別会の約束をかわし合う。ラクパは微笑むと、黒い髪の流れに沿って視線を外し、呼ばれた方へと一気に掛け降りていくのだった。それを流し目に見守る翡翠の瞳もまた、再び山の方へと仰ぎ見る。
一人になったキティの視界を、ヒマラヤの尖りが独り占めに聳える。こんなに迫っているのに決して届かないものに、キティは思い人と重ねた。
「ねえ、そこに行けば……もっと貴方に近づけるかしら」
下ろした指は覚束ないまま、眦が緩んで翡翠の瞳は潤みに瞬く。ようやく絞り出した胸の内を、それでも風は彼方へと吹き飛ばしてしまう。口を小さく開いたままのキティは涙ぐんだ瞳で目に見えぬ風邪追いながら俯いて、うん、と答えた。
「そうね……」
独り言つ、伸ばした手はヒマラヤの山ではなく、その胸に提げたカメラに触れる。
「私も もう少し、こっちでジタバタすることにするわ……」
声ははっきりとしていたけれど、瞳はまだ空の彼方を見上げていた。彼女の真意を知るのは胸に瞬くライカだけ。その中に映し撮った景色もまた、キティの生き様をこれからも刻み続けるだろう。
それでも、少しだけ、あと少しだけと、ヒマラヤの中央を真っすぐに貫く背中。栗色の髪は雲の一つもない空に煌めき、優美な渦を描いていたのだった。
終




