小話 エベレスト編(前編)
『ジョージ・マロリーのカメラって知っていますか』
見知らぬメールアドレスから送られた件名。いけないと知りつつ「ジョージ」、「カメラ」の文字に惹かれてタップしてしまうと、そぞろに以下の文面が現れる。
『ヒマラヤ山脈、もといエベレスト山の初登頂の記録は1953年とされています。しかし実は、その30年前に既に達成されていた可能性があるのです。その唯一の証拠とされているのが、今もエベレストのどこかに眠っている、ジョージ・マロリーのカメラです。ジョージ・マロリー、1920年代に活躍した登山家です。同胞の貴女なら既に、その名は知っているかもしれませんが』
ようやくスパムではないと覚り、続く文面に一気に引き寄せられる。
『ジョージ・マロリーは1924年にエベレストの初登頂に挑みましたが、二度と帰ってきませんでした。最初は失敗したと見なされていますが、それから数十年後に発見された彼の遺体の痕跡を辿ると、彼は下山途中だった可能性があり、実は登頂には成功していたのではないのかと話題になったのです。 彼は登頂に成功した暁には現場をカメラで撮って帰ると話していました。しかし、遺体現場にカメラはありませんでした。つまりカメラは、今でもヒマラヤのどこかにあるのです。どうですか、キティさん』
しばしの改行を経て文面は誘う。かつてない純白の大冒険へ。
『私と一緒にジョージ・マロリーのカメラを探す、エベレスト登山に挑戦してみませんか』
***
「まさか……自分がここに行くつくになろうとは……」
ライカD3を下げて景色を見ようとする彼女の顔へ、冷たい風が通り過ぎる。それに首を竦めつつ顰め面から顔を上げると、足元から続く広大な礫の原に地平線のつけ根から青々と空に溶け込む山並みが聳え、その奥では更に真っ白な頂が水平な尾根となっていた。いつもなら雲の陰影が空の広さを見せるというのに、ここには薄雲さえなく押しつぶされそうなほどにのしかかる青い空を、ぐるりと視界を取り囲む峰々が遥か遠くの端で支えているように見えた。これが「世界の屋根」の由来だと――、余りにも広すぎる視界を目の前に、虹色のゴーグルから日差しを避ける彼女は思わず呟いた。
頬に触れる栗毛の先が痛い程に冷たく、吹き荒む風は強いのに鼻先で感じ取る感触は薄い。それで、ああ自分は本当に来たのだと、伏せた同じ色の睫毛は揺れる。この高度数千メートル、天国に最も近い場所へ。
「あらまあ、キティさん。初めてのヒマラヤ山脈はいかがかしら」
すると、風に負けじと溌剌した女性の声が背後から降り注ぐ。礫の頂上に立って微笑む妙齢の女性が真っ赤なジャケットの裾を靡かせていた。
「リタさん……」
相手の女性へキティが顔を綻ばせると女性、リタはにっこりと笑うと同時に、目尻に幾筋の皺を寄せ上げた。妙齢ながらも紫外線に照らされ続けた顔に、はっきりと刻まれた皺が白い光に縁取られている。しかし、それを全く気にしせずに白い歯を見せる気概はむしろ美しい程だとキティは思った。
やがてリタはスニーカーで礫を弾きながら下ってくる。それに続いてキティも坂を上がり、やがて間近に向かい合う二人は、ヒマラヤ山脈を背後に固い握手を交わした。
「素晴らしい景色としか言いようがありませんわ。貴女のお声掛けがなければ、この景色を知らない一生を送るところでございました」
「あらあら、今や世界を又にかけるカメラウーマンからそう言っていただけるなんて。ここより高いところなんて、貴女なら何回も駆け巡ったでしょ?」
「確かにそうですけれど、不思議なんです。何だか、全然違う世界に着いてしまったような感覚で……」
「そうね。あまりの天候の激しさに、飛行機でさえもこの辺りは飛ばない。だから、私もいつも自らの足でここに来てしまうのよ」
互いに共感の目配せで頷き合い、握手のまま揃って山並みを見据えた。キティはその間際に、目を細める彼女へ視線を映す。赤黒い鼻先を空に魅せる女性の名はリタ・クロップ。彼女こそがキティに誘いのメールを送った当本人である。
登山家の父と、ヒマラヤ現地ガイドであるシェルパの母との間に生まれたの生粋の山っ子であり、普段は麓の村で農業を営みながら、父の跡を追いかける登山家として活躍をしている。そして今は十年前から登山界隈最大の謎、ジョージ・マロニーのカメラを探し当てる挑戦に挑んでいるのだ。
「十年前……それは丁度、貴女がムンダネウム紛争に関わって、大いに脚光を浴びたときでしたわね」
向かい風に顔を顰めつつキティを見る細目に、翡翠の瞳は伏せ目がちになった。
「……そこから、私のことを?」
「ええ、そこで是非……、私の……最後の挑戦を貴女に看取ってもらいたいと思ったんです」
「……え?」
「最後」、「看取る」という不可解な言葉にキティが眉を顰めると、クラパは眉を緩めて口角の皺を寄せあげた。
「ええ、最後。今回の挑戦が最後になります。どうか最後の贐として、素敵な写真を撮ってくださいね。それではベースキャンプまで案内しますわ」
キティが問いかける間もなく、彼女は背を向けて表情を隠すと颯爽と礫の山を下っていく。彼女の首周りに靡く黒色のジャケットを見下ろし、キティは呆然と頂上に立つ。
「どういうことなの……?」
クラパの足取りから先の景色を目線で先に辿れば、タルチョが原色の光を帯びて靡き、そこから右手奥の窪地の真ん中あたりには巨大な白テントが陣取っていた。
そこが自分たちの次の行く場所。過る不安を振り払うようにキティはカメラベルトを握りしめる。すると、遮りのない光を受け止めるD3のフレームが、虹色の光線を放って瞬いた。
***
キャンプの中は想像していた様相と全く異なっていた。
例えるならば、マレーシアの奥地で見た平屋建ての小学校のようだ――、と、半端な例えをしてしまった翡翠の瞳は不甲斐なさにしょぼくれつつ、布張りに覆われた窓を見上げる。
そこから賑わいのある方へ顔を向ければ、奥行きのある長方形の大部屋に白いテーブルが真ん中に置かれ、色とりどりのジャケットを羽織る男女が椅子に腰掛けてながら話し込んでいる。地図を広げて思案に更ける一方、ストーブに固まって談笑をする者たちや、脇に並べられた無線機でやりとりしなかまら粛々と作業をする者、他部隊との交流をする者など、人間模様も様々であった。多言語を得意とするキティの耳は多数の言語を聞き分けて、興味深そうに顎に指を添える。
「凄い。今、10カ国くらいの言葉が入り混じってる! まるで国際会議室みたいじゃない!」
ミャンマー語で口覆うキティに、馴染み深い母国語を聞いた背後のリタもにこりと笑う。
「そうね、全くもってその通りよ。海に国境はないというけど、山にも国境がないようにも思うわね」
一瞬、その顔が陰った理由を終ぞキティが知る由はない。キティはしばらく賑やかな様子を撮影していると、ファインダーは一番奥の隅に珈琲を啜っている小柄な女性を捉えた。丸みを帯びた小さな鼻先と、ぷっくらとした唇が幼気な、赤褐色の肌を持つ女性。キティが目配せするとともに、彼女もまたキティの存在に気づいて、ぱっちりとした幅の厚い瞼を開いた。すると、眩い白目がみるみる明らかとなっていく。
「貴女は……!」
大きな音を立てて立ち上がると、ジャケットから舞い上がるうねりのある黒髪にキティがのぞける。すると、その肩を掴んだリタが彼女へと手を振る。
「お疲れ様、ラクパ。そう、この人があのキティさんよ」
言い終わる前に彼女――、ラクパは黒髪を靡かせながら颯爽と飛び込んで来た。
「わあー! お噂はかねがねー! はじめまして! 私もシェルパとして今回の挑戦に参加します、ラクパと言います! よろしくお願いします! きゃー! 会いたかったわー!」
黒手袋のままキティの手を掴み、可愛らしい笑顔でぶんぶんと腕を振る。
「え、ええ。よろしく。ラクパさん。カメラウーマンのキティです。貴女も私のことを……」
キティもぎこちないながら微笑みで返すと、ラクパは大きな目を瞬かせ、もっと大仰に腕を振るう。
「ええ! 勿論! 何たって、貴女の参加をリタさんに推薦したのはこの私なんですから!」
「え、そうなんですか!?」
咄嗟に後ろを振り向けば、リタもこくこくと頷いていた。
「まあまあ、立ち話もなんですから、ね!」
案内を受けて椅子に座ると、やがてお揃いの赤色のカップを黒手袋から受け取った。湯気の向こうでは備え付けのコンロの上に赤いポットが沸々と湯気を立たせ、ヒマラヤの澄んだ空気に波面を浮かばせている。一方で、椅子にドカリと座り直すラクパから、挨拶もそぞろに先の顛末を窺うことになった。
日差しに反射した笑窪を瞬かせて語るには、ラクパは十年前のムンダネウム紛争に、日本部隊の一人として関わったチベット人の医者、テンジンと古い顔なじみであり、彼からキティの経緯を知ったというのだ。 確かにヒマラヤはチベットとネパールの国境沿いにあり、ヒマラヤ奥地で暮らすシェルパ族の一員である彼女が、テンジンと知り合うには不自然でないことであった。
キティはテンジンのことをそこで初めて知ったのだが、テンジンから聞いたという自身の逸話は今まで見聞きしたものよりも正確で、翡翠の瞳を瞬かせる。しかも、本人が恥ずかしいことだとひた隠しにしてきた、「山奥地で盗賊に遭ったときAKの弾を4発喰らいつつ、40分をかけて自力で麓の村まで下った」逸話まで取り上げたことに、「ひゃっ」と短い悲鳴をあげて己の額を叩いた。
「え、やだっ! そんなことまで知ってたの!?」
「ええ、それも面白いことに、テンジンさんが連れてきた若い男の子が『俺はそのときキティを襲ったその盗賊なんだー』って豪語してたりしてて。流石にそれは嘘っぱちなんでしょうけど……、あ。あっは、やっぱりそれは本当だったんですねぇ」
小顔を揺らしてケラケラ笑うクラパに対し、十年前の時を越えて寸時に思い浮かぶ太い眉毛と赤い瞳を思い出し、「あいつかああ」と、拳でテーブルの角を叩いて突伏するキティであった。クラパに後から聞いた話によると、男の子はしばらくテンジンの側にいたというが、長閑な高地暮らしに飽きてしまったのか、二年前くらいから急に「好きな娘を連れて帰ってくる」と言い、流浪の旅に出てきてしまったらしい。そんな突飛さも含めて「変わってないんだなあ」と、布張りの窓から覗く尾根伝いへ、少々呆れ気味に頬杖をつきながらキティは憎らしく、また懐かしい彼へと思いを馳せるのであった。
その間にリタは登山仲間たちと手を取り合い、久々の再会に会話を咲かせている。ふと思い出したキティはラクパに耳打ちをした。
「リタさんがさっき、今回の挑戦が最後だって言ってたけど、何か事情でもあったの?」
クラパはああと、ため息混じりに息を吐いて答える。
「それですか……、ええ、残念な話なんですけれど、やっぱり時は逆らえませんからねえ……」
「と、いうと……?」
「まあ、年齢ってやつですよ。今年が丁度、『壁』の年齢になったんです」
「年齢ですって?」
そんな馬鹿なと、キティは振り返ってリタを見る。小柄ながらも登山家として鍛えた足腰の逞しさは遠目からでも窺えて、しゃんとした背すじとのばした足。小皺は目立つがそれは紫外線のせいであって、今だみち満ちとしている笑顔は可愛げもある。まだまだ現役ではないかと開きかける唇に対して、落ちた声は静かに諭した。
「ここ、ヒマラヤは知っての通り、とても危険な場所じゃないですか。その年齢を超えると滑落による登山死が急激に増えるという傾向が実際にあるんです。彼女の同世代の登山家たちもそれを超えてから……全員、亡くなりました」
翡翠の瞳と栗色の髪が、動揺に波打つ。
「全、員ですって……?」
「ええ、全員です。しかも5人も」
ばっちりとした目を合わせつつ、ラクパは言った。
「全員、プロの登山家でした。それでもです。万が一に即死でなかったとしても、この極寒と灼熱が瞬時に入れ替わる無茶苦茶な気候の中で、耐えきれる体力を保てなくなってたんです。落ちたらそこで終わり。そういう年を迎えたというのですよ」
さっきまでの明るさから、瞬時に打って変わる色味のない黒い瞳がまた、ヒマラヤの過酷な気候のようにも見え、キティは顔を反らしてしまう。
「それだけじゃないんですよ。お嬢さん」
すると、急に太い男の声がラクパの背後に降りかかった。舞い上がる黒髪から見遣る先には、顎周りを覆う程にフサフサとした茶色い髭を生やす男が、真っ青なジャケットのフードを被り、結露した眼鏡ごしに覗くヘーゼルの瞳で女性陣を見下していたのだ。
「あら、お疲れ様、今日の観測は終わったのね」
一方でラクパは難なく答える。どうやら彼女とは知り合いらしい。やがて男は徐に被っているフードを取った。パラパラと散る雪が先まで登山をしていたのだと悟らせる。
「ああ、今日も3つくらい新しいクレパスを観測した。思っていたよりもずっと早いスピードで進んでいる」
フードの縁に指をかける間際に言った彼へ、懸念に眉を不均等にあげるキティは覗き込むように首を傾げる。
「クレパスって確か……氷の亀裂って、意味ですよね……」
「ええ、落ちたら助からないレベルの」
「それが温暖化のせいで高標高でも氷が解けるようになってから、急激に増えてきているんだ。そしてかつてのクレパスも深く、大きくなっている」
補足をするラクパの背後を通りかかり、男は挨拶もなく述べ続けた。
「それに乗じて、クレパスによる滑落事故が多く出ている。十年前だったらありえなかったレベルの多さだ。その気候変動も含めてエベレスト登山はもっと危険な領域に入っているんだ。クレパスだけじゃない、雪崩もここ最近、神出鬼没に増えている。これも温暖化の影響なんだよ」
キティは唇を引き締める。
「環境問題、ですか……。30年前から問題にはなっていましたけれど……まさか、ここにまで……」
「そのときに何もしなかったせいで、取返しのつかないところにまで影響がかかっちまっているんだよ」
男は鋭い横顔でキティを捉えつつ、ポットのお湯を手持ちの銅製のカップに注いだ。それにラクパも意味有り気に頷きながら、キティへと伝える。
「ヒマラヤ山脈は北極、南極に次いで第三の極、と、言われるほどに氷の壁が厚い、世界の冷氷庫です。北極や南極の環境問題はよく聞きますよね。それなら当然、この第三の極だって何もない筈がないんですよ」
両手を広げながら滔々と説明するラクパにキティも頷く。彼女の姿を通して氷河が海に落ちていく様を思い浮かべた。やがて、側で聞いていた他のパーティーたちもそぞろに相槌を打ちながら話に入っていく。
「哀しいことだわ。このヒマラヤ山脈――、神々の頂だけは、変わらない威厳さを持っていたような気がしてたのにね」
「環境問題は世界中の国が協力しないと解決出来ないものだ。その間にも色々あったけど、戦争とか紛争とか、やってる場合じゃなかったんだよなあ。ましてや、あのムンダネウムも……」
「全くだわ」
腕を組む面々を前に、拳をテーブルの上に置いて答えるキティの声がやけに大きかったことを本人は気付かなかった。それに少し退く者たちが出てくる中で、彼らの目線はキティの背後にそっと寄り添うリタに向けられた。
「そうね。本当なら登山家の本分として、例え山に死しても挑戦し続けてやるって、言いたかったけれど……」
顔をあげるキティを見下ろし、腕を組むリタは数多の視線の中心に立って腕を組む。
「流石に仲間を五人も山に奪われるとね……。こんなに身を引き裂かれる程に哀しい思いを、他のみんなにはさせたくないと思ってしまったのよ……」
鼻を下に向けて、リタは揺れる眦を伏せる。その骨ばった手の甲が悔しさに掴む腕の力で脈打つ。皆もそれぞれの心当たりを忍ばせながら、彼女の放つ悲しみの波に浸るのであった。それでもキティは気付かない。そこにいる登山家たちの中で、誰一人として仲間を喪わなかった者はいないことを。
「そんな……危険な中で、どうして貴方たちは今、ここにいるのですか」
やがて、登頂未経験者であるキティはままならぬ恐怖に身を震わせ、面々を見渡して問う。
「最後どころか、今諦めることも道理でしょう。いつ呑まれてしまうか分からない、ここは恐ろしい地獄なのに、それなのに、どうして!?」
「そこに山があるから」
するとラクパが素早く答えた。キティははっとして目を凝らす。
「その言葉は……」
「ええ、これから私たちが追い求めるジョージ・マロリーのカメラ――、その持ち主であるジョージ本人の名言です。全ての猥雑な思考を取り払ったあとに残る究極の、人間に宿るたった一つの意志。ただ、そこに在るから。それに、私たちは人生における唯一の希望を見出すのです」
「そして、言葉によって多くの人は死んだ。彼本人をも飲み込んで」
するとリタが腕を組んだまま、天井を見上げてラクパの言葉に乗せた。
「でも私は軽薄な人間だから、それでも思ってしまうの。全ての人を巻き込んできた言葉を為した彼が、もし、エベレスト登頂に初めて成功していたのかもしれないと分かれば……、少しでも彼らの死が報われるんじゃないかってね。彼の言葉は間違っていなかったと、その希望には叶えられる程の、結果があったんじゃないかって、どうしても思ってしまうの」
白壁の向こう側、遠くを見据えるリタの黒い瞳にキティは見覚えがあった。それは、死を見てきた者の目。彼女にとっては生が満ちた下界こそ馴染めない異世界なのかもしれない。リタの目的をようやく実感したキティの前を通り過ぎ、やがて、髭の男は静かにリタに歩みよっては、手に持っていた模造紙を渡す。
「……リタ。明日からお前たちが行くルートの地図だ。クレパスの位置を全て記した。この通り、かなり危険になっているぞ。それでも行くのか」
「ええ、ありがとう。女三人水入らずとさせていただくわ」
地図を広げ見るリタの瞳は、登山家としての事の大きさを寸時に覚るも言い切った。
「そう、か……。どうか、気を付けてくれ」
徐に下ろす黒手袋は、地図を摘まむ彼女の指から名残惜しそうに離れていく。本当は掴みたかったのかもしれないと覚らせる指の動きは、地図に視線を外さない彼女を見る男の視線とともにしな垂れた。一方、始終見守っていたキティは、やがてヘーゼル色の鋭い視線を向けられる。そうして、無言の内に彼女の無事を託されたのだった。
***
「ああ、さっきの男性ですか。リタさんの異母兄ですよ」
あっさりと言ったラクパの答えに、キティはココナッツスープを噴き出した。
「あっははっはは、慌てすぎ。父の前妻の息子だったのよ。物心ついたときに両親からしっかり聞かされていたから、そんな気まずい関係にはなってないってっ」
「仕事を理解されずに別れてしまった過去を持つ登山家も、まあ、あるあるなんですよ」
咳混むキティの隣で胡坐をかくリタは、大笑いをしながら彼女の背中を摩った。夜、共有キャンプを取り囲むように設営されたパーティー毎のテントには、ランタンの光を漏らし、それぞれ穏やかな時間を過ごしている。中でも、唯一女性だけのメンバーで身を寄せ合う三人組は、銀色のプレートに湯気を漂わせ、豪勢に盛り込まれた夕食を前にはしゃいでいた。
「あら、でも、貴女にだって確かいるんでしょ? 片違いの弟さんが」
ジャマイカ米の炒飯を頬張るリタに、うっと、いんげんの炒め物を喉に詰まらせたキティは翡翠の瞳を瞬かせる。口元を抑えながらキティは瞬きの内に跳ね上がる心臓を整えた。ムンダネウムの功績から自身も取材対象となったキティは、十年前と変わり謎のカメラウーマンではなくなっていた。
「そう、ね……」
栗色の髪を垂らす横顔からランタンの灯が届かない暗がりを読み取り、リタは真顔に戻る。
「あら……ごめんなさい。貴女の場合は……穏やかなことじゃなかったのかしら……」
「ええ、まあ……そのことについては、こっちもこっちでけじめはつけられたから、もういいんです。でも……悩ましいのはこれからのことで……」
「これからって……確か今、弟さんと故郷で二人暮らしされてるんでしたよね」
キティと向かい合うように胡坐を掻き、ネパールの伝統餃子を頬張るラクパの声は変わらずであった。
「ええ。でも、そろそろ、彼を独立させて離れた方がいいんじゃないかって思うようになったんです。今までは、彼は子どもだからとその保護に努めてはきましたが……」
「弟さん、今年で何歳になったんでしたっけ」
「23です」
「なるほど、成人はしたのね。ラクパ、同世代としてどう思う?」
「うーん、びっみょうなところだなあ」
ラクパは腕を組んで目を瞑り、唸りながらランタンを見上げた。
「それ、人によってはまだまだ保護者の支えが必要な歳じゃないですか? ましてやキティさん。独立したら取材とかして、もうほぼ会えなくなるんでしょ? だったら、まだ凄く寂しがる年頃だと思いますけど?」
相変わらずはっきりとした口調で言い切った。リタもさもあらんと頷く。
「そうねえ。貴女は25歳だけど、まだまだ御両親にべったりだもんね」
「そりゃぁ、シェルパの稼業は伊達じゃないですもん。両親に教えてもらわないといけないことは一杯ありますから!」
自分の未熟さに卑下もせず胸を張るラクパを笑うリタであったが、その間にいるキティの睫毛は重かった。
「……どうやら、弟さんを嫌っているわけではないようだけど……どうしたのかしら」
ランタンに縁取られたキティの唇は微かに微笑みを浮かべつつ、翡翠の瞳は陰鬱な影を隠せていない。
「……決して、彼のせいではないんですが……。あの子といると……やっぱり思い出してしまうんです」
しばしの沈黙を経て、開かれた唇と同時に滲ませる目の潤みは、慕情に見える一方で躊躇も窺え、リタの胸を疼かせた。
「思い出してしまう、とは……?」
「死んだ……母を……思い出してしまうんです……。彼、私よりも母似で……、彼が母と一緒にいられたのはたった5年だったはずなのに……。話し方とか、目配せとか、微かな癖が……信じられないくらい、母にそっくりで……」
「まあ……なんてこと……」
クラパもうねった黒髪を垂らす。二人はキティの両親の経緯も知っていた。
「それをきっかけに、色々巡ってしまうんです……。父や、祖父母や、看取った人たちを……ムンダネウム紛争で亡くなった人たちも……そしてジョージ……も……」
「ジョージって……?」
「……恋人、でした」
震えの声を端に浮かばせて、キティの睫が揺れ一粒の水滴が散った。
それは、キティが初めて人に告げた言葉。ヒマラヤの澄んだ空気によって、寸時に二人の耳に伝う。
「そう、だったん、ですか……」
スプーンを徐に置いたラクパと同時に、リタはプレートを置いてはキティの背中を再び優しく擦る。
「知らなかったわ……ご両親に続いて、恋人もだったなんて……」
しかも、同じ「ジョージ」だとは。もしや、彼女がここに来た理由も――、踞るキティを挟んで二人は目配せ合った。
「今までは、世界を駆け巡って慌ただしい日々を送ってきました。騒がしいときだけ、私は彼らのことを浮かばないでいられたんです……。でも……、帰る家が出来て……そのときに彼がいると……どうしても、次第に……その、辛くなって……」
キティは目を瞑った。慰めの眼差しが、キティの情動を込み上がらせるのを二人は知らない。二人の瞳には、かつて人々を魅了した麗しい容姿を持った男は映っていないだろう。かつて、自分よりもずっとずっと名を馳せた彼の名が出てこないことに、キティは無常な時の流れを思い知る。
「……それで、忘れるために、彼の元から離れたいと思ってしまったと?」
「……我儘ですよね。彼の都合も考えないで………」
キティは指の腹で睫毛に絡む涙を拭い自嘲気味にリタへと微笑む。リタはキティの揺れる視線に対して正面から彼女の苦悩を受け取りながら首を振った。
「いいえ、違うわ」
キティは目を見開く。
「え……」
「貴女は逃げようなんて思ってないわ。むしろ、今こそ立ち向かおうとしてるのでしょ。だって、そうでなきゃ、貴女が依頼を受けるはずがないじゃない」
「……どういうこと、ですか?」
口開くキティの奥では、ラクパもうんうんと頷いていた。
「そうですよ。だって、ここはどこよりも、死者に近い場所ではありませんか」
キティが振り返る先で、テントの天井に指を差し、ラクパは峰々を描く。
「地球の中で一番高いところ。死した者たちがいる空に、最も間近に感じられるところ。天国であり、そして地獄でもある。ましてや……潰えた挑戦者たちの墓場でもあります。生の実感があるとともに、死に最も近いといえる世界じゃないですか」
切々と語るラクパの黒い瞳が、誰かの硬直した指の影を過るのを知れず、キティはランタンに瞬く潤んだ瞳を向ける。
「そう、かしら……」
「そうよ。貴女は自ら選んで私たちとともにいる。それが無意識の中に宿る貴女の意思じゃないかしら。だから、貴女は逃げたいんじゃなくて、これからもっと、もっと、彼らの生き様を突き止めていきたいんじゃないの? その意志をきちんと、弟さんと話し合ってからこれからを考えてもいいんじゃないかしら」
リタはまるで妹に語りかけるように、柔い声で答えた。掴む指の力と優しさを感じながらしばらくキティは天井を見上げている。漂う湯気を無意識に雲に見立て、オリーブの布張りから青藍な空を浮かばせる。その中心には白い山角に立つ手足の長い男の背中が見えた。初めて見るような、否、懐かしいようなその細い勇姿。雲を靡かせる風によって金髪もはためきーー、キティは栗毛の瞼を伏せた。
「……ありが……とう」
やがて、振り返って答えた彼女の微笑みに、下げた眉とともに穏やかに返すリタとラクパであった。
すると、その間を縫うように地響きの音がキティの熱くなった耳に響く。彼女は小動物の如く顔をあげた。
「今のは……!?」
「ああ、雪崩ですよ」
一方で、ラクパは軽々しく答えた。
「大丈夫ですよ。どこか遠くの、標高の低いのところからでしょう。私たちには何の影響もない筈ですよ」
リタもよく知る心地で頷いたが、不可思議に首を傾げる。
「でも……、冷え切った夜から雪崩なんて、珍しいわよね」
「まあ……、これも温暖化なんでしょうか……」
そんなぼやきもそぞろに、明日の出発に備えて三人は就寝することにした。ランタンを消し、川の字になってヒマラヤの大地に寝そべる彼女たちは、そのときまだ知る由もなかった。
記憶から消えゆくその雪崩が、明日の運命を定める合図だったことを。
(後編へ続く)




