小話 赤いポピー編
※注意書き※
この物語はムンダネウムの用心棒、かつマルキシストゲリラであったホセ・シモン・アーンズの半生について語られている。その中では彼の性的趣向についても取り上げ、彼が「堕ちる」ことになったきっかけと述べるが、同様の趣向を持つ者たちを貶める意図は一切ない。また、あくまで『一つ』のきっかけであり、当時、彼の性的趣向がほぼ理解されていなかった何十年前の話であるということ、彼のままならぬ事情に漬け込み、利用しようとした大人たちの存在があったとことも、要因として決して見逃せないのである。
また、彼の人生を語るにおいて、どうしても外せない要素としての性描写が幾つかある。指定としてR-15程度であるが、その点についても注意を願いたい。
***
ホセ・シモン・アーンズ。彼は南米ベネズエラにある、農村の村長一家に産まれた。姉が一人、妹一人の黒一点として、そして、唯一の村長の後継ぎ候補として随分と可愛がられた。
黒い癖っ毛は村長の父譲り、色白の肌は母譲り。両親がそれぞれ惚れたところを受け継いだホセは、両親にも溺愛されてすくすくと育つ。しかし、彼らの愛情は「ある期待」を込められているからと気付いてからは、それが少しずつ重荷となっていった。
ホセは勉強が好きではあったし、家仕事や教会での会合も積極的に参加していた。それでも享受出来なかったのは、いずれ嫁を貰い、子を生むことを期待されていることであった。
ホセには疑問だった。いつも自分とばっかり遊んでいたのに、物心ついてからよくも知らない女の子を見るようになる同級生を。ひそひそと話す中に次第に恋の話が出てくるようになるのを。まるで彼らが急に宇宙人か何かに乗っ取られたように気味が悪いと思っていた。けれど、その愛の矛先が自分だったら、また、友だちに向けられたものだったら――、すんなりと身に染み入るのもまた不思議だった。
この不可思議さにホセは最初、周りは『自分と違って』いるのだと勘違いをして、幼少期はやりすごしていったのだが、違和感は多感な思春期に差し掛かると、毒の結晶となって彼の心を蝕んでいく。彼らが、彼女らが話す愛や恋というものは、自分にはどうしても同性だけにしか向けられなくなったのを自覚したのだ。
ホセにとって異性はただの異性だった。体の違いに回りが語るような艶めかしさや色気などは感じない。ただ、違うだけであった。それよりもむしろ、同じ男でも一人ひとり違うものもあるだろうと思うのだ。つきやすい筋肉の部位も、肌の色も、汗の匂いや声、髪質も。そちらの違いの方が、絶妙な部分まで知っているものじゃないのか。それに対する慕情の方が道理ではないかと思ってしまう。しかし、逆におかしいのだと、世間は静かに諭していくのである。
この世の男は女に惚れるもので、女は男に惚れるもの。その証として、子が、世界が、作られた。そして自分も道理の中で産まれた一人。それに納得出来ないのは、究極な自己否定ではないのか。
なまじ両親には愛されていたからこそ、自分の意志が己を切り裂いているような苦しみに苛まれ、ホセは特別に仕立てられたベットの中で身悶えていく。
一時はいっそ神父になって、因果から逃れようともしたこともある。しかし、ホセは愛されていたからこそ愛を知る男でもあり、恋に生きる男でもあった。
ホセは村にいる幼馴染のことに恋をした。彼は五つ年上で、使用人の息子であった。女兄弟に囲まれたホセは、彼を兄代わりに随分と甘えていた。自分より早い時期から男として逞しく成長していく過程を見ては、次第に胸がときめいていくようにもなっていく。
角刈りの頭、次第に日焼けして凹凸が出来ていく体。自分も彼のようになりたいと願うようになり、癖っ毛故に髪型を真似ることは出来なかったが、村長の息子にも関わらず積極的に農作業にも参加し、彼の通う武闘教室にも通うようになった。
そして、誕生日に家族に貰った豪勢なプレゼントよりも、身分差故に、「秘密にしてくれ」とくれた、安っぽいチェーンでくくりつけられた黄金色のキリスト像をずっと大事に身につけていく。こうして秘密を抱え合い、同性故に誰よりも側にいられる優越感が悩みをしばし忘れさせた。こんな日がどんなに続けば良いかと願ってやまなかった。が、しかし――、
「俺、ぼっちゃんのお姉さんと結婚したいと思っているんです」
夜のアカベ畑。盗掘の見回りで並んで歩いていたとき、背後から懐中電灯で己を照らす彼に告げられた。逆光で照れる顔を隠しつつ勇気を振り絞った声で告白する彼を、呆然として「弟」は受け取っていた。
自分が恋慕っている間に、彼はひっそりと、同い年である自分の姉と逢引きを交わしていたのである。その事実を知った衝撃と惨めさから、ホセは以降の記憶が曖昧である。気付けば、自分は家のリビングで豪勢な食事を前に座り、向かいでは夫婦となった姉と彼が照れくさそうに互いを見遣っていた。家族として真正面から受けることを強制されたお祝いは、ホセにとって余りにも惨い拷問だった。ちらつく紙テープの落ちゆく様子を見ることでしか意識が保てない最中、反響して響くのは歓喜に湧く家族たちの声。その瞬間から、ホセにとって彼らは他人となる。
「ねえ、お義兄さんは姉さんのどこが好きになったの?」
「あ、ああ。お嬢様……あの……見た目から言うのもどうかかなと思いますけど……、彼女の黒髪が綺麗だなって思っていたところから……」
「まあ、そうなの。そういえばこの子、アカベのエキス、いっつもつけてましたものね」
「アカベがキューピットってわけかあ」
「なあ、今度はアカベから作られたテキーラになって、酔った勢いで赤ん坊が出来るきっかけにもなっちまうかなあ!? がはは!」
「もう、叔父さんったら、呑み過ぎよ」
「叔父さま……実は……」
「「「えっ!? そうなの!?」」」
ホセは酔ったを振りして家を飛び出す。残酷な程に眩い太陽から避けるように、玄関先の軒下に駆けこんで冷や汗を垂らすと、無理矢理食べたものが混みあがる吐き気に、口元を頬に爪が食い入るほどに押さえつけた。
なんで、なんで、なんで。と、指の隙間から納まりきれない情動も溢れてくる。
「黒髪なんて、姉さんより俺の方が、ずっとずっと綺麗だったのに。そんなこと一言も言ってくれなかったじゃないか……!」
歯を食いしばり、痛む心臓を押さえつけながら膝を折って蹲っていると、母親が心配そうに玄関から覗き込み、水甕を持ってきてくれた。
「まあまあ、大丈夫なの。ペペ」
小さい頃からの愛称で呼んで水を入れたコップを渡す。ホセは蹲ったまま腕だけのばしてそれを受け取り、飲み干した。突然いなくなった息子を気にかけてくれる愛すべき母。いっそ、母にだけは全てのことを打ち明けてしまおうか、と、乞うように、艶やかな髪の隙間から流し目に母の横顔を見上げるも――、同じように水を飲む彼女は遠くの山を見据えながら、やがてぼそりと呟いたのだ。
「貴方は早く、家柄の良い娘と結婚して子ども生みなさいよね」
青い空が真っ黒な母の影を浮かび上がらせる。水を呑んだ後とは思えない、乾いた声だった。
「たかが使用人の子どもが跡継ぎになるなんて、世間体が悪いもの」
唇の動き少なに素早く言葉が通り過ぎていく。それは、先まで姉夫婦に微笑んでいた母が抑えきれなかった本音であった。それはホセがしようとすることを、母もまた、息子を信用して行ったに過ぎない。しかし、今は、今このときだけは、ホセにとって絶対に聞いてはならない言葉だった。
突然、無意識に発した情動からホセの目が見開かれ、腕で毛先を押さえつけた筈の黒髪が風もなく舞いあがる。立ち上がった彼は一気に母の元へと踏み出していった。えっと、声をあげてホセを見上げる母は、間近に迫る息子の影に覆われて、彼の掲げられた腕の先に持つ透明な瞬きに青い瞳を瞬かせた。
ガラスの割れる音が劈き、中の一斉が揃って玄関に顔を向ける。
「おい、どうした!」
父親が慌てて外へ飛び出すと、西に顔を向けた先の軒下で妻が倒れていた。
彼女の名前を叫んで駆け寄ると、彼女の持っていた水甕が割れてガラスの破片が散らばり、すぶ濡れた地面に血と水と溶け合っているのに気付く。そぞろについてきた家族たちも口元を抑えて悲鳴をあげる中、父に抱き上げられた母はガラスで切れた頭の傷が滲み、短いうめき声をあげた。
「誰かにコップで頭をたたきつけられたか……!」
「そんな……ひどい! 一体だれが!?」
慌ただしく応急処置をする父親以外は、犯人の行方捜しに辺りを見渡した。しかし、広大なアガベ畑が地平線向こうの山々まで広がるばかりで人影も見当たらない。呆然とする家族たちに背を向けて駆け抜けるホセを、高さ1.5mにも及ぶ瑞々しく刺々しい緑色の葉先が隠していった。
それをきっかけにホセは失踪し、二度と実家には戻らなかった。
やがて彼が聞いた遠い噂によると、姉夫婦は子宝に恵まれるが全員女の子であり、妹の方が市議員と結婚して男の子を産み、その子が村長の跡継ぎになったという。母親は沢山の孫に囲まれ、最期まで幸せに過ごしたそうだが、笑う度に引き攣るガラスの傷は一生消えることはなかった。
***
着の身着のままで家出したホセは、自暴自棄に新天地を求め、深夜に首都のカラカスに着いた。悲しみとともに、湧き出る怒りと憎しみを抑える術を知らない青年は、とりあえず酒だと眩い繁華街へと――、飛び入る蛾のごとくふらつきながら、薄がり暗い路地裏のバーに駆け込む。
なけなしの金をカウンターに叩きつけてドカドカと乗り込んできた若者に、奥で呑み食っていたガラの悪い男たちが嫌らしく絡んでくる。すると、ホセも虫の居所が悪かったのでガンつけて悪態をふりまいてしまった。当然取り囲まれ、大路地に突き飛ばされたホセは、気づけば彼らを仕返しに路地裏へと片付けていたのだ。彼を見て騒然とする背後の人だかりの中で――、一人悠々とした男の声が、血だらけの彼の耳に響いた。
「へえ、なかなかやるじゃねぇか、小僧」
見知らぬ声の「小僧」呼びに、ホセはこめかみに筋立てで黒髪を振り乱す。声もあげずに血走った目を剝いて振り返っては、真っ直ぐに腕を回転しながら右ストレートを喰らわせんとする。しかし、微動だにしない黒影の素早く過ぎった腕によって、その手首は掴まれ、途端にホセの腕は夜空へと突き上げられたのだ。
「ぐ、あ……!?」
「まあ、落ち着けよ。俺はお前の敵じゃない」
抵抗に震えるホセの腕をがっちりと押さえつけ、男は余裕の笑みを浮かべる。ホセは腕が軋む音を立てていることに愕然としながら、震える眼から男の袖から見える幾線の浮き出る血管と――、這うように絡み合うトライバルの刺青を捉えた。次に男の顔を見ようと目線を光の方へ辿ったとき、背後に浮かぶ月が、やけに眩しく思えた。
***
その男こそ、ホセをマルキシストゲリラへと導き、政府打倒を目論むテロリストのリーダーだった。
行き場のないホセを戦闘員としての素質を見込み、同じメスティソであることへの共鳴も通わせながら自分の組織に所属しろとスカウトをした。田舎に生まれ育ったホセは、よりどころのない都会に暮らすため、「キリスト像を手放させない」ことを条件に、彼の提案に承諾したのである。
ホセは最期まで彼への恩義を手放すことがなかったというが、筆者の私からすれば、その男こそ、正に悪党の中の悪党――、若者故の未熟さや弱みに漬け込んで、全うな道を進むきっかけを握り潰し、彼に生きる術を与えながらも、結果として取り返しのつかないところまで彼の人生を滅茶苦茶にしたロクデナシだと思っている。
こうして、マルキシストゲリラとしての新たな人生を歩むホセは、血と硝煙に塗れて汚れた靴底で、屍を踏み越える道を進んでしまった。同性愛者として自分を排他する国と世界を恨み、他人を痛めつけることで復讐心を満たすホセと、今の情勢を嘆き、弱き者の血肉を擦る資本主義を打倒しようと新世界を求めるマルキシストゲリラとの相性は、哀しいことに合致してしまったのだ。そこからのホセの経歴は概ね数多に残る資料と同じである。
ホセは、男同士の恋愛を認めないキリスト教の教義には嫌悪するようになり、教会には通わななくなったが、十字架と祈りは手放さなかった。初恋の人に託された贈り物という未練を伴い、ホセはひたすらにイエス・キリストを愛することに決めたのだ。
イエス・キリスト――、生涯独身のまま純潔のままに天に召された男。せめて誰とも結ばれないなら、彼を愛し、そんな風に生きたいと思うことが縁となっていく。前に仲間が悪ふざけでイエスは娼婦のマグダラのマリアとまぐわい、一人の娘をもうけたと言ったことがあった。それをホセは合図もなしに蹴り飛ばして二階の窓から突き落としたこともある。けれど、その男が蹴られる前に言いかけた言葉が何故か妙に引っ掛かっることになる。キリストとマリアから産まれた子ども、その娘の名は何だったか……。
マルキシストゲリラの中では異質として、敬遠なクリスチャンである彼が『赤の救世主』として宗教感の違いを超え、慕われるようになるのはこの頃である。そして彼が今度はゲリラから――、最後の道、『ムンダネウムの用心棒』になるまでの軌跡は、大いなる誤解がまだ蔓延っている。ここからはその事実を述べよう。
数年後、ホセが所属するマルキシストゲリラはある日突然、政府軍の一斉討伐によって壊滅させられた。激化するテロリスト行為に対し、治安維持のために裁判もかけず、疑いがある者をかき集めた銃で即射殺したのである。政府は軍にこう言い聞かせ、ゲリラたちの虐殺を正当化した逸話は有名である。
「犯罪者は逮捕しない。逮捕するのは人だけの権利なのだから」
その中でホセは、アジトに乗り込んできた軍隊を唯一返り討ちにした男だった。しかし、余りの多罪に無勢で、他の仲間たちを守ることまでは出来なかった。
殴り殺した兵士の髪の毛を引きずり、血まみれの拳を振り上げながらせめてボスはと――、乗り込んだ矢先に、ホセは登った椰子の葉々から見ることになる。無機質な軍服を着た兵士たちいつの間にか取り囲まれ、自宅の玄関前に立つボスがハチの巣にされる瞬間を。そこからの記憶もまた曖昧だ。
次に視界を捉えたときには、自分の身体は鉛のように重くなって時の経過を諭していた。項垂れたときをして幾筋の血が汗と絡まって水溜りに零れ落ち、泥水が映すは鮮血に染まる己の顔。ホセは敵の渦中に飛び込んで一人残らず斃して命からがら逃げ帰っては、無意識に降り注ぐ雨に身を晒して路地裏に膝を付いていたのだ。震える手を掲げると、殴り殺した相手の血で肌色さえよく見えない。しかし、十本の指は全て揃って夜空と尖り、節々の鈍痛は相手を殴った拍子のもとだとすぐに気づくほどに、切り傷も擦り傷の欠片もない。
異常ともいえる業――、皮肉にも『赤の救世主』は組織の壊滅によって初めて『完成』したのである。
しかし、一人取り残されたホセには、その力を発揮する場などなかった。垂れた腕を水溜りにびっしゃりとつけては、四つん這いにと崩れ落ち、雨音が煩わしく響き渡る中で歯を尖らせて絶叫した。そのまま倒れこみ、入り込む泥水をも飲み込んで喉仏が震えるごとに何度も歯を剝いて怒りと悲しみに泣き叫ぶ。
その叫びは、平等に降り注ぐ雨音が隠したが、地を震わせるほどの嘆きにかつての共鳴を感じ取ったのか、白い傘を持つ誰かが近づいてきた。舗装の行き届かない道路で飛び散る泥を身に纏う垂れ下がる白衣の裾に当たらせ、雨の中で颯爽とホセの目前に立つ。
今度は牽制する気力もなく、半分泥に浸かったままホセは影を捉える。ホセは濡れてうねった黒髪の隙間から、瞳を向ける。すると、影はゆっくりと彼へと手を差し伸べて言った。
「可哀想に。まるで、昔の私を見ているようだよ……」
眉を下げ、憐れみに自分を見下ろす焦げ茶の瞳。雨の雫を睫毛と同じ色の口ひげに溜め、西洋人らしいはっきりとした凹凸の顔立ちに、ホセは意識朧げながらも、一気に吸い込まれていった。
***
彼の名は、カルク・コーヘン。遥か遠い東欧のポーランドからやってきた科学者だった。南米のベネズエラに己の夢を果たす新天地として選び、視察に街中を訪れたばかり。そう、彼の夢は「ムンダネウム」。一人の愛する男のために作る非合法な人体実験を行う施設だった。
カルクは自らホセを背負い、自分の留まる宿泊場へとひっそりと運んだ。意志喪失となったホセを抱きかかえ、裸にしてはバスタブの中にいれてシャワーも浴びせる。そこからしばし落ち着いた中、卓上ランプだけが灯る部屋の片隅に二人、向かい合って座る。カルクは先の経緯とともに、ホセの新たな道を導いた。そのための用心棒になって欲しい、と。ホセは目を逸らして先の礼を述べつつも、力のない声で断った。
「僕は……キリストを愛している。そんな神の道理に反することに、従えない」
自らの言葉でありながら、胸が痛む。金の十字架を握りしめてチェーンが音を建てる様子に、カルクはふつ、と口髭を吐息で揺らしながら徐に頬杖をついて答える。
「神の道理、か。それにしては、あまりにもこの世界は最初から道理不能なことが多すぎないかい」
やがて、そぞろに述べていく。
「人類は平等だと言いながら、生まれつき身体の優劣や障害の有無はあり、どんな支援も愛情を持ってもしても越えられない。世界への愛といいながら、男を女に狂わせるものにするし、そうでなければ、どうしても子どもを産めないことになっている。神の道理はこの現実と余りにも心もとない。神からの試練だと、何百年と前から言われて祈り尽くしてきたというのに、全く解決しやしない。そういうときはな、その見方自体間違ってはいないかと、科学者としてなら思うものなんだぞ」
人差し指をつきたて、ぼんやりとするホセへと整然として伝う。
「そう、違うんだ。私たちが『神の道理』を完成するために必要なのは、祈ることでも節制することでなく、『創る』ことだろう。それが科学の―私のムンダネウムの技術でなら進められるんだ。私は約束する。君が協力してくれて、心置きなく研究が進められてこそ、君が望む神の道理は完成するんだ。さすれば、障害のある子は元の人間となり、優劣だってなくなる。差別は貧困も起こらなくなって、約束された平和の国が完成するんだ。君がその実験を受け入れることこそ――、神から与えられた試練なんだ」
「なら――、男が男を愛することも『治せる』のかい」
その問いは試しであった。もし、彼が『治せる』といったなら、今すぐ、十字架を握っている拳で彼を殴り倒すつもりだった。しかし、その鋭い瞳からカルクはすぐに読み取ったであろう。ホセの予測とは大きく反する意識でもって、しばらくの沈黙の後、首を振った。
「……前提が違うな、君。それは治す必要なんて、ない」
握られたホセの拳の指が、花咲くように解かれた。
「……え?」
「人を愛することに、男も女もあるものか、それは治すものじゃない。まっとうなものじゃないか」
はっきりとした声でカルクは言い切る。焦げ茶色の瞳がまん丸と見開く癖っ毛の青年を映す。初めて聞く、けれど、ずっと求め続けていた言葉が今、形作られていく。
「かく言う私も、男が好きでね」
テーブルに据え置かれた震えるホセの手に触れて、カルクも隠した胸の内を告げる。ホセは水が体中を一気に巡りまわった感触に体を弾かせた。
「私も何度も思った。でも、違う。この気持ちはどうしようもないし、抑えられる筈もない。ならば、これは自然なのだし、また、神がもたらした道理なんだ。間違っているのは、それを拒否する向こう側の方なんだよ。私の愛とあいつらとの愛に、どんな違いがあるというのだろう。いや、違わないさ。科学はそれを証明出来るんだよ」
「でも、でも……! 子どもが出来ないじゃないか!」
溢れ出す情動は涙となって現れる。
「ならば、どうして、絶対に子どもが出来ないように作られている! 神の国を為すためには、次世代に意志を託さなければならないのに……! この事実から、一体何を道理だと言えるんだ!」
「できるよ」
癖っ毛の黒髪が舞い上がる。
「出来る。そこに愛があるなら、どんな現実だって超えられる。それこそが神のお導きなのだ」
このとき、「子どもを産むことが全てでない」と、どうして彼は言ってくれなかったのだろう。しかし、彼は選んでしまった。妙に確信めいたこげ茶色の眼差しに、まん丸と黒い瞳は釘付けになった。
「現に私には今、一人の娘がいる」
男との子どもさ。と、五本の指を開いて平な胸に置いて、神妙に事実を告げる。
「信じられないと思うなら、来てみるといい。一目みてその事実が分かるだろう。君もこれから私の味方になってくれるなら、君が望むことの何でも叶えてみせよう。君のように、見捨てられ、迫害された者たちを助けていきたいんだ」
ホセは呆然と口を開くことしか出来なくなった。それをカルクは再び穏やかに目配せて微笑むと、徐に立ち上がり机を周ってホセへと近づいていく。無意識に身構えるホセの揺れる心を包み込むように、カルクはホセをゆっくりと――、抱きしめた。
「もう、何も言わなくていい。分かっているよ。……君も、ずっと、辛かったんだね」
ホセの顔面が白いYシャツに覆われる。共に湯上がった石鹸の香りと、南米の暑い空気にまだ慣れぬ西洋人特有の体臭が絡み合って、ホセの鼻腔を擽る。鼻先が辿るのは柔く、そして固い同じものを持った身体。何の躊躇もなくこの身を擦り合わせ、自分の背中を力強く回してくれる。ああ、本当に彼も、自分と同じ男が好きなのだと、そのとき初めて気付いたのだ。
「うっう……」
やがて、彼の逞しい身体に、密にそして繊細に隠し持っていた思いが、震える下顎とともに涙となって、崩れた眦からあふれ出てくる。カルクもまた戸惑うことなく自身の身体で拭わんと更に身を寄せてくれるのがホセには嬉しくて――、彼は歯を剥いて咆哮をあげた。
雨が隠す獣じみた男の叫び。流木にしがみ付くように痛々しく指を曲げてカルクを抱いたホセは、怒濤の情動に合わせて椅子を倒し、膝を付いた。その拍子にバランスを崩しもつれあった二人は、カーペットを引きずりともに床へと倒れ伏す。卓上ランプも転がり落ちて消え、闇の中でホセは足を絡ませ、どこまでも留まらない叫びの内をカルクの身体に注いでいく。カルクは困ったように微笑みながらも嫌がらずに受け止め、しばし二人の影は一つとなっていった。カルクがホセの黒髪を掻きむしるように撫でながら、ふと脇目の窓を見上げると、闇夜から降り注ぐ流星群のように、細長い雨が幾くつもの白い筋を引いて降り注いでいた。
***
こうしてホセは、同性愛者としての秘密を共有した唯一の、そして至上の相手に従い、「ムンダネウムの用心棒」となったのだ。産まれかわったような心地よさとともに、自分より少し背の低い、旋毛が可愛らしいこげ茶色の頭を靡かせる白衣を求め、ホセは熱帯雨林を駆け抜ける。思慕がやがて恋心へと代わっていくのは、何ら不自然なことではなかったであろう。
しかし、それもまた、二重底の大きな落とし穴にはまったことに他ならない。元よりカルクがホセを絆させるために語ったことには大きな矛盾がある。例えそこにどんなに愛があろうが、それに優劣も卑尊もなかろうが、「相手」の同意なしに子どもを作る道理がある訳がない。
カルクが愛した男、ゲオルク・ライヒートは娘――、サラ・コーヘンの事実を知らなかったし、ましてやゲオルクが唯一愛する者はマリアでありカルクではない。それをホセも後から知っていた筈だったが、恋に生きる男は好きな男の暴挙を、愛ゆえに許してしまう。ホセにとっては彼が、自分をありのままに認めてくれたことが全てだったのだ。
また、カルク・コーヘンとて、それに全く罪悪感を覚えていないわけではなかった。彼は愚鈍な男でもあったから、冷徹さも強さも保ってはいられなかったのだ。実験台にしたといえ、カルクにとってはサラはただのモルモットではない。彼女は確かに、かけがえのない、唯一無二の愛しい娘だった。
だから、時々自分のしたことは本当に正しかったのだろうと苛まれたことがある。そのときこそ、ホセはカルクを抱き、彼がかつて自身を励ましてくれたときのように、「神が与えた試練」だと、導いて支えた。このときばかりはカルクも薄汚れた白衣の裾からやせ細った手をのばし、ホセの身体にしがみつく。それがホセにとっては何よりも代えがたい、至高の時間だったのだ。例え互いにとって行き場のない片思いだったとしても、それこそ唯一共有し合える感情だと思いながら抱きしめた。
ある日、花瓶が紅色の光を透かす白い窓辺にて、カルクが眠るサラを抱いて座るところをホセは眺めていたことがある。同じ色の睫毛を伏せて自分とそっくりな彼女を見る眼差しと、優しい力加減で抱く様子は、まるで、実家のリビングに飾っていた子イエスを抱くマリアだと思い馳せた。珈琲を淹れるキッチンの影からホセは腕組んで見守り、ああ、こんな美しい光景が悍ましい筈がないと、これこそ神の為せる御業であると、花瓶に飾られたポピーの花弁が窓辺に映って透明な赤色を彩っているのを見ながら、信じて疑わなかったのだ。
しかし、カルクとホセが築いた歪な関係は、同じ戦争を乗り越え、憎しみも恨みも冷徹に見る立場となった年上の男、ヴァロンタンには通じなかった。ヴァロンタンはカルクを断罪するために、ゲオルク・ライヒートをスパイとして差し向けたのである。それにまだ若いホセはうまく対処することが出来ず、混乱の中、よりによって一番愛した男を自らの手で殺めてしまう。今度は彼の血に染められた両手を翳し、指の隙間から斃れた彼を垣間見る。青白い光の中に仰向けに斃れる彼の姿もまた、十字架に処されたイエスのように見えた。愕然とするホセは涙を零しながら、我が身の繰り返される悲劇を嘆く。
ああ、これもまた思し召しなのですか。
錯乱した中で、思い出すのはどうでも良かった筈の呟き。
イエスには確か娘がいた。娘の名は何だったか……。
***
ホセはカルクを殺したことで、研究を停滞させた罪と責任を自ら背負い、最後の主、ゲオルク・ライヒートに従うことになった。停滞した研究を取り戻すために、実験を請け負うサラの負担は大きくなってしまったが、ゲオルク・ライヒートが全ての事実を知り、彼女の元に尽くすことになってから、サラはカルクの思いとともに、彼のためにと誰も恨まず運命を受け止めたのだった。
そして、数多の実験に耐え続けてサラが二十歳になったとき、彼女はポピーの飾られた窓辺の椅子に座るゲオルクに駆け寄り、彼の膝の上に肘を付き、祈りの形で見上げた。その先には、シルクハットで顔を隠したゲオルクが、筋の通った鼻先を床へ向けている。
「ねえ、ゲオルク。愛してるって言って」
キッチンの影から覗き見るホセの視線に気付きもせず、彼が愛した男と同じ色を持つ瞳は、ほんのりと紅潮した頬を忍ばせて艶やかな声で言った。
「サラ、よく聞きなさい。君は理論的に言えば、私の娘なんだ。娘が父を男として愛してはいけない。君のその思いはカルクのものであって、君のものじゃない。君が私を愛する道理なんて、どこにもないんだよ」
一方でゲオルクは肩に手を添えつつ、眩しい視線から顔を逸らす。
「ええ、そうね。なら、身体の関係は望みませんから、どうか、一言、言ってくれるだけでいのよ。私はこれから、その言葉のためだけに生きていけますわ」
しかし、サラも一つ一つ念を押すように答えて、膝につく肘を離さず、目線もまたにじり寄るように追い駆ける。
「サラ、私は……君のために全てを捧げるよ」
「そういうのではないのよ。ゲオルク」
カルクより長く、カールがかった睫毛に覆われたこげ茶色の瞳は、ゲオルクの誤魔化しの一切を許さない。
「ねえ、言って」
目は潤みを帯びながらに、責めるような、縋るような、深い声で念を押す。そこもやはりカルクの面影の端を忍ばせて、影に佇む黒髪が舞いあがった。
「サラ……」
やがて彼女に押されてか、ゲオルクはサラの方へ身体を向き直した。安堵に綻ぶ彼女の瞳に、シルクハットの縁からのぞく顔が日を透かして浮かび上がる。まだ皺の少ない、美しい彫筋に纏われた顔。カルクが愛した美しい横顔。しかし、表情は苦悶に眉間を皺寄せて歪み、汗が滲み出して目を瞑る。そして、余りにも冷たい義手で彼女の組んだ手を握り返し、絞るような声で答えたのだ。
「すまない……。私が心から愛しているのは……マリア……。マリア、だけなんだ……」
その瞬間、動かなくなったサラに、たまらなくなってホセは壁に背をつけた。生ぬるい壁が伝う、誰かの遠いすすり声。しかしそれがどちらのものか、誰のものか何を言っているかも分からず、暗がりの中で背筋をのばす彼は涙を一筋、流すしかなかった。
「なんでだよ」
開いた唇から漏れ出るのは、悪態ひとつ。
「あんたらは、例え年の差が離れていようが、理論的には親子だろうかなんだろうが」
思わず強く手を握りしめ、歯を剝いて唸る。
「あんたらはちゃんと、男と女なんじゃ、ないか……」
***
それから、サラは何事もないように研究に協力していったが、通りすぎる度にカルクと同じ色の髪が、哀しい風情を掬い上げているのにホセだけが気付いていた。気がかりとしながら、少しでも彼女の負担が解けるようにと、彼女をモノにしようとする数多のスパイたちより一回り先に立ち向かい、彼女がその存在を知る前に次々と始末する仕事に専念していく。
しかし、その日はいつもよりも手ごわい相手だった。シャワーの後でもまだ抜けない血の臭いに眉を顰め、トライバルの刺青が雫に輝く逞しい腕で顔を拭っていると、無機質な研究室の渡り廊下の壁にもたれてソファに座る、サラの姿が目に映った。ふとした気まづさに立ち止まると、気配に気付いて遠くを見つめていた彼女の瞳が、ホセを捉えた。
「あら、ホセ」
いつもと違う弱々しい微笑み。気心が知れた自分にだけ見せる姿に、胸が疼いて思わず歩み寄ってしまう。
「大丈夫か、サラ。今日は随分と調子が悪そうだ」
「ええ……今日は随分と大がかりな実験に関わったから……ホセもそうみたいね」
男らしく大仰に足を広げ、隣に座った彼を流し目に見上げ、サラは額を押さえた指で、ホセの傷が掠った頬を撫ぜる。濡れた黒髪が指先について雫が弾けた。ホセもまたじっと彼女を見下ろす。クマの浮かぶ双眼、少し覚束ない唇の開き――、ああ、カルクと本当にそっくりだ。他の者たちは首を傾けるも、ホセだけが知る細やかな秘密。湯気の香りが漂わせる微かな頬の赤みが浮かび上がる。それを虚ろながらも受け止める瞳の睫毛が華開く。
「ねえ……今日は、慰めてくれないかしら」
すると、苦悩と疲れが重なったのか――、サラは嫋やかな声の中で渇望したのだ。細い指でホセの癖っ毛を絡ませて掬い上げ、そっと頬に寄せて顔を近づける。ホセははっと背中を震わせた。
「ま、待ってくれ」
思わず払いのけようとする。途端に迫ってきた女の気配に本能が先走り忌避感が過ったが――、咄嗟の動きがとれなかった。石鹸の香りが漂った瞬間に腕が留まる。それは初めて会ったときと同じ、カルクの匂い。歳の差でいえば釣り合う二人の若々しい腕が触れ合い、跳ねる。
「君も知っているだろう……! 僕は男が、カルクが好きなんだ。だから……!」
「ええ、そうね。でも、貴方の、お父様への愛はその程度のだったの……?」
「な、なんだって……」
微かな眉の顰みで懸念で震えた声に対し、しっとりと湿り気を滲ませる声で耳元でサラは囁いた。
「好きな人が女になっただけで、拒否するものなの? 好きじゃなくなってしまうの? どんなに愛しているなら、どんな形になったって愛せるものでしょ? 違うの?」
「そ、それは……」
端々に似ている声が、まるでカルクに言われているような幻覚を起こし、拒否することが出来なかった。互いの湯気でふやかされる間、その隙に忍び込むように首筋に腕が回される。サラに圧されてホセの背中は壁に押し付けられていく。身体をぴったりと寄せられ、眉を下げて紅潮するホセの顔は、火照りでも照れでもなく欲情なのだと、そのとき、自覚して汗を飛ばした。
触れ合う柔い胸の反発に、これほど心臓が高鳴るときが来ようなんて。それは、彼女がただの女ではなく、愛した男の面影を映すからだろうか。それとも、後悔と懺悔を向ける相手だからだからだろうか。互いとの境目がなくなっていく最中に、ホセは霞みゆく天井を見ながら、ただ、問いかけることしか出来なかった。これは誰の意識なのだろう。何の意志なのだろう。
「大丈夫よ」
すると、舐めるような眼差しを間近にしてサラが答えた。今度はホセの顔を両手で包み込み、互いの前髪をゆっくりと下から絡み合わせながら首を傾けていく。
「貴方はちゃんと、私が好きよ」
戸惑うホセの顔を愛おし気に顔を綻ばせて囁けば、刹那に瞳を閉じて唇を寄せる。それに、合わせるように開いた己の唇を閉じたのは――、ホセの方からだった。
触れ合う唇はやがて大きな吸い口をあげて、ゆっくりと激しく絡み合っていく。そして誰もいない殺風景な研究室の片隅で、二人は縺れ合い、ソファの上に伏す。むせ返る湯気が無機質な壁に漂った。
***
朝のラボラトリー。
深夜のスコールで艶かに瞬く新緑の熱帯雨林が取り囲む中庭にて、一人の研究員が階段ごしの窓から雨林の中へと駆け抜けるホセを見かけた。
まるで狼が初めての空を見るときのような、溌剌とした目の輝きと黒髪の靡きに彼があんなに嬉しそうときがあったかと、ガラス越しに首を竦める。
そんな視線も露知らず、ホセは内側から満ちる力を、足と腕で千切れんばかりに振り上げて発散した。白い肌がまだ柔い太陽の光を受けて、露滴る雨林とともに眩く反射する。颯爽と移りゆく緑の景色を掻き分けてホセが見上げた先には、太陽が真正面に輝き、ホセはこのとき初めて世界は鮮やかだったのだと、澄んだ空気を笑顔の口で吸い込みながら、肺いっぱいに感じ取ったのだ。
ホセは知ってしまった。愛し、愛されることの喜びを。
互いの身体を慈しみ合いながらも、弄り合う恥ずかしさと、それ以上に求めることの恍惚を。
この日、違う身体と心を通わせて一つになった己の、匂いと体液だけでなく――、まるで彼女の力をも借りたようなこれ以上のない活力に、ホセは思いっきり背伸びをして、全身の血流に渡らせる。
このときばかりの感覚はたとえサラと一つになった身としても、自分だけで堪能したかった。のびた腕から脈打つ筋が少しずつ手指にまで行き届き、一本一本確かめるように空を掴む。自然と勢いよく開かれた瞼もキラキラと水滴に瞬く世界を捉え、思わず広角上がった笑みから剥くように白い歯を見せる。
「ああ、世界はこんなにも美しかったのか!」
鳥が羽ばたき、ホセに新緑の影を過ぎらせた。怖いくらいに、すげ変わった景色を前に勢いはますます昂ぶった。
思い浮かぶ彼女との交接。柔らかい肢体と弾むような反発。多くは語るまい、それは彼の身体にだけ刻み込まれたもの。女の身であったけれど、嫌悪感は感じなかった嬉しさ。彼女が耳元で囁いた言葉が自分の声となって重なっていく。
そうだ。自分は、もう、男でも女でも関係ない。心から愛する人だったら、どんな姿になっても愛せるのだ。握り締めて突き上げる拳に全てを手に入れた気がした。閉じた唇を背一杯に端を伸ばして顎先から力をこみ上げていく。
宝石のように瞬く黒い瞳が映すのは、彼女が自分に向けた恍惚の笑み。これから彼女とともに過ごせる明るい未来。
男と女とであったら、もしかしたら子どもまで出来るのかもしれない。今まで求め、諦めてきたことが目前になって「当たり前」のこととして実感してきた心地に、ホセはあるがままに好機を受け止めて、生い茂る茂みの上に両ひざをついて祈りの形で拳を突き上げ、神への栄光に感謝したのである。
***
こうしてホセとサラは恋人となった。周りの研究員たちも二人のカップルを朗らかに向かい入れた。一目も憚らず腕を交わし合うことになった心地よさにサラもまた、辛い実験から少しずつ明るさを取り戻すようになっていく。それがまた周りの者たちを安堵させたのだ。やがて互いに少しでも時間が取れれば、熱帯雨林が隠すラボラトリーから仮初の駆け落ちのように抜け出し、カラカスの繁華街でデートを楽しんだ。
お気に入りのショッピングに行き通っては、好きな服をそれぞれ選んで、馴染みのジェラート店に寄って手を組合せながら食べ合って、夜にはバーに寄って互い酒の強い二人は何杯も掛け合う。その是非はともかく、年相応のカップルが逢引きを交わす様子に眉を顰める者も、冷やかす者もいない。
ごくごく当たり前に街の中に溶け込めることに、雑多なビル群の夜空でも、ホセはサラの肩を抱きながら愛おし気に見上げ、幸福に浸かる。互いにそれなり酔って肩を寄せ合って彼女の部屋に入れば、ともに風呂に入り、酔いのままに紅潮した顔を近づけて口づけを交わし合い、裸になった太腿を水打つように叩き合った。
次第に溶け合うように、あられのない姿をさらし、時として怠惰に身体を重ね合わせようになった二人は、初めてのときのような神聖はなくなったけれど、むしろホセにとって心地よくなった。行為を追えてシャワーを浴び直し、ホセが腰巻だけでサラの元へ戻ったとき、彼女は白いベットの上でこちらに身体を向けて眠っている。
裸のまま腰をくねらせて薄いシーツ一枚で纏う様は、胸の尖りも陰影でくっきりと浮かばせて妖艶さを為す。再び身体が昇っていくのをぐっと抑えながら、ベットの縁に腰掛け、軋む音をたてながら自身の影で彼女の身を覆い、ホセは自分に魅せる無防備な姿に微笑んだ。
ベットの弾みで揺れるこげ茶色の睫毛が、これからも喜びで開かれますようにと。胸元から垂れる水濡れのキリストに願い、彼女の頬にキスをする。そのためなら、己がどんな血に塗れても、騎士として姫を守り抜くと、甘美な使命感ともに目を瞑った。脇のテーブルには、置かれた花瓶に差される赤いポピーが、シャワー室の明かりを浴び、ガラスの花瓶とともに花弁を透き通らせていた。
唯一、二人の関係に懸念していたのはゲオルクだった。腕を交わし合う二人の背中を微笑む研究員たちの奥で、真っ黒な服に身を纏った小柄な影は、シルクハットの奥から覗く灰色の瞳で背中越しにホセを睨む。それにホセも振り向き際に嘲りに口角をあげた。お前にそんな顔をする資格があるのかと、のぞく犬歯は紡ぎたくなる。
サラの好意を反故にしたお前が、鎹の役割を全うしないお前が、何を今更『主人面』かと。自分は代わりにその役割を受け止めるのだと意気込む。
お前のような義務という冷たさではなく、真実の愛でもって彼女を支えていく。お前のように死んでいるのか生きているのか分からない相手を求める不毛な恋には決して溺らないと。
このときばかりは、懺悔から解放されてホセ優越感に浸っていた。そんな二人の男の間で散る火花に気付かず、前を向く彼女の身体を、ホセは更に強く引き寄せたのだった。
***
そして遂に、春に差し掛かった天気の良い日。任務による遠出から戻ってきたホセは、丁重にラッピングされた赤いポピーの花束を買った。トライバルの腕を逞しく振り上げては、緊張で萎縮する背をのばして胸を叩いて押さえつける。彼はこれから眼下に揺れる花束を彼女に差し出し、プロポーズをするつもりだったのだ。
様々な紆余曲折を経て、現実味を帯びる夢。早々と産まれてくるかもしれない二人の子どものことも思い浮かべながら、微かな不安と大きな期待を忍ばせて、ホセはサラに呼び出された研究室のドアをノックし、ドアノブを掴んで押した。それは人気の離れた奥の部屋であった理由など、知りもせずに。
「ホセ、おかえりなさい。待っていたわ」
開きかけたドアの裏から聞こえる声。早速愛おしさが滲み出て、頬をあげたホセは早く彼女を抱きしめたいと勢いよく部屋へと踏み出した。だが――、そのまま飛びつこうとした身体は、ドア越しの彼女を見遣るや、途端にきゅっと音を立て、踏みとどまったのだ。
「……え……?」
「あら、『流石』ね。もう気付いたの?」
と言って振り返り、いつもの癖で片方の髪を耳にかけながらサラは首を傾ける。笑みはいつもなら艶の端を見せるものだったのに、今は幼げな風情を漂わせたことに、ホセははっと後ずさって壁に背をつけていた。
片方に寄せて垂れるこげ茶色の髪、同じ色の丸い瞳。白いワンピースと花柄の皮ジャケットは変わらない格好なのに、何かが違う。いや、同じなはずなのに『全て』が違う。黒い瞳は震えながら、不可解な事実を捉えるのだ。
そっくりだけれど、小さくなっている。背丈も、顔の大きさも微笑む唇も頬の形も、白い布越しに見える陰影の膨らみも、全て。
「お前……誰、なん、だ……?」
目を錯乱させて震える声には、僅かな敵意さえ滲みだしていた。サラは飄々として目を細めつつにっと笑う。逆光に影が差し、その口の中が真っ黒だったことにホセは戦慄に背中を震わせた。
「ほう、ここまですぐに気付いたのは、お前が初めてだったよ。さすがは、『恋人』だな」
やがて、窓辺から光を受けて姿を見せたのは、義足でゆっくりと歩く黒ずくめの男――、ゲオルク。僅かな皮肉を含めた声で応えた。
「どういうことだよ……お前……」
ホセは、恐怖と懸念に引き攣った声を彼女の代わりに彼へと突き付ける。すると、俯きながらもゲオルクは神妙に口を開いて事実を述べた。
「……その子は……カルクが遺した技術を駆使して作られた……新しい、身体だ」
「は……?」
ぐしゃり、と、ラッピングを力強く握る音が響く。遠くの窓の景色も揺れたように思えた。
「そう……『始めの』彼女は二十歳を超えていた。知っているか、身体の、そして脳の発達は二十歳から頭打ちになる。これから彼女には、まだまだ多くの実験を積み重ね、技能を発達させる必要がある。そのためには……培った技能やデータをそのまま留めつつ、全く新しい成長途中の脳に移し変えなければならなかったんだ」
「……さっきからお前……何を言っているんだ……?」
「簡単な話よ、ホセ。私は今、脳移植――、いえ、違うわね。体移植をしたってことなの」
目を剥きながら、言葉半分も聞けないホセに構わず、サラは両手を掲げながら微笑んで答えた。
「私はカルクお父様とゲオルク『おじさま』の間に産まれた娘。けれど、カルクお父様の遺伝子を殆ど受け継いだクローンでもあるわ。当然、クローンとしての遺伝子のデータは裏どりがされているのだから、この体だけ再生することくらいは、訳もないわよね」
顔を逸らすゲオルクを一瞥しつつ、サラはホセに向かって説明をそぞろに続ける。
「だから、最初の記憶や技能をそのまま、再生した身体の脳に移し変えたってことなのよ。こうすることによって、始めの体ではもう受け止めきれなかった、更なる負担をも乗り越えることが出来て、ムンダネウムの発展に更に大きく貢献できるということよ」
「なん、だって……つまり、今……君は……」
「そう、十五歳の身体になったの」
「そんな……。じゃあ、あの、身体は……」
「え? 裏庭の脇に適当に埋めておいたわよ」
ともに刻んできたしみやほくろや日焼けもなくなった透き通った肌を翳し、自慢げに手を置いたサラは軽やかに告げるのだ。その柔い視線は愕然とするホセには届かなかった。慌てて眉を下げて弁明する言葉もまた、ホセに真っすぐに届かない。
「あら、待って、ホセ。大丈夫よ。記憶はちゃんとここにある。だからおじさまのことも、ホセのことも、今までのこともしっかりこの新しい脳に移し変えているわ。だから私は貴女の恋人だし、今でもちゃんと、貴方のことが好きよ」
大きな音を立てて蹲ったホセへ駆け寄り、膝を曲げたサラは顔を覗き込みがら、彼への慕情を覗かせる笑みを浮かべる。しかし、それをホセは黒髪の隙間から捉えた途端――、かつて若い少女が客の相手にしていたような瞬間を思い浮かばせ、かすれ声をあげた。
「うあ、うあああ……!」
ホセは跳ね上がるように飛び起きると、翳したサラの手を咄嗟に弾いた。ままならぬ勢いと化け物を見るような目の凝らしにえっと口を開く彼女を、これ以上見てられないと目を瞑るホセは、扉の向こうへと駆けだしてしまう。
「ちょっと、ホセ!」
サラは慌てて後を追ったが、廊下に出たときは既に彼の姿はなく、漂う生ぬるい空気を左右に揺らす他なかった。そのときに、ふわりと上がった赤い色に目線を落とすと、彼女の靴の周りでは白い床に映える赤い花びらが散らばっていた。
「どうしてこんなところに……」
しゃがみこんで一枚を取るも、その経緯もホセがいなくなった理由も分からず首を傾げるばかり。それに対し、奥に佇むゲオルクは扉の向こうからサラを見ることもなく、シルクハットで顔を隠して俯くだけであった。
***
自らが吐き出す粗い息と、高鳴る心臓の鼓動がうっとおしい。酸素をもとめて鯉口を開く動作でホセは必死に思考を整えようとしていた。けれど、巡るまでもなく一瞬に襲い掛かる真っ黒な絶望に頭抱える力も失い、ソファの上に屈むホセは、手をぶらりと膝の上に落とした。しなだれたポピーの花びらがぽとりと落ちて、ブーツの上に触れて落ちていく。先に渡そうとしたプロポーズのために大事に抱えていた花は今や、どこか遠いもののように見えた。
「どう、して……」
ようやく紡げた言葉は、小さな呟き一つ。しかし、そこから再びぐしゃぐしゃに頭を抱え持ち、顔を顰めて叫ぶ。
「どうして、そんなことを僕にも告げずに勝手に……やりやがった……!」
思い浮かぶ彼女の笑顔から、恋人としての既に答えは知っている。そうだ、あのとき、自分は確かにどんな姿であろうと、好きな人は好きと思い、彼女からの愛を受け入れたのだ。ならば、彼女はまた当然と思ったにすぎない。同じ好きな人だから、身体を入れ替えてもきっと自分を愛してくれる筈だと。けど、けれど、今度こそは、あの、年端もいかない少女と恋人になるんなんて。小さくなった頬の輪郭と唇の先を思い出した途端、剥いた目とともに何も食べていない筈の胃液がせせりあがって、ホセは口元を強く押さえつけて大きくえづく。
「うえっおえっ」
どんなに人を殺しても拷問しても思わなかった嫌悪感が混みあがってくる。小さな少女の頭の中に今までの恋人としてまぐわった日々も残っているというのか。あの子どもの身体の中に。
そう悟った瞬間、震える手も支えきれずに、容赦なく吐き気が迫り、掌が汚れるのも構わず胃液を口元から溢れ出した。激しく咳混み蹲りながらホセは首を振る。
「無理だ、無理だ、無理だあ……!」
いくら『彼女』だったとしても、十代の『子ども』を恋人として愛することなんてとても出来ない。そんな人でなし、獣じみたことを――、自分もまた罪人であると思ったとしても、それだけは絶対に許せないことだった。ホセの瞑る目からは涙も滲み出ていく。
なら、また彼女が大人になるまで待てばいいのだろうか。しかしそれでも彼女は繰り返し若返り、一方で自分は先に歳をとっていく。そんな歪な時の流れに、これからも同じように愛し合っていくことが出来るのだろうか。
出来るわ。だって、どんな姿であれ、形であれ、好きな人だったら、愛せるものでしょ?
目を閉じる中で幻影の彼女は問いかける。しかし、そこから始まった彼女との愛の日々はそれで終わろうとしていた。
違うんだよ。
ホセは幻影の彼女へと首を振った。彼女を愛すると決めてからの日々で、愛の形は変わっていた。あの、大人びた顔と身体を含めてようやく女である彼女を愛するようになった。だから自分にとって、今のサラはもう『彼女』ではない。
また何よりもホセを絶望させたものは、自分を選ばすゲオルクのために、手術を受けることをサラが選んだということだ。
自分との未来のために、己に助けを求めてくれなかった。もし、一言でも、「嫌だ」と、言ってくれれば、自分は何を裏切ってでも、例え仲間を殺すことになっても、あの研究所から連れ出したあげたというのに。
「……ああ、そうだね。やはり君は、カルクだったんだね……」
汚れた手の甲で涙があふれ出る瞼を拭いつつ、震えてうまく開かない唇は皮肉を笑みを浮かんでいるような形となっていく。何年も前に殺してしまった男の名を呼び、今もなお変わらない愛おしさとともに頬を冷たい雫が通っていく。
サラの頭の中には、カルクの意志が宿っている。カルクが愛した男、ゲオルクへの慕情。今の世界を恨み、ひっくり返すための研究への執念。当人も区別しきれなかった思いに彼女は囚われている。彼の面影を通して、ホセは彼女を愛したはずだった。そのしっぺ返しが今、叩きつけられ、己が崇め奉った十字架がひっくり返っていく感覚に陥る。
自分と同じように清純を貫いていたハズのキリストには、本当は娘がいた。娘の名を今更になって初めて思い出す。
「そうだ、確か……サラと、言ったんだ……」
何かが切れる音がした。全ての力を失いホセは黒髪をしなだれて蹲る。指から離れていくていく花束も、彼の靴の上に跳ねて傾き、落ちていく。
藻掻き、苦しみ、求め続けた挙句に最後に行き着いた愛の果て。これ以上、人の愛にも、自分の愛にも心を振り回されてしまうのは――、
「もう……疲れた……」
***
数日後。少女、サラは何事もないように、向こうの渡り廊下からホセの姿を見つけると、ぱっと笑顔を華やかせ、日差しの眩しい廊下を駆けていく。
「ねえ! ホセ!」
挨拶もなく、そして気の置けない関係として唐突に腕を絡ませ、耳元に唇を寄せて呟いた。
「明日の実験が急遽休みになったの。だから今日は一日中いられるわ」
いつものように胸を彼の逞しく筋の張った腕に押し付ける。
「だから今日も……ね?」
と細むこげ茶色の瞳からベットの照明を翳すも、対してホセは見返ることもなくそっぽ向いたまま、やがてぱっと腕を掲げて振り解いた。
「ねえ、サラ『ちゃん』」
他人行事な言い方に、サラははっと髪を揺らして癖っ毛を仰ぎ見る。すると、ホセは徐に振り返り、首を傾けながら崩れそうな笑顔を向ける。目を開く彼女を流し目に見遣り、長年抱えた全ての因縁を、ここで自ら断ち切らせるのだ。
「別れようか、僕たち」
答えた後、ホセはサラを見なかった。張り詰めた空気の中で窓を仰ぎ見る先には、今日も熱帯雨林の葉々が、新緑の影を浮かばせていた。
赤いポピーは今、裏庭の盛り土に添えられている。
終




