小話 セルシオ編
夜の住人たちの話。
今から二十数年前のNY。夕方にも関わらず、その日はまるで朝日のように、白い日差しが降り注ぐ晴れの日だった。
新緑の煌めきが眩い森林の白道を、ゆっくりと走る車、セルシオがある。
紺色の細長いボンネットの上に折り重なる萌葱色の影を映しながら、柔い日差しにフレームを光からせる車。その豪勢なリムジンの車内は、逆光に翳り、後部座席の窓枠に肘をつけて黄昏れる青年の、血色の薄い姿身をより明らかに縁取らせた。
その青年こそが、今では時の人、アメリカ国会下院議員議長、アーサー・ベリャーエフ氏であっる。
しかし、その時の彼はまだ何者ではなく、ハーバード大学を首席で入学、同席で卒業後、亡き祖父のツテを頼り、摩天楼のNYを駆け抜ける敏腕弁護士として数年の月日を経たばかりである。
黒に銀のストライプという、若気溢れるスーツに対し、長い足を組み交わし、尖った手首を直角に曲げ、拳を蟀谷につけて思案する様は、幼き頃から培った風情が、丸みをおびた靴先にまで張っていた。
「もうすぐアーサーのぼっちゃんも、初選挙ですかあ」
すると、木漏れ日の萌葱に微かに染まるその細長いシルエットを横目に、運転手がハンドルを握りながら声をかけた。
「ああ、いよいよだ」
と、アーサーは言葉少なに答える。本当は色々と呟きたいところもあるだろうに、相変わらずだと、銀縁の肩を微かに竦め、二重顎に広がる黄金の無精ひげを揺らして運転手は笑う。
「えっと、これから行くところはーー、アッパーイーストサイドっすね。ここが本当に、あの、カンジョン・ヨンスの邸宅なんですか?」
「そうだ」
と、また短い答え。それに、運転手ははあんと、つまらなそうな声をあげた。
カンジョン・ヨンス。故郷の韓国から出立し、アメリカでは今や、指折りの自動車メーカーの社長を勤める男の名前である。NYタイムスの年間大富豪ランキングにも、必ずラインナップされている一方で、国際政策に深い関心を寄せ、韓国とアメリカの友好関係を始め、南北問題やロシアとの外交問題を解決するために様々な斡旋や、人脈を確立しようと奮闘している大物だ。
アーサーを乗せる車はこれから、彼の誕生日パーティーに出席するために、向かっているのだった。
その誘いはまた、韓国側、もといアメリカと対立するロシアとの牽制を謀るために、ロシア系であるアーサーとのパイプを作っておくこともヨンスの策略にあるのだろう。それを、誕生日パーティーの招待状を受け取った瞬間から、既にアーサーは読み取っていた。
「すげえ先見っすね。アーサー様、貴方まだ、政治家にもなーんにもなってないのに、もう早速お手つきしようとしてるんですか」
「ああ、現当主の父が今病気がちになっているのを鑑みてのことだろう」
それに、運転手は「あくどい奴っすねえ」と、肩をすくめる。するとそこで初めてアーサーは眉を顰め、運転手の態度に答えた。
「さっきから、どうした。カンジョン・ヨンスに何か懸念でもあるのか」
「いえいえ、アジア人のくせによくまあ、ここまでやってくれたなあと、思っただけですよ」
その言葉だけでも、嫌悪が充分に籠っている。アーサーは感じ取っていた予感が確信したことにため息をつき、そこからはっきりした声色でその態度を厳しく咎めた。
「アジア人などと、その差別発言は辞めたまえ。むしろ、君たちのような者からの偏見のハンデを越えて、異国でここまでやってきたことは殊更、称賛に値すべきではないのかね」
「いえ、でもねえ……」
「それにさっきの、アッパーイーストサイドに対しても――、今までは白人の独戦地だった高級住宅街に、アジア人が乱入しているとでも言いたかったのか? 失礼だぞ」
と、鋭く読み取った灰色の瞳は彼の背後を鋭く貫く。その冷徹な眼差しだけは、二十年後も全く変わりない。すると、運転は前を向いたまま憮然として答えた。
「……俺は、このままアメリカが、アジア人の言いようにされないか、愛国者として心配しているだけですよ」
それにアーサーは、やれやれと言ったように肘をルーフに付けたまま額に手を翳す。
「そんなことがあるわけがなかろう。勘違いも鼻ただしい。そういう風に思うのならば、それは君自身に何かしらの問題があるのだ。立ち向かうべきなのはアジア人ではなく、君の心の闇ではないのかね」
反論の余地を与えない、いつもの整然とした理論をもって、彼の差別心を弾き飛ばす。それに運転手は前を向いたままだんまりを決め、しばし気まづい車内が流れてしまった。
そして、午後六時。すっかり夕闇に溶けた摩天楼を背後に、照明に瞬く豪邸の前に車は止まる、アーサーはその運転手の放つ重たい空気に構わず、悠然と降り立った。
「二時間後くらいには戻る。それまで駐車場で待ってくれ」
と、いつもの言づけを添えてアーサーは案内されるままにパーティー会場に向かったのだった。拵えられた赤カーペットを悠々と越えていく細身の主を見据え、その一端さえ踏み込めない自身の立場に、運転手は今日は何故か異様に腹が立っていた。
さすれば、いつもの言づけさえも、まるで犬に対してされたようだと、途端に憎らしく思って、運転手は目の前に歩く富豪たちの睨みつけ、絞るようにハンドルを握り締めたのだった。
心の闇など、小賢しいことを言いやがって。と、運転手は悪態つく。
俺の闇なんて、とっくのとうに知っている。それは親の世代から続くみじめな貧困と、先見えぬ将来への絶望。そうでもしなければ、誰が金持ち、ロシア人、屁理屈者と、嫌いな三拍子も揃ったお前なんかの運転手なんかなるものか、と、吐き捨てた。
この一介のアメリカ人の苦しみには目も向けずに、何が外交だ、何が友好関係だ。もっとその気色悪いゾンビみたいな顔を向けるところが他にあるんじゃないか、と。
「てめえみたいな奴に、俺の国など任されてたまるかよ」
最後に、情感のない翳りを差した笑みを運転手は浮かべ、セルシオはそのまま賑やかな豪邸の明かりの届かない、闇の中へと消えていった。
***
パーティは賑やかに行われた。
当時としては珍しい、温室効果つきのナイトプールに興じる参加者たちを眺め、アーサーはシャンパン片手外庭のテラスに肘をついて黄昏れていた。
見下ろす中庭とナイトプールには、綺羅びやかな照明が降り注ぎ、少し寒くなった秋の心地に構わず、ドレス姿の参加者たちは並べられたテーブルの食事とともに会話を楽しみ、また子どもたちは色鮮やかな風船片手に走り回っていた。にも関わらず、アーサーの鋭い横顔は陰鬱な影を差していた。
そう。さっきは気にしないフリをしていたが――、このまだ若かりしアーサーは、次第に畏れを感じてしまっていたのである。先の運転手は父の代より信頼を寄せていた運転手だった。それなのに、ふとした拍子にあんな、自分では絶対に許せない差別発言をしたことに、少なからずショックを受けていたのだ。
「君は一体、今まで私たちの何を見てきたというのだ……」
シャンパンを傾けて、意固地で言えなかったことを、そこで柔い声で呟いた。
アーサー・エゴーロヴィチ・ベリャーエフ。その名前がどうしようもなく示す通り、スラヴ系として産まれ、ロシアの下級貴族の末裔という肩書もさながら、彼もまた、故郷であるはずのこのアメリカに排斥された立場であった。
彼のルートであるロシアは、かつてはアメリカと冷戦期に対立し、現代でもアメリカと対峙する数少ない大国である。その傷跡の膿は、今でもこの全土を覆っている。
友と見るアクション映画で、ロシア系が仮想敵として出てきて幻滅したときは、一度や二度ではなかったし、それで友が全く気にせず、「こうして難なく悪役として憚らずになったことこそ、友好になった証なのでは?」 と、詭弁を面と向かって言い、二度と元の関係に戻れなかったこともあった。
名字を答えただけで、眉を顰められることもあったし、子どもの頃は酷い虐めに合い、そのトラウマから感情の起伏の乏しい性格となってしまった。
そんな生い立ちを持ったアーサーが、今ここにいるのは、彼が彼たらしめる一つの縁、正義と、それに伴う義憤である。
アーサーは今一度、パーティーの面々を見据える。今日はやはり主催者の意図もあってか、いつもより違う人種が様々に入り交じっているのが印象深い。アーサーも、その内の一人として、自分のために、彼らのために生きやすい世界をと思い、政治家になる夢を今まで貫いてきたのだ。
感情を失ってしまっても、アーサーは社会に生きるものとして、人間たらしめるものを持っていなければとうに死んでいただろう。だから、彼は感情を失いながらも、考えた。
自分が生きるためには、どうしたいかではなく、どうすべきか、を。さすれば自分の求める理性があるところ――、正義を為して自分の望むべき世を作ることが、自分の意欲が最も湧き、今自分が最も持っている、学力という能力が活かされるのだと「考えた」のである。
さすれば、両親や家族共に、「夢の為に勉学に励む息子」として、大いに迎い入れてくれて、アーサーの聡明な計画は見事叶った。唯一祖父だけは眉唾に思っていたようだが、そんな祖父も間もなく亡くなり、アーサーは「夢を達成する」ために今までキャリアを積み上げ、ここに生きることが出来た。
しかし、夢を求めすぎた今、選挙が近づくにつれ、もし、選ばれることがなかったらーー、と、一つの可能性に今更怖気いてしまったのである。
「また私はもう一度、かけがえなのないものを奪われるのか……」
アーサーは肌のぴんと張った手の筋を掲げ、指に額をついて蹲る。ロシア系があるが故の差別と、貴族であるが故の嫉妬にまた、排除される。実は、自分は生まれたときから、どんなに足掻いても「詰んでいた」のかもしれないと思ってしまうのだ。
どんなに壮大な理想があろうと、そのために尽くす気概があっても、政治家は、「選ばれなければ」何の意味もない。
けれど、その選ばれる基準というのが、自分ではどうしようもないところにあるのだったら――、自分が今までしてきたことは、あの決死の選択から間違っていたのか、と。
そもそも、選挙の結果ばかりに囚われている者に、政治家になる資格などあるのだろうかと、どんどん思考は悪い方へ転がっていく。
人が大勢いるというのに、急激に襲いかかる孤独。視界が霞み、胸の内から上へ上へと黒い渦が這いずっていきて、このまま身まで覆い尽くされてしまいそうだった。持っていたグラスは最早どこへやら。アーサーは右手で顔を掴み、左手でその手首を掴み、いや、しがみついては、隙間から覗く灰色の瞳に浮かぶ瞳孔を開かせた。
もし、夢の道が閉ざされてしまったら――、最悪な思いの端に胃が竦み、蹲りそうになったとき、フロントの突き当りから突如弾けた女の声にはっと目を開く。
「だから! 私は何度も言いましたのよ!」
それから現実に引き戻されて、咄嗟に汗拭ったアーサーは、声のする方に顔を向けた。
「なのに、あの子ったら聞いてるふりして、全く、言うこと聞いてくれなかったんですから!」
すると、フロント突き当り角のあたりで二つの人影が見えて、その激しく揺れる方が声の主だと悟らせた。アーサーは額で汗を拭い、何か大事でもあったのかと歩み寄る。すると廊下の角から二人の姿の正体を知ってしばし困惑に身を揺らした。
それは、それぞれタキシードと深紅のドレスに身をつつんだこのパーティーの主催者、カンジョン・ヨンスとその妻であったからである。
そして、先に大声をあげたのは妻の方だと知る。すると、その赤い唇をこれでもかと開いて詰め寄る彼女に対して、ひたすら手を掲げて参っている様子のヨンスを見、助太刀しようと、アーサーはその影を踏み込んだ。
「あ、あの」
それに、妻がくすんだ黒い髪を振り乱して振り返る。
「あ……! あなたは!」
「あ、アーサー・ベリャーエフ氏……!」
すると、お互いに初対面であれど、紙面でよく知る者同志として、何ともいえない目配せと共に、それぞれ戸惑いの声をあげてアーサーに応えたのだ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったのですが」
本当は、驚かされたのはこっちだがな――と、言いたくなる喉のつっかえを咳払いして誤魔化し、アーサーは問いかける。
「何やら、ままならない状況のようですな。良かったら、私にお手伝い出来ることがあればと思いまして」
それに対し、夫婦は焦って互いに顔を見遣った。
「い、いい、いいええ。お客様の手を煩わせるようなことでは」
と、最初は恐縮する夫婦だったが、大事な取引相手でもあるヨンス氏は、傍から見て、妻のおかんむりにすっかりお手上げの様子だ。ならば、やはり手伝わなければならないとアーサーは意図して、それらしい言い訳と共に、かすかな策略もしのばせつつ、結局その案件を聞くことにした。しかし、まいった。と、アーサーもまた胸の内に不安を落とす。
ヨンスの戸惑いと妻が怒った「あの子」という言葉。察するにそれは、アーサーもさほどよく知らない、「女の子」についてかもしれないだろうと。
「これは去年、私どもが養子として引き取った、夫の姪っ子のことでございますけれども」
と、アーサーの読みの通り、妻はそこで少女の名を述べた。
「名前はカンジョン・ミナ。今年十歳になったばかりの女の子でございます」
そして、妻は語った。彼女はかつて、義兄の家族と共に、韓国の島に暮らしていたが、北朝鮮軍からの爆撃を受け彼女以外家族が全滅してしまったという経緯を持っているということ、
引き取ってアメリカに渡った今は、一見何事もなく過ごしているが、時として気が触れたようなことを言っては、度々皆を困らせて、敬遠されてしまっているということ。
「ソユン! 何もそこまで」
と、ヨンスは咎めたが――、
「そこまで言わないとあの子のことを理解することが出来ませんわ!」
と、妻の一喝は夫の余地を許さなかった。続けて妻、ソユンは言った。
「ミナは、鉄製品に、特に車に対して、意思が宿っているという妄想を抱いている女の子です。ことある毎に、あそこの車は泣いているのどうの、あのラジオは怒っているのどうのといきなり言いまして、時としては車に居座って何時間もいたりと、みんなを引かせておりますの。なんだか、幽霊とまで悪いあだ名さえ付けられてしまってね……」
「は……、ゆう、れい……? な、なぜ……そんなことを……?」
すると、パーティーの照明に顔の陰影深くして、灰色の瞳は戦慄に震えていた。その、戸惑いながらも何とか冷静を努める低く単調な声に、微かな同情を忍ばせて、今度はヨンスが目を伏せて答えた。
「ミナは……自分以外の家族や島の仲間の身体が、砲撃によるけぶる鉄の塊に滅茶苦茶にされる様を、唯一その目で見てきた女の子です。彼女はそのショックと、突然このアメリカにやってきた急激な変化に心の失調をきたし、そういう妄想によって、心の安定をはかっているのですよ」
「そんな……そんな……ことが……」
「ええ、あってはなりません。けれど、私たちには、それを否定する術はないのです」
と、微かに首を振りつつも、ヨンスの項垂れる頭は重い。
「彼女のショックはあまりにも大きすぎたのです。彼女のトラウマが報いられる唯一の方法とすれば、それは勿論――、あの憎っき北朝鮮への報復以外にありますまい。けれど、我々の故郷、韓国政府は世界の均衡のために、それを不問とした。それにはきっと、ミスター、ベリャーエフ、アメリカの介入もあったに違いないでしょう。そうしてミナは」
政界に詳しいヨンスの鋭い読みが、微かに鋭い上目遣いによって示される。
「人の権利を簒奪したものは、罰せられる。その大前提を、無惨に打ち捨てられたミナにとっては、この世全てが狂っているように見えるのでしょう。しかし、力も何もない、誰も責められない、誰も貶められない小さな女の子が、この世界で均衡を保つには――、彼女自身が狂うのしかなかったのです」
重い空気が垂れ込める。その中でアーサーだけが、背筋を真っ直ぐに立ち尽くしていた。
「それで……さっき、あなた方が揉めていたのは……」
「……ミナのドレス服についてですわ。今日、彼女もパーティーに出席してるのですけれど、死んだ家族や今まで亡くなった人々が鉄の中に溶け合っていると思い込んでいる彼女は、黒い服こそ、礼服だと思いこんでおりますの。つまり、喪服ですわね」
「それを今日も……?」
「ええ、それを幾らパーティーでも、と、旦那に咎められていたところを、私がああして反論していたところだったんですの。お見苦しいところを、お見せしましたわ」
「いや、全くだよソユン。おかげでこの夜のパーティー、またミナは幽霊みたく闇に紛れるようにいなくなってしまって……」
「なんですってえ!? これでも何とかし頑張って、詰襟は白いのつけさせたんですからね!」
「それじゃあ、アダムス・ファミリーのウェンズデーになっちゃうじゃないか! 余計不幸に見えるだろ!」
と、再び見苦しい場面を前にしても、アーサーは最早それに答える心持ちではなくなった。二人の反応を待つ間もなく、足取り乱れながらも呆然と前を向いたまま、その場から背を向けて離れていった。
衝撃であった。僅か十歳ながら、平和の生贄として、自分の権利を無残にされた少女がいたということを――、否、アーサーも本当はとう知っていたはずだった。
しかし、ここにいる者たちや、そして自分はそんな彼らの余りにも大きすぎる犠牲の上で、人生を享受しているのだと自覚するのが怖かったのだ。しかし、それを改めて突き付けられた今、只打ちひしがれざる得なくなってしまう。重たくなった腕を無理に掲げて、アーサーは額に指を置きながら、深い、深いため息をついた。
「そんな……幽霊だなんて……たった十歳の子に、なんて、残酷な仕打ちを……」
自分もそのときに「ゾンビ」と呼ばれるようになった当時の、痛いほどに分かる哀しみとともに擦れ声をあげた。
一方でアーサーは、ヨンスと違い、その悲壮な妄想を「受け入れるしかない」と、認めることはありえない、とも思っていた。その指の隙間から虚ろにのぞく灰色の瞳は、更なる悲劇を見越していたのだ。
「小さな身体で車の側にずっといる癖など、危険にも程がある……! それで事故や事件が起こって今度こそ、その子にもしものことがあったら……それこそ我々の贖罪はとりつかえしのつかないことになるじゃないか……!」
そう、まだ彼らは知らないのだ。と、アーサーは悟る。この多すぎる人々を受け止めるこの国に生きる、と、いうことの、自由を引き換えにした悲劇を。弁護士として知った、孤独な子どもを狙った数々の凄惨な事件を、今脳裏に思い出すだけで蹲りそうになるその悍ましさを。
「話さなければ……」
そう思い馳せた途端、顔だけは不自然に力が湧き上がって、覆っていた手を払う。僅かに飛び散った汗の中で、引き攣った目は瞳孔開きながらも決意に満ち満ちていた。さっき、ミナは黒いドレスで闇に紛れていなくなったと聞いた。ならば、探さなければ――、
「どこに……どこにいるんだ……!」
その引き攣った瞳孔のまま照明瞬く賑わいの外庭に顔を向け、行かねばと一歩踏み出したとき、彼のポケットから携帯の音声が響いた。
***
いや、おったわ。
フランクな言葉を滅多に使わないさしものアーサーも、思わずそう心の中で呟いてしまう。
駆けだすつもりで乗り出したミナの捜索はあっという間に終わり、携帯で運転手から呼び出されることによって、今、ボンネットの上に座り、つま先を揃えている彼女と向かい合うに至ったのだ。その車、セルシオは勿論、アーサーのものであった。
「こ、これがカンジョン・ヨンスの姪っ子でございますか!?」
第一発見者である運転手がモップの柄を持ちながら脇で驚いているのを、
「見世物じゃないんだから」
と、退かせ、アーサーはいよいよ彼女と対面した。膝をついて視線を合わせれば、腰までのばした黒髪が揺らめき、切れ長の瞳が微かに動いてアーサーを見る。頬の輪郭や顔立ちは年相応のもので、身丈もさほど代わり映えしない。
一見すれば、ごくごく普通の少女なのであったが、パーティーに関わらず養母から無理矢理つけられた白襟以外は、レースの一つもない真っ黒なロングドレスを靡かせて、黒い靴、その瞳孔も見えない真っ黒な瞳と、虚ろな表情が闇の中に浮かんでいる。それは、不気味な風情として、艶やかな髪と共に引き立たせていた。
「君が……カンジョン・ミナだったね」
「そういう貴方は……アーサー・ベリャーエフさん?」
アーサーの問いかけに対し、ミナはくすんだ小さな唇を僅かに動かし、まだ慣れない英語で答えた。
「そうだよ。お父さんから聞いたのかな」
「うん、今、教えてもらったの」
と、言ってボンネットを撫でて目をだけを綻ばせる。その何気ない仕草に、アーサーは今にも背すじが震えそうであった。養子とはいえ、彼女にとって「お父さん」はあくまで、故郷の島で亡くなった実父のことだったのだ。当然、とうに死んだ実父が、自分の名を知る筈がない。それは、叔父から教えてもらったことと、ごちゃまぜになっているのだと悟る。
やはり、この子は現実と妄想の区別がついていないんだと、初対面から思い知らされる悲壮感に、唇も震えてしまいそうだった。
「そうだったんだね」
しかし、アーサーはそれを無理に噛み締めて押さえる。そして、呆然としている運転手をよそに、目の前との少女との不可思議な会話を続けていった。
「私もお父さんにご挨拶願えないだろうか」
と、恭しくする姿勢を示したアーサーに虚ろな瞳は変わらず首を振って言った。
「難しいかも。今、お父さん、中のエアコンのところに隠れてしまって、動かないの。なんだか機嫌が悪いみたいな」
運転手がそれに「ひええ」と、手で顔覆って恐れ慄く中、アーサーは微動だにしないで、そうか、と、眉間の影を薄くして柔い声で答えた。
「急に驚かせてしまって、申し訳なかった。と、伝えてくれないか」
「うん。分かった。そっか……やっぱり、ベリャーエフさんにも、聞こえないのね」
「そうだね。今までも、君しか聞こえなかったのかい」
ミナは短いまつ毛を伏せて答えた。
「うん。なんでだろう」
そりゃそーだろ、お前の妄想なんだからと、再び身を乗り出しそうになる運転手を睨みの一撃で再び押さえつけ、アーサーは斜め下に鼻先を俯かせた。
「それは、鉄の中にいる者たちは、もう、私たち、ここにいる人間とは違うものとなっているからなんだろうね」
「でも、私は?」
「そう、君はその境界に触れた唯一の人なんだろう。けれどね――、」
それに小さな唇を動揺に引き締めた彼女へ、アーサーの白く細長い指が差す。そして同じく指で己の胸にもつけて、そこから徐ろに五本の指を開いて白シャツに影を作りがら、アーサーは目配せと共に諭す。
「君は、あくまでこちら側の人間だよ。君は、私と同じ。そして、君はそっち側とこちら側を結ぶ巫女でもなんでもない。君は、その役割を担う必要なんて、ないんだよ」
それに、アーサーを見上げる小さな鼻先がつん、と、冷たさに僅かに鼻を啜らせた。
「そうして、君は、寒さと空腹に耐えながらそこに居続ける義務を負わなくてもいいんだ」
すると、真っ暗だった瞳が、目配せしてパーティーの照明を僅かに照り返した。しかし、光を借りただけだ。まだ、彼女の内なるものから発されたのではない。
「違うもん」
そして、一瞬絆された自分の心を恥じるように、ミナはきゅっと小さな上唇を噛み締めた。
「私は、私の意思でここにいるもん。誰のためとか、そういうもんじゃないもん」
いじらしい程小さな眉間に寄せ上がる皺、その刻みにアーサーは、ああ、そうか、と、切なげに目を伏せた。アーサーはそこから、かつての自分を思い出すのだ。
かつてアーサーも、ミナと差して変わらぬ年であったとき、政治家の夢を祖父に語れば「本当にいいのか? お前は航海士になりたかったんじゃないのか?」と、祖父に言われたことがある。それに、アーサーは「小さいときの夢物語じゃあるまいし」と、自ら嘲笑ってうち捨てたのだが、それ以上祖父が何も言わなかったのに、何故かずっと心に引っかかっている。
その矛盾めいた思い、この年になって初めて分かる。本当はもっと詰め寄って欲しかったのだ。自分がそうしてまで、言い切ったその悲壮な思いと、子どもながらに不釣り合いに抱え込もうとした意固地、そのときこそ、大人の力で無理矢理開いて欲しかったのだ。
しかし、そこから戻れなくなった立場として、アーサーは顔を逸らさず、ミナと対峙する。自分は祖父のようにはならない。誰にも、自分のような思いにはさせない、と。
「本当は、お父さんも、お母さんもこっちに戻って欲しかったのにね」
しばしの沈黙をもって、アーサーはミナの心髄に語りかけるように、一つ一つ言葉を慎重に選びながら問いかけた。
「私も、君のご両親と話をしたかったものだよ」
あくまで彼女の思いに沿って、否定せず、けれど決してそこから膝を立てることもなく。
「ベリャーエフさんが、こっち側に来て話すことはしないの?」
「……君は?」
足を組み交わし仕掛けたミナに、アーサーは眉を微かにひそめつつ、躊躇いがちに知らないフリをして首を傾けて問いかける。それにミナは俯いた。こっち側――、それはいわゆる死を意味する。その意味をミナは否定しつつもちゃんと分かっているのだ。残酷な問をしてしまったと、懺悔の意をこめて白い睫毛を伏せつつ、アーサーは続ける。
「私は君とこうして、話を出来てとても嬉しい。でも、本当なら、彼らもそっちに行くわけではなかったはずだったんだよね」
パーティーが更に華やぐことで、更に影が深く二人を包む中、アーサーは語り続ける。
「本当はお父さんも、お母さんも、お兄さんもお姉さんも、そっちでなくて、こっちで一緒にご飯を食べたり、飲み物飲んだり、私は――、お酒も飲みたかったりしたかったよ」
そして、アーサーは目を細め、見たこともない彼女の亡くした家族を彼女の虚ろな目を通じて情景を思い馳せる。でも、そうはならなかった。そうなるべきではなかった、と。
「一体、誰がそうさせたのだろう。どうして君と家族を、そんな風に切り離してしまったのだろう。誰のせい、だったのだろう」
「……私のせいじゃないわ」
「そうだ、君のせいじゃない。君は今まで何ひとつ悪いことをしていない」
声を上擦らせたミナよりも強く、言い切った言葉。そこで初めてミナは反応でなく、意思をもって顔をあげる。
「何一つ悪いことをしていないのに、この理不尽はどうして課されてしまったのだろうか。一体、誰が、それに咎められぬまま、のさばっているのだろうか」
まだ、言葉を多く知らぬミナの代わりに、含意のある言葉並びでアーサーは語りゆく。
「それを突き止める権利が君にはある。それを語る口を、手を、脚も持てなくなった君のご家族の代わりに、君は使う権利があるんだ。それがまた、君の哀しみと孤独をなくす、もう一つのやり方なんだよ」
そして、アーサーもまた、まるで死人のように白い手を掲げる。街灯に柔く照り返え、そこに確かにある、熱を帯びた手を差し伸べる。
ゆっくりと一つ一つの指を広げゆく様は、生々しいものとして漆黒の瞳に映る。そしてアーサーは、地面に付けていた膝の片方を上げて、背筋をのばした。黒いスーツで身を纏うその青年は、まるで、姫を誘う騎士のような出で立ちで、誘いの言葉をかけるのだ。
「さあ、おいで」
深遠なる声で、背後にぼんやりと灯る光の先へと導く。しかし、彼女を見つめる灰色の目は決して希望に灯りはしない。どこまでも深い黒の瞳孔を映す、触れるときっと冷たい瞳。
そうだ、これは希望の言葉などでは決してない。それはまた、別の地獄の始まりだのだ。
やがて彼女は気づくのだろう。と、アーサーは知っている。例え自分の言葉に従ったとしても、その悲劇の上にのさばる『誰か』が、この目の前に差し伸べる白い手であることを。
そのとき、彼女はどんな言葉で、どの顔で、再び自分を見上げるのだろうか。そう悟る大人のずるさを忍ばせて、それでもアーサーは差し出す手をそのままにミナを見つめ続けた。せめて、その見つめる眦だけはどこまでも真っすぐ、誠実であろうと。
一方、ミナはそんなアーサーの思惑を越えて、彼が思う以上の景色を見ていた。彼女は、目の前にいる男が、黒い裾を風に靡かせる、黒い鎌を持つ死神だ、と、思っていた。
その骨ばった手は、何もかもが闇のようであった幽霊の自分に示してくる、夜への世界の道しるべ。
「さあ、おいで」
そう言って誘うも、彼はあくまで死神だ。恋焦がれる背後の光の世界へは決して導いてはくれないのだ。
そしておそらく、彼もまた行くことは出来ない。彼もさっき、自分と同じと言ってくれた。それが、ミナの世界の有り様を更に浮彫りにさせる。
どうせ同じ地獄なら、自分の足で歩める方を。そして、共に歩める方を――、
どちらかが言った、どちらが思った。
その瞬間、ミナの小さな手がのばされた。それと同時に、その指を細長い指が更に前へと乗り出して受け取った。覚束ない指の辿りをしっかりと曲げて絡んだ手は、宙を孤円に描いて、その勢いによって黒いスカートが舞い上がる。黒い丸靴の先を揃えて、ミナはようやく地に降り立った。そのとき、彼女の黒髪も幾筋の線を為して、艶やかに靡いた。
「行こうか」
そして、アーサーもその塔から降り立つ姫を見る騎士のように力強く頷くと、手を握ったまま立ち上がった。やがて豪邸の入口へ、二人は共に歩み出す。手を繋ぎ、パーティーの明かりへと向かう間には二人は何を言うでもなく、光に包まれていく。
それを呆然として運転手は、その二つの影を見守っていた。が、地面にのびる二つ影はどこまでも闇夜の方へ繋がっていた。
***
「ええっ! 戻ってきてくれたんですか!?」
再び賑わう会場の中で、驚きに叫ぶヨンス・カンジョンを前に、アーサーはええ、と、サンドイッチ片手に落ち着いた声で頷いた。
「これでもう、一人で車に籠もるようなことはしないでしょう。貴方のいう通り、彼女のあの妄想は生きるための縁で、完全に吹っ切れることはないでしょうが、少なくとも、これ以上、表立って現すようなことはしないはずです」
「はあ……私たちが何度言っても、あの子に聞かなかったのに……」
それに対し、目をまん丸と見開き、閉口して何も言えなくなったヨンスの代わりに、背後から妻のソユンが感嘆の声をあげた。それなりに経験を培った自分たちでさえも扱えなかったミナの妄想を打ち破った、その年下の若者の姿を喜々として見上げる。
「そして……ミナは今、どこに?」
すると、意外にもヨンスの方は憮然として、顎を引いて問いかけた。それに聊か不可解に思いつつも、アーサーは目を伏せ、そこから徐に星空を仰いで言った。
「……自分の部屋に戻りました」
「「はあ!?」」
「なんでも……これから、勉強をしたい、ということらしいです。だから今日はここでさよならだ、と」
「いやいやいや、それじゃあ、何も変わってないじゃないですかー!」
「まったくーっ! あの子ったら! お客様になんて失礼なことを!」
「いいのですよ」
その答えを二人は最早聞かなかった。再び夫婦の見苦しい喧嘩劇場となった中、回りの観客たちも驚きに騒がしくなったところ、それを他所にアーサーは背を向け、今一度屋敷を見上げた。
「子どもが、そこまで大人の機嫌に付き合わなくて良いのです。ここで今度こそ、彼女は自分の人生歩み始めることが出来たのです。大人として、私たちはそれを喜ぶべきことなのですよ」
誰に聞かせるでもなく、アーサーは屋敷の真っ暗な部屋を見上げていた。そこに、ミナの面影を思い浮かべると、ふと眉間の皺を緩ませる。ようやく思い出した空腹にサンドイッチを頬張えれば、心地よいハムの味をかみしめて目を瞑った。
***
一方、その進み行く灰色の旋毛を窓から追いかけていたのは、明かりの付かない自室の椅子に座るミナであった。ぼんやりと白く灯る街灯を便りに、彼が出口に向かって歩みゆく様を追いかけ、やがて彼が最後に闇夜に消えゆくのを見守ったミナは、表情を変えずに視線を目前の机へと映した。
その先には、暗がりに曖昧な縁取りを持って並ぶミナの車コレクションの数々がある。そして、少し視線を下ろした先には、放りっぱなしにされた教材が開きかけたまま置かれている。
それを見下ろすミナの顔は、車の上に座っていたときと変わりなかったが、黒髪が揺らめき、街灯の反射に瞬いたとき、その手を掲げ、教材のページの端を摘んだのであった。
***
それから、アーサーとカンジョン家の、長い付き合いが始まった。
アーサーは苦戦の初選挙を乗り越え、カンジョン家とのパイプ役として確固たる地位を確立した後、しばしば懇親を深めていった。それにミナも共に付き添い、「私の死神さん」と言ってアーサーを慕った。
彼が「死神」と呼ばれるようになったのは、そこからだったと言われている。それからも関係は続いたが、やがてアーサーも政治家として忙しくなり、ミナも勉学に集中しないといけなくなった頃合いから、次第に顔を合わせることがなくなった。
それからあっという間に十数年後。
政治家としてのキャリアもそれなりに経ち、アーサーが今日も忙しくなく執務机に向かっていると、第一秘書のダニエルが珍しく、ノックもせずに扉を開けてきた。
「アーサー様! あの、今日は、是非、紹介したい方がおりまして!」
注意しようと思ったら、それも構わずダニエルは更に慌しく、声を張って続けた。
「今日から第二秘書につくことになった子、なんですけれど……!」
「ああ、今日顔合わせすることになっていたな、どうした」
「それ! が!」
あまりにも慌ただしい様子だったため、思わず顔をあげると、寝不足に微かに澱んでいた灰色の瞳が一気に見開かれた。ダニエルの脇から、こちらの部屋に入ってくるその黒影を見たからだ。
それは、腰までのばした黒髪を靡かせる黒いスーツ姿の女性。随分と背ものび、頬の輪郭もすっきりとして、すっかり大人となってしまったあの頃の少女が、黒いパンプスの靴先揃えてアーサーの前に立っていたのある。
「君は……!?」
忘れ得ぬ、その細まった眦の中から映る黒い瞳に、アーサーも思わず立ち上がり、物々しい執務机を挟んで二人は向かい合う。それに黒髪の女性の方が腕を下ろしたまま、お腹の下に手を組み交わすと、やがて溌剌とした声をあげた。
「お久しぶりです、アーサー様! これか、貴方様の第二秘書を勤めさせていただく、カンジョン・ミナと申します!」
声もすっかり大人びて、アーサーが時の流れを思い馳せるとき、ミナの黒髪は春の日差しに艷やかとなり、筋を引いて揺れる。そして次は、円満の笑みでもってこう決意を述べたのだった。
「これからは、私が貴方様と共にいる番ですよ! アーサー様!」
外の木漏れ日から、白い小鳥たちが斑な影を為して飛び去った。死神と幽霊の邂逅はこうして、穏やかな春の陽射しの中で始まったのだった。
しかし、全てが終わったとき、それを思い出しながらある者は語る。それが、死神に導かれし幽霊、カンジョン・ミナの、終わりの始まりでもあったかもしれないと。
終




