小話 サモトラケのニケ編
遠い世界、魔法の国。ここではない何か。
土塊に塗れた難民キャンプを見上げながら、少年はいつもくすんだ山を見上げていた。
やがて、日が経つに連れて、両手両足が錆びた鉄の鎖に少しずつ引っ張られていくように、彼の骨は軋み、肉が千切れるような痛みと共に身体が大きくなっていく。それに伴い、がむしゃらに止まらなくなっていく食欲と性欲。けれど、そこにはそれを発散できるような物も相手もない。全てを吐き出したくなる衝撃はまるで、自分はかつて憧れた勇者なのではなく、魔獣になってしまったようだ。
影法師のような大人たちは、自分が楽しむばかりに関心を寄せ、テレビも本も全てを牛耳っては、自分たちにはボロボロになった使い古しで満足しろといい、それで更に燻る力と勢いと苛立ちは、次第に彼を蝕んでいき――、そして少年は一度、為すがままに呑み込まれて、堕ちたことがある。
しかし、堕ちたことによって全てを失い、それこそ唯一の縁をも失いながらも、身を切るような痛みを隔て、少年は遂に、山より向こうの景色を知るのだ。
そして、少年と男の狭間で彼は知ることになる。この世界の広さを、そして自分は今までどこに立っていたのかを。
***
「はいはーい。お待たせしましたー、みなさん」
「あ、ヨーナスの兄貴! ねー! ねー! 見てくだせえよ、兄貴! 猫です! 猫ー!」
フランス、パリ。ルーブル美術館。
その象徴といえるガラス張りのピラミッドの前、薄褐色の肌を持つ少年が、歓喜の声を湧かす。
「はいはい、カマラくん、良かったね」
と、呆れ気味に頭を掻いて、その声を背後から受ける青年は、広場で笑う観光客らを避けるように眼鏡をかけ直し、目を伏せる。が、
「みて、兄貴! 猫! 猫!」
それでも一切構わず、少年、カマラは白毛に黒斑の太った猫を担ぎ上げ、その手足を彼の頬に押し付けようとする。それに青年、ヨーナスはうわっと、嫌そうに声あげた。
「あーはいはい! もう、分かりましたから! 持ってかないの!」
そんなやりとりを、長い足を仁王立ちして見やる美青年がいる。彼もまた、通り過ぎる女性たちの羨望の眼差しや、スマホのシャッター音を受けながら憮然と唇を尖らせた。
「ばっかやろう。猫を美術館に連れていけるかよ」
「なら、美術館は止めて、今日はこの猫と遊びましょうよ。ジョージの兄貴」
「……ちげえねえな」
「えっ、ちょっと! やだやだやだ! せっかくルーブル美術館に来たんですよ! そんなアメリカでも出来そうなこと、やだやだやだ! 絶対やだ!」
と、二人の間で今度は大騒ぎするのはヨーナスの方となってしまった。
なんやかんやと猫とは今生の別れを経て、夢のルーブル美術館へ入った男三人であったが、その騒がしさは迷惑なことに、屋外にいるときと変わりなかった。鏡のように映る床の上を巡り、カマラが両腕を広げて空を仰ぐ。
「うっわー! すげえっすね! 天井まですっげえ装飾でいっぱい!」
「うんうん、そうですねえ。カマラくん、絵の中もちゃんと見ようかあ」
「おっぱいばっかり!」
「そうじゃなくて!」
「にしても、ホント、おっぱいばっかじゃないですか? ヨーナスの兄貴、女の股間ってほんとにみんな、あんな感じなんですか? 俺がちっちゃいとき、母ちゃんと一緒に沐浴したときなんてもっと」
「カマ! ラ! くん!」
「うるせえぞヨーナス。ちゃんと真面目に答えてやれ」
「なんでですかあ!? あれは男の趣味だから、全然違うって言ってあげれば良かったんですかあ!? 私だって知らないのに!」
結局、警備員に叱られたのはヨーナスだけであった。
さて、ルーブル美術館にはかの有名な肖像画、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザが展示されている。しかし、その展示場所は案の定、大勢の人だかりが集まって、遠めからしかうかがえない。175センチを超えるヨーナスと、先の青年、ジョージは、何とか首を起こすことでその微笑の女性と目が合ったが、一方で、カマラは隣でぴょんぴょんと跳ねていた。
「だっこしてあげましょーか」
と、今度はヨーナスが、ジョージの脇から身を乗り出して茶任せば、カマラは音を出しながら唇を震わせ、首を振る。
「結構っス。ジョージの兄貴の方が高いから兄貴に頼んます」
「う、うぐう。言うじゃないですか」
「は? 何勝手に言ってんだ? 俺はやんねーぞ」
と、端正な鼻先をそっぽ向くジョージに、カマラににやにやとしながら目を細めた。
「あれあれー? もしかしてー、ジョージの兄貴じゃ、俺は重かったっスかね?」
「んっッだと、てめえええ!」
するといきなりジョージが振り返って飛び出しては、カマラを持ち上げようとして案の定振り落としそうになり、それをヨーナスが絶叫して脇から押さえようとする。
「わああー! だから、大きな声出さないでくださいよ!」
その騒がしさに、モナ・リザを見る観客が振り返ったとき、目の前には、こちらに身体を向けて空中に横たわるカマラと、その頭と足をそれぞれ抱えているジョージとヨーナスと目が合った。
なんでこんなところに、と、訝しがる雰囲気と共に、当の三人も何やなんやらと分からないと言ったように顔を固めているのであったから、それが滑稽だと皆が一斉に笑う。それに合わせて、モナ・リザも更に目を細めて笑みを讃えているように見え、ヨーナスは羞恥に赤面したのであった。
***
相も変わらず騒がしい一同であったが、ようやくカマラは、展示室との間に繋がる廊下で、初めて美術の鑑賞に浸る。
赤い瞳が輝く先には、三つの階段が交差する踊り場の窪みに佇み、船首の尖りの上に白い裾を靡かせる、頸と腕のない女性の石像――、サモトラケのニケがあった。
ギリシャ神話における勝利の女神は、ロードス島で発見された以来も、その年季も感じさせない大理石の彫刻である。斜め真っすぐに背筋をのばし、片足だけを踏み出しているさまは、まるで今にも海風を受けて飛び出そうとする勢いを成し、風によって密着した翻波からうかがえる身体の縁取りは、くびれや太もも、そして胸の膨らみを浮き立たすが、それは、女としての艶かしさというよりは、健康的な身体つきをより明らかにしている。それにはヨーナスもカマラも、余計な邪を感じることもなく、ただその美しさに見惚れていた。
「かあっこいい……」
「女なのに、なぜかそう思うっすね……。なんでだろう、なんかスポーツ選手っぽい感じだからっすかねえ」
「お、良い着眼点じゃないですか、あの、有名なスポーツメーカー、ナイキの由来もここからなんですよ」
「……ナイキ?」
「ああ、そっから、知らなかったですか……」
と、語りつつ、ニケの立像を見るカマラの視点はやがてその肢体から、彼女が背に付けている翼へと映る。精巧な羽先の一枚一枚が揃い、優美な曲線を描いている。眼下の三人に影を落としたであろう、その雄大な翼の靡きも、大理石を透かして映し出すようだった。
「俺……ずっとあんな翼がほしかったんですよ」
やがて、カマラは恍惚に赤い瞳を細めながら、その翼を見上げて言った。
「ずっと、ずっと……つまんねえ、何もねえところにしかいなくて、ずっと遠いところに、あそこではないどこかに、行きたかったんです……」
「……今、こうして、遠いところに行けて、どうですか、その心地は」
それに、ヨーナスがメガネの奥から、少し侘しさも含めた眼差しで斜めから見下ろすと、カマラは微笑みつつ、
「夢みてえです」
と、僅かに声を震わせて答えた。するとヨーナスはいきなり、脇から彼の肩を抱いては、日焼けした彼の腕を慰めるように掴む。その間際、カマラの腕が一瞬、木の幹がごとく強張ったことに哀れみ、眉を顰めた。
「違いますよ、カマラくん。これが本来あるべき場所なんです。いえ、貴方のあるべき立場なんです」
それから、共にニケの雄姿を見上げて言った。
「貴方は、貴方の家族は――、父親は戦争で死ぬべきではなかったし、本当は難民キャンプに暮らべきでもなかったはずです。貴方も、そこで退屈な日々を過ごすものでもなかったし、ましてや大人たちに担がれて、銃を持つべきではなかった。貴方は、そして貴方の家族は、元々受けるべき権利を奪われていた。こうして美術館を眺め見ることだって、本当はごくごく普通の、当たり前のことなんですよ」
そうして、人種は違えども、優しい兄であるような眼差しでもあって、彼を見据えるヨーナスであったが、一方でカマラは鼻先はニケに向けたまま、上目遣いにヨーナスを見て言った。
「……それ、兄貴の言葉じゃないっスね」
太い眉が微かに上下する。それにヨーナスはまいったな、と、掴んだ手を離し、頭を掻いた。
「誰からの言添えなんですか?」
と、今度はいたずらっぽく正面へ見返り後ずさったカマラに、ヨーナスは苦々しく曖昧に笑って首を振れば、懐から徐にある物を取り出した。
「ん?」
「はい、これ。本当は泊まりのホテルのときにでもと思っていたのですが、ここで」
そこで、ヨーナスはポスターを広げ、カマラへ両手で差し出した。数段下がったところに立つカマラは目を見張った。それはカラフルな正方形が敷き詰められたポスターだった。その色とりどりの正方形の中に、英語を解しづらいカマラでもよく分かる、白いピクトグラムがそれぞれ描かれている。
それは、今から何十年も前――、1972年から提唱された、「子ども権利条約」の一覧であった。ユニセフによって為されたものは、小さく、弱い立場にある子どもが健全な大人になるために保障されなければならない権利を定義づけたもので、項目は31に及ぶ。
ポスターの画面は、カマラに様々な思い出を去来させながら、赤い瞳を瞬かせた。
中に描かれていた内容は――、子どもにはまず、生きる権利があるということがあった。
そして、容姿や人種によって貶められたり、差別されるべきではないこと、脅威や牽制から大人に守ってもらうべき対象であること。金銭を伴う労働から解放されるべきであること。武器や兵器に晒されたり、それを持って戦う立場であっては決してならないことなどが示されている。
一方で、それらの宣言はまた、カマラの今まで辿ってきた人生や選択を全て否定していた。
中途半端に目だけが赤いアルビノとして生まれ、疾患だともみなされず、フィクションのように神聖視もされず、理解者にもなれなければ、当事者にもなれず、ずっとそれに貶められながら生きてきたカマラ。
その間に戦争によってかけがえのない父親を亡くし、難民生活によって家族と引き裂かれ、僅か15歳で働きに出された。娯楽も知れず、恋も知れず、世界も知れず、募りだす空腹と苛立ちを我武者羅に発散したくて銃を獲る毎日だった。
その全ては、本当にあってはならなかったと、間違っていたのだと、そのピクトグラムは語りかけるのだ。
「そうだったのですか、そうだったん、ですか……!」
ポスターの端が震える。それは何も、彼の人生だけに留まらないと気づいた故の衝撃であった。赤い瞳が今まで捉えてきたのは――、
「なら、なんだって、言うんです……!」
真っすぐに段上のヨーナスと背後のニケに向けて、カマラは大きく口を開く。情動の溢れる声は、吹き抜けのルーブル美術館に響きたわった。
「今まで、俺の妹が栄養失調で死んだのも、その身体が臓器売買されたのも……! 近所の女の子たちが12歳から売春することになったのも、弟分が大人の酔っ払いに絡まれて殴られて死んだのも――、仲間がテロリストに攫われて弾避けにされたのも、全て、全て……! 本当はあってはならなかったんですね!?」
すると、唾吐き散らすカマラの叫びを面と受けて、ヨーナスは壮絶な例えに涙を滲ませた。
「そう、だよ……? なにを……、何を……言ってるんだよ……」
本当にあったことを想像するだけで――、あまりの悍ましさに口を覆い、ヨーナスは俯いて哀しみに声を震わせる。
「そんなの……当たり前じゃないですか……。ひどい、何それ、ひどい……。そんな、ことが今まで……君のところであったというのですか……?」
哀しみに伏せるヨーナスの一方で、不思議なことに、それに気づいたカマラの方は白壁に映える赤い瞳を瞬かせ、見上げるニケの像に降り注ぐ、太陽の日差しを見出したではないか。
「そう、そうだったのですか……!」
開く口はそこで、笑みの片鱗をも浮かばせた。
「そうか、俺たちは、子どもは弱いから……、何をされても仕方がないと思っていた……! でも違うんですね。逆なんですね。弱いからこそ、本当は守られなければならなかった。今まで、俺らは、俺たちは――、してはいけないことをされていたんですね……!」
階段を滑る、茶色いサンダルの音が鳴る。カマラはヨーナスの横を通り過ぎ階段を上がっていた。そして、再び真正面にサモトラケのニケと対峙する。ポスターは丸めて右手に持ち、それを託宣の書を受けたように掲げた。左手は胸に置き、厚い胸板を隔てても響く鼓動に目を細める。すると、その身を後ろからヨーナスの影が迫った。
「そうだよ、そう、なんだよ……!」
ヨーナスはたまらなくなって、人目も憚らすカマラを抱きしめた。カマラもニケを見上げつつも、胸の上に置かれた手を握り返して、ヨーナスの抱擁に応える。
ずっと魔法の世界に行きたいと思っていた。彼女のように翼を持って、いつも焦れた大空を飛びたいと願っていた。でも違う。今は、違う。カマラはポスターを握りしめる。
「本当は、こっちの方がずっとずっと、良いんだ……! きっと向こうの世界にゃ、こんなポスターあるわけねえもんな……!」
そう悟れば、妄想の世界に浸るより、ずっと心地が良くなった。今この地にある世界は、そして、この地に立つ自分は、生きるに値するものなのだ――と、そこで初めて翼の女神の線が浮かび上がったような気がして、途端に潤む視界の中で、瑞々しく張った薄褐色の頬に一筋の涙を流す。
そんな二人の背中を、降りた階段の端からジョージがニケの立像と共に見上げていた。通りすがりの観光客が羨望に彼の端正な横顔を見遣っているのも知らずして、周りが白壁であるからこそ余計に、青い瞳はかつての日を映し出す。
***
それは、カマラを引き取ってからしばらく、別の中東で宿泊していたときのこと。ジョージがアーサーとテレビ電話をしていると、突然、アーサーは後ろのベットで大の字になって寝そべっていたヨーナスを呼び出した。
「えっ! あっ! はい! なんれしょうか!」
慌てて飛び起きたヨーナスへと、淡々としてアーサーはこう問いかけた。
「ヨーナス、君たちは今、一人の少年を預かっているといったな」
「あ、はい。カマラくんと言いまして、パキスタンで出会った少年です。預かったというよりは、お仕掛け女房みたいな感じで……」
と、事の仔細を僅かに愚痴を含めて伝えれば、向かいのアーサーは指を顎に添えて思案していた。それからやがて、マウスを操作する仕草をする。
「ヨーナス、その少年にこれから送るデータを印刷して渡してくれないか」
そう言って渡したのが――、「子どもの権利条約」であったのだ。
「そうだな、手間をかけるかもしれないが、なるべく大きなサイズで、丈夫なものに写してほしい。いづれ彼の、できるかもしれな子どもにも、引き継げられるように」
「え、どうして、それを彼に……?」
やがて、受け取ったポスターの画面を眺めながら首を傾けるヨーナスに、画面の脇に立つジョージが「馬鹿」と、口パクで突っ込んだ。すると、灰色の瞳は穏やかな目配せを示しつつ、平行な唇の辿りでヨーナスに答えた。
「彼は今まで、悲惨な目にあったが故に盗賊になってしまったのだろう。それによって染み付いた暴力性や加害性を、いづれは解消しなければいけない。君たちだっていつまでも、力で押さえるのも限界がある。しかし、このままでは、彼はまたきっと人を傷つけるぞ。その矛先は、これから伴にする妻かもしれないし、子どもかもしれない……」
ヨーナスは息を呑んだ。
「私は、その負の連鎖を止めたい。そのためにはまず彼に、今まで自分はされたことは決してあってはならなかった、仕方がないことではなかったというのに、気づいてほしいのだ。
しかし、それからが肝心だ。それによる悔しさや憎悪を溢れ立たすようだったら、ヨーナス、それは君が受け止めてほしい。また、そう簡単には彼の暴行の癖は収まらないであろう。それを、気の済むまで吐き出してやってほしい。それが妻や子どもであってはならないのだから」
「……はい!」
ヨーナスは反射的に返事をして頷いた。
「自身の被害を自覚することで、初めて人は加害のおぞましさや愚かさを知れる。それはまた、彼の子どもたちにも引き継がれるようにしたい。時間のかかる、重い役目だが正義のためだ。よろしく頼むぞ」
「勿論です!」
正義――、二人にとってのかけがえのない言葉に、その共鳴も合わせて、ヨーナスは背筋を張って笑顔で答えた。それにアーサーが目配せで受け取ったのを見遣り、ジョージは背を向けて部屋を出る。
***
「自分の被害を自覚することで、加害のおぞましさを知る、か……」
いつもなら茶化す、『しみったれた言葉』を、そのとき、ジョージは初めて真顔で小さく復唱した。見上げる先に立つ二人の背中。それと向かい合い、こちらに足を踏み出す翼の女。しかし、ジョージがその端正な唇で紡いだのは、彼らに向けた言葉ではなかった。
「それをなんで、俺のときに言っちゃあ、くれなかったんだよ」
目の前にある、大理石と同じ色の瞳。初めて出会ったときの冷徹な眼差し。自分もあのとき、向こうにいるカマラと同じ18歳だったはずだ。だとしたら、あのときの自分と彼とではどう違ったというのだろう。違ってしまったのは、彼だったのか。それとも――、
『何を戸惑う必要がある。戦えればそれでいい。そうではなかったのか』
「わあってる。わあってるんだよ」
ジョージは頭に過るアーサーの声に顔を顰めて頭を掻きむしった。それでも止まぬ思いは、細まった青い瞳でニケを見上げたときに表れる。そのときジョージが翼の向こうに思い浮かべたのは、今は随分と遠くになった、むせ返る夏のペルー、リマの空。
そうだ、あの踏み出そうとする勇ましい姿は、羞恥の欠片もなく、堂々と張った胸の膨らみは、あのとき、リマの街を駆け巡った彼女そのものだったではないか。
『白きものには、くれぐれも気をつけることね』
ふとして、その上から言われた言葉が過ぎる。そのとき初めて、ジョージの青い瞳はくっきりと、ニケの翼の輪郭を浮かばせたのだった。
カマラが、ヨーナスが、それぞれの希望への行く先を彼女の翼に託しゆく。そうして赤い瞳が捉える段上の景色はこれからどこまでも、眩い思い出として胸に刻まれる、はずだったのだが。
***
「この、忌々しい死神め! 今から俺が! 殺してやる!」
段上を睨む。抜き出された刃が銀に瞬く。今やそれを掲げる少年の瞳はかつての盗賊だったときと同じ、赤黒い渦を巻いていた。そして、その瞳が睨む先には、キャビンの段上で長い手足を垂らす黒いスーツの男が、顔を逸して佇んでいた。
逆光に陰る眉間はその瞳を隠し、表情は捉えられなかった。日焼けした肌を持つカマラにとって、スーツから覗くその白い肌は、かつて見たニケの大理石のようだと思った。
しかし、それは翼を持つ女神としてではなく、居間や黒い布を纏う死神として、そして羨望ではなく、憎悪をもって、あのときと同じ段上を見上げる。
悪魔となった、カマラは知らない。その殺意を向ける死神こそ、自分の尊厳を気づかせてくれた相手であることを。
死神となった、アーサーは知らない。自分の託したポスターが、どれほどの希望を悪魔の胸に宿らせたことを。
そしてそれは、互いに終ぞ知ることはない。
そのどちらを知っているのは、その狭間に立つ野犬のみ。彼の顔もまた、俯向いた眼鏡が光って何を思うかは知れない。それでも、食いしばる唇の歪みは切々と、全てを知る者としての引き裂かれるような痛みを為していたのだった。
終




