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GG&CK番外編  作者: 根井
16/21

小話 クルージングボート編(後編)

 突如とした起こった事件。図らずも現場となったハーバード大学では、その話題で大騒ぎとなっていた。


「え、何!? 一号館の脇で白骨遺体い!?」


「しかも聞けよ、何でも数十年前からのらしいぞ」


「えーっ!? だったら俺たち、その上で歩いてたり寝そべったりしていたかもしんねえの!?」


 講義室の長机に尻をついて向かい合う学生の塊は、嫌そうに窓へ顔を向ける。長格子の奥では秋の紅葉散りばめく芝生が麗しい中庭の景色に、黄色いバリケードテープが幹から幹へと貼り巡らされていた。


「乳児の遺体というのは、どういった経緯で埋められたんでしょうね……」


「殺人事件でないことを願いますが……」


「ボストン警察署が目下調査中と聞いてますけどね……果たしてどうなることやら」


 講義室を移動する教授たちも教本を両手に抱え持ち、脇のベンチに座ることも忘れて喫煙台を囲い、煙の狭間で話し込む。


 半端ではない事件を前に、学生も先生も戦々恐々と色めき立つ中、騒動の真ん中にあったウェッブはというと――、学生寮の玄関口、寮長室の窓口に置かれた赤電話の受話器を握りしめ、コンソールテーブルの下に潜りこむように身を隠していた。


「ど、どどうしよう。どうしよう」


 背後に人影が通り過ぎる音にさえ怯えて、頭を抱える巨体の耳に男の喝が響く。


「落ちつけアルバァ!」


 それは、パニックになったウェッブに警察を呼ぶように指示し、パトカーが駆けつけるまで遺体を抱きかかえていた者の声だ。


「なあ、バート。俺は、俺たちは、穴掘りしてただけなんだよな? そうだよな? そ、そうなんだよな?」


「ああ、そうだ! お前は何も悪いことなんてしてねえよ! むしろ責任があるのは俺だ。悪かったな……こんな事態に付き合わせてしまって……!」


 小さな頭蓋骨が脳内に過り目を瞑って忘れようとするウェッブを慰められたのは、ウェッブと違ってパニックにならない年上の、そしてもう一人の当事者だけであった。


「ここまで巻き込ませてしまったんだ。しっかりと後の経緯まで伝えるさ。まず、あの子のことなんだがな、検死の結果、外傷はなく、丁重な埋められた方からしても殺人の可能性は低いとされている。あの子が亡くなったであろう年齢は当時数か月……。悲しいことだか、あの年齢で理由もなく亡くなってしまうことはままあるだろう」


 ウェッブも心当たりを忍ばせて、声上擦らせながらもこくこくと頷いた。


「なら、問題はどうして秘密裏に埋めたってことだ。要はその当人さえ見つけられて事情を知れば、全ては解決ってことになるんだよ」


「それが……『グイードおじさん』……」


「ああ、教えてくれた家主さんの経緯から紐づければ、経験則からいっても、すぐに身元は割れる。だったらあの子の名前も解き明かされて、今まで何十年も名無しのままで独りぼっちで埋められたのを、名前を刻んだ墓の中弔い、花を添えることが出来るじゃねえか」


 開かれたウェッブの大きい眼に、うっすらと膜が覆っていた。


「そうだ、俺たちがあの子を暗闇から引き出せるんだぞ。それは勿論、お前のおかげでもあるんだ」


その言葉にウェッブは鼻を啜り、両手で受話器を握りしめてはぎゅっと身を縮こませる。


「そ、そうだよな……! 俺は……! 俺たちは……!」


「ああ、全ては万事落ち着く! 必ず良い報告をするから! それまでは、色々心騒がしいだろうが、じっとしているんだぞ! 良いな!」


「あ、ああ……! 絶対、絶対にだぞ……!」


「ああ! 約束する!」


 ウェッブの震える声を端に聞き、フェルナンデスは銀色の受話器を離した。徐ろに受話器を置く音を鳴らし、警察署の廊下に取り付けられた四角い公衆電話に誓うように意気込んだ。


「本当に、申し訳ねえ……!」


 電話ごしに伝わるウェッブの焦りと戸惑い。あれ程の屈強に見えた体格の良い青年もまさかここまでとは、と、警察官として幾年を超えて感覚が麻痺した自分にも痛々しいと目を瞑る。


 「なんとしても、あの子の菩提を弔わなければ……!」


 でなければ、ウェッブにとっても一生の傷になってしまうだろう。そしてなによりも――、仄暗い中に浮かび上がる白い頭蓋骨が過ぎりフェルナンデスは歯をも食いしばった。


「待っていてくれ……!」


溢れ出る情動に乗せて黒い裾を翻し、フェルナンデスは駆け出した。署内では彼が事件の第一発見者だと知れ渡り、数多の視線がすれ違いざまに突き刺さっていく。しかし、当の本人は全く構わず力強く腕を振り上げては捜査本部へと乗り込んでいく。が、しかし――、


***


「ちょっと!どういうことですか!」


 フェルナンデスは先のと同じ大きい声で、捜査本部から出ていく署長を追いかけていた。


「さっき言ったことと同じだ。くどいぞ」


 すると、数多の側近をぶらさげながらでっぷりとしたビール腹を揺らして振り返り、ボストン警察の署長はうとっおしそうに答える。


「乳児の遺体は結局身元不明。ボストン所轄の無名墓地に埋葬させることで終了、とな」


「そんな! おかしいですよ!」


 フェルナンデスは両腕を振り下ろして首を振る。


「私は確かに証言したはずですよね! 『グイードおじさん』の名前だって! それなのにですか!?」


「それなのにだ」


 まるで児戯のような口ぶりで、署長は髭を揺らした。


「そ、そんな、馬鹿な……! ば、馬鹿な……!」


 愕然と肘を曲げて掲げる掌を震わせるフェルナンデス。それに対しても同情もなく呆れ気味に首を傾げる。


「何をそんなに動揺している。事件性はないのだし、ちゃんとした墓地に埋められる。それだけでも上々じゃないか」


「何をおっしゃいますか……! それでは土から土場を移動したに過ぎません! あの子の名前を解き明かし、その名を刻んだ墓に埋葬されてこそ、初めて終わったといえるのではないのですか!」


 掌を突き出し、歯を剥いて噛み付くように飛び出したフェルナンデスだったが、高見からの気だるい視線は必死な抗議を全く受け止めない。


「なあにをそんなにカッカカッカと……今更そこまでしたところで、遺体が喜ぶわけでもあるまいに……」


 護衛たちが囲む向こう側から、「のうのう」と言った口ぶりに、フェルナンデスの踏みしめたつま先から髪の先まで怒りが巡り、人は怒りの頂点に発すると逆に動けなくなるのだと初めて知った。降ろした拳を震わせて下唇を上歯で噛み締めて濁った白眼を剥いた彼を、署長は流し目に嗤いながら、先の廊下へとそっぽ向く。


「話は以上だ。巡査ごときが私を煩わすな」


 ぞぞろに並ぶ気だるげな足音が響く署内の廊下を陣取り、その後ろ姿を見ながら呆然と立つフェルナンデスへ、扉の影に隠れていた仲間たちが身を寄せる。


「大変だったなあ……フェルナンデス巡査」


 ぽんと肩を叩くのは、同じ課の先輩。一方で、その反対側からはヒールの音響かせる後輩の女性警官が両手に資料を持ちながら歩み寄る。


「でも先輩が懸念するのも分かりますよ。だって、やっぱりおかしいですもん」


 彼女は捜査本部が曲がり角から見えなくなったのを確認してから呟く。それに先輩も指を顎に添えて頷いた。


「ああ、俺の警官歴からいっても、白骨死体、ましてや乳児の遺体を身元不明のままこんなに早く処理をするのは異常だ。せめて身元だけでも血まなこになって探すもんなのにな……」


「と、なると……署長の差し金?」


「そうかもしんねぇな。あの人、黒い噂があるし」


 フェルナンデスを挟んで二人は噂を囁きあった。


 なんでも、今の署長はグレーな稼業との癒着があるということらしい。それよりずっと前では警察とマフィアが利害関係で密かな繋がりを持ち、情報を共有し合いながら互いの利益に関わることは決して珍しいことではなかった。その根腐れた部分を、署長が今だ持っているようなのだ。


「でもそれがハーバード大学で見つかった乳児の遺体を隠すことと、どう繋がるんってんだよ?」


「さあ……」


「調べるっきゃ、ねえな……」


「「え?」」


 唐突に差し込んだフェルナンデスの声に、揃って二人は彼を見た。フェルナンデスは前を向いたまま再び拳を握って意気込む。


「エリカ巡査、悪いがしばらく『あの子』の安置されてる様子を見守ってくれないか……。俺が調べている内に、勝手に処分されたらたまったものじゃないからな」


 声は落ち着いていたものの、鋭く放った先輩の眼光に圧された彼女は、思わず目を張って頷いた。


「え、ええ。分かりました。仮に勝手に持ち出されたとしても、どの手口から出ようと警備員はいるはずですから、その警備員たちにも随時監督してもらうように私から頼みましょう」


「助かる」


 内勤としてのてきぱきとした提案にフェルナンデスは頷くと、次に先輩の方を見上げて頼む。


「先輩、と、いうことでしばらく休みますので、上の方には適当に理由を取り繕ってください」


「断る」


 先輩は腕を組んで即答した。


「お前、また勝手に違反行為をする気満々じゃねえか。先輩として見逃す訳にもいかねえ」


 すると。フェルナンデスは彼と睨むこともなく、素早く前を無言えて踏み出していった。


「分かりました。なら……」


 そうして、廊下の真ん中を駆け抜けるフェルナンデス。まるで抱えた意志が掻き消えぬ内にと言わんばかりの切迫さに先輩が首を傾げていると、咄嗟に後輩がしまったと短い悲鳴をあげた。


「ああっ! ヤバい! あれ、署長を殴ることで受ける謹慎処分で、休みを確保するつもりですよ!?」


「はあ!? それ何のための謹慎処分なんだよ! 止めねえとー!」


 慌てて後を追う警官たち。彼らが廊下の曲がり角に差し掛かったときには、署内で大きな破裂音が何故か二つ響いたという。


***


 フェルナンデスは張れた頬を氷水で冷やしながら、自宅の黒電話と向かい合う日々を送った。


 まず、独自のルートでグイードおじさんの素性を調べる。全ての発端となった地主の家にはフェルナンデスだけが知る、ニューヨークに嫁いだ末娘のパイプがあり、こっそり警察が入手した情報をリークしてもらったのだ。そこで、『グイードおじさん』の正体は、既に明かされていたことも知れた。


 『グイードおじさん』、その本当の名はグイード・フォンダ。イタリアから移民した庭師であった。


 移民だった経緯でボストンでの暮らしに苦労していたようだが、気の置けない子どもたちにはとても優しく、当時の家主を含めた地元の子たちには慕われていたという。やがて、紹介を受けた女性と結婚し、一人息子も設ける。ようやく幸せな人生を送れるかと思っていた矢先、出産直後の妻が産褥熱によって亡くなってしまう。数十年前の当時としてはままある話であった。

 

 そこから彼の転落が始まる。愛する人を亡くした哀しみに浸る間もなく、同時に慣れない育児にも追われ、グイードは次第にふさぎがちになってしまう。仕事に勤しまない移民に世間は当時冷たかった。ますます孤独に苛まれた彼は遂に家から出なくなってしまう。それを見かねて地主一家が彼を専門の庭師として雇おうとしていた矢先、グイードは散らかったままの家を遺し、息子諸共失踪してしまったのである。


 哀しいすれ違いが起こってしまった最中で、当時の地主一家は必死になって彼を探した。しかし、知り合いの鉄道員から「ペンシルベニア州に向かう行先を質問された」という証言以外、手がかりは終ぞ得られなかったという。


 フェルナンデスは机に項垂れて、悲しみに浸る。


「なんて、ことを……!」


 マッティアおじさんが埋めた「あの子」は、実は息子だったのではないか。


 その悍ましい可能性に打ちひしがれたのだ。年代としても矛盾はなく、状況からしてもうつ状態による育児の注意散漫、それによる突然死だったとも大いに言える。


 さすれば、そのときの『グイードおじさん』の心情は如何ばかりだったかと、想像しただけで頭を抱えたくなる、しかしまだ、その子の名前を突き止めることはできていない。涙が溜まる目を無理やりに擦り、フェルナンデスは調査を続けた。


 次に、ペンシルベニア、庭師というたった二つのキーワードから、州内の造園会社に片っ端から電話をかけまくった。それだけで休暇が潰れる可能性に怯えながらも根気強く繰り返し、調査四日目、467回目のところでようやく見つけ出したのである。


 グイード・フォンダは、ボストンから失踪した後、ペンシルベニアの端にある、小さな造園会社に身を寄せていた。当時の社長である父から見聞きした話を、現社長である娘が答えてくれた。


 小さい会社だが、従業員仲が良いことで自慢な会社に、住み込みとして入社したグイードは最初まるで死人のような落ち込みようだったという。


 しかし、次第にペンシルベニアでの生活に絆され笑顔を取り戻していったという。それでも、人は気を抜いたときにこそ心労が襲い掛かり耐えられなくなってしまうのか。それから二十数年経った冬の寒さに、心臓発作を起こし亡くなってしまったのだ。グイードは会社の仲間たちに見送られながら丁重に葬られ、今、州内にある墓には社長も毎年花を添えているとこのことだ。


「……息子さんのことについては、何か聞いていなかったですか」


 涙声ながらに問いかけるフェルナンデスに、「あ、そういえばね」と、思いついたように初老の女性は答えた。


「散らかっていた彼の自宅を代わりに整理したときに、引っ越しのときに寄越したであろう古い戸籍を父が収拾したんです。そしたらね、グイードさんの一人息子がボストンにいるってことが分かったの。なら訃報を伝えなければって、電話帳をひっ繰り出して問いかけたら、変なことがあったんですって」


「え、は……? 息子……? 息子の連絡先にですか……?」


 フェルナンデスは心臓が跳ね上がるような動揺に囚われ、小さな悲鳴をあげる。何度目かの「そんな馬鹿な」が巡り口元を押さえていた。その様子も露知れず、受話器越しの女性は同じ声色で続きを述べる。


「なんだか、その息子さん、すんごくつっけんどんだったんですって。父親が亡くなったのに単調で慌てる様子もなくって、葬儀の誘いにも仕事が忙しいからってすぐに切られてしまって。何度かけ直しても二度と繋がらないから直接掛け合おうと住所も辿ったけど、そんな人はいないって、その場にいた別の人から追い返されたりもして」


 どういうことなんでしょうねえ、と、柔い声で語尾をあげる声に、肝がすっかり冷えたフェルナンデスは、受話器を震わせることでしか応えられなかった。


「して……その名前は……」


 それでも、最も知るべきことをなんとか言葉にすれば、受話器越しに間もなく、探し求めた名前が耳に反響する。


「リベラート……、リベラート・フォンダよ」


「……リベラート……フォンダ……!」


 背中の血が逆流したような感覚が迸り、フェルナンデスの頭が大きく揺れて、固まる。それは遂に『あの子』の名前を突き止められたという直観だと思えた。


 何故だか分からないが、思わず「やっと、見つけられた……!」と、夕焼けに沈む自宅の窓ごしに小さな白い頭蓋骨を思い浮かべ、目前に握り拳を突き上げたのだった。


 しかし、その確信は大いな謎を引き起こすことになる。受話器を置いた瞬間からフェルナンデスは両手で顔を覆い、日が沈んで影む部屋の中で、今度は恐怖に蹲った。


「マジでどういうことだよ……!? 『あの子』がグイードの息子、リベラートなら……その電話に出た『生きている息子』って、一体誰だって言うんだよ……!?」


 死人である筈の名を語る声。まさに幽霊のようだと戦慄する身を抱きながらも、クマが覆う目で暗がりの部屋を凝らし見、フェルナンデスは必死に思考を整えていく。


 やがてその手に握ったメモ帳を翳し、戸籍に書かれた息子――、もとい謎の男の住所を捉える。その場はボストン、ハーバード大学にも近い骨董店。ここで渦中の舞台は、再びボストンへと戻る。黄色い付箋の向こう側を仰ぐと、自作の黒板に書かれた事件に関するざっくばらんな情報があちこちに書かれ、その地図の位置とが赤いピンと線で結ばれている。すると、フェルナンデスの揺れる脳内へと、新たな部屋を横切る一本の赤い線が貫いた。


「……!」


 仄暗い部屋の中、背もたれが反れる程にのぞけって、軋む音が鳴り響く。その剥いた目が映す一本の赤い線は、警察官として知るある「推理」に導かせるのだ。そして、彼の推理が合ってしまうとするなら、「あの子」の身元を有耶無耶のまま処理しようとする署長の黒い噂とも、ぴったり辻褄が合うのである。


***


「は……? 何……? リベラート・フォンダだって……?」


 数日後。縋るように待っていた赤電話のベル音に飛び起きるウェッブは、今までの経緯を伝えたフェルナンデスの言葉に声を裏返していた。


「どうした、アルバ。何か心当たりがあるような口ぶりじゃねぇか」


向かいの声も動揺を滲ませて問いかけると、ウェッブは徐ろに左右に首を振りながら、そんな馬鹿なと、素早く良いかけて息を吸う。


「信じらんねえよ……俺、その名前……知ってる……」


「な、なんだって!?」


「ああ……だって……その名前は……」


 震える黒い眼が思い浮かべるのは、金髪を舞いあがらせて微笑む美しいマドンナの笑顔。


「俺の同級生の……、父親の名前なんだ……」


「はあ!?」


「ルーシー……ルーシー・フォンダっていう……。彼女が教えてくれた親父さんの名前……。リベラートっていうらしいんだ……。ここ辺りの骨董店をしてるってのも……お前が調べたことと一致してる……」


「そ、そんな……」


「バート、これは……どういうことだ……?」


滴る汗が冷えゆく不快とともに、深夜に締め切られた宿舎の辺りを見渡すウェッブへ、一息ついてフェルナンデスは答える。


「まさか……お前の友達が関わっていたとは知らなかったが……俺の推理からに答えよう。いいか、心してよく聞けよ」


 掌を机に張り付かせて前のりになる体勢で、やがてフェルナンデスは告げた。


「まず、グイードの息子、リベラート・フォンダを、数十年前に死んだ『あの子』の名前だとする。すると、お前の友達の父さんは一体何者なんだって話になるが……、グレーな行為を犯しているのには間違いはないだろう」


「グレーなことって……」


「戸籍の不正入手だ」


 ウェッブは唇を引き締める。聞いたことのない言葉だったが、本能で悍ましさを悟った。

 

「ああ……『あの子』が産まれた当時にはよくあったんだよ。遠いところから移住してくる者たちの中には、身元を隠すためだったり、犯罪を起こして逃げ込むためだったり、元々戸籍を持っていない程の貧困層が一抹の夢を掴むためだったり、という人も多かった。そういう人たちのために買う戸籍があった。だから、『今』のリベラートは『あの子』の戸籍を買った別人が成りすましているということなんだよ。……「背のり」は違法じゃねえが、百パーセント悪用される。つまり、その男は決してカタギじゃねえ……」


 自身も警察官としてのあるまじき違法行為はそっちのけで、フェルナンデスは続ける。


「つまり……数十年前に『あの子』の戸籍は、父親によって売られてしまったんだ。売るためには、生きていることにしていなくちゃ意味がない。既に亡くなってしまった『あの子』の死亡届を出すことも出来ず、墓を作って死んだことを知られる訳にもいかず……木の下で秘密裏に埋めることしか方法がなかったんだろうな……」


「そ、そんな……! 奥さんが命の替わりに産んだ命を……! 自分の息子が生きた証を……金のためになかったことにしたってのか……!?」


「ああ……ひでえとは俺も思うが、親父さんの……グイードおじさんのことはそう責められねえよ」


 混みあがってきたグイードへの義憤に対し、フェルナンデスは切なげに彼の心情を慮った。


「だって、その時点で彼は奥さんも亡くして精神的にも参ってたんだぞ。続けて子どもまで亡くしてしまったら、事件性を疑われ、なかったとされても悪い噂が広り――、彼は悪名を背負ったままボストンから出ていくしかなかったろう。移民で、悪名も持って、しかも精神疾患を持っている妙齢の男が放り出された矢先で生きていく術なんて殆どなかった。その最悪の状況から脱するためには……戸籍を売った金で一からやり直すことしかない、と、考えるのも無理はねえ」


 まるで彼とともに歩み寄ったような口ぶりに、ウェッブはフェルナンデスの背景をも感じ取って背筋をのばしていた。


「そして、発作を起こして亡くなったのも……息子の死を踏み台に生きていることへの罪悪感がもたらした心労だと思うよ……彼は充分、罰を受けたんだ」


 ウェッブが少し面を喰らうほどに、フェルナンデスは滔々とマッティアおじさんへ同情気味に語った。ウェッブがフェルナンデスも移民出身のヒスパニックであることを知るのは、ずっと後のことである。


「一方で……俺が許せねえのは……、別の奴らのことだ」


 やがて、義憤を唱えるフェルナンデスの声は低く渦を帯びた。ウェッブも冷や汗一つ流し、心当たりに唇を開く。


「それが……『グイードおじさん』から戸籍を買って、『今の男』に売った『仲介人』ってことだな……?」


「ああ……それが署長の黒い噂とも繋がっていく」


「確か……署長が以前よりグレーな稼業と癒着があるってと……?」


 ウェッブは自ら言ったことに目を開く。途端にフェルナンデスの怒りの声が弾けた。


「そう……グレーな稼業……!『仲介人』どころか、そんな『組織』がいるってことだよ。人様のままならい事情につけこんで、『あの子』の人権を奪い、肥しにのさばっている組織がな……!」


 木机を搔きむしる音が受話器越しに聞こえた。


「その正体を突き止めるには、そう時間はかからなかったよ。向こうの方かわざわざ尾ひれを出しやがったからな」


 と、署長が秘匿しようとしたことを皮肉気味に嗤いながら、やがて彼は徐にマウスのクリック音を繰り返す。砂時計が周るごとにゆっくりと上から下へと映し出されていく画面を斜め見ながら、遂にその名を採り上げた。


「名前は……ブライヤーカンパニー……。六十年前からボストン郊外で経営されている、老舗の人材派遣会社……」


 画面には、老舗らしい重厚な煉瓦造りの建物が映し出されいる。続いて顔写真が掲示される一方で、ウェッブは驚愕に開く口元を覆った。


「それってあの……、薔薇の社章がトレードマークの……!」


「ああ、お前が俺の変装を見破ったときに確認した、あの薔薇の、だよ」


 まさかそこで繋がるなんてと、声に出さずともお互いに頷き合う。


「人材派遣会社……勿論、普通の会社が大半だが、グレーな稼業をするにおいては代表的な業界でもある。社長の顔も如何にも営業スマイルって感じで胡散臭えし、歳も俺より十くらいしか上じゃねえのに、甲斐甲斐しくも赤ネクタイなんてしやがって……いっちょ前に大統領きどりってか!」


 少々理不尽な悪態を吐きつつ、フェルナンデスは髪を七三に整え、口髭をあげて微笑む細面な男を睨んだ。


「こいつらが……癒着の関係にある署長に根回しして、自分たちの悪行を隠ぺいするために、『あの子』をまた秘密裏に処分しようとする可能性が……大いに高い」


「だったら……その前に……?」


「ああ、俺があの子を、いや、リベラート・フォンダを取り戻す。そして、署長の管轄が届かない隣の州……ニューハンプシャーまで港を渡って逃げ切る。そこで待機しているFBIに一切合切を明け渡し、悪党どもを日の元に晒してやるんだ……!」


 拳を形作り、あふれ出る怒りと使命感を拳と言葉に閉じ込めて震わせて意気込むフェルナンデスに対し、ウェッブは愕然として、口を覆ったまま首を振っていた。


「なんでだよ……そんな……黒い噂だとが……戸籍売買とか……悪徳組織とか……。大きな話になっちまうんだよ……俺たちは……俺たちはただ……土掘りをしていただけじゃなかったのかよ……!」


「ああ、その通りだよ、アルバ。だからお前が関わるのはここまでだ」


 そこでフェルナンデスは、念を押すように言った。


「悪かったな。ここまで事が大きくなるとは、流石の俺も思わなかった。後のことはとても一般人に託せるような話じゃねえ。こっからのことは警察官の俺に任せな。何か聞かれても適当に誤魔化しておけ」


 自らの胸に親指を突き立てながら、フェルナンデスは七つも年下なウェッブを安心させるために穏やかな声で諭す。


「ありがとう、アルバ。しばらくまた待っていてくれ。次に会う日は――、リベラートと名が刻まれた墓石の前でだ。よろしくな。じゃあ、いってくる」


 ウェッブが何も答えられないままでいると、電話はやがて鈴の一音を鳴らしたしんと静まった。しばくして凭れていた白壁が寒さで冷たくなったのに気付くと、もそりと起き上がり、ふらつきながら談話室へと戻っていく。暖炉の優しい暖気がふわりとウェッブの身体を覆ったが、心臓は冷え切ったままに、やがて真紅に並ぶのソファへと吸い込まれるように凭れこんだ。


「ウェッブ、大丈夫か」


 大きな衝音に、勉学のため黒縁眼鏡をかけるアーサーが男子寮側から談話室の中を覗き込む。ウェッブは顔にクッションを押し付けたまま、くぐもった声で事の経緯を述べた。しかし、その中でルーシーのことは呟けなかった。


「それは……彼の言う通りにした方が良いのではないのか」


 ウェッブが柔いクッションごしに少し視線を目線に向ければ、アーサーは長い足を組み合せながら、向かいのソファに座り珈琲を飲んでいる。


「でも……任せっきりじゃ、不安なんだよ……」


 しばらくして、ウェッブは肩肘で支えながら少し顔をあげて答える。


「敵は何人いるか分かんないってのに、たった一人だぞ……。もしも、あいつの身に何かあったら……」


「それで……お前も行くつもりなのか……?」


「ああ……、そうしないといけないんじゃないかって……」


情報過多にショートしていた頭は整えられてーー、白眼を潤ませたウェッブは、臙脂色のクッションを見つめながら自身の思いへと向き合う。それは、アーサーの助言とは逆のことだった。


「そうだ……あいつ一人ばかりに任せられねえよ……。相手が何人いるかさえ分からないってのに……。そんな中で、もし失敗しちまったら、それこそ俺は……一生後悔しそうな気がするんだ……」


 フェルナンデスが義憤に昂る一方でウェッブは、今更ながらも冷静に事の次第を捉える。


「そう……、このままじゃ……、失敗する可能性の方が高い……。いかねぇと……。俺も……、行かねえと……」


 拳をクッションに叩きつける毎に高まっていく決意を、向かいのアーサーは咎める。


「ウェッブ、止めろ」


 カップの湯気を翳して灰色の瞳もまた、眼鏡の奥から鋭い光を帯びる。クッションごしの黒い瞳としばし睨み合った。


「お前が見出した事件でもあるんだぜ、アーサー……」


「ああ、だから私はきっぱりとここで舞台を降りるつもりだ。勿論、お前にもそうしてもらう」


 ウェッブの反意に対し、言葉は揺るぎなかった。


「ここから先は敵も味方も、悍ましい銃という兵器を持った者同士との鍔じりあいになる。それにどうやってお前が助太刀出来ると言うんだ? 肉の盾になるつもりか?」


「それは分かってんだよ……! でも……、このままフェルナンデスか負けてしまったら……! 正義が悪党どもに踏み潰されてしまう!  それは俺たち、正義のために学ぶ法学部の矜持を自ら汚すことになっちまうんだぞ!」


 ウェッブはクッションを跳ね飛ばし、アーサーとテーブルを挟んで対峙する。


「お前だって言っただろうが! この国を良くしていきたいって! それが悪党どもによってかき乱される今をどうにかしねえで、何が正しさを語れるってんだよ!」


拳を前に突き上げてアーサーの真髄を問いかけるウェッブに、アーサーは顎を引いて一時は動揺の呻きをあげるも、顰む眉を眼下へと向けては目をぎゅっと瞑り首を振る。


「ウェッブ……! お前は今とんでもない勘違いをしている……」


反論の端に僅かな苦悶を潜ませて、答えた。


「私たちはまだ、何者にもなっていない……。弁護士にも……警察官にも……私たちは何をする資格もない……ただの大学生じゃないか……」


 濁りを帯びた灰色の瞳が、無情な現実に自ら打ちひしがれつつ、何も気づかないウェッブを上目遣いに睨んで咎めの一撃を刺す。


「……それで捜査に介入したら……我々の方が……犯罪者になるんだぞ……!」


下ろした拳を握りしめて、開いた口に犬歯が剥く。まるで獲物を捕らえんとする勢いに、先まで喝をあげていたウェッブの方が途端に目をはっと開き、身をすくませる。


 アーサーの言う事こそが正論。咄嗟にすげ替わった意思に、ウェッブは歯を噛みしめた。


「ウェッブ」


 迷いが表れ出た親友、追い打ちをかけるように一歩踏み出す太い声が響く。


「諦めろ」


 鋭い視線は彼に向けたまま、首を徐ろに横に振る。ウェッブは何も言えないまま顔を逸らし、ガクッと腰を落としては蹲ることしか出来なくなる。そこでもし、何事も起こらなければ、そのままウェッブはソファに座り込み蹲まっていただろう。


 しかし、最後に開きかけたアーサーの声はウェッブに届かなかった。ガラスの割れる音が弾かれ、部屋の中が急に真っ暗になったからだ。


「「な!?」」


何事かと降りかかったガラス片を仰ぎ見る二人。外の街燈がぼんやりと映すのは、照明が粉々に割れて鋭い切っ先を放つ光景だ。どうして急に、と口を開きかける前に続き、脇の窓ガラスがそぞろに割れて切り裂くような突風が二人の真横から襲いかかったのだ。


「ぎゃあああああぁぁあああ!!」


続いて迫る鼓膜を突き破るような爆音にアーサーは耳を押さえて叫んだ。突き上げた肘に烈風がかすって服の裾が千切れる。パニックになって鳴き声をあげるアーサーへ、ウェッブが正面から弾幕を突き破って飛び出しながら彼の痩姿に抱きついた。


「伏せろお!」


 ソファと自分こど押し倒したウェッブは自らの胸にアーサーの頭を抱いて蹲る。丸まった背後にも弾く音とともに弾幕が通り過ぎていく。最中、ウェッブは灰色の毛先から窓の向こうを睨むと、街燈に浮かぶ幾重の黒影が凄まじい罵詈雑言と銃声を発しながら横切っていくのが見えた。後から同じ宿舎からも若者たちの悲鳴や戸惑いの声が劈く。中でも他のを掻き消すほどに叫ぶ男の声はおそらくダブルエーだろう。


「流れ弾……か……?」


 肘を抑えながら頭を抱えるアーサーに覆いかぶさるウェッブはやがて片目だけで外を見遣ると、先の弾幕はしんとして静まり返り、続く渦中の罵声と銃声は斜め向こう側のもみの木へと通り過ぎていった。代わりに滑り込むように入ってきたのは仲間たちの叫び。咄嗟に聞こえた「テレビをつけろ!」の声にウェッブも慌てて転がり落ちたリモコンを拾い上げ、向かいのテレビへと突きつけた。すると、眩い光を放つ画面にも惨状が映し出されていた。髪を乱したアナウンサーも、弾く銃声に怯えながら煉瓦の並木道へと指を差して叫ぶ。


『なんということでしょう! この平和なボストンの街に銃声が鳴り響きました! ボストン署の裏口より大きな布袋を持った巡査が、何故か同じ警察官たちに追い立てられているのです! これは一体、どういうことなのでしょうか!』


 場面はボストン中央部にある警察署脇の並木道だった。停まった車を掻い潜りながら警官たちがその手に黒いリボルバーを下げ持ち、互いに恫喝するような口ぶりで次々と走り抜けている。なんだこれは、と、ウェッブが目を凝らす間際に画面は映り変わり、今度は渦中の人物を取り囲むようにカメラが先頭の男にアングルを向ける。

 

 それは麻袋を左胸に抱き、背後に受けた弾幕を避けて走るフェルナンデス巡査だった。同じ制服の仲間たちに追い立てられても、息継ぎのために繰り返し開く口と、素早い足取りは揺るぎなく、背筋は真っ直ぐつま先を揃えて振り上げる。


 ぐるりと回るカメラは彼の正面をも映す。見開かれた目は涙に濡れて痛々しい瞬きを放っていたが、びっしりと汗の粒を滴らす眉は、抱きしめる者を案ずるように拉げて何度も見下ろしながら掲げ持ち直す。周りの戸惑いに構わずカメラの視線から通り過ぎ、背を向けて港へと摩天楼を突き抜けていく。

 

 その中でただ一人、画面越しから真意を知るウェッブは、無意識的の内に身を起こした。彼の眼下ではアーサーが止んだはずの弾幕にフラッシュバックを起こして頭を抱えてビクビク震えている。影を作って見下ろすウェッブの表情に侮蔑はなく、むしろより穏やかとなっていたがーー、伏せた睫毛に覗く瞳はもう、煉瓦の並木道を紅葉を撒き散らしながら駆ける群青色の背中しか捉えていなかった。



「すまねぇえ、アーサー……やっぱり俺、行かねえと……」


 目配せるとともに、ウェッブは前へ向いた。すっと影が抜けて、眩しくなった視界にはっとアーサーは目を開く。首をひねり回した先にあは、ウェッブが背を向け出ていこうとする光景が見えた。


「ウェッブ……! 止めろ……!」


 しかし、留めようとする声は先の恐怖で擦れてしまう。今だ止まぬ震えはウェッブを追い駆ける気概もなかった。己の内なる弱さを目の前に突き付けられたアーサーは眼光も震わせ呻き声をあげた。そして、己の手首を掴み、必死に押さえんと歯を喰いしばりながら、ソファの上で埋もれるように蹲ることしか出来なかったのだった。


***


 けたたましい銃声が鳴り響いていたのが嘘のようだと、静寂に漂う波止場をフェルナンデスは走った。並び立つポールの向こう側は、ボストンの夜景が遠目に浮かび、黄金色の瞬き麗しく、海に泊るヨットの舳先たちを逆光に染める。その光景を横目に、抱える麻袋の重さを思い出しながらフェルナンデスは腕の力を強めた。


「待っていろよ、リベラ―ト! 必ず君の名前を取り戻すからね!」


 物言わぬ何十年前の骨の集まりが詰まる袋を、愛おし気に見下ろしながらフェルナンデスは歩調を早める。揺れる視界の先は波止場の突き当りで、白木作りの停留所がぼんやりと明かりを灯している。そこに至れば、すぐに船に乗って隣の州まであっというまだ、と、見えてきた兆しに笑顔も混みあがり、煤濡れの頬を拭って駆け抜けるが――、フェルナンデスは途端に視界を右に移した。廃倉庫が並び立つ暗がり。一番奥の入口当たりに、誰もいない筈の気配を感じ取ったのだ。


「誰だ!」


 振り下ろす間際に腰元のホルスターを器用に抜き、コルト・カバメントを突き付けたるら。途端に足を留めて息切れの音がより大きくなっていく最中、今度はゆっくりと気配のする方へと銃口を掲げながら斜め方向へと近づいていく。すると、滲み出た汗とともに迸る嫌な予感が目前となって現れる。暗がりからぬっと抜き出た人の形から、まず目に映ったのは白シャツに浮かぶ臙脂色のネクタイ。フェルナンデスの大きな瞳が一気に見開かれた。


「お前はあ……!」


「あーあ、まーさか、こんなことになるなんてねえ」


 銃口を向けるフェルナンデスに動せずに現れた長身の男は、右手のスチェッキンマンでフェルナンデスに対抗しつつ、煽るように左肩を竦め、口ひげから歪んだ笑みを浮かばせていた。


 スラックスがよく映える長い足を踏み出すと、その全貌が明らかとなる。白みがかった髪をうなじにまでのばし、鋭さを帯びる猫のような双眼がフェルナンデスを細め見る。臙脂色のネクタイを締め、くすみがかったオリーブのジャケットを羽織る妙齢の男。


「初めまして、バート・フェルナンデス巡査。紹介しましょう、私は……」


「知ってるぞ。ブライヤーカンパニーの社長だろ!」


 社長の言葉を遮り、フェルナンデスは銃口の奥から歯を剥いて牽制した。互いにお前の素性は知っていると脅しを突き付け合う。言い返された社長はぴくりと片眉をあげつつ、徐に繰り返し頷いた。


「おやおや、飼い主さんは、あんたをうまく手懐けられなかったみたいだね。それで僕にまで依頼しちゃってさ……飼い犬探しなんて、新人のとき以来だから慣れないんだけどなあ」


 緊迫した状況に関わらず温い物言いで頭を掻きつつも、銃口の狙いは外さない。


「土堀りは楽しかったかな、チワワ君。さっさと元の家に戻りな。咥えた骨はそこに置いてね」


 小柄なフェルナンデスを見下しつつ、社長は上からの角度で物々しい音で銃を鳴らした。しかしフェルナンデスが従う筈もなく、むしろより反抗の意志を固めて唸り声のような怒りの声を発する。


「ふっ、ざけるな……! お前こそ、今までの悪行を反省して元の娑婆に戻れ! いつまで薄暗い黒猫のままでいるつもりなんだ!?」


「ほう、元から暗いところにいるはずがないとでもお思いで?」


「ああ、そうだ。産まれた時から真っ暗なところにいる人間なんて存在しない。この子もかつてそうだったように!」


 何か己の逆鱗に微かに触れたか、無意識に舌打ちする社長の一方で、フェルナンデスは銃を持つ手を力強く突き出した。


「悪党め! この子の人権を踏みにじって、のうのうと甘い汁を吸いやがっって! あのときにお前が……! お前たちが誑かさなければ……! どうして、どうして……! この子の父親をもっと全うな手段で助けてやらなかったッ!?」


「は? それ何十年前の話でしょ? 先代たちの不手際を今更責められてもなあ」


 吐いた息は足早に通り過ぎた冷気によって白い雲を為す。全く悪びれない様子を読み取り、フェルナンデスが牙を出す。


「そんなこと言ってっからお前は今、こうして足元を掬われてんじゃねえか!」


「ああ、そうだね。その点については、僕も社長として落とし前はきっちりとつけるよ。僕の背中には、薄ら暗いところでしか生きられない従業員たちの人生が掛かっているんだからね」


「ほざけッ! 悪党のお前にそんな義理を語る資格はない! この子を独りぼっちにさせて良い道理なんてあるものか!」


 吼えた拍子に麻袋から骨が崩れていくのを感触で掴みとる。掬い上げようと掴む細長い骨の感触に、フェルナンデスの睨む目に涙が溜まった。しかし、それをも鈍色の瞳は気怠気に目に伏せて一蹴する。


 そこからともに身構えては、互いの譲れぬ信念を翳す銃口で同時に鉄の音を響かせる。ボストンの摩天楼を背景に、暗がりの中の二人はにじり寄って間合いを詰めていく。


「面倒くさいな。僕がそんなお説教を聞くために、わざわざお話しに来たと思っているのかい」


 すると、フェルナンデスの説得をたった一振りの目配せで斬り捨て、徐に首を起こすと社長は髪を掻きあげた。


「これは、ただの時間稼ぎだよ」


 笑みが消える。過った真顔の眼差しに、フェルナンデスは咄嗟に唇を閉じると、次に別の殺意が横から差し込んできたことに汗を散らして横を向く。社長は歪んだ口角を大仰にあげた。


「おいで、『フォンダ』さん。あんたの娘を守るときがきたよ」


「は……!?」


 フェルナンデスが声をあげると、波止場のポールと並んで、背丈の高い痩身の影がゆっくりと脇から進み寄ってきた。夜景を映す波面の明かりが映すシルエットは、ざっくばらんに切り揃えた髪をポマードで固める、社長よりも幾ばくか年上に見える男であった。


 広い襟首の白いシャツに、くるぶしまでの紺色のジーンズ。瞼の下に刻み付いた一筋の皺と、僅かに浮かび上がるほうれい線は歳を重ねた苦悩を忍ばせ、ヘーゼル色の鋭い瞳は皮肉にも、フェルナンデスと同じ義憤に駆られていた。


 フェルナンデスはウェッブの言葉を思い出す。今抱きしめる『この子』の名を語って生きている『息子』の正体。ボストンの骨董店を営むという、ウェッブの同級生を娘に持つ男。それが今、目の前に下ろした右手に輝かしい金色の柄を持ち、鋭い銀のサーベルを地面に引きずらせて迫っているのだ。


「お前え……!」


 フェルナンデスは麻袋を抱きしめた。もし、この子が生きていたらきっとあれ位の年齢になっていたであろうと思い馳せる。だからこそ怒りが込みあがるのだ。


「そ、彼こそがリベラート・フォンダだよ。こいつが追い駆けてくるまでお前を待たせていたんだ」


 社長の煽りに反応せず、フェルナンデスは男に向かって眉を吊り上げた。


「違う! この子が『リベラート・フォンダ』だ! お前の名前じゃない! お前も本当の名前で自分を語れえっ!」


 しかし、サーベルの男は社長と勝手が違った。虚ろに暗い瞳はフェルナンデスをも映さず、遥か遠くの、娘のことしか捉えていない。フェルナンデスの義憤に答えるつもりもなく、睨む眦以外に閉じられた唇一片も動く気配を見せないのだ。それでも握る柄は確かな殺意を帯びて、フェルナンデスが叫ぶ合間にしなやかに手首を振り回し銀のカーブを夜闇に描く。フェルナンデスが次に視界を捉える間には、既に鋭い先を突き付けていた。


 早い剣裁きに、フェルナンデスはぞわりと悪寒に身を震わせた。「こいつ、ただ者でない」と、覚ろうとする隙に男は擦り足でサンダルの底を鳴らし、突きの態勢でフェルナンデスを牽制する。

 

 フェルナンデスは窮地に追いやられた。社長から銃口を外す訳にもいかず、このままでは男の刃に貫かれるがまま。交互を見遣りながら布袋の奥から戸惑いを見せると、社長は歩み寄りながら、ニヤニヤと笑みを浮かべた。


「どうするんだい、チワワ君。その子を盾にでもする? 丁度良いんじゃないかな。どうせ痛みやしないし、叫びもしないんだから」


 嫌悪と侮蔑を入り混じる声でもって、彼の冷静を阻害する言葉を器用に選び抜く。フェルナンデスも言い返すことが出来ず、涙に揺れる白眼を鈍く光らせて袋を抱きかかえることしか出来なくなる。子犬を見るかの如く鼻で嗤い、社長はサーベルの男を見遣って顎を釈った。瞬間に靡く秋風、転がる紅葉が一枚ふわりと舞いあがり、それを銀の矛先が貫いた。鞭打つような音が過る寸時にフェルナンデスの首をめがけて切っ先が瞬く。本能のままに危機を察したフェルナンデスは、それでも布袋を抱く力を止めず、彼を守るように蹲っては布ごしに伝わる一番大きい――、頭蓋骨を包み込む。


「ふっ、馬鹿め」


 高見の物見で見る社長だったが、その視界は突然、唸りをあげたエンジン音と同時に波止場からはじけ飛んだ波によって憚られる。背丈以上の水しぶきが暗闇の中で透明な膜のようにフェルナンデスとサーベルの男を――、そして社長を覆いつくしたのだ。


「わあああああ!?」


 目と鼻になだれ込んでくる水流に藻掻き足掻き、ごぼりと泡を吐いて社長は、ずぶ濡れに滴る水滴を振り払って踏み出した。すると――、サーベルの男は水流に呑まれて滑り転がり、フェルナンデスは水を弾かせながら波止場の向こうに目を凝らし、眼下に突然現れたクルージングボードを捉えたのだ。


「バート――――――!」


 穏やか波面に揺れる真新しいボートから、両手ハンドルを握りしめる黒人の青年が、大きな目を見開いてフェルナンデスの名を叫んだ。


「助けにきたぞお! 乗れえっ!」


 ポール越しに捉える青年の姿に、フェルナンデスの目は摩天楼の光を借りて輝き、ぶわりと滴る髪の毛を舞いあがらせ、情動のあふるるままに背中を震わせて口を開いた。


「アルバァ―――――!」


 歓喜に似た叫びに、ルーフごしからにやりと笑うウェッブは、思いっきりハンドルを回し、白波を噴き出しながら幅を寄せてくる。それを追いかけるフェルナンデスが波止場を走り出すと、「待て!」と銃声が劈いてポールに火花が舞い散った。それでも怯まず大踏みしたフェルナンデスは、麻袋を掲げ持ってポールが繋ぐ鎖を飛び越えて、真っ黒なボストンの海へ飛び込んだのである。勢いよく跳ね上がる水濡れのデッキに肘を着いて顔をあげると同時に、水飛沫を受けながら向かいの運転席へと一気に駆け出していく。


「アルバアー! ありがとうー!」


 彼の背中に触れようとしたとき、振り向いたウェッブはぎゃあと驚きの声をあげる。波を受けながら敵たちもボートに向かって飛び出してきのだ。


「わ、わああああああ! 来るんじゃねええよおおお!」


 フェルナンデスも振り返り、次こそガバメントを振り回し弾を撃ち放った。しかし、船上で撃った弾はあちこちな方向に飛び散り、男二人は濡ら滴る裾を引き摺りながらもバウスプリットにしがみつく。


「はあ……はあ……今度は熊退治もかよ」


 激しく床面に着地して乗り込んだ社長は、銃を握る手首で潮水に塗れた顔を拭う。サーベルの男は表情を変えずにすぐに腰を屈めて刃を抜いた。


「もう一度だけ言う! 骨だけ置いて家に帰りな!」


 闇夜に飛沫舞い上がり、揺れながら遠ざかる摩天楼の夜景を背後に、銃口と刃が交差して二人に突きつけられる。一方でフェルナンデスは運転手のウェッブを庇うように前に乗り出し、唇引き締めて銃口を向ける。刹那に交差する殺気。彼の背後には雲一つない夜空から月が浮かび、冷たい光が映す眦は揺るぎない意思を描いた。


「断る!」


 フェルナンデスの怒声が決別の合図となった。話し合う余地もなしとみて、社長も憎悪に眉を吊り上げ、牙を剥いた歯で叫んだ。


「クソガキども! ぶっ殺してやる!」


 細長い指が引き金に引っ掛けられ、エンジン音を貫く銃声が弾いた。それはフェルナンデスの耳の下を通り過ぎ、頬に血の線を奔らせる。咄嗟に首を傾け髪を舞い上がらせて避けるフェルナンデスは、運転席の背もたれを鷲掴んでウェッブへ叫ぶ。


「アルバァ! 回れえ!」


「了解い!」


 ウェッブはハンドルを思いっきり回し、斜めに重心が傾いた船は白波で円を描いてぐるりと回った。遠心力でそれぞれの縁に背中を撃ちつけられて顔を顰める両者だったが、腕を懸命に伸ばして弾を撃ち放ち続ける。


 耳を劈く爆発と閃光が狭いクルージングに何発も渡り合う。社長の放った弾はクルージングの窓を打ち破りけたたましくガラスの破片が飛び散り、ウェッブは悲鳴をあげながら身を屈ませた。一方で、最初からしがみ付いていたフェルナンデスの方が先にバランスを保ち、足を広げた態勢からストックを固めては、飛沫の中から一発を放つと、それは男の手首を撃ち弾かせ銃持つ腕を宙へ浮かせた。


「うわあ!」


 戸惑いの声をあげる社長に対し、フェルナンデスは手ごたえに意気込む間もなく「しまった」と。目を凝らす。サーベルの男が弾幕を恐れず飛び出すと、銀の矛先を月明かりに照らして、ウェッブの首元を狙って飛び出してきたのだ。細身ながらも鍛えられた体幹をひねり回し、飛んだ男が眼下の首へ狙いを定めて刃を翳したのだ。


「さっせるかあああああ!」


 弾幕は社長へと放ったまま、フェルナンデスは横から飛び出して男へと回し蹴りを喰らわせんと走る。が、濡れた床に足を掬われて大仰に滑ってしまう。男は滑り込むフェルナンデスを飛び越える形で腕を振るったが、フェルナンデスの叫びに気付いたウェッブが振り返り首を竦ませることでひと振り目は避けられた。しかし、濡れた床面を揺らして着地した男は、今度は背もたれへと転ぶことなく駆け出して、身を屈めるウェッブを斜め上からの一突きを喰らわせようとする。それを今度こそフェルナンデスが許さなかった。


「だからさせるかってんだよおおおお!」


 倒れ伏した態勢から太腿を振り上げて男のふくらはぎを思いっきり蹴り飛ばした。細い足が靴底に飛ばされてあっけなく崩れ落ちる。フェルナンデスと向かい合うように倒れた男はウェッブへと覆いかぶさり、ウェッブは「ひいい」と短い悲鳴をあげる。


 その最中、続いて起き上がったフェルナンデスがコルト・ガバメントを鈍器代わりに男の頭へと横から振り回して脇へ弾かせる。その拍子、デッキの段差に頭を撃ちつけた男はそこで初めて苦悶の表情で眉を顰めた。目を瞑りながら転がる剣を取ろうとする男の手を、駆けつけたフェルナンデスが踏みつけ、身を覆うように侍っては頭を掴み段差の角により強く押し付けた。


「返せ……!返せえ!」


 猛走のクルージングボートの中心で縺れ合う男は、互いに白銀の光を過らせてぎりぎりまで歯を喰いしばって唸る。


「お前の名前を……! あの子に、返せえ!」


 海水に滴る歯を剥いて牙で水しぶきを弾かせるフェルナンデスは、精一杯の憎悪を込めて正義の鉄槌を震わせんと左腕を振り上げる。しかし、その太い手首を掴む細長い手が阻んだ。ブラウンの瞳が大仰に見開いた先には、海水に入り混じる鼻血を滴らせながら、歪んだ笑みをうかべる鈍色の瞳。


 フェルナンデスがあっと声をあげる間に、社長はがら空きになった後頭部へ鋭い角度から頭突きを喰らわせた。激しく渡る激痛に気を失い、身を崩したフェルナンデスは更に助走をつけた長い足の一撃を喰らってしまう。床面を揺らすほどに仰向けに倒れた拍子にコルト・ガバメントも離してしまった。


「バートォ!」


 ウェッブは脇目に必死に叫ぶもフェルナンデスは脳震盪を起こしたのか、呆然とした面持ちで荒息をあげては、へたり込んでしまう。その顔へ段上より突き付けられる銃口。一方でサーベルの男は痛みに呻きながらも這いつくばるように身を起こし、目前に転がった剣を捉えようとする直前だ。このままでは挟み撃ち――、最悪の光景に身を強張らせるウェッブは、ハンドルを回す感覚さえ失ってしまう。その間にもサーベルは男の手によって捕まれ、刃はこちらへと鈍い光を放った。

 

「クソッ、クッソオオオオオオオ!」


 目を剥いたウェッブは眼下に置かれた麻袋に目を向けると、戸惑いつつも掴む片手を力強く――、社長へ向かって投げつけたのだ。それを無意識に腕で弾かせて難なく避ける社長であったが、脇で転がった麻袋の正体に瞳は丸みを帯びる。


 そうだ、『あれ』さえ海に捨ててしまうえば。と、過った思惑が視線を僅かにずらしてしまう。それがウェッブの作戦とも知らず。


「いっけええええええ!」


 その瞬間、ウェッブは再びアクセルを踏みしめた。丁度全員が前に集まっていた隙を狙い、船は思惑通りに前めのりになって大きく傾く。再び足を掬われて転がる男たちであったが、ウェッブが待っていたのは彼らの軸をブらすのではなく、こちら側へと水の線を引いて向かうフェルナンデスのコルト・ガバメントだったのだ。


「うっしゃああああ!」


 びちゃびちゃと水を弾かせて不器用に銃を引き抜いたウェッブは、雄たけびをあげると、覚悟もないままに引き金を引いた。揺れる視界の中で揺れる銃身は――、身を屈めて態勢を整える社長の右肩を真っすぐに撃ち抜いた。人の身体を抉り抜いた銃声は独特の鈍さを帯び、社長も間近に迫った音とともに滲んだ激痛に、顔面を蒼白として滝のように滴る己の血を見下ろしたのだった。


「……クソっガあ……!」


 剥がれた理性をブラ下げるように鈍色の瞳が恨めしく揺れてウェッブを睨む。ガバメントの向こうで初めての発砲に震え上がるウェッブへと、せめての抵抗とばかり一歩踏み出そうとするが、最後の揺れに抗う力を失って絶望の面持ちに月を仰ぐと、揺られるがままにがくりと首を擡げる。そして、遠心力に沿って海の方へと自ら身を投げるように、仰向けに頭から海の中へと落ちていったのだった。


 大っ広に開いた長い足が印象的に映ったが、落ちる水しぶきはモーター音に掻き消されて、ウェッブには全く聞こえなかった。


 墨のように真っ黒な海を月に向かってボートは白い波を描いて突き進む。戦闘の舞台には後残る三人。ウェッブは最後に残ったサーベルの男と目が合う。波打つ殺意の眦。ウェッブは息をのつく間もなく恐怖の余りに再び雄叫びをあげた。


「消えろおおおお!」


早く視界からめわらんせ剥がしたい一心で引き金を引こうとしたが、指が濡れたトリガーで滑ってしまう。その隙に飛沫を切り裂いた矛先が銃口の中に突っ込み、ウェッブの手からコルト・ガバメントを振り放してしまったのだ。勢いよく振り上げられた矛先から、夜闇へとくるくると回ってガバメントはボートを通り過ぎて向こうの海へと落ちていく。


「えっ?」


 あまりにも素早い業になすがままに空になった手を掲げるウェッブへ、男の業は容赦なく再び振り上げた刃でトドメを刺そうとする。刃の鋭さと冷徹な眦に恐れ、どうすることなくウェッブは身を竦ませて目を瞑る他にない。過る風に己が血にまみれて倒れる姿を暗闇の中で浮かべたとき、皮膚を切り裂く刺音に身を強張らせだ。しかし、次に恐れた激痛はない。どういうことか、と、片目だけを開けば、目の前には血の筋に塗れた切っ先が顔面に突きつけられていた。ウェッブは「ひいっ」と、のぞけるが、揺れる切っ先はウェッブの身体を貫かない。次に捉えた目前の光景に、厚い唇が震え上がった。


「バ、バート!」


彼の叫びに、刃を貫かれたフェルナンデスの肩が盛り上がる。途端に奔る激痛に汗を滲ませど、決して離さまいと『リベラート』の掴む柄を鷲掴むのだ。


「バート! ああ、そんな……!」


 泣き叫ぶウェッブの一方で、フェルナンデスは正に好機と言わんばかりに、鼻血に塗れた顔で歪んだ笑みを浮かべると、更に力を込めて自らの身体へと刃を押し付けるのだ。


 刃がフェルナンデスの肩を更に深く抉り出す。切っ先が肉の筋を掬い上げて引っ張るも、それでより活力を注入されたかのように月光を借りた眼がぐるりと錯乱して回り、刺された側の手とともに柄と男の握る手を押さえつけた。それに、男も「なっ」と驚きに口を開いたのだ。


「はなっせえ……!」


 デッキの水面にガタガタと揺れて回る二つの影。サーベルの男は激しく身を揺らすことで血まみれの手を必死に引き剥がそうとしたが、フェルナンデスも負けじと歯を噛み締めた口から、獣が如く唸り声を吐いて爪を突き立てる。男の顰む眦に、次第に絶望の境地がよぎった。


「く、くっそ……!」


 鍔じりあいにキリがないと悟った男は、フェルナンデスの手を引き剥がすことを諦め、振り払うように手を離した。水濡れの滑りを活かして引いた手を掲げた男は、咄嗟にフェルナンデスへと背を向けて走り出す。自ら武器を手放す代わりに、先に転がる麻布を掴もうとするつもりなのだ。


「この野郎!」


 フェルナンデスも追いかけようとするも、揺れ動く船内と濡れた床板に再び足をかけられて大仰に転んでしまう。その拍子に合わせて男は長い脚で飛び出しーー、麻布に覆いかぶさった。そして一気に抱え込み暗闇の海に投げ捨てようと振り上げる。


「やめろおおおおお!」


 牙を向いて叫ぶフェルナンデスの情動にのせて、黒い影が背後から倒れる彼を乗り越えた。茶色い瞳が見遣った空には足と手を同じ高さで振り上げて飛びかかるウェッブの後ろ姿がスローモーションに映る。


 フェルナンデスがあっと声をあげる合間に、190cmの若々しい巨体が、男の体躯に体当りする。鈍音とともに弾き出される痩身。しかしまるで貼り付けたように空に飛んだ麻袋だけは決して離さんとしがみつく。ウェッブも浮き上がる宙に身体を任せながら、くるくると回る麻袋を目に焼き付けて腕をのばし、男の背中ごしに布の端を掴んだ。


「はなっし、やがれえええええ!!」


 互いに縺れ合って床に伏せる。麻袋を握り引っ張り合って、中味の無事は二の次に、波に打ちひしがれながら握った拳に全ての力を賭けて震わせる。男は抱え込むように身を屈めて全体重をのしかけていくが、ウェッブは逆にうめき声をあげながら若気の勢いに任せ膝を立てて引き上げるのだ。


「うあああああああああ!!」


 夜闇を切り裂く雄叫びに、ウェッブは歯を月光に瞬かせて、腕を痙攣させながらも例え千切れようとも構わずに――、男の身体ごと宙へと跳ね上がらせたのだ。フェルナンデスは信じられないと口を開いている内に、ウェッブは黒く逞しい腕をひねり周し、麻袋を男ごと船の縁に激しく打ち上げたのだ。


「ぐっああ……!」


 武器を自ら手放した男に残ったのは、年季に筋張った痩せた身体だけだった。縁の角に頭が当たった衝動に白目を剥いて擡げれば、重心に沿って縁から半回転し、遂に海へと落ちていく。しかし、それでも手だけは離さず麻袋ごと舞台から降り落ちようと足を海と重心をかけてきた。ウェッブは一気に引き摺られることに目を見開く合間、麻袋もぐるりと回って闇の中へと飛び抜ける。


「させるかああああ!」


ウェッブも決して離すまいと端を掴み足裏を縁に押しつけ背を反らす。男が足をバタつかせてる暴れる重みに必死に耐えて目を瞑った。顰める瞼から覗く先には、飛沫に半身をつかりながらも、ガタガタと眦と唇を震わせる青白い顔が目前に迫る。今にも振り落とさんと迫る波の手から抗い、小刻みに揺れる指から必死に爪を立てて麻袋の網目にしがみつく。


「娘の……! 娘の……!」


 紫色の唇は開かれる。秋の海に体温を奪われながらも、鋤骨の見える胸の奥に宿る娘への思いが、瞳にまだ光を失わせない。


「娘の未来を……! 奪わせるな……!」


 麻袋を奪おうとするウェッブを、まるで悪魔のように見立てて擦れた声をあげる。それにウェッブは一瞬、はっと目を見張った。とたんに麻袋はずるりと下がり、半分が海に浸かる。自身もほぼ落ちかける態勢にまで引きずられたウェッブは、雫を滴らせる顔を緩ませた。突然の変貌に目を見開く男とともにその目に映すのは、金髪を靡かせる美しい女性。ウェッブの厚い唇も小刻みに震えながら、やがて、潮の粒を弾かせて男に答えたのだった。


「いつか、ちゃんと、娘に教えてやりなよ」


 迫る気配に目を瞑り、微笑む。


「あんたの、本当の名をさ」


 穏やかな声は飛沫の中でもはっきりと男の耳に届いた。彼の真に迫るものだったか、また、奪い取る好機によるものだったかは定かではない。どちらにせよ、男がふっと顰めた顔を緩めて真顔に戻ったとき、藍色の瞳は逆光に浮かぶ影を最後に捉えた。


 脇に見上げた先――、男はウェッブの笑みの意味を知る。目前に迫るのは血まみれの拳。ピタリと宙に留まるだけだが、それは、もう一つの拳を振るうために固める力拳。徐に胸を逸らして右腕を掲げる拳の持ち主、フェルナンデスの手には男にとって見慣れた鈍い光が帯びていた。


 月光の縁を帯びた茶色の目は茫然とする男に容赦なく殺意を突きつけ、引き締める唇には弁明に応える意志の欠片もなく、フェルナンデスはサーベルを掲げる。寸時によぎる息遣いとともに、それは禍々しく銀色に瞬く。


 刹那、引き締めたまま一気に突き出したフェルナンデスの刃は、しなりもなく真っすぐに、男の腕を鋭利な切っ先で貫き血の粒を散らしたのだ。


 男の手は遂に離され、その隙を掻い潜るように、波が開かれた口をも覆いつくしては、彼方と引き連れていく。衝動に揺れた視界の端から、ウェッブは波に掻き消えていく男の手指を捉えたが、あっという間に男は視界から打ち消され、あちこちに生々しい傷跡を残しつつも、敵のいなくなったボートは一気にスピードをあげて駆け抜けていく。


 戦いは、終わった。フェルナンデスによって引き上げられたウェッブは床に膝をつき、互いに肩を上下しながらようやく水滴をしとどに流す顔を向かい合わせた。


「アルバ……アルバア……ありがとう……俺、お前がいなかったら……! 今頃……!」


「それはこっちのセリフだぜ、バート……最後はほんと、ありがとうな……!」


 フェルナンデスは顔をくしゃくしゃに崩して涙を流した。血に塗れた両手で肩を叩かれるウェッブも、眉しな垂れて荒い息をあげる。その間際に、ずぶ濡れの麻袋を抱きしめつつフェルナンデスは掠れ声をあげた。


 やがてボートは留まり、月の光を帯びた波は円となって揺れていく。ウェッブたちも月光に浮かぶ互いの姿を見つめ合い、ひしと抱きしめ合ったのだった。挟まった麻袋ががたりと骨の鳴らす音を立てたことにフェルナンデスは強く、強く、ウェッブの腕の上に重ねて抱きかかえる。


「リベラート、やっと……、やっと……! 取り戻せたぞ、リベラート……! 君の名前を……!」


 額をも擦りつけて咽び泣くフェルナンデスを、身を起こしたウェッブは穏やかに見下ろした。そして、自覚した胸の内の灯とともにフェルナンデスと、そして、リベラートに覆いかぶさったのだった。二人を否、三人を月光は穏やかな光を注ぎ、やがて、赤色灯を引き攣れて、舳先にFBIと印字された幾つものボートが白浪を立てて迫ってくる。サイレンを鳴らすそれらは、ゆっくりと漂うクルージングボートを取り囲んでいったのだった。


***


 ボストン銃撃事件は、FBIによる裏組織の一斉摘発によって幕を閉じた。倒産となったブライヤーカンパニーと癒着していた署長も解雇処分を受けて、ボストン地区が再び騒然となる一方、ハーバード大学に埋められていた乳児の白骨遺体は、正式にグイードの息子、リベラート・フォンダと証明された。


 その骨はペンシルベニアにある父親の――、マッティア・フォンダと同じ墓に埋葬されることになった。ボストンの喧噪から離れたペンシルベニアの墓地では、穏やかな秋の風が紅葉の葉とともに、墓前に立つ者たちの髪をそよがせる。


『グイード・フォンダ リベラート・フォンダ 親子ともに眠る』


 新たに刻み付けられた墓石を前に、制服姿でギプスを嵌めるフェルナンデスは、こみ上げてくる情感に冷えた鼻を啜る。脇から喪服に身を包んだウェッブが肩を抱いて慰め、約束した通りに、彼の名前がようやく刻まれた墓石を見下ろし目を潤ませた。そんな二人を囲んで見守るのは、地主の家族やグイードを匿い、彼の墓を守ってきた造園会社の者たちだ。


 彼らの家族が何十年とかけて紡いできた善意の連鎖が悍ましい悪行を暴きだした。それぞれに穏やかな目配せで互いを、そして家族を無言の内に労い合い、二人が手を取り合って花束を墓前に添えて膝をついたときに目を瞑り、彼らのこれからの健闘と親子の冥福を祈ったのであった。


 しかしその一方で、事件は新たな別れをももたらすことになった。それを見届けることになるのは、ハーバード大学に残るアーサーの役目となる。


***


「あたし、どうしても貴方には伝えたかったの」


 腕を後ろ手に組みかわし、ピンクのチェック柄のシャツを靡かせるルーシーは、金髪の隙間から振り返りアーサーを見つめる。柔い日差しに紛れた壊れそうな笑顔を、背中を追っていたアーサーは正面から受け取ることが出来ずに目線を芝生へと落とした。


「いなくなるのは……いつからなんだ……」


「明後日よ、ホンット急よねー。ま、それでこその保護プログラムなんだろうけどさ」


 首を傾けながら力なく笑う。アーサーはまさかここで聞くことになろうとなんて、と、無言の内に下唇を噛みしめていた。


 証人保護プログラム。犯罪組織や犯罪者に狙われている要人を守るために公安組織が処置するシステムだ。公的機関が作った新たに戸籍に基づき、名前、住所、身分、そして紡いできた人間関係の一切を変えて、誰にも告げられないまま突然姿を消し、新たな生活を送ることになる。ルーシーも明後日でハーバード大学を中退することになる。それも、全ては父親の素性が明かされてしまったことによって。


「あたし、実は……まあまあでっかいイタリアンマフィアの、そのボスの娘なんだ。娘といっても、愛人のなんだけどね」


 やがて手指を漫ろに組み合せながら、ルーシーは最後の痕を残す意志を忍ばせて語る。彼女も視線を僅かにずらし、惜別の思いで構内を見渡した。


「だから、財産の分け前を取られまいとする奥さんの息子たちに、あたし、ずっと狙われていたらしいの。それを歯向かっていた部下が、お母さんともども匿ってくれてたんだ。でも、すっごく窮屈だったわ」


 紅葉の隙間から覗く青を見上げて、当時の狭い空を思い出す。


「身を守るために全然外にも出られなくてね。一緒にいてくれたお母さんも使用人のようによそよそしかったし、全てがつまらなかったの。ウェッブのお母さんが寮に遊びに来たときにはさ、ああ、家族ってこんなに気兼ねないもんなんだって、ようやく初めて知ったっものよ」

 

 自嘲が虚しく秋風に染みる心に滲み出た。


「まあ、でも無理もないわよね。愛人ってことは、惚れた腫れたで結ばれた訳でもないだろうし、生活のためにしたことが、あんな形でしっぺ返しも喰らったら生きる気力もなくなるわよね。結局、お母さんは心を患って道路を飛び出してしまって……隠してくれた部下も抗争に巻き込まれて死んでしまった。そうして誰もいなくなったときに、私はパパと出会ったの」


 元より『父』は、マフィア側の依頼で彼女を捕獲する側としての任務に就いていたという。しかし、彼女の立場を知った途端、彼女自身が必死になって彼を追い求めるのを目前にして、『父』は依頼を蹴り、彼女の身の安全のために父になることを選んだのだ。互いに今までの名前と戸籍を入れ替えてまで。


「私はそれで、今度こそ幸せになれると思ったわ。組織の人たちも、社長のお兄ちゃんも随分と良くしてれたし、こうしてハーバード大学の学生にもなれて、やっと明るい世界に飛び立てると思ったの」


 無情なほどに変わらない今日のキャンパスを仰ぎ見て、ルーシーは小鼻をあげて鼻を啜る。


「でも、駄目だったのね……。よりによってこんなときに、私はまた全てを失うことになってしまった……。今回の騒動でマフィアがまた、私の存在に嗅ぎついたらしくてさ……」


「……君は何も悪くないさ」


 虚無の眼差しで、キャンパスの光景を眺めるルーシーに居た堪れず、アーサーは慰めの言葉をかけるが、本人も驚くほどにその言葉は乾燥している。流し目に見遣るルーシーは、それこそが彼らしいと、曖昧な笑みを浮かべつつ「ええ、そうね」と、クマに澱んだ下瞼をあげる。


「……やっぱり駄目よね。どんな事情があれ、私は、私たちは確かに、幼い男の子の人生をずっと踏みにじって生きてきたんだ。罰は、私もちゃんと受けるわ」


 最後に声を震わせながら、やがて無理矢理笑顔を取り繕い、ルーシーは振り返った。その光景をアーサーが忘れないようにと、日差しでキラキラと瞬く金髪を舞いあがらせて、意地として美しく微笑む。風も同時に吹き抜いて、黄金色に照らされた芝生の上で優美に回る。


「さようなら、アーサー……アーサー・ベリャーエフ」


 告げたかった愛の言葉は喉の奥へと飲み込んで、ようやく紡ぎ出す言葉を円満の笑みとともにアーサーの心に染みわたらせる。アーサーもまた灰色の瞳を見開いて、騒然と口を開き彼女の方へ白い指を翳した。


「さようなら、ルーシー……ルーシー……」


「アモローソ、アモローソよ」


 互いに目配せを挟んで通じ合う心。それにアーサーはため息をつき、瞼を伏せた後に色味を変えた眼差しでもって、神妙に告げるのだった。


「そうか……さようなら、ルーシー・アモローソ。どうか無事で」


「……ありがとう」


 久しぶりに聞いた本当の名前に胸を震わせるルーシーは、溜まらずキラキラと瞬く雫を散らす。しばらく二人見つめ合い、強い握手を交わしたが――、やがてアーサーは目を伏せる。それを合図にしてルーシーは頷き、彼女から指の力を抜いた。あえて名残惜しい間も与えずに背を向けて遠くなっていく姿。脇から学生たちが今日もマドンナたちに駆け寄って話しかける。その何気ない会話が最後になるとも知らず、一体どういう心境で彼女が聞いているのかと思えば、アーサーは溜らなくなって目を逸らし、今度は斜め上に空を仰いだ。


「もう……こんな思いなどさせない」


 焼き付ける景色は、雲一つない晴天。


「いつかきっと……きっと、君にとっても良い世界にしてみせるよ、ルーシー。名前を隠さなくても、奪わなくても、そして……奪われなくても良いように……」


 彼女の温もりがまだ残る掌を握りしめ、近づいてくる世界の音と立ち向かう。そして再び夢への新たな決意を込めてアーサーは一人きりで前を向くと、並木道を歩き出したのだった。


***


 海から引き上げられたブライヤーカンパニーの元社長と、リベラートと偽る男はFBIのジャケットを被せられ、暖と治療を受けた後に逮捕された。その後の取り調べ調書を流し見る一人の捜査官は、見慣れぬボストンの赤煉瓦の景色を前に、頬杖をしながらどうも釈然としないとため息をつく。


「何だか今回の悪党ども、妙な奴らばっかりでしたよね、先輩」


「そうだったわね。特に社長、何か妙にキャラが立っていたというか」


「そうそう」


  机を挟んだ向かい側では、同じジャケットに身に纏う女性捜査官が、窓の格子に手をつけながら答える。彼女はまた、目の当たりにしたそのときの光景をも思い浮かばせていた。


「あんたたちも、いずれ知ることになるだろうさ」


 傷だらけになった体躯を霞ませるような覇気で、手錠を嵌められた元社長が隊員たちに睨みを利かす。


「この世の中には誰かのために、ましてや正義のために、別の誰かに手をかけ、手を汚さなきゃいけないときがあるんだよ。あのクソガキどもにも伝えとけ。そのまま道を突き進むつもりなら、十年……いや、二十年、三十年後にはあんたらも僕のようになるってね」


 猫の目を吊り上げて元社長は凄んだが、捜査官たちは呆れたように口を開くばかりである。澱んだ空気を受けた元社長はやがて、大口を開いて壊れたような笑い声をあげた。ますます閉口する隊員たちを他所に、元社長の高らかな笑い声は虚しく響き渡るのだった。


 その忠告は確かに、三十数年後のNYで二人は思い知ることになる。しかし、彼の言葉が届いたかどうかは定かではない。


 続く調書には元社長の経緯も綴られていたが、捜査官は読まずに次の頁を捲った。文面からすぐに目についたのは、「不起訴」の文字。それこそがため息の理由であった。


「そして……もう一人の男は、認知症のために不起訴処分。精神科病院に搬入なんて……ねえ……まだそんな歳でもなかろうに……、何とも締まりが悪いことになってしまいましたね」


「うん、私もあれは認知症でないと思うわ」


 鋭さを帯びた声が響く。彼が顔をあげる先には、女性捜査官の悩ましい顔が窓に映っていた。


「あれ? でも、発見器でも、物忘れが嘘だとは見抜けなかったんですよね」


「ええ、でも、それにしても、余りにも抜けた部分が『部分的』すぎるのよ」


「は?」


「認知症にしてはあまりにも、記憶を失うところが『鋭すぎる』の。ナイフで切り取ったように、あまりにも器用で鮮やかすぎるのよ。こんなこと、自然の症状ではほぼありえないわ」


 見聞きした者としての情動が巡る。そして、己でも信じられないと思いつつ、彼女は片隅に残る懸念を語りだした。


「実はその男のカルテが、会社内に残っていたんだけどね……、彼、ルーシーを引き取ると同時に脳の手術を受けているの。それがもしかしたら……意図的に記憶を失わせる手術で……それで本当に嘘偽りなく、リベラート・フォンダになろうとした思惑があったんじゃないのかしら……」


「そ、そんな馬鹿な。そこまでの高度な手術方法があったとするなら、今までの医療技術がひっくり返ってしまいますよ?」


「ええ……そうね……。でも、その執刀医というのも凄く怪しいのよ。いわゆる闇医者って立場なんだけど、元々ベネズエラの研究施設から逃げ出して、そこで培った技術をバラ売りしたっていうわ」


「ベネズエラ? はっ、ますますありえませんね」


 言葉の端に南米への偏見を込めて鼻を鳴らす相手へ、女性は鋭く顔を向けた。


「そうかしら。しかもその闇医者、今年の春に不審死しているのよ? 何か大きい陰謀があるように感じられない?」


「S、F、です」


 相手は両手を掲げて首を振るだけである。諦感のため息をついた女性捜査官は、窓の方へと向き直し、再びそのときの状況を思い出していた。


 それは、記憶を失った男との取り調べの最中。次々と繰り出される質問に、次第に男は顔面を青ざめては、膝の上に肘をつき頭を抱えて震えだしのだ。


「そうだ……! そうだったはずだ……! 私は娘のために……! 全てのことを……! それなのに……! なのに……!」


 質問の中にある娘の名前を、どうしても答えられないのだ。


「なんで……なんで……ああああ……! あああああああ!」


 先までの無表情が嘘のように、愕然とした面持ちで頭を搔き乱すように爪を立てて引っ掻いては、蹲ったまま絶叫を弾かせる。娘の名前を紡げない自らの脳内を責めるように、頭を机の角に叩き付け大暴れをする。駆け寄る捜査官たちに無理矢理押さえつけられて立ち上がられたときには、涙と涎を幾筋も垂らし、だらんと首を擡げて粗い息を吐いていた。


「リベラート・フォンダ! 貴方は娘のために二人を襲った、そうなんだな!」


 別の捜査官が顔を覗き込んで問い詰めると、虚ろな藍色の瞳がぐるりと回る。ぎょっとする捜査官を前に、涎を垂らした口で呻きながら、男は次に、彼らを更に戸惑わせる答えを述べる。


「娘え……? わたしに娘なんかあ……、いたのかあ……?」


 男は認知症と診断された。しかし、女性捜査官が『部分的すぎる』と評する通り、生活を過ごす上での能力は普通ながら、じっくりとゆっくりと記憶だけが単発的に、そして確実に失っているのである。女性捜査官は自身の推理のもと、闇医者の手術だったが故の副作用でないのかと察し、実にままならないと並木道を見遣り目を伏せた。


 後に彼女は数十年後に教官として、サーラー、ポール、そしてカレルの教育係を勤めることになる。そこで述べ伝えたこの懸念がやがて『ムンダネウム』の存在を明らかにするきっかけになるのだった。


 女性捜査官はしばらく、男の様子を見に病院を訪れていた。その度に見るのは真っ暗な部屋の中に閉じこもり、独り蹲りながらびくびく震えている男の姿。無理もない、と、女性は扉に身を寄せて俯く。


 記憶を失っているという自覚を持ちながら、少しずつ思い出がなくなっていく恐怖にこれからも彼は怯えなければならないのだ。しかし、だからと言ってどうすることもできず、彼女はすっかり老け込んだ男の横顔を、眺めることしかできなかったのだった。


***


 季節は巡り、冬のボストン。純白の雪が枯木になった芝生を覆い、白い校舎と合わせてウェッブの黒い瞳に冷徹な銀世界を映す。澄んだ空気が曇りの空に黒い枝木をくっきりと浮かばせて、針のように鋭い先を尖らせていた。つい数ヶ月前に見えていた紅葉も掻き消えた景色を目の前に、ウェッブは時の移ろいを思い白い息を吐いたのだった。


「ルーシーがいなくなって……、今年の冬は余計に寂しくなったな」


「全くだせ」


隣の低い声、アーサーの呟きにウェッブも目を向かい側に逸らして答える。互いにその後は問わぬまま、時の経過を寒い身にしんしんと受け止めながら二人並んで歩く。


「……そういや、アーサー。いよいよ弁護士試験も迫ってきただろ。調子はどうだい?」


言うまでもないかと、目を閉じてウェッブに、アーサーは雪を踏みしめる音を立てながら答えた。


「嫌味のつもりはないが……先生方からもお墨付きもいただいた。単位も含めて問題なく無事に卒業した上で、すぐ弁護士になれそうだ」


「そりゃ、めでたいこった」


「そして、ウェッブ……お前はどうだ。あれから自分のやりたいこと……見つけられたか」


 クリーム色のコートが雪を撫でる。颯爽と足跡を残して歩くアーサーの背中を追った目が、灰色の瞳と合った。


「ああ」


 大きな白息が二人の視界を隔て、やがて通り過ぎては神妙に見上げるアーサーへと、ウェッブは告げた。


「俺……警察官になる」


 ウェッブの腰のベルトの端が振り乱れて、木枯しが二人の間に吹き荒んだ。


「……本気か」


 顎を引いて灰色の瞳は鋭い瞬きを帯びる。それでも、ウェッブは白い歯は揺るぎない言葉を紡ぐ。


「そうだ」


 短い答えが、アーサーへの信頼をも翳す。


 警察官。


 それは正義の道なれど、エリート学生としては「外れ道」。それでも――、


「……頑張れよ」


「ああ、お前もな」


 冷たい空を通じて互いの声が凛として耳に染み渡る。親友に多くの言葉はいらない。それをも通じ合わせながら、これから巡る長い別れを日々渡らせて、真っ白な背景に浮かぶ互いを見つめ合うのであった。


 やがて、雪を荒々しく踏み飛ばしてながら、もう一人の身丈の大きい男が脇から近づいてくる。


「ウェ〜ェ〜ブ〜ゥ〜」


 固く結んだ拳を地面に向けて下ろし、肘を曲げる仕草で乱雑に振り回すダブルエーである。


「お、わあ。しばらくじゃねえかダブルエー。クリスマス帰りはどうだった?」


 そう労いつつも、彼が怒りに目を剥く理由もとうに分かってる風に広角が緩んでいる。それにますます雪を踏み散らして、ダブルエーはウェッブへ躙り寄った。


「修理代の見積もりを持ち帰るハメになって、一日机とにらっめこの毎日だったぜ……!」


 今日とばかりは、元からの言葉遣いを隠さず迫って唸り声をあげた。


「ウェッブ、よくも……! よくも! 『俺』のクルージングボードをあんな滅茶苦茶しやがって……!」


「いや、だって、人様のボートじゃねえと好き勝手出来ねえじゃん」


 頭を搔きながらにへら顔で言い切るウェッブに、いよいよ怒りの沸点が切れたホールダネスは歯を剥き出しながら身を屈む。


「ぬっけぬけと言いやがってえー!」


 そして、地面の雪を引っ掴んで拳で固め、ウェッブへ向かって投げつけたのだ。片足をも振り上げた勢いに、雪玉はウェッブの額に丁度当たる。おお、と口をすぼめて驚くアーサーの一方で、仰向けに大仰に転がったウェッブも大きな目を瞬かせる。


「ひっでえ! 何しやがんだー!」


 溌剌と怒り返して首を起こすウェッブだったが、雪に塗れた口端はあがっていた。雪原に人型を残して跳ねるように起き上がるウェッブも、膝をついた態勢から今度は両手で雪を掴み、ホールダネスへと二発の雪玉を投げ返す。それを長い脚で蹴り飛ばして避ける彼へと、次々とにやけるウェッブによる雪玉が投擲が続き――、大柄な男二人の遠慮のない雪合戦が、構内で繰り広げられた。


「いやいや、お前たちいい加減にしろ……」


 手を振りながら留めようとしたアーサーも、飛び交う雪玉の流れ弾を受けて頬に大きな一発を喰らう。あっと、口を開いて二人が見遣る先には、目を瞑りながら、真っ白な顔立ちに深い眉間が刻ませるアーサーが呆然と立つ。


「全く……お前たちは……!」


 すると、彼も目を瞑りながら徐に身を屈むと、白い指を雪に埋めらせ、両手に雪玉を作っては二人に雪の鉄槌を喰らわせた。唐突な参加者ににやけ顔が止まらないウェッブと、今度こそ積年のコンプレックスを果たす契機だと野心に眦鋭くするダブルエーの歓声が響き渡る。


「よーしっ、やってくれたじゃねえかあー! アーサー!」


「ベリャーエフ、くらえー!」


「あ、こら、二対一は卑怯だろ!」


 こうしてエリート学生たちは自身の立場をしばし忘れ、飛び跳ねて身を屈めながら、雪を掴んでは投げ返し、また避けたり当たったりする度に若々しい声を憂鬱な曇り空に軽快に弾かせる。真っ白な雪原に思うがままに足跡をつける情景は、何にも染められない今の彼らを象徴するようであった。


 そう、三人はまだ知らない。これから三十年を経て味わうことになるぞれぞれの栄光と、そして、絶望を。


***


 数年後、舞台は赤レンガのボストンを超え、NYへと移り変わる。


 穏やかな日差しを受ける銀色の摩天楼を見上げ、茶色い瞳は今日をまん丸と日を翳して瞬く。まだ慣れない大都会の景色に瞬きを繰り返し、ぼうと口を開く小柄な男。やがてボストンのときよりも濃い紺色の八角帽子を両手で被り直し、肘を曲げたままに両手の拳を突き上げたのだった。


「よしっ、今日も頑張りますか!」


 小柄な警察官、バート・フェルナンデスはボストンでの暴挙の処分を受けて、NY署への転属を命じられた。そのとき、驚きにも悲鳴にも似た叫びが響き渡ったことを彼は刹那に思い出す。


 そう、NYはボストンよりも都会で、当に警察官の花形ともいえる部署であるが、都会が故に治安も悪く事件も膨大で、警察官は忙殺の日々を送ることになると専らの噂だ。そのため、NY署への転属は「左遷なのやら昇格なのやらよう分からん」と、見なされている。


 しかし、フェルナンデスにとってはどちらでも良いことであった。再び警察官としての業務に勤めれるのだと思えば、引き締める唇は今日も生き生きとした息を吐き出すのだ。しかし、パトロールに踏み出そうとした足は背後からの上司の声によって空回りする。


 そして、徐に上司の一室へと呼び出された。しばらくデシャヴに浸るフェルナンデスに向かい、上司が告げた命令に彼は大声をあげる。


「でえええええええ!? 俺が幹部候補生です、ってえええええ!?」


「ああ、もうお前にはオフィサーとしての任務は就かせない。これからは試験までに死に物狂いで勉強して幹部試験に合格しろ」


「そ、そんなあー!」


 予想外の展開に、己に突き付ける指を震わせながらフェルナンデスは抗議の声をあげる。


「俺には任が重すぎますよ!? だって、俺、何の取柄もない、たたき上げの巡査ですよ!? 幹部なんて、貴方が今言うまで考えたこともなかったのに!」


「何を言っているんだ……。お前こそ巡査の仕事に向いていないだろう……」


 すると上司は、額に指を添えて睨みを効かす。机の上に置かれたフェルナンデスの始末書を流し見ながら、ため息交じり呟いた。


「部署転属になってからも、懲りずに好き勝手暴れまくりやがって! どんだけ俺が今まで上の者に頭を下げてきたと思っている!」


「いえっでも、だからこそ解決出来た事件ばっかりじゃだったじゃないですか!」


「ああ! 腹立たしいが全くその通りだ! だからクビにしない! けれどいっそのこと、お前が命令する立場にさえなれれば、お前の暴挙が収まるだろうという、上からのお達しがあったんだよ!」


「えええええー!」


 戸惑いの叫びを遠慮なく弾かせるフェルナンデスに辟易しつつ、上司はやがて安心しろと柔い声で答えた。


「で、お前が難なく幹部候補生になるために、特別に教育係をつけさせることにした。彼の指示に従えば、お前も漏れなくエリートの仲間入りだ。お前より相当年下の若者だが、もう幹部としての仕事には慣れている。心して言うことを聞くんだぞ」


「教育係って……?」


 首を傾げるフェルナンデスの背後に、やがて黒影は忍び寄ってくる。咄嗟の気配に振り返れば、ガラス越しに映る笑顔に、フェルナンデは丸々と目を見開かせあんぐりと口を開けた。


「あ、あ……!」


 今度は指を彼へと突き差し、驚きに言葉を詰まらせた。その目に映るのは、少し横幅に肥えた背の高い黒人の青年。手をピラピラと振りながら徐に扉を開いた教育係との隔たりがなくなり、数年前のボストンの香りが通り過ぎる。


「よう、久しぶりだな。フェルナンデス巡査さんよ。相変わらずのやんちゃっぷりのようで」


 八角帽子の鍔を摘まみながら、円満の笑顔でにやりと歯を見せる青年。フェルナンデスの背中を追い、そして彼と同じ制服姿となって現れた姿を見せつけるように胸を張る。


「ア、ア、アルバ……!」


 青年、ウェッブの予想通りに、目を開いて驚くフェルナンデスへ背後から上司が窘める。


「こら、ウェッブ巡査部長だぞ」


 そんな言葉など二人とも露知らず、同時に歩み寄ったのだった。そして、ウェッブの方が白い歯をのぞかせて笑いながら、黒い手を掲げて数年前の挨拶を再び繰り出す。


「これからもよろしくな。バート」


 この再会が導いていくことになるのだ。三十年後のNYに一迅の風を吹かす――、猟犬コンビの出会いを。


終



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