第4話 王女様の冒険者契約は条件が多い
安い椅子にも、気の毒というものがある。
第一王女エリアナ殿下が腰かけているだけで、ギルドの応接室の椅子は、玉座の代わりを務めさせられていた。
「楽しい旅でしたか、ソフィア」
「ええ。お姉様」
「では、その旅を続けるお話をしましょう」
机に置かれた契約書は、楽しい厚さではなかった。
その横には、北東街道の地図も広げてある。
「昨夜の灰晶が指した方角ですね」
「ええ。別の便からも、魔物が南へ移動していると報告が来ています。あなたたちだけの遭遇ではありません」
エリアナ殿下が、地図の北側へ印を置いた。
あの欠片が向いた先には、まだ調べるべき道があるらしい。
俺の向かいにはギルド長のオルガ。壁際にはセドリック。ソフィは俺の隣で、紙の端を揃えていた。
「最初の一回は、お父様にもお認めいただきました。ただし、今後まで同じとは限りません」
エリアナ殿下の指が、最初の頁をめくる。
「三十日の特別市井巡察。表向きは地方貴族の令嬢ソフィ。週に一度の報告。依頼の危険度はギルドが判断します」
「冒険中の指揮は」
「あなたです、アイザック」
俺は次の頁を確認した。新人教育と安全管理への報酬額は、昨日の提案どおりだった。
「殿下が異議を唱えた場合も?」
「わたしが目の前にいるのだから、わたしに聞けばいいでしょう」
ソフィが割り込んだ。
俺が向き直ると、彼女は背筋を伸ばした。
「危険なときは従うわ。落ち着いたら、理由は聞くけれど」
「それならいい」
オルガが、指揮権の欄へ確認の印を入れた。
「次。契約をやめる権利は双方にある。王家も、元騎士だからという理由で引き留めない。それでよいね」
エリアナ殿下がうなずく。
ようやく、肩から少し力が抜けた。
「一つ追加を。非番に、私用で呼び出さないこと」
ソフィの指が止まった。
「朝食に誘うのも?」
「誘うのは自由だ。断ってもいいなら」
「……断るの?」
「誘われてから考える」
ソフィは契約書を見た。次に俺を見た。朝食へ誘うだけで、ここまで条文が要るのか、と言いたそうな顔だ。
「では、前日の夕方までに予定を尋ねて、返事を待って……」
「そこまで決めると、朝食ではなく会議になる」
「あなたが会議にするからでしょう」
「私は、まだ何も提案していない」
「今、手順を三つ増やしたわ」
リタがいれば、もっと短い言葉で言われただろう。エリアナ殿下の肩が小さく揺れた。
先に確認しておくことが、もう一つあった。
「議題は?」
「朝食に議題をつけないで!」
「食事中に仕事の話をしない、という意味でよいですか」
オルガが万年筆を止めずに尋ねた。
「それは、そうだけれど」
「では私用の食事について、双方は話題を選ぶ自由を持つ、と」
「条文にしなくていい!」
エリアナ殿下がとうとう口元を押さえた。オルガは笑わず、淡々と文言を消している。この人は信用できそうだった。
「では、ソフィア。あなたは何を見てくるつもりです?」
ソフィは俺を見なかった。
「薬を送った、という報告を何度も読みました。でも、届いていない村があるそうです。ガレンさんから聞きました」
紙の上に置かれた指に、小さなペンだこがあった。
「わたしが知っているのは、送った側の数字だけだったの。それを、確かめたい」
姉君は今度は笑わず、地図の横へ一枚の報告書を置いた。
「王宮へ届く数字にも、書き直された跡があります。調べるよう命じても、同じ役所から同じ数字が戻ってくる」
ソフィが報告書をのぞき込んだ。
「村で、受け取った人に聞くのね」
「ええ。役所を通さず、ギルドの記録と照合したいのです。ただし、不審な相手を追う仕事まであなたたちへ任せるつもりはありません」
オルガが報告書を引き取った。
「裏付けを取る人員は、こちらで選ぼう」
王家にも、この旅を認める理由がある。その範囲を確かめてから、俺は契約書へ目を戻した。
エリアナ殿下が、妹へ筆を渡す。
ソフィが署名する。俺も続けた。エリアナ殿下とオルガが最後に名を記す。
騎士へ戻るための書類ではない。
俺は、乾いたばかりの自分の署名を一度指でなぞった。
◇
「こちらも、署名してちょうだい」
部屋を出ると、ソフィが別の紙を広げた。
短い三か条。危険や怪我、魔力残量を隠さない。王女の命令で依頼や仲間を決めない。大事な判断は相談する。
「分かりやすいな」
「最後に、一人で全部背負わない、を足すわ」
「三つではなかったのか」
「最後だけ、あなたの字で書いて」
俺は彼女を見た。
紙が引っ込む気配はない。
筆を取り、四つ目を書き足した。下に俺の名前を記して渡すと、ソフィも隣へ署名する。満足そうに二人分の名前の下へ線を引いた。
そのまま訓練場で魔法の確認をした。
固定の防壁は強い。一方、目印を描いた離れた木杭へ送る防壁は、右へずれる。三度目には杭が光の外にはみ出した。
「動いていない木にも、当たらないのね」
「守る魔法を当てるのも妙な言い方だが」
「授業では、これでよかったのよ」
彼女が杖を振りかけたので、俺は首を振った。
今はできる範囲が分かればいい。残量を確認し、次の練習は後日にした。
「わたしにも、苦手はあるのね」
「元騎士にもある」
「何?」
「休日の過ごし方」
ソフィは杖をしまいながら、考え込んだ。
「それなら、わたしも初心者だわ」
◇
昼からは暮らしを整えた。
跳ね鹿亭で、それぞれの部屋を一か月押さえた。宿代は定額の巡察手当と依頼報酬から払う。財布の中身は、殿下と呼んでも増えない。
ソフィは銀食器を荷物から出し、布に包んで宿へ置いた。
「いつか、使う日が来るかもしれないでしょう」
「来たら取りに戻ればいい」
旅道具の店では、ソフィが自分の財布から代金を出した。
柔らかい靴下と、軽い鍋。店主へ銀貨を渡す前に、値札を二度見ていた。
俺も砥石を買おうとしたところで、ソフィに手首をつかまれた。
「その手袋、穴が開いているわ」
「縫えば使える」
「だから、縫ってもらいましょう」
「帰ってから自分で」
彼女が、先ほどの四か条を出した。
四行目を指す。
「これは、そういう意味だったか?」
「自分のことだけ後回しにする、という意味ではなかったはずよ」
反論を考える間に、ソフィは店主へ修理屋の場所を聞いていた。
そして自信満々に逆へ曲がった。
「こちらは染物屋だぞ」
「赤い看板だとおっしゃったわ」
「街の看板は、赤だけでもかなりある」
二人で地図を広げた。紙が風にめくれ、同じ角へ伸ばした手が重なる。
彼女は先に手を引かなかった。
「何でも知っているわけではないのね、あなたも」
「この辺りに来る用事はなかった」
「なら、一緒に覚えましょう」
地図のどこを見ればいいのか、一瞬分からなくなった。
修理はすぐに済んだ。
受け取るとき、ソフィは自分の財布へ触れかけ、俺の手を見て引っ込めた。
代金は俺が払う。ただ、そこへ連れてくる人間が、今日は隣にいた。
◇
夕方、鑑定結果を聞くためギルドへ戻ると、見知らぬ官吏がいた。
細い眼鏡。泥のついていない靴。ソフィを見た目が一瞬止まり、すぐに俺へ移る。
「街道整備局の調達監察官、マティアス・クローヴです。例の魔石について、少々」
ミーナは鑑定票を抱えたまま、机のこちら側へ立った。マティアスはその紙へ目をやり、続けた。
「魔物の方向感覚を乱す加工が疑われています。こちらで引き取り、局の施設で調べたい」
「引き渡しの書類は?」
「ご心配には及びません。公的な調査です」
男は局の身分証を見せた。
俺は手を伸ばさなかった。
「ギルドと王家の共同受領証をお願いします」
笑みが、わずかに薄くなる。
その前へ、ソフィが半歩出た。
「ベルカ村へ、薬を運ぶ便は動いていますか」
「リュネルからの便が滞っている件ですね。南回りへ振り替えれば三日ほどで」
答えは早かった。
ただ書類を動かすだけの男ではないらしい。
「追加の運賃も補助されるの?」
「記録上の戸数に応じて。ただ、未登録の住居までは対象にできません」
「そこに病人がいても?」
「まず、登録していただかなくては」
男は乱れた紙の角を揃えた。
「何事にも、順序がございます」
書類を用意すると言い残し、マティアスは帰った。
ミーナが息を吐く。
「鑑定の方は、まだ途中です。昨日の小片は、同じ加工を受けた大きな塊の方を向いたようですが……砕けてしまいましたし」
「距離は?」
「分かりません。残りも全部砕いて確かめるわけには」
俺はうなずいた。ミーナは魔石の塊と欠片を保管箱へ戻し、昨夜の光への反応を記した添付票を重ねた。鍵をかけ、蓋の継ぎ目に封印を施す。
受領簿と鑑定の控えは机に残し、箱だけを奥の保管庫へ運んでいった。
隣のソフィは、男が揃えた紙の角を見つめ、拳を小さく握りしめていた。
「登録してから、病気になるわけではないでしょうに」
◇
宿へ戻ったあとの洗濯騒動は、女将のマルタが解決した。
「廊下に服を並べない。洗ってほしい物は、この袋へ」
「回収の人が見つけやすいようにと思ったの」
「あたしより先に、お客が見つけるよ」
ソフィは赤くなって服を集めた。
俺は見張りを頼まれて扉の前に立ち、これは非番の呼び出しに当たるのか考えていた。
断ることもできた。俺が引き受けた。それなら、ここにいていい。
そこへ、ギルドの使いが走ってきた。
「保管庫が。すぐ、来てください」
ギルドへ駆け戻ると、保管庫の棚に、蓋の開いた箱が残っていた。
扉にも箱にも、鍵を壊した跡はない。
魔石の塊と欠片、鑑定の添付票だけが消え、他の高価な品には手がついていない。
ミーナの机に残る受領簿と控えを確認し、俺は棚の前に膝をついた。
箱の蓋の継ぎ目に白い粉。官署で封印を解くときに使うものだ。
「触らないでくれ。これは、記録に残す」
棚の下に灰色の蝋が落ちていた。
小片の縁には細紐が食い込んでいる。小袋の封らしい。表には、冠の形が押されている。
蝋の縁は残っているのに、冠の先端が一つだけ途切れていた。
「見覚えは?」
ソフィが尋ねる。
「冠にはない。粉にはある」
騎士団を辞めて、ちょうど一週間。
自由になるために置いてきた知識が、また必要になっていた。
ソフィは俺の横にしゃがみ、蝋に顔を近づけすぎない距離で止まった。
「消したいものが、あの石にあったのね」
ミーナが粉と蝋の落ちていた位置を記録するのを待って、俺は証拠袋を開いた。
あの男の、泥ひとつない靴が、頭から離れなかった。
不定期更新中。更新を見逃さないようお気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




