第6話 お願いは、命令より強い
「朝まで、門は開けられん」
村長の声を聞いて、トマの妻が壁へ手をついた。
具合の悪い体で、ここまで来たらしい。
森の縁には魔物がいる。今は止まっていても、いつ動くか分からない。
門を閉める判断は間違っていなかった。
閉め出される側に、ニコがいることを除けば。
「荷車は、いつもどの辺りへ?」
「北の薪場です。昼には出て、暗くなる前には戻るはずで」
俺は地図を広げた。
薪場の先に古い採石場。逃げ込める横穴がある。そこまでなら、片道一時間かからない。
だが、俺たちが出れば村を守る人手が減る。
「ソフィを残して、俺とリタで――」
「待って。次の強い波まで、まだ間があるわ」
ソフィが記録を地図へ重ねた。
住民の目が覚めた時刻と、今日の塔の明滅。その間隔を指で追う。
「およそ二刻。四時間くらい。ただ、早まるかもしれないから、絶対とは言えない」
「その間に帰る、と?」
「動けない怪我人がいたら、運ぶ間の防壁が要るでしょう。わたしも行くわ」
リタが地図をのぞく。
「村の塔は今、抑えが効いてる。外で結界が要るのは確かだね」
俺は村長を見る。
見張りを塔へ置き、明滅が早まったら角笛。鳴れば途中でも戻る。住民は門から離れ、石造りの集会所へ。
帰りは門前で俺が名乗り、灯りで顔と人数を確かめてから通す。手順を一つずつ伝えると、村長は口を引き結んだままうなずいた。
「連れて帰ってくれ」
「そのために行く」
ソフィが地図を畳み、トマの妻へ差し出した。
「まだ、教えてもらっていない道があるの。帰ってきたら、続きを聞かせてもらうわ」
折り目のある紙を、女性が両手で受け取った。
門を必要な分だけ開けてもらい、三人で外へ出る。森の縁に並ぶ目を避け、リタが低い茂みの陰を選んで進んだ。背後で、閂の落ちる音がした。
◇
リタは足音を立てずに森を進んだ。
荷車の轍を探し、折れた枝を確かめる。ソフィが杖へ光をともすと、すぐに指で覆うよう示した。
「上まで照らすと、枝の影で足元が見えない。灯りは小さく」
ソフィは薄い結界で杖先を覆い、光を地面へ絞った。
俺は二人の背後を見る。
魔物の足跡は南へ。荷車は途中から東へ曲がっていた。
「追われて走った。ここで一人、転んでる」
リタが泥に残った手の跡を示す。
小さい。子どもの手だ。
ソフィが息をのんだが、走り出しはしなかった。
「先を、お願い」
リタは一度だけうなずいた。
採石場の手前で、狼の唸りが聞こえた。
切り立った岩壁の下に荷車が倒れている。その奥の横穴へ、森狼が群がっていた。
灰色の欠片が、肩や額に突き出している。
横穴から、木の棒が振られた。
「来るな! こっちへ来るな!」
トマの声だった。
俺は拾った石を、狼の背へ投げつけた。
群れが振り向く。
「リタ、横へ。ソフィは穴の入口を守れ」
一頭目の牙をかわし、腹を蹴って斜面へ落とす。
二頭目が跳ぶ前に、足元を剣で払う。
その向こうで、リタの矢が灰色の破片を射抜いた。
欠片が抜けた狼は短く鳴き、逃げるように岩陰へ消える。
「浅い欠片なら、抜けば逃げる!」
「無理に狙いすぎるな。人が先だ」
俺は次の一頭を引きつけた。
リタの矢が入口の狼を退かせた隙に、ソフィが岩壁沿いに横穴へ入った。振り返って防壁を張り、追って跳んだ狼の鼻先を止める。
「皆さん、こちらへ。怪我の軽い人から――」
四人は動かなかった。
トマが負傷した男を支えている。もう一人は壁に背を押しつけ、ニコは灯りを抱えてしゃがんでいた。
「ベン、しっかりしろ。ヨルグ、お前は立てるか」
トマの呼びかけに、壁際の男が顔を上げた。
「早くしなさい! 今なら通れるわ!」
ソフィの声が反響した。
ニコが肩をすくめる。立ち上がりかけた男は、入口の狼を見てまた足を止めた。
ソフィは防壁を斜めに動かし、岩壁との間に通り道を作ろうとした。結界の下端が浮く。
ソフィ一人が、四人の動きを追って面を広げようとしている。誰をどちらへ通すのか、こちらからも分からない。
「ソフィ、四人を一度に動かすな!」
俺は狼を剣で押し戻し、入口脇へ退いた。腰の退避用の縄をほどき、開きかけた岩壁沿いの隙間へ投げ入れる。
彼女が受け取り、結び目を見る。ニコを見る。
膝をつき、目の高さを合わせた。
「ニコ。その灯り、持っていられる?」
少年が小さくうなずいた。
「わたしは、皆の前を守る。だからあなたは、帰り道を照らして。暗いと、足元が分からないの」
「……おれが?」
「ええ。道を知っているでしょう」
ニコが両手で灯りを持ち直した。
ソフィは次にトマへ顔を向ける。
「ベンさんの右肩をお願い。ヨルグさんは左を。一緒に持てるかしら」
「ああ」
「俺も……持てる」
壁から離れたヨルグが、ベンの腕を取る。
ソフィは縄の一端を握り、もう一端を岩壁沿いにこちらへ投げ返した。
「アイザック。出口まで、この端を」
「任せろ」
縄を握った瞬間、光が指を撫でた。
ソフィの杖から床へ。ニコの灯りへ。トマたちの足元へ。
細い線がつながり、それまで別々に震えていた結界の縁が、一つの形へ収まった。
光の面が岩壁と並び、出口まで細い通路ができた。横から飛び込んだ狼が、弾かれる。
「……揺れない」
ソフィがつぶやいた。
俺は縄を引きすぎないよう、ゆっくり後ろへ歩く。
一歩ずつ、四人が穴から出てきた。
ニコが掲げる灯りの下で、足の置き場所が見えた。
「いいぞ。そのまま」
最後の一人が出たところへ、狼が回り込む。
リタの矢が鼻先の地面へ刺さった。魔物がひるんだ間に、俺が間へ入る。
退路は空いた。俺は負傷したベンを背負い、トマにニコの手を取ってもらった。リタが弓を構えたまま最後に下がる。
◇
狼が追ってこないのを確かめ、岩の陰まで下がったところで、リタが頭上を指した。
人の胴より深い溝が、三本並んでいる。
その下から、規則正しい重い音。
「大物のねぐらだ。奥は調べない」
俺もうなずいた。この人数を連れて戦う場所ではない。
トマが震える息を吐く。
「昔は奥の排水路を使えたんです。村外れの沢までつながってる。でも、今は入口が崩れてて……」
「ここは当分、近づかない方がいい。戻ったら伝える」
ソフィは足元に残る光を見ていた。
「礼拝堂の床に、似ているわ」
「あの線が?」
「昔から、その上を歩いて練習したの。でも、こんなふうになるなんて」
彼女自身も分かっていないらしい。
問いを重ねる前に、村の方向から一度、角笛が鳴った。
予定より波が早い。
「急ぐ。ただし、転ばない速さで」
ソフィがすぐに俺へ言った。
「残りは四分の一くらい。長い結界は、もう難しいわ」
「分かった。今は使うな。リタ、先を頼む」
深夜の森を、七人で進んだ。
帰りは同じ道なのに、ずっと長かった。
村の門が見えたとき、ニコが初めて泣き声を上げた。
灯りは、まだ離していなかった。
俺が名乗ると、見張りの灯りが七人を照らした。門が細く開き、全員が入ったところで閉まる。
塔の光は残っていた。角笛は明滅が早まった合図で、防壁を破られたわけではなかった。
◇
集会所へ入ると、トマの妻がニコを抱きしめた。
ベンは治療の寝台へ。ヨルグは誰に言われるでもなく、空いた水桶を運び始めた。
ニコが母親の腕の間から、ソフィを見る。
「お姉ちゃん、王女様みたいだった」
俺とソフィが、同時に咳き込んだ。
リタが水を渡しながら、小さく肩を揺らす。
「あたしは、道案内を頼む人に見えたけど」
「……ええ。そうよ。ニコが手伝ってくれたから」
少年が、涙の残る顔で笑った。
ソフィも笑おうとしたが、立ち上がった足が少しふらつく。
「宿まで歩くのは、難しいかもしれないわ」
「よし。乗って」
リタが背を向けた。
「これは、救助の続き?」
「疲れた人を寝かせるまでが救助」
「では、緊急搬送ね」
「そこまで格好よく言わなくていいよ」
「その、外套の裾が」
「泥ならもうついてる」
「乗り方があるでしょう」
「乗り心地は、銅貨二枚分だよ」
干しリンゴの代金らしい。
ソフィは不満そうにしながら、彼女の背へ腕を回した。
自分から力を抜いて誰かに預ける姿を、俺は黙って見送った。
救出の記録を残し、集会所で休む村人の寝床を整える。
トマが俺を呼び止めたのは、日付が変わってしばらくしてからだった。
「石のことで、思い出したんです。交換の荷下ろしを手伝ったときの紙が、家に」
少し待つと、彼は折れた受取控えを持って戻ってきた。
運送元は黒楢商会。立会人の欄には、街道整備局の印。
古い石の引き渡し場所として、北東街道の旧関所が記されている。
「次の便は明後日の夜明け前です。残った台座も、そこで引き取ると言われて」
荷車で運ばれた石が、人を苦しめている。
運び込んだのは、国の印を持つ人間。
俺は控えを裏返した。消えかけた文字の上に、次の搬入日が書き直されていた。
「この紙、ギルドへ預けてもいいか」
「役に立つんなら」
灯りの下で、俺は報告書を開いた。
村の汚染と採石場の異変。その末尾へ、旧関所の名を加える。
明後日の夜明け前には、次の荷車が着く。
交換資材と増援の要請を書き添え、朝一番にリュネル支部へ送る便を村長に頼む。
旧関所へ向かうかは、二人が休んでから相談する。動くなら、証拠を持って戻れる人手が要る。
俺は受取控えをもう一度見た。
人を守るはずの石を、誰がすり替えたのか。
その答えが、荷車と一緒に運び去られるかもしれなかった。
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