小話 馬券編
とある日本の男子高校生こと、鈴木武士はある日、直毛の黒髪を宙に垂らして突っ伏せていた。鬱気な影を落とす一方で、彼の肘手前に置かれたラジオからは、雑音を弾き飛ばす勢いで叫ぶ男の実況と歓声とが白壁に響き渡っている。
それは、彼が久々に聞き慣れた日本語のものあり、それは、正にアナウンサーの本領発揮と言わんばかりに早口である。やがて、その男の後ろから、怒濤に蹄の音が響きわたっては背後から通り過ぎて行く様な勢いとなって迫り、いよいよそれに両の指を強く握り返す武士は、うつ伏せながら、こう呻き声をあげたのだった。
「頼む!敗けろ、敗けてくれ……!」
競馬。それは、心身共に厳しく鍛えられた馬達が、威信と名誉と、そして命を賭けるレースである。
またその一方で、人間達が呑気にまたは必死に、その順位を予測し、賭けに興じる娯楽でもある。ならば本来、競馬のレースを目の前にした時に馬券握りしめる人々が思う事は唯一つ、賭けた馬の勝利の筈である。なのに今、机に肘つく武士は、健気な馬達が鞭打たれ走る情景を余所に、ひたすら「敗けろ、敗けろ」と、祈り続けているのだ。
では何故、彼は逆に「敗け」を賭けているのだろうか。それには何かしらの邪な姦計があるからに違いなかった。しかし、一番人気や二番人気の大ゴケを願い、大穴をかっさろうというつもりではなく、ノミ行為であるならば、やはり勝つ事を願うのが妥当だろう。
いや、そもそも彼は馬券など買ってはいないのだ。震えるその手中にも、擦り切れた焦げ茶の机の上にも、そこには、朝済ませたばかりであろうフレンチトーストの蜂蜜が掛かった空の皿と、底に砂糖が溜まった飲みかけのコーヒーカップが置いてあるだけで、それらしき皺くちゃの半券はどこにも見当たらない。
と、すれば、武士はこの競馬には一切関係のない筈なのだが、今にも絶望の縁に立った様な眼を影の中に澱ませているという、何とも奇妙な状況に彼が陥っているのには、其処には更に複雑な事情が絡んでいたのだった。
それでは、お楽しみは最後にとっておくとして、競馬のレース結果が出る前に、これからその訳を順を追って説明しよう。
***
それは無事(?)に、次の目的地、フランスに降り立ちってから暫しフロランスの家にご厄介する事になった過程で起こった話である。
彼にとって初めてのヨーロッパ、しかも憧れのフランスでの生活とあって、その日の武士はいたく上機嫌だった。可愛いゴールデンレトリバーに囲まれてその長い鼻を撫でながら眺める世界遺産、カルカッソンヌのスレの雄大さに感嘆する至福の時間。正に「おお、西洋!」と、言わんばかりの日差しの優しい空の下、広大な草原を前に手入れの行き届いた――、おそらく、フロランスではなくその母親による、色とりどりの花々が揺らめく庭のベンチに腰掛ける武士は、そこでようやく生きた心地を味わいながらコーヒー片手に佇んでいた。
すると、その脇から扉を開けて、この旅の相方でもあるキティが突然現れた。珍しく朗らかな顔を向ける武士の一方で、その時のキティは非常に窶れた顔色で、クマに覆われた翡翠色の眼をぼんやりと向けて歩み寄っていく。覚束ない足取りで辿る様相も、彼女のトレードマークである青地に黒柄のチェックワンピースも、埃かむった様に色褪せていた、その手に掴んでいたメモと新聞だけはやけに力強く、やがて武士の前に立つとそれを突きつけて示したのだ。
「お願い、これをお願いしてほしいの」
と、疲労の故かおかしな物言いで呟く。当然訝しげに見上げた武士は「否が応でも」過るその新聞への心当たりに、やがて額を手につけて溜息を吐いた。
「おいおいキ、ティ……。せっかくフランスまで来て競馬なのかよ……」
それにキティは素早く口開いてそれを遮る。よもや遠くを見つめるその瞳には、武士の姿など映ってはいなかった。
「駄目よ、駄目駄目。だって今年の菊花は荒れそうなんだもの。これに挑戦しない奴なんて馬乗りとして失格だわ、ってか最初から馬乗りですらないわ。今年は勝つの、今年こそは大穴で、絶対勝つのよ」
その声は抑揚も無く小さかったが、瞳孔の周りに嫌な覇気を漂わせる光が、翡翠色を帯びてぐるぐると回っている。それをあんぐりと口開き見上げた武士は、ああ、また始まったと、呆れの念で目を瞑った。
天皇賞。それは、秋の菊花賞ともいわれ、日本の東京競馬場にて行われるG1レースの名称――、要は数多ある競馬の中でも知名度もステータスも高いレースの一つである。
通常ならば、この遠い異国で買える筈もない馬券である筈だが、このキティの相方として立つ、鶯色の制服を着た少年、鈴木武士にだけは何故かその資格があったのだ。何故なら彼の母親、決して語弊ではない、繰り返す。彼の「母親」が実は、JRA、日本競馬協会の会員であり、彼女のログイン名とパスワードを借りて、武士はいつでもどこでもウェブで馬券を買える立場にいたのだ。しかし、馬券はこれまた通常、二十歳からでしか買えない訳であるが、つまりこれは、武士が母親に成りすまし馬券を買うという列記とした不法行為である。
しかし、彼の母親はそれを知った上、そしてあえて息子にそれを教えたのだ。その訳は大方の予想の例に漏れず、彼女が仕事等でうっかり期限前に買い忘れた時の保険として使われたものであるが、やっている事がやっている事もあってかそれは二人だけの秘密となり、幸いにしてその事で何かしら敵に見つかって危うい目に遭わされる事はない。
ただ、と、武士は、キティの右手に握らされた文字の詰まったメモ用紙と同時に、今、こうしてぶつくさと呪文にも等しく、馬の名前を列挙する彼女を見上げながら思う。それを伝えてしまった事を除けば、全てはうまくいったのに――と、かつての自分を心底呆れては頭を垂れた。
***
アジア大陸縦断という長旅の中で武士は、キティが馬でNYの街を駆け抜けたという武勇譚に心躍らされたのをきっかけにして、彼女の、「馬」に対する拘りをこれでもかという程思い知らされてきた。
まずはなんと言っても、彼女は乗馬が上手い。いざとある街での酒のノリで騎馬住民との馬合戦をした時、日常的に手慣れた髭面の手合いを三馬身の距離から一気に差し込んで見事ゴールイン。そうして、余所者の手業にすっかり恐れいった彼らに囲まれたキティは、その日はまるで女王様のような扱いだった。
それに加えての、あのギルギットでの馬術である。男の頭に死なない程度に飛び出す馬の蹄を当て、武士を銃弾から守ったという絶妙な具合と、悪魔の弾幕を避けるためにあの勢いから一気に左に進路を逸らし、命中から外れた力技は端から見てもとても素人真似とは思えない。それ馬技量も併せ持ってこそよ、と、武士の眼差しに対して本人は決まって言うけれど。
その一方でまた、乗る方ともなれば、買う方の才能にもキティは恵まれていた。その時の事を武士は暫し、灰色の層の向こうに霞む空を見上げながら想い忍ぶ。
カメラウーマンの職業柄、時々欠金になった二人は大小関わらず全ての競馬場に赴き、其処での払戻金で何とか食い扶持を繋いでいたのであった。食い扶持を何とか、と言ってもその「何とか」しようとして、一体どれだけの輩が自らの命削り続けてそして達成ならず倒れていった事だろう。しかし、彼女はそれを難なく掻い潜り、キティの馬券は決まって当たっていた。しかも1回ではない、全ての競馬場の全レースの凡そ3分の2の確率である。
そうして、全てがキティの思惑通りに嵌り、馬が走り抜けて飛び散る土塊と煙を前に、仁王立ちにして立つキティの誇らしげに口角をあげる横顔と、大金の代わりとなる半券が彼女の手中で風に靡く様は何とも眩しいものだった。それから、その後を覚束なく小さな足取りで武士が付いていく中、颯爽と勝利の道へと突き進むキティの馬券の買い方もまた、何処に置いても淀みのないものであり、脇目から覗く武士にとっても多いに学べるものでもあった。
まず、痩せこけた子どもが抱き掲げる競馬新聞を買っては片手で受け取り暫くした所で決まって遠い先のゴミ箱に捨てる所から始まる。彼女曰く、こんなに情報が雑多してんじゃ狙いが定まらないわ」らしいが、なのに何故毎回新聞を買うのかは相棒として武士はあえて問わない様にしている。次に、常連客共が余所者の女を懸念に見上げながら、ぼそぼそと予想を出し合う様子にも一切構わず、彼女は唯、馬をその目で見に行ける場所へと大股で進みゆく。しかしここが彼女の面白い所で、時間になると出場馬が一斉に円状の広場を回るパドックではなく、「全身がよく見えるから」という理由できまって、その様子が映すモニターの前に立つのだ。薄汚い猫背の男達がそぞろとなってパドックへ向かい求めるのを、嘲りの鼻息を鳴らしで見やるキティは、腰に手を添えモニターの前を陣取り、一つ一つの馬に隈無く神経を巡らす。
モニター越しではその空気や馬の息遣いまでは悟る事は出来ない筈だが、小刻みにモニターの光を借りて瞬く半角の翡翠色は馬の歩調、蹄の形、瞳の瞬きなどをバラバラな順で読み取っては、それをも掬っている様だった。
その間、キティは誰もいないのを良い事にぶつくさと先の様に腕を組んでから独り言を始める。内容は勿論馬の事で、あのオスは前のメスのケツ追って盛ってるから離してあげれば良いのにとか、あの馬のコズミの痕がうっす見えるから今日はコケるだろうとか、あの子、やっと落ち着いてきたわねとか、後から武士が懸命に追っても一片も分からぬその様子に感嘆すると共に、脇から彼女の覇気を感じ盗み聞きしようども、聞き取れぬ異国の言葉に、首を傾げる者々の様子もまた大変滑稽であった。
さてはて、以上からすると、キティは唯、馬を見る目だけで賄っている様にも見えるが、当然それだけでない。馬券を買った後のキティは先とは打って変わり、レース場を見据える者達の背中を叩いてその間に割り込んでは、男達との馬談議に華を咲かせていったのだ。それに付いていく武士も、やがて男達に慣れ慣れしく肩を抱かれキティを横目に訝しく昼飯に興じる羽目になるのだが、正直、彼らの話す内容はとてもケバブ片手に食べられるものでない、生々しい事ばかりで、全く味など覚えちゃいない。
競走馬は、当馬の努力もさながら、徹底的な血筋によって元からのステータスもその後の実力も運命も決まってゆく。良い馬の血を引く馬も名馬という、厳しい運命に常に晒されている中で、夢という名の尽きぬ欲望の果てに良い馬達は次々と、色んな馬と掛け合わされ子を生まされ、種を蒔かされる。
それだけではなく、更におどろおどろしい事に、それには交配料というものもあって、戦績や血筋毎にその種や交配するその行為でさえも武士の細い目も点になる莫大な金額が掛かるという事らしい。それでも、貧乏な牧場程高い金を叩いて強い馬種を追い求めるとキティは言った。それは何故か――、牧場の存亡を賭けて今度こそはと、彼らは願うからだ。
次こそ、名を馳せた父から名馬が此処から産まれ、牧場の繁栄を求めるその為に、と。賭ける側も賭けられる側も必死なのだなあと、武士はキティの解説を横に聞きながら、レース場の手摺りに両肘をついて腕を掴み、このハイリスクライリターンな世界に漂う呪力にも似た魔力が漂う、この芝生の景色を虚ろな目で眺めていたのであった。
それから、キティはどの馬がどんな戦績をもって、どの牧場に至るのかその枝先まで知っていて、競馬新聞の端に交配の予想を立てては、これから先どんな馬が産まれて賭ければ良いのか、女だてらにその大口開いては少々下卑な物言いで笑うのだ。
それはさしもの武士とて、その百年の恋も途端に覚めそうになる無遠慮で無作法な振る舞いであり、時に、追いついて尾行していたNY警察の手合いでさえ、ヨーナスが眼鏡の奥から涙を流してへたり込み、いつも人を小馬鹿にする様に哂っているジョージも、この時ばかりは顔を青ざめ、化け物でも倒す様にぶん殴る勢いだ。(どっちにしろ殴るのであるが)そして、この時ばかりは敵としてよりは同じ男として武士はジョージに同情している。何故ならきっと、彼は。
「今まではいつもトリガミばっかだったけど、今年は、今年こそは大穴を分捕ってカルカッソンヌを手に入れる様な大金を得てみせるわ。頼むわよ、武士」
すると、キティの低い声に、途端、回想から引き戻された武士は翳した指の隙間から伏せた睫毛を揺らしては首を振った。世界遺産は個人じゃ買えねえよ、というツッコミは今は野暮なのだろう。見上げる先には、唇引き締めるキティの、クマの底から爛々と瞬く翡翠の瞳が空の光を借りている。
への字に締まった薄紫色の唇がさっき紡いだ言葉、トリガミ。負け知らずのキティも、何度か辛酸を舐めさせられた、トリガミ。倍率の低い馬ばかりが当たって、勝っても払い戻し金が少なく、結局損をしてしまうという意味だ。かといって、当たらぬ筈もない馬を賭けても仕方がないのでどうしようもないのだが、キティは毎年この天皇賞にはそのトリガミに毎度苦い思いをさせられた様で、今年の参加馬のラインナップに今度こそはと、夢を賭けている様だ。
「な、ならさ、お前が買いに行けばいいんじゃねえの?馬券は当日の朝から買えるんだろ?」
武士はとりあえず、反応の通りベンチに横たえて曲げた膝に肘を乗せて諭してみるも、当然、キティは城を見上げたまま動じない。
「駄目よ。私は朝一からフロランスとあのK‐7の後始末を付けるために行かなければならないのよ。あぁ……もしかしたらもう今日の夜から出掛けなければならないわ。誰にもバレない様にああをしなければならないのだから……」
「バレない様に?おい、キティ。また危ない事を勝手にやろうとしてるんじゃねえだろうな」
「兎に角」
眉を顰めて懸念する武士の節介を諌めんと、野太い声でキティは締め切った。
「兎に角、私は明日は一日中仕事をしなければならないし、貴方を連れて行く事も出来ない。だったら貴方が馬券を買ってくれなきゃ、どうにもこうにもならないじゃないの」
キティはそれから、握り潰した当たり番号を彼の薄い胸板に押し付けた。五本指がとん、と、彼の胸のシャツ一枚隔てて触れた時、武士は経験が無いわけでもないのに、おぼこの如く顔を赤らめ、浅黒い指を見下ろしていたのだが、一方のその指の持ち主はあっという間にそれから離れ、武士が恍惚から見上げた時には既に背を向けて歩き去らんとしていた。
「明日の十一番レース開始直前に、その番号三連単ボックス買いで四万円で頼むわよ!」
最後の一言だけは勇ましくして、右腕をあげたキティは、颯爽と付いてくるレトリーバー達を差し置いては立ち去っていった。呆然と佇む武士を捨て置き、遂に家戸の縁に手をつけたキティは、やがて影から浮かぶ眼光を鋭く、小さく言葉を残していった。
「でなけりゃ、死ぬから。私が」
「お前が!?」
***
こうして、重要な任務(?)を課せられる羽目となった武士は、その日、茅のベッドから起こした身が聊か気怠くなっていた。寝起きにもかかわらず、艶やかに垂れる濡烏の前髪から、眠い眼で屋根裏部屋の窓を見渡せば、優しい日差しに縁取られた茅葺仕立の小屋が、情緖良いフランスの田園風景を為して今日を出迎えてくれる。はたまた、今は夕方か朝か、曖昧な日差しに照らされ回らぬ頭を巡らしつつ、背をのばして大欠伸をした武士は突然、その態勢のまま叫び声をあげた。
「ああ!?しまった!今、朝!?あ、時差!?」
そう、武士はあれ程の念押しにも関わらず、否、それ故だったのかもしれないが、今更フランスと日本の時差の事などすっかり忘れ、日本に居るつもりで悠々と朝遅くに目覚めてしまったのである。それは、日本時間でいう菊花賞メインレース締め切り直後の事であった。
後から顔洗いも着替えもままならぬまま、ベットから転げ落ち、パソコンを付けても時既に遅し。締め切ったから最早何もないと、武士の叫びに反応しない馴染みの会員ページを前に、武士はテーブルを叩きながら絶望に呻きつっ伏せた。その騒々しい音に目覚めて駆けつけたレトリーバー達に囲まれ舐められ踏まれながら、武士はやがてパジャマ姿のままベットの脇をのたうち回る。
「うわあああああああ!やっちまった!やっちまったあああああ!よりによってえー!」
自らの失態を自ら責める時程、不毛で虚しい事はない。その瞬間をもがき苦しむ武士に追い打ちをかける様に、スマフォの着信音(ミシシッピ殺人事件のゲームオーバー音)が鳴る。それはよりによって、淡泊な字面で送られたキティからのメールだった。
「結果発表は帰ってきてから確認するから、わざわざ報告しなくても良いわよ。で、念のために聞いておくけど、馬券、ちゃんと買ってきたわよね?」
「うるっせえええええ!ホントはお前オチ全部分かって送ってきたんじゃねぇのかああああ!?」
と、焦燥の余りスマフォを片手でぶん投げた武士は、再びテーブルに突っ伏して頭を揺らした。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
こうして馬券が買えなくなった以上、目を剥いて天井を見渡す武士に残された返事は二つだ。一つ、正直に買い忘れたと言って謝るか。二つ、買ったと嘘を付いて馬券が外れる事に賭けるか。
前者の選択は修羅場になる事必須である。キティが文字通り血眼になって決めた賭けを、唯の寝坊で全て反故にしたというのだから、彼女がそれを知った途端、武士の身の安全は勿論、彼女自身さえどうなるか分かりゃしない。武士にとって、それは今想像するだけでも身震いしそうな程避けがたい事ではある。しかし一方で嘘を付いて一旦は言い逃れしても、もしその馬券が当たってしまったりしたら、それこそキティの衝動の落差は前者の場合に及ぶべくもないだろう。
どちらにせよ、最悪な結末が目に見える状況の中で、武士の目はとある最後の可能性に目を爛々と瞬かせた。それが、「キティが賭けた馬三頭が全て外れる」と、いう事なのである。
外れてしまえば、どんなに彼女が嘆こうとも、どうしようもないと慰める事も出来るし、キティは今更外れた馬券に興味など持たないだろうから「本当は買わなかった」という嘘も貫き通す事が出来る。それに加えて、キティから渡された賭け金もあわよくばネコババする事も出来る。これこそ正しく、「逆ノミ行為」。
たった今、武士が名付けた名前であるが、その事については、彼自身でもよく思っている。なんじゃそれは、と。しかし、危機的な状況から一発逆転、良い事尽くめの結果となるのだと気付いた武士は、指の隙間から静脈の浮いた白目を見開き、呟いたのだ。
「敗ける事に賭ける、か……!?」
それでも、今までキティの負け知らずの実力を見てきた同じ目は一寸影を差す。いや、競馬は最後まで結果が分からないものだと、今まで特に意識もしなかったくせに、今更都合の良い方に思考を巡らしていっては、武士は震える指をその、転がったスマフォへと徐にのばしていった。そして彼も、ハイリスクハイリターンの魔力に取り憑かれた一人として、その最後の一手に身を投じんと、スマフォを掴む親指に力を込める。こうして今に至るのである。
***
解説者がキティの選んだ馬の名前を発する度に、武士の心臓が緊張に跳ね上がって黒髪が揺れる。そしていよいよ、日本場内でも最も長距離とされている50mの直線コースに競走馬達が差し掛かった時、向かいの田園にその光景を翳した武士は、人目、否、犬目も憚らずに立ち上がり叫んだ。
「敗けろ!敗けてくれーっー!」
汗を秋風に散らして叫ぶ言葉に、武士も我ながらなんとも滑稽だと思っていた。高揚に身を震わせ血潮が吹き上がると共に、心臓も喉奥から飛び出そうな勢いで発する叫びがよりによって「敗け」を願う事など、なんとも心地が悪くて仕方がない。しかし、キティの託したメモを馬券代わりに握り潰し、両腕をあげれば、形は心と伴って、どうしようもなく武士の口は大きく開かれていく。
「負けろ、負けろ、負けろおおおおお!」
レトリーバー達がその情動に思いを寄せたのか、吠え声を上げては次々と、武士の後ろを駆けてゆく。やがて彼らの咆哮と武士の叫びとラジオの雑音が一つとなって、最高潮に達した時、レースが終わる歓声へとそのまま繋がっていった。興奮冷めやらず腕を掲げたまま、荒い息遣いで歓声を前に佇む武士へとやがて、アナウンサーが爆音の隙間からその結果を読み上げた。
綴られた数字は3、7、5、6。
そこに、キティの選んだ馬の数字は、一つも、ない。
「よっしゃああああああああ!!」
競馬には敗けた。つまり、それは武士が賭けに「勝った」という事だ。更に高く高く拳をあげる武士に、レトリーバー達が褒め讃える様に細長い鼻をあげて遠吠えを吹かす。も、武士はすぐに脱力してへたり込んだ。嫌な汗が寝起きのパジャマに滲み身体が重い。上目遣いに窓を見やりながら手の甲で顎を擦ると、べたりと自分の涎が付いた。しんとした空気に張り付く、生々しく冷ややかな感触に俺はそこまで叫んでいたのか、と、今更に気付いた武士はやがて、再び両手をついては横流しに景色を睨む。
良かった、本当に良かったけれど。
「だが、もうこんな思いは二度と経験したかねえ……!」
***
キティはその日、夕飯頃に武士の元へと帰ってきた。颯爽と駆け寄って出迎えた武士の競馬の結果報告に対し、キティは武士の予想を超えた形で、意外にも穏やかな微笑みで返したのだった。それに対し、不可解な面持ちで首を傾げる武士と共に、キティは民宿の食堂で黙々と夕食に興じ、最後に焼きたてのプディングを一掬いした所で小さく呟いた。
「武士、今まで本当にごめんね」
何の事やらと顔をあげる武士に、俯いたままのキティは翡翠の目を陰鬱に伏せて言う。
「実はね、フロランスに今日、競馬の事を話したらもの凄く怒られちゃったんだ。子どもを、大人の都合でそんな危ない賭け場に連れ込んだり、馬券を買わせ様なんて一体どうかしてるって。そうだよね。ごめん、私、武士がませていたからって、ついつい甘えちゃった所があったわね。今思えば随分と、貴方相手に好き勝手な事をしちゃったと思うわ。本当に、本当にごめんなさい」
と、つらつらと語ったキティは、ポニーテールを肩に垂らして武士へと頭を下げた。それを武士は斜め上から唇尖らし腕を組んで見据える。
「ふーん……。結果にあんまり動じなかったのは、そういう事があったからってか」
訝しげに目を細めるのは、せっかく筋一本に透き通った鼻筋が痙攣に歪むのは、子ども扱いされているという新たな憤りと共に、そうしてキティがまた、人の意見を受け取って杓子定規の「良い人」になってしまったのがつまらなかったのだ。
武士はキティの相棒として、彼女が常にそうありたいと望んでいる事はよく理解してるし、応援はしてあげたいとは思っている。けれども、自分はとてもそうはなれず、また、なるつもりも全くない個人的な視点からすれば、そんなキティは何処か共感を得られず、遠い存在となった気がして寂しいのだった。
だからこそ、「子ども」に馬券を買わせたり、予想屋紛いな事をして負けたらトンズラ食らわせたりと、まるでせめての浮世晴らしと言わんとばかり、それこそ、鬣靡かせる名馬と共に、自分の欲情と欲望のままに駆け回る競馬場でのキティの方が、武士はよっぽど好きなのであった。しかし、どんな時でもカメラは手放さない。その真意だけはきっと誰にも分からないけれど。
「ああ、キティ、お前は気付ちゃいねーだろうがな。そんなしんきっくせえ面してる時よりも、馬と一緒に生き生きと目え瞬かせてるお前の方がずっと、ずっと綺麗なんだぜ」
そして、いつか気付いてくれるだろうか。みんなの為にしてるその顔よりも、自由気儘にいる顔の方が愛おしいと思う人が、この世界にいるという事を。そして、それはこの俺一人だけではない、と、言うことを。
「だからね、次は武士の好きな所に連れて行ってあげたいと思うの。お詫びも兼ねてその日はうんと贅沢もさせたいと思うわ。だからね武士、教えて頂戴。貴方は何処に行きたいの?」
すると、神妙に瞳を閉じた武士は、唾を飲み込んだ後にゆっくりと答えた。
「競馬場に、行きたいかな」
「あら、やだ。貴方、ちゃんと人の話聞いてた?」
それに、肩を竦めては片眉をあげて薄ら笑うキティに、今度は真顔に「本当だよ」と、答えた武士は、テーブルの上に手を置き、それから太い声を張っては目を瞬かせるキティへと向かって言う。
「いつかまた、競馬場へ行こうぜ。それで次は一緒に考えて馬券を買って、一緒に選んだ馬を応援しよう」
それに続く言葉を、武士はたった一つの微笑みだけで全て表した。
そうだ、また一生懸命大声をあげて、腕を振り上げ、全ての事をその時だけは忘れて、二人だけの夢を託そう。そして、今度こそは、お前の選んだ馬の勝ちを願おう、と。
それは来たるカルカッソンヌ事件の、一週間前の出来事であった。
終
ここまで読んでくださってありがとうございました。そして、暫くの間更新をせず大変申し訳ございませんでした。
今回は、武士が主人公の話でしたが、以前読者に伺った「キティの考え方が窮屈で……」という意見を受けて、彼女の俗っぽい一面を覗かせようという意識で書きました。
次回をもって、こちらの短編集は完結予定でいます。最後まで何卒よろしくお願い致します。
根井 舞榴




