第2話 黒パンは武器ではありません
最高級の旅靴が、出発から二時間で敗北した。
正確には、中に入っている足の方が。
「ソフィ、止まれ」
「どうして?」
「右だけ歩幅が狭い。踵だな」
「よく見ているのね」
「そういう仕事だった」
日陰の石に座らせると、彼女は靴の留め具へ触れたまま動かなくなった。
「少し赤くなっただけよ」
「見る前に結論を出すな」
脱がせた靴下に血がにじんでいた。踵の皮がむけている。
俺が水筒を取ると、ソフィは杖を持ち上げた。
「これくらいなら治せるわ」
「この先も歩く。靴が当たる場所を変えなければ、またむけるぞ」
「なら、また治せば」
「夜に使う結界の分まで?」
杖が膝へ戻った。
王宮なら、痛くなるまで同じ靴で歩かせる者はいない。移動には馬車があり、戻れば替えもある。今日は違う。
「……遅れたら、置いていくの?」
濡らした布を持つ手が止まった。
ソフィは自分の靴を見ていた。
出発前の、黙っていなくならないで、という声を思い出す。
痛む足より、試験を打ち切られる方が怖いのか。
「痛みを隠されると、休む場所を間違える。歩けないなら馬車に乗ればいい」
「荷物がたくさんあるわ」
「荷物は、自分で乗りたいとは言わんからねえ」
御者台からガレンが降りてきた。
薬草の木箱を寄せ、毛布を一枚置く。人が座れる隙間ができた。
「お嬢さん一人くらい、馬も文句は言わないさ」
「……ありがとう」
ソフィは小さく礼を言った。
俺が踵へ布を巻くと、彼女の肩が跳ねる。
「しみるか」
「少し」
「その少しを、最初に言ってくれ」
今度は素直にうなずいた。
留め具を緩め、靴の内側に当て布をする。顔を上げると、ずっとこちらを見ていたらしい目が、慌てて馬車へ逃げた。
「昔から、そうね」
「何が」
「人の怪我には細かいのよ」
自分のことは棚に上げる、と続きそうな口だった。続かなかったのは、今の彼女が俺の昔を知らないはずの新人だからだ。
俺も、そこは聞かなかった。
◇
昼休みには、別の難敵が現れた。
ソフィが黒パンを両手で持ち、真剣な顔で厚みを測っている。端を割ろうとした指が止まった。
「昨日のパンも、こんなに硬かったの?」
「これは旅用だ。日持ちするように焼いてある」
「護身用に配られたのかと思ったわ」
「それで狼を殴るより、俺を呼べ」
俺は鍋のスープを椀へ注いだ。パンを割り、浸す。
彼女は俺の椀をのぞき込み、同じように試した。
「柔らかくなった」
「待つと、もう少しなる」
「先に教えてくださらない?」
「武器かどうかの審議が長かったからな」
ガレンが笑い、乾かした赤い実を差し出した。
「味に飽きたら、こっちもどうぞ」
「北の山で採れるセリカの実ね。乾燥させると苦みが抜けるのでしょう?」
差し出した手が止まった。
「おや。よく知ってるねえ」
「救恤院で使う煎じ薬の資料にあったの。熱を下げる草と一緒に入れると、子どもが飲みやすくなるって」
「そうそう。効くだけじゃ、子どもは飲んでくれんからね」
ソフィは木箱の焼き印を指した。
「この産地なら、もう収穫期は終わっているはず。遅い便なの?」
「いつもなら先月着いてる品さ。北東の便が止まってね」
ガレンの笑いが少し薄れた。
ソフィはそれに気づいたようで、実を口に入れずに待った。
「ベルカって村でも薬が足りないらしい。荷を一つ先へ回したくても、道を通りたがる御者が減っていてねえ」
「魔物が増えたのか?」
「数というより、いる場所が違うって話だよ」
昼の風が草を倒した。
俺は街道脇の泥へ目をやった。小さな足跡が、何本も道を横切っている。
角兎だ。この時季なら北の草地へ戻るはずが、すべて南へ続いていた。
「ソフィ、馬車から離れないでくれ」
少し先まで跡をたどった。兎だけではない。森狼の爪も、同じ向きにある。
獲物を追うなら、もっと足跡が乱れる。ここではどちらも、ひたすら同じ方角へ進んでいた。
同じ何かから離れるように。
「道を変える?」
戻ると、ソフィが尋ねた。
返事を待たずに決めるような声ではなかった。
「予定の野営地まで進む。水場があり、見通しもいい。着いたら早めに備える」
「わたしは、結界ね」
「頼めるか」
彼女は椀の底のパンを食べ切った。
「ええ。そのために、治癒の魔力を残しておいたのだもの」
◇
午後の道には、昨日の雨が残っていた。
ソフィは馬車で休んだあと、足の具合を確かめて少し歩くと言った。ぬかるみの手前で止まり、こちらを見る。
「手を、借りてもいいかしら」
差し出すと、彼女の指が俺の手袋をつかんだ。
泥の浅い場所へ導く。一歩、二歩。乾いた地面に着いても、すぐには離れなかった。
「もう渡ったぞ」
「知っているわ」
それでも、指が一度握り直された。
手袋越しに、指の細さが分かった。俺は馬車の車輪へ目を向けた。
「馬車の方は、ガレンが見ているわよ」
「車輪が泥にはまると厄介だ」
「今、車輪の話をしていたかしら」
返事に迷っているうちに、ソフィは小さく笑って手を離した。
俺はもう一度、泥のついていない車輪を見た。
夕暮れ前に野営地へ着いた。
道から少し外れた空き地だ。背後に大きな岩があり、守る方向を減らせる。ガレンが馬をつなぎ、俺は薪と退路を確認した。
ソフィは四か所へ小石を置き、荷馬車を囲む光の壁を張った。
「広すぎる。こちらの二歩分を削っていい」
「馬が窮屈にならない?」
「馬は君ほど広い寝室を求めない」
光の角が、一つ内側へ入った。
枝を当ててみると、しっかり弾く。まだ形にむらはあるが、昨日の面接のときよりも落ち着いている。
「いい結界だ」
「当然――……ありがとう」
言い直した顔を見ていると、もう一つ何か言いたくなった。
しかし適切な言葉が見つかる前に、ガレンが鍋を持ってきた。
「新婚さんに邪魔して悪いけど、火を借りるよ」
「新人教育中だ」
「なるほど。そりゃ熱心なわけだ」
訂正が役に立った感じはしなかった。
「眠っている間も保つのか?」
「この広さなら、小石を動かさなければ夜明けまで。強く叩かれたら、張り直さないといけないけれど」
「異変があれば起こす。今のうちに休んでくれ」
夕食後、ガレンは先に毛布へ入った。見張りは俺が引き受ける。
ソフィが薬草茶を口にして、少し眉を動かした。
「侍女が淹れるお茶より苦いわね」
「侍女?」
「一般的な比喩よ」
「ずいぶん具体的な比喩だ」
彼女は椀を持ち替えた。
火のはぜる音がする。夜の森が、ゆっくり黒くなっていった。
ソフィはもう一口飲みかけ、椀を膝へ下ろした。
「わがままを言う人って」
さっきまでと違って、俺の顔を見ようとしなかった。
「困らせたいのではなくて、話す理由がほしいだけかもしれないわ」
俺は薪の位置を変えた。
熱い、冷めた、歩くのが早い。遅い。今日の髪飾りにも気づかないのか。
あの言葉の一つ一つに、別の頼み方があったのだろう。
「そうかもしれないな」
「それだけ?」
「でも、呼ばれた側の夕食が冷めることはある」
椀を包む白い指が、ぴたりと止まった。
俺はそこで言葉を切った。言いたいことがあるなら、今は俺の方も言えばいい。
「休みがほしいと、本人に伝えればよかった。限界になる前に」
ソフィは火を見つめたまま、唇を動かした。
「嫌いだった?」
主語はなかった。
問い返すこともできた。新人との世間話に戻すことも。
「嫌いではなかった。このままだと、嫌いになるのが怖かった」
火から目を上げられなかったのは、俺も同じだった。
王宮では、俺がいつも彼女の後ろに立っていた。並んで火を見ていると、黙っていても背を向けたことにはならない。
しばらくして、隣で小さく鼻をすする音がした。
「あなた、今日はよく笑うのね」
「そうか?」
「腹が立つわ。外の人たちは、こんなあなたを先に知ってしまうのだもの」
返事を探す俺の椀へ、彼女が茶を足した。
熱すぎない。湯を入れてから、少し待ってくれたらしい。
「冷める前に飲んで。今度は、呼びつけないから」
俺は両手で椀を持った。
彼女は何も頼まず、俺が飲み終わるまで隣にいた。
◇
夜半を過ぎた頃、結界が低く鳴った。
椀を地面へ置き、剣の柄を握る。
森の奥で、枝が折れた。
一本ではない。木の上半分が、こちらへ傾いてくる。
「ガレン、馬車の下へ。ソフィ、起きろ」
ソフィはすぐに杖を取った。
火の向こうへ、岩の肌をした巨体が現れる。額に角。首の根元に、濁った魔石。
岩角鬼。それも、三体。
北の岩山にいるはずの魔物の目を、灰色の筋が走っていた。
一体が腕を上げる。その拳は、馬車の車輪ほどもある。
「ソフィ」
杖先の光が揺れた。
俺は彼女の前に立ち、剣を抜いた。
「俺の声だけを聞け」




