第7話 守る相手ではなく、背中を預ける仲間
「その矢印、おかしくない?」
リタの指が、作戦図の端を押さえた。
旧関所の小屋と、証拠を運び出す道。ソフィの退路だけが、真っ先に村へ向いている。
「危険になったら、ソフィを先に出す」
「その間、証拠と負傷者は誰が守るの?」
ソフィは黙って、自分を示す丸を見ていた。
救出から一日休み、翌日の夕方には魔力も戻っていた。参加を取り消すつもりはなかった。
ただ、万一のときには。
「退くときも、わたしにできる仕事があるわ」
ソフィが筆を取った。
自分の丸を、証拠箱の横へ移す。
「あなたが運ぶ。わたしが守る。リタが道を開ける。逃げるなら、これでは駄目?」
駄目な理由は、図の上にはなかった。
俺の頭の中に、まだ王女を最優先する勤務表が残っているだけだ。
「……そうしよう。退く合図は俺が出す」
「合図を出すまで、頑張りすぎないでね」
四か条を持ち出される前に、俺はうなずいた。
村から出した報告は、リュネル支部へ届いていた。
石の交換資材を手配中との返事と、C級の共同摘発を認める書状。現地のCランク冒険者二人も合流し、二人が外を固める。
ソフィの担当は俺の監督下での証拠保全。結界の維持が難しくなれば申告し、想定を超える敵が出たら全員で撤退する。
彼女にも確かめると、作戦図の自分の丸を指してうなずいた。
役割を確認して書状を畳むと、彼女が俺の剣帯を指した。
「出発前に、もう一つ試したいの」
◇
村外れの木杭へ、光の印がついていた。
王都の訓練場では、遠い杭から防壁がずれた。ソフィは今、あの夜の光を使って同じことを試している。
「礼拝堂の床に、誓光と刻まれていたのを思い出したわ。ずっと、礼拝堂の古い名前だと思っていたけれど」
「あの結界の名前かもしれない、と」
「まだ分からない。でも、あなたが縄を持ってくれたところは、光がずれなかった」
彼女は土へ、杖先で曲線を描いた。
その線に沿って、一歩踏み出す。
礼拝堂で何度も見た足運びだった。授業が終わっても帰らず、光の縁が揃うまで床の線をなぞっていた。その間、俺は扉の前で待っていた。
「強く光らせるだけなら、前からできたの。でも、それだけでは駄目だった」
曲線の端に、小さな丸が加わる。
「わたし一人で、皆の立つ場所まで決めていたのね」
俺は彼女の示した丸へ足を置いた。
ソフィが杭の印へ触れ、数歩離れた位置へ戻る。
俺は印に触れて魔力を流した。彼女が顔を上げる。
「今。届いたわ」
俺は杭から一歩退き、拾っておいた小石を、その印へ軽く投げた。
光が正面に現れ、石を弾いた。今度は、杭が防壁の中心にあった。
同時に、印が消える。
「一度だけか」
「お願いする合図と、防壁一枚。それ以上は持たないみたい」
距離も、基礎の術式から大きくは伸ばせない。届くのは二キロほど。森なら一刻歩く間にも、範囲を外れることがある。見えない相手へ声が届くわけでもない。
試しに別の意味を伝えられないか聞くと、ソフィは首を振った。
「届くのは、頼まれた、という感触だけ。どちらから刃が来るかも分からない。印を中心に、一瞬囲うだけよ」
「君が手を離せないときには?」
「送れないこともあるわ」
彼女が少し言いにくそうにしたので、俺は先にうなずいた。
「分かった。それを知って使う」
できないことも聞いておく。それは、こちらの仕事だ。
ソフィは記録を確認し、俺へ手を差し出した。
「あなたの装備に、置いてもいい?」
俺は剣帯を外して渡した。
彼女の指が、革へ小さな光の印を描く。
「触って魔力を通せば、わたしに分かる。応えられるときに、一枚送るわ」
「使いどころを選ぶな」
「ええ。名前は、誓光標にしましょう」
剣帯が返ってきた。
身につけた革の小さな印を、ソフィが少し誇らしそうに見た。
「これで離れても――」
言いかけ、彼女は首を振った。
「いえ。試していない使い方は、しないでね」
「了解した」
◇
夜のうちに移動し、明け方、荷車が来る前の旧関所を囲んだ。
石壁は崩れているのに、奥の小屋だけ新しい錠がついている。
リタが見張りの癖を読む。角を曲がるたび、左の靴紐を踏み直す男だ。
しゃがんだ瞬間、俺が背後から口を塞ぐ。
腕を取って地面へ伏せさせ、声を封じたまま外の二人へ引き渡す。リタが男の腰から鍵束を取り、小屋の錠を開けた。
小屋の中には石粉の匂いがこもっていた。
作業台に、半分に割られた結界石。くぼみへ灰色の粉を入れ、蓋をするための器具。
リタが戸口へ回り、ソフィが帳簿を開いた。
「現物は新しい型なのに、帳簿では旧式品になっているわ。番号も、村の控えと同じ並びよ」
俺は作業台の石と帳簿を見比べた。
帳面の間違いではない。違う物を届けるために書いた帳面だった。
床の隅に、塩の袋が積まれている。
口を開くと、白い粒に灰色の粉が混じっていた。
「食わせているのか」
初依頼で拾った、岩角鬼の魔石に入り込む灰色の筋を思い出した。
そのとき、奥の戸が開いた。
「誰だ!」
革鎧の男が笛へ手を伸ばす。
俺は踏み込んだ。刃が交わり、机が倒れる。
低い音が一つ漏れた直後、リタの矢が笛を砕き、壁へ突き立った。
「もう呼ばせない」
別の男が、炉から火のついた壺を取った。
投げ先はソフィではない。その横の書類箱だ。
「箱を守る!」
光が箱を包み、壺を弾いた。壺は脇の棚へぶつかって割れ、棚ごと崩れる。奥で男の悲鳴が上がった。
リタが床の火へ厚い敷布をかぶせる。
男が裏口へ走ると、もう一枚の結界が道を塞ぐ。
逃げ場を失った男が、腰の投げ刃を抜いた。
「わたしは箱の結界の内側よ。入口側へ退いて!」
ソフィの声が聞こえた。
投げ刃の先が彼女へ向いた瞬間、俺の足は勝手に動いていた。
投げられた刃が、俺の右肩をかすめた。熱が走る。
刃は背後の光に弾かれて床へ落ちた。箱を覆う結界は崩れていない。
彼女は、その壁の陰にいた。
俺が割り込む必要はなかった。
「アイザック!」
返事をするより先に踏み込み、左手で相手の手首をつかんだ。剣の柄で顎を打ち、倒す。
残る傭兵が逃げた先では、外を囲んだ冒険者が待っていた。
短い怒号のあと、小屋は静かになった。
◇
「色が、一瞬薄くなったわ」
ソフィは壁を消すと、自分から言った。
リタが顔をのぞき込み、今は魔法を使うなと告げる。強い光の術を重ねたときの、光枯れかもしれないという。
俺の肩は、布で押さえて止血した。肘を上げると傷が引きつれ、途中で下ろす。
ソフィはリタから包帯を受け取り、言われたとおり丁寧に巻く。
「痛む?」
「少し」
「その少しを、最初に言うのでしょう」
俺は口を閉じた。
包帯を結び終えた彼女が、手を膝へ戻した。
「防げたのよ」
「ああ」
「わたしの指示を信じなかったのは、あなたよ」
顔を上げる。
怒っている。だが、それより悔しそうだった。
「そのとおりだ。すまない」
守りたいと思った。
その結果、彼女の目の前で傷を増やし、手当てまでさせている。
剣帯の光標が、まだ使われずに残っていた。
リタが書類を俺の前へ出した。
「負傷の申告。先生も書いて」
「心得ている」
「右で無理なら左で。汚い字でも、今日は読んであげる」
ソフィが筆を渡した。
俺は左手で名前を書いた。三人の中で、いちばん不格好な字になった。
◇
工房番は、崩れた棚で脚を折っていた。
現地の二人に脚を固定してもらい、村の治療所へ運ぶ手配をした。待つ間に、話せる範囲だけ聞く。
「調合の紙は、灰色の封で届くんだ。冠の先が欠けたやつだよ。誰が書いてるかなんて知らねえ」
王都の保管庫で拾った蝋と、つながった。
支払い帳には『M・C』の符号。黒楢商会の荷札も、束で残っていた。
リタが車輪の幅と足跡を記録する間、ソフィは配置図を見つけた。
「ここ……最初に野営した場所だわ」
旧関所の北に塩餌。南の野営地近くに、小さな共鳴器。
餌を食わせ、共鳴器の方へ動かす実験。
俺たちは偶然、その道にいたのだ。
「道に誰かがいるか、確かめもしなかったのね」
ソフィは紙の端を握りかけ、途中で力を抜いた。
証拠を傷めないよう、平らな箱へ移す。
その手は、面接で杖を持っていたときより落ち着いていた。
工房番の護送は現地の二人へ任せた。
他の男たちも拘束して引き渡し、荷札と帳簿、配置図を封じた箱へ収める。
署名をもらった供述書と証拠の目録は、リュネル支部を通して王都へ先に送るよう手配した。俺たちは原物を持って帰るつもりだった。
そこへ、馬の蹄が近づいた。
「元副隊長!」
セドリックが、汗の乾いた馬から降りた。
俺の包帯を見て眉を動かしたが、先に書状を差し出す。
「至急、王都へ。陛下から事情説明を求める命令です」
「何があった」
「こちらが、各門とギルドへ回っています」
二日前に出された緊急通達。
俺の名前と、目つきの悪い似顔絵。
その下を読んで、ソフィが固まった。
『元近衛騎士アイザック・ロウ、第二王女を誘拐し、北東へ逃亡』
沈黙が落ちた。
俺はもう一度、似顔絵を見た。
「実物より人相が悪い」
「問題はそこではないわ!」
肩に響く声だった。
さすがに、その抗議は正しい。




