第15話 彼女の『止めて』は、よく聞こえる
「止めてください」
ノエルの声と、俺が足を戻したのは、ほとんど同時だった。
表示の薄れた札を確かめようと、古い弁へ寄りかけていた。伸ばした検査棒も引く。
「手前と奥で、圧が違います。そこには触れないで」
昨日、風を聞いた外側の保守通路だ。
今朝持ち込んだ二つの計器は、新しい部材の側では低い値を、奥の古い管では高い値を示していた。古い管の針は、まだ細かく震えている。
俺たちは壁の曲がり角まで戻った。
「触れる前でよかった」
「……はい」
ノエルは俺を見てから、計器へ視線を戻した。
「何か?」
「いえ。もう少しだけ、と言われると思っていました」
「俺には、その少しを測れない」
彼女の指が、道具袋の口から離れた。
小さくうなずき、今度はためらわず図面を広げる。
リタが通路の入口へ立ち、後から来た者を止めた。
現場員が立入線を引き直す間に、ノエルは図と数値を照合する。古い弁は開けない。圧の低い枝管にある採取口だけを使うことになった。
ソフィが杖を持ち替え、ノエルの示した場所へ立つ。
「この角の前へ、一面だけ。そちらの退路は空けておくわ」
「お願いします。口の周りから漏れたものが、風でこちらへ来るのを抑えたいので」
淡い防壁が立った。
ノエルは長い柄の採取具で、枝管へ受け瓶を付ける。俺は曲がり角で、彼女の命綱が石へ引っ掛からないよう送り出した。
もう一度計器を確かめてから、小さな採取口が開く。
瓶の内側へ、灰色の粉が付いた。
「採れました。閉じます」
栓を固定し、瓶を外す。
ソフィの防壁にも、薄い曇りが残っていた。
彼女はすぐには光を消さず、現場員が湿らせた布で粉を受けるのを待った。
「光を当てれば、きれいになるわけではないのね」
「今日は、集めて封じるところまでです」
瓶と汚れた布は、別々に封をした。
防壁が消えると、通路の冷たい空気が頬へ戻った。
ノエルは瓶へ採取場所を書き、現場員へ預ける。俺たちは古い弁を触らず、外へ出た。
◇
配管図を頼りに斜面を回ると、石壁の裏に第三排出口があった。
人が通る坑口より狭く、風が通るには大きい。前へ打たれた封鎖板には、工事完了の印が残っている。
「止めた工事が、こちらでは終わったことになっているんですね」
ノエルが印を写した。
締め具の周囲には、古い錆を削った工具跡が二か所ある。誰かが触った跡だが、それだけで誰の作業かは分からない。
俺も位置を写し、使う前の自分たちの工具を並べた。後から付けた傷と混同しないためだ。
ノエルが板の下端を指す。
「こちらも、削ってあります」
指二本ほどの切り欠きだった。
彼女が差し入れた小さな鏡に、縁のめくれが映る。内側から削ったように見えた。周囲の錆に対し、切り口はまだ明るい。
俺は、封鎖板に破壊の跡、と書きかけた。
「待って」
ソフィが、俺の筆先を見て言った。
「そこを閉じると、今の流れは、どこへ行くの?」
ノエルが顔を上げる。
計器を既設の測定口へつなぎ、図の線を追った。
「ここから逃げる量が減れば、坑内側の圧が上がるはずです」
「なら、外へ逃がそうとして削ったのかもしれない」
俺は筆を止めた。
壊れていることと、壊した者が敵であることは、同じではなかった。
書きかけの文字を消し、幅と向きだけを残す。
ソフィは板から距離を取り、杖の先に小さく光を灯した。
「こちらでは、隙間の方へ引かれるわ。さっき防壁を張った場所とは、感じが違う」
光の縁が、かすかに伸びた。
ノエルは彼女の指した位置と、計器の値を図へ書き込む。
完了印のある板にも、今は逃げ道が残っている。
何のために残されたのかは、まだ確かめる必要があった。
現場員へ、完了の記載の再確認と、板を塞ぎ直す工事の停止を求めた。
この区画には立入線を残す。支部長の判断を仰ぐため、現場員は図と採取瓶を持って先に戻った。
俺たちも道具を片づけ、汚れた布や手袋を分けて包む。
区画を離れ、日陰で水を飲んでいると、ソフィが俺の手元へ目をやった。
「書き直してくれたのね」
「君が止めてくれなければ、犯人の傷と書いていた」
「わたしも、誰がしたかは分からないけれど」
「分からないまま残せたのが、助かった」
ソフィが少し笑った。
ノエルにも、最初の弁の前で止めてくれた礼を言う。
「次に危なければ、また止めます」
「頼む」
彼女は道具袋を閉めかけた手を止めた。
「……聞いてもらえると分かっていると、声を出しやすいですね」
俺がうなずくと、今度はまっすぐこちらを見て笑った。
ソフィが俺とノエルを一度ずつ見て、自分の水筒へ視線を落とす。
「二人に止められると、忙しいな」
俺が言うと、ソフィがすぐに顔を上げた。
「止まるのだから、少しは暇になるでしょう」
リタが水を吹き出しかけ、口元を拭いた。
ノエルまで肩を揺らしている。
反論はできたかもしれないが、休む時間を減らすことになりそうなので、やめた。
◇
帰り道、ソフィの袖の帯へ、細い糸くずが絡んだ。
彼女が留め具へ指をかけると、ノエルが自分の袖を見せる。
「金具を引くより、先に折り目を戻すと緩みます」
「こう?」
「はい。それなら布も傷みません」
ソフィは糸を外し、もう一度自分で帯を留めた。
昨日より、指が迷わない。
「助かるわ。でも、いつも袖を細くしているの?」
「工房では。歯車は、広い袖も遠慮なく持っていきますから」
「お休みの日も?」
「広い袖の服は、一着あります。着ると、道具棚へ手を伸ばしかけてやめるんです」
ソフィが笑った。
「では、工房を出る用事があればいいのね」
ノエルは少し考え、彼女を見た。
「仕事が落ち着いたら、服を見に行きませんか。ソフィさんも、一緒なら」
「ええ。次は作業をしない服を選びたいわ」
リタは二人を追い越し、坂の下の分かれ道を確かめに行った。
俺は並んで歩きながら、ソフィの横顔を見る。
新しい服を選ぶ彼女を、少し想像した。
護衛として行き先や時間を確かめる必要のない買い物だ。
「そのときの服を、俺にも見せてくれるか」
ソフィが足を止めかけた。
「袖が機械に巻き込まれないか、確かめるため?」
「いや。君が選んだ服を見たい」
ノエルは口を挟まず、道具袋の紐を肩へ掛け直した。
ソフィは一歩分だけ遅れて、俺の隣へ戻ってくる。
「では、ちゃんと感想も聞かせてね」
「ああ。君を見る」
彼女が顔を上げる。
「今から練習しなくてもいいのよ」
「練習ではない」
ソフィは俺を見たまま、しばらく黙った。
それから小さく息を吐き、前へ向き直る。
「……では、本番でも忘れないで」
うなずくと、彼女の口元が緩んだ。
俺は前を見た。坂はまだ続いている。
歩幅を合わせるのに、行程表は要らなかった。
◇
午後、支部で工事停止を求める書面を提出し、検査の結果を待った。
リタは地図を広げ、外の集積場を指す。
「あたしは、荷が出入りした跡を見たい。あの入口以外にも、道があるかもしれない」
採取瓶を届けた現場員が、帳場まで案内してくれるという。
戻る先をここに決め、リタは彼と出ていった。
検査室の係員は、夕方に結論だけを持ってきた。
今日の粉は、地脈の逃げ道へ残る灰滓。灰晶そのものではないが、加工前の材料になり得るという。
「どこで加工したかまでは、分からない」
「なら、今日分かったのは、ここに逃げ道と材料があることまでだ」
ノエルがうなずいた。俺は北東街道の事件まで一つに決めず、採取場所だけを残した。
扉が開いたのは、灯りを足すころだった。リタが現場員と戻ってくる。手には、まだ温かい保温箱の蓋があった。
「集積場の人が、運び損ねたって隠してた。旧鉱山へ向かったばかりの便の箱」
箱には保温椀を留める五つの輪のほか、豆と塩、灯油の小瓶を収める仕切りがある。夜まで保つよう詰めた五人分だ。
「今、誰かが食べるために運ばれた」
リタは言い切ったあと、唇を結んだ。
行方不明の測量隊が五人だとは、まだ決められない。それでも、無人の保守詰所へ届く量ではなかった。
「運んだ人は」
「明朝、ここで会える。集積場の人が話を通してくれた」
ソフィがリタの前へ、残しておいたパンを置いた。リタは一口だけかじり、保温箱の輪から目を離さなかった。
冷める前の五人分が、山へ消えていった。
不定期更新中。更新を見逃さないようお気に入り登録ぜひよろしくお願いします。




