第9話 今度は、わたしがあなたを守る
魔物が、俺たちと同じ方向へ走っていた。
街道の脇を森狼が抜け、斜面を岩角鬼の影が横切る。馬の匂いにも、人間の姿にも振り向かない。
すべて、ベルカ村を目指していた。
正午に王都を出て、途中で馬を替えながら走ること八時間。
闇の先に、三つの塔の灯りが見えたとき、ソフィが短く息を吐いた。
「まだ、残っている」
リタが先へ出て、畑の裏道へ曲がった。
俺たちは後に続く。村の門は半分閉められ、内側から丸太が運ばれていた。
「ギルドの先行班だ。開けてくれ!」
隙間から、見知った冒険者が顔を出した。
工房番を運んだ二人の片方だ。
門をくぐると、遠くで何かが防壁にぶつかった。
ソフィの肩が跳ねる。それでも馬を降り、自分の荷を取った。
「いつからだ」
「昼前に強い波が来た。封印を削られて、魔物が集まり始めた。増員が来ていなけりゃ、持たなかったよ」
負傷した工房番は集会所へ移したという。
住民も順に避難させている。まだ寝たきりの老人を運びきれていない家があった。
俺は現地班に門の守りを任せ、避難を手伝える自警団員に手押し車を集めるよう頼んだ。
門の脇では、老女が小さな椅子を抱えて動かずにいた。ここへ置いていけば家まで壊れるような気がするのだと言う。
俺は左手で椅子を受け取り、自警団員に手を借りて荷車へ載せた。
「これはあとで運ぶ。先に広場へ行ってくれ。置いた場所は、俺が覚えている」
老女は椅子の背を一度撫で、差し出された自警団員の手を取った。
何を置いていくかは、ここで暮らしていない俺が思うほど簡単な話ではない。
「荷物は後だ。人から運ぶ」
トマが、使い慣れた荷車を引いてきた。
ニコは家の戸へ、炭で大きな丸をつけていた。
「ここ、誰も残ってない!」
「分かった。次も頼む」
ソフィが村の中心へ走った。
俺に返事を求めて振り返ることはなかった。
◇
現地班と塔の補強を続けるうちに、日付が変わった。未明になっても、光は薄くなるばかりだった。
採石場から響く低い振動に、灰色の脈が呼応している。
現地班が見つけた運び込み口を、リタが地図へ写した。そこには黒楢商会の荷車が入ったという。
「止めるなら、上の作業場から。正面の道は魔物で塞がってる」
俺が地図へ指を置いたとき、外で悲鳴が上がった。
塔の一つが大きく明滅する。
それまで塔の補強に回っていたソフィが立ち上がり、三塔の間へ新たな光を走らせた。
薄い幕が村を囲む。ぶつかってきた狼が、その向こうで跳ね返った。
「今のうちに、残りの人を!」
村人が動いた。
トマが車を押し、ニコが避難済みの印を増やす。支柱を持つ者、門の綱を引く者。
あの横穴と同じ光が、それぞれの足元へつながった。
ソフィのこめかみに汗が浮いた。
「長くは無理よ。全員集まったら、中心の広場まで狭めるわ」
「頼む。俺たちは共鳴器を止める」
地図をリタへ渡す。
ソフィが俺の剣帯を指した。
「標の防壁は、一度だけ。必要なら合図して。でも、長い時間は守れない」
「分かっている」
光の印へ触れた。まだ使っていない、小さな一回分。
「助けたら、貸し一つよ」
ソフィが言った。
「帳簿には書かなくていいわ」
「覚えておく」
彼女の目が、少し丸くなる。
俺はその顔を見てから、村の外へ向かった。
門へ向かいかけた俺を、ソフィが呼び止めた。
「右肩。さっきより下がっているわ」
俺は手を握り、開いた。
「上には振れない。突きと低い斬りだけだ。リタにも伝える」
「分かった。……帰ってから、また包帯を替えましょう」
俺は今度こそ、隠さずにうなずいた。
いつもは俺が、帰ったあとの手順を決めていた。誰かがこちらの帰りを予定へ入れている。そのことが、剣帯の小さな印より重く感じられた。
◇
リタの選んだ細道を、半刻近く登った。採石場の上層へ出ると、頬を冷たい風が打った。
露天の作業場からは、村の光が見下ろせる。
手前に荷車。奥に鉄枠で組まれた共鳴器。
灰晶の塊が、一定の間隔で明るくなっていた。
「二つある。片方は、下の坑口にも」
リタが指二本を立てる。
上の装置を壊すため、彼女が弓を引いた。
そのとき、足元の石に赤い線が浮いた。
「止まって!」
俺は横へ跳んだ。
遅かった。
光の輪が左足首へ絡み、地面に引き戻す。
「騎士は足を固めると弱いんだ」
岩の陰から、大柄な傭兵が出てきた。
幅の広い剣。足元の拘束術と、間合いを詰めさせない構え。
俺の包帯を見て、男が笑った。
「肩まで使えないのかよ」
刃が来る。
右腕を上げず、剣を低く構えて受け流す。二撃目で手がしびれた。
拘束の線は石の下へ続いている。足元を割れば解けるが、そのために腰を落とせば頭を斬られる。
リタが位置を変えようとしたところへ、別の見張りが走った。
「こっち、少しかかる!」
「了解」
傭兵の剣が、俺の逃げられない側へ回る。
正面から止めれば、右肩が持たない。
視界の端で、村の光が揺れた。
俺は剣帯の標へ左手を当てる。
魔力を一度だけ通す。
頼む、ソフィ。
彼女には、何が起きているか見えない。
声も届かない。
それでも、今頼んだのは、守らなければならない王女ではなかった。
左足を支点に、動かせる右足を半歩だけ前へ出す。敵の刃へ、体を預けた。
白い光が俺を囲んだ。
剣帯の標が砕け、細かな光が腰からほどける。
甲高い金属音が、採石場の壁を打った。
刃先は、目の前にある。研ぎ跡も、欠けた箇所も見える。その先にあるはずの痛みだけが、来ない。
白い面へ、刃の形に光が散った。
傭兵の手首が跳ねる。俺を斬るために乗せた体重が、行き場を失った。
守られたのだ。
ここにいない、彼女に。
工房で肩に傷を負ったあと、包帯を巻き終えた手が膝へ戻ったのを思い出した。
防げたのよ、と彼女は言った。
あのとき信じられなかった手へ、今は背中を預けている。
村を振り返らなかった。
届いた一瞬を、確かめるために使うつもりはない。
俺は腰を落とし、拘束線の走る石へ剣を突き立てた。
亀裂が入る。
足首が自由になった。
光はもう消えている。弾かれた剣が戻る前に、横へ抜けた。
脇では、リタに回り込んだ見張りが膝をついていた。彼女はそちらから弓を返し、傭兵の手の甲を射抜く。俺は腰の高さで剣を横へ払い、男の刃を外へ押しやった。
柄を胸へ打ち込む。男が崩れた。
見下ろした村には、まだ光がある。
俺のところへ一枚を送り、その上で残してくれた光だった。
剣帯に残ったのは、ただの革の手触りだった。
「来たね」
リタが、走りながら言った。
「ああ」
それ以上の返事をすると、声が揺れそうだった。
◇
上の共鳴器は、リタが制御具を射抜いて止めた。
残る振動をたどり、坑口へ下りる。
そこに、見覚えのある清潔な靴があった。
今は、泥と石粉にまみれている。
「マティアス」
男が振り向いた。
背後には、灰晶を詰めた最後の共鳴器。その横に深い坑道が口を開けている。
「私を追っても、何も変わらない」
声が、会議室より高かった。
「私は貴族ではない。いくら街道を通しても、手柄を持っていくのは上の者だ。少しくらい取り戻して、何が悪い」
「村を病気にしてか」
「整備には金が要る!」
俺が一歩進むと、男は共鳴器の側へ退いた。
「危険を増やせば予算が出る。見捨てられた土地なら買える。そういう仕組みを作ったのは、私じゃない」
ソフィが家々を回って書いた地図を思い出した。
二重丸の家。眠れない母親。父親を呼びに走った少年。
「お前が増やした危険で、そこで暮らす人間が死ぬ」
マティアスは答えず、指輪を回した。
その指も震えていた。
「灰冠は、民の手へ結界を戻す技術だと言った。王家に頼らず使えると」
初めて聞く名だった。
欠けた冠の蝋が、頭に浮かぶ。
「お前に技術を売った連中か」
「あいつらだって、私に実験をさせただけだ……」
リタが坑道側へ回った。
逃げ道が消える。マティアスの目が、装置の取っ手へ動いた。
「触るな!」
遅かった。
男が取っ手を倒した。止めたかったのか、俺たちを止めたかったのか。
灰晶が一斉に光った。
地面の下から、音が返った。
村で何度も聞いた、重い、規則的な音。
今度は、すぐ足の下にいる。
壁に三本の裂け目が走る。
そこから、指が出た。
俺の胴より太い、岩の指。
リタの矢が最後の共鳴器を射抜いた。灰晶が砕け、装置の光が落ちる。
だが、目覚めたものは止まらなかった。
「戻れ! 崩れる!」
リタが上の足場へ跳んだ。
マティアスは立ち尽くしていた。その頭上で、岩が離れる。
俺は男を横へ突き飛ばした。
右肩に痛みが走り、踏ん張った足元が消えた。
突き飛ばした先の縁も崩れ、男がこちらへ滑り落ちてきた。俺は襟を左手でつかむ。
二人分の重さを受け止める床は、もうなかった。
「アイザック!」
リタの声が遠くなる。
剣帯へ手を伸ばしかけ、そこに何もないことを思い出した。
防壁は、使い切った。
二枚目は来ない。
それでも、村には彼女がいる。
俺の帰る場所を、まだ守っている。
ソフィア。
今度は俺が、そこへ戻る番だ。
そう思った直後、頭上の光が岩で塞がれた。




