第14話 近いのは、採寸のせいです
工房の扉には、三枚の札が掛かっていた。
修理受付。危険物は先に申告。代金の相談は作業前に。
翌朝、紹介状を持って訪ねた俺たちは、三枚とも読んでから扉を開けた。
旧鉱山の記録を照合し、午後には入口を見に行く。そう説明すると、工房主は俺の顔より先に、胸の留め具へ目を落とした。
「それで坑道へ入るおつもりですか」
「不都合があるか」
「あります。引っ掛かると、首が締まります」
歓迎の言葉としては切実だった。
短い藍黒の髪の女が、机から巻尺を取る。ノエル・ベルネット。昨日、支部で紹介を受けた、この工房の主だ。
作業着の袖は肘の手前で留められ、指先には黒い染みがあった。
「先に、こちらを見せてください。触れても?」
「ああ」
外套の留め具が外れる。
右肩に傷があると伝えると、ノエルは無理なく腕を動かせる範囲を確かめ、二つの数値を書き分けた。腕を下ろすのを待って、胸の革帯へ巻尺を回す。
「今の動きに合わせます。治ったら、もう一度調整しましょう」
「助かる」
「では、一度、息を大きく吸ってください」
言われたとおりにすると、彼女の顔がすぐ目の前へ来た。
灰青の目は、巻尺の目盛りを追っている。
隣で、ソフィの靴音が止まった。
「……近くで測るものなのね」
「留め具に指が届きませんので」
ノエルは答え、今度はソフィの袖へ目を向けた。
「そちらも、機械へ寄せるには長いですね」
「折って留めるだけでは、緩むかしら」
「肘を曲げると、少しずつ。帯があれば――」
「俺は、息を吐いてもいいか」
ノエルが俺の顔へ目を戻した。
「失礼しました。採寸は終わりました」
「では、離れても寸法は変わらないわね」
ソフィが言った。
俺が息を吐くのと、彼女が自分の口元を押さえるのは同時だった。
「作業の邪魔をするつもりではなくて」
「大丈夫です。次はそちらを測りますので」
巻尺を外したノエルが、ソフィの前へ移る。
同じ距離に立たれると、ソフィは急に背筋を伸ばした。
「肩の力を抜いてください」
「抜いているわ」
「もう少し」
俺は少し笑ってしまった。
ソフィがこちらを向く。
「見られると、余計に力が入るのよ」
視線を外そうとすると、ノエルがソフィへ言った。
「そのまま前を向いていただければ」
俺たちは二人とも黙った。
リタが作業台の端で、声を殺して笑っていた。
◇
第三排出口の記録を頼むと、ノエルは奥から、背の割れた帳簿を運んできた。前の工房主が残した控えだという。
俺は持参した行政台帳の写しを隣へ置いた。
設備番号。その下の工事依頼番号。
ノエルの指が、二枚の間を行き来する。
「この仕事は、終えていません」
工房の欄には、危険につき中止。代金未収。
欄外に、導管内部の圧力が落ちない、という細い字があった。
行政の台帳には、同じ依頼番号で修理費支払済み。
俺は日付も手元へ書き写した。
「前の主に聞けるか」
「亡くなっています。だから、うちの紙だけで決めないでください」
ノエルは帳簿を閉じなかった。
俺が書き終えるのを待って、古い配管図も広げる。
「現物を見るなら、わたしも行きます。記録が違うのか、工事が別に行われたのか、確かめたいので」
彼女の指が、第三排出口を示した。
索引では廃止。修理代は支払済み。そして工房には届いていないという。
誰が何をしたのかは、まだ、この記録だけでは決められない。
「役所へ問い合わせても、支払いは済んでいると。ここで受け取っていないと言っても、同じ返事でした」
ノエルは一度、帳簿の背を押さえた。
「帳面の話をしている間にも、機械は傷みます。次に壊れたときは、ひどくなる前に呼んでもらえる工房にしたいんです」
俺は頷き、支部へ出すための写しを頼んだ。
「俺たちが見たことも残す。まずは、午後の入口へ同行してもらえるか」
「はい。料金のお話をしても?」
「扉にも書いてあったな」
ノエルが少し笑った。
「読んでいただけて助かります」
装備の調整と、半日の同行を分けた見積もりが出た。
リタが捜索費の残りと照らし、俺たちへうなずく。
今日は許可のある入口と外の通路まで。追加の測定は別に相談し、日没までに戻る。危険を見つけたら彼女の判断で止め、再確認するまで進まない。
「依頼人が急いでいても、ね」
ソフィが最後の一文を指した。
「はい。急ぐ方は、よくそこを飛ばします」
俺は最後まで読んで署名した。
ノエルが紙を受け取り、道具袋を作業台へ載せる。その口を縫った糸は、左右で色が違っていた。
◇
俺たちが控えを写す間に、ノエルは棚の交換部品を使い、帯の長さと留め具を合わせ直してくれた。
ソフィも自分の袖を折り返し、二重に通した帯を見せる。
「ここを戻すと、緩められるのね」
「はい。では、肘を曲げてみてください」
曲げても、袖口は手首へ落ちてこない。
ソフィが俺へ腕を見せた。
「どうかしら」
「動かしやすそうだ」
「それは今、確かめたわ」
彼女の目を見て、言い直す。
「似合っている」
ソフィはもう一度、袖へ目を落とした。
「……ありがとう。これなら、邪魔にせず着られるわ」
ノエルは予備の帯を巻き、リタへ渡していた。
その横でソフィが指を動かす。袖口に邪魔されず動く指を、俺はつい目で追った。
新しい金具には、小さな継ぎ目がある。
ノエルが見本の金具を紐へ掛け、引くと、帯を残して金具が外れた。
「金具が何かに引っ掛かったとき、強く引かれるとここが外れます」
「守るために、外れるようにするのね」
ソフィが確かめるように言った。
俺の外套にも、同じ仕組みの留め具が付いている。
「外し方は覚えましたか」
「二度教わった。大丈夫だ」
「では、三度目は料金を――」
俺が顔を上げると、ノエルの口元が少し動いた。
「冗談です。分からなくなったら聞いてください」
リタが笑い、俺はもう一度だけ留め具を見た。
ノエルが配管図を包みに奥へ入ると、ソフィが俺の前へ来た。
「襟が、裏返っているわ。左側」
「直してもらえるか」
彼女がうなずき、襟へ指をかける。
すぐ下にある顔を見て、俺は動きを止めた。
ソフィが布を返す。指が離れかけ、俺の顔を見て止まる。
「採寸のときより、おとなしいのね」
「君が近いからだ」
「さっきも、このくらいだったわよ」
同じではなかった。
目盛りを読まれていたときと、こちらの返事を待たれている今とでは。
「君だと、気になる」
ソフィの指が、襟から離れた。
「……離れた方がいい?」
「いや」
答えると、彼女が目を細めた。
俺も、今度は目をそらさなかった。
「襟は、とっくに直っているわ」
「そうか」
彼女は笑い、俺の隣へ戻った。
ノエルが包みを持ってくるまで、俺は直された襟へ触れずにいた。
◇
午後、ノエルと一緒に支部へ戻り、頁の発見者と合流した。
細身の現場員は名乗ると、折り畳んだ略図を開く。
「外搬入口の、この柱です。工具箱は右側。蓋の左へ、斜めの割れが入っていました」
「その奥は?」
「格子が閉じていました。呼んでも返事がなくて。あのとき、もっと探していれば……」
リタが略図を両手で受け取った。
「拾って届けてくれたんだね。まず、それを聞きたかった」
男はうなずき、もう一度、柱を指した。
支部で立ち入れる範囲を確認し、案内を頼む。入口と外側の保守通路まで。閉鎖線を越える許可ではない。
町を出て、荷を押しながら坂を上る。
外搬入口に着いたとき、日はまだ高かった。空の軌道が、山の腹へ吸い込まれている。
工具箱は略図どおり、右の柱の陰にあった。
蓋の割れを、持参した発見記録と比べる。リタが蓋を開くと、男は内側の革の仕切りを指した。
「ここへ挟まっていました。雨上がりでしたが、中の紙は大部分が乾いていて」
送られてきた記録にも、仕切りの位置が描かれていた。
俺は現物の傷と位置を写す。リタは空の仕切りを見たまま、しばらく動かなかった。
「兄さんの字が、ここにあったんだね」
男が静かにうなずいた。
本人が置いたのか、誰かが運んだのかは、まだ分からない。
それでもリタは、写しを挟んだ板を両手で持ち直した。
俺たちは格子と封の状態も記録し、開けずに外側の保守通路へ戻った。
ソフィがリタへ水筒を渡す。リタが一口飲んだところで、先を歩いていたノエルが止まった。
「少し、静かにしていただけますか」
風が鳴っている。
足元の導管が、一定の間隔で小さく震えた。
ノエルは糸の端へ軽い紙を結び、通気穴へ近づける。紙は穴の方へ吸われ、それから短く押し戻された。
「自然の風か」
「それだけとは思えません。何が押しているかは、測ってみないと」
彼女は持ってきた古い配管図を広げた。
外搬入口の下を通った線が、第三排出口へ続いている。
「図のとおりなら、こちらへ抜けるはずです」
今、見てきた入口と、地図から消えた出口。
ノエルの指が、二つの場所を一本の線で結んだ。
ソフィも壁へ手をかざす。触れずに、すぐ引いた。
「奥から、押されている感じがするわ」
「明日は、計器で確かめましょう。今日はここまでです」
ノエルは穴を塞がず、図へ位置を書き込んだ。
戻ったら支部へ知らせ、翌朝の測定を手配する。俺たちはうなずき、来た道へ向き直った。
背中で、細い金属音が続いた。
止まっているはずの鉱山が、息をしていた。
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