第13話 昔の隣と、今の隣
ベルカ村の塔は、黙って光っていた。
それだけで、立ち止まりたくなった。
「今日は、音がしないね」
ニコが荷車の横へ来て言った。
辞職から二十七日目の午後。ベルカへ着くと、門のそばには運び直した薬の箱がある。木こりのトマが、受取簿に慣れない字を書いていた。
「毎日確かめるのか」
「父ちゃんが、変だったら言えって」
「頼む。ただし、塔には登るな」
「分かってるよ」
ソフィが少年へ干しリンゴを一枚渡した。
「今日は、地図を書かなくていいの?」
「ええ。おやつよ」
ニコはそれを口へ入れ、母親のところへ駆けていった。
トマの妻が戸口で笑っている。額を押さえる手はない。
俺は塔から目を離し、ソフィと並んで荷車を追った。
その夜は村に泊まり、翌朝、北へ出た。辞職から二十八日目。ベルカからグランフェルまで六日の道で、救援物資と検査道具を積んでいる。
初日は雨。二日目はぬかるみ。そして三日目、増水で傷んだ橋の前で荷車を止めた。
◇
橋は残っている。大きな荷車は渡れない。
小車へ移し替え、風が弱い間に一台ずつ通す。それだけの手順だった。
リタが白布の揺れを見て、レオナが兵と荷主へ順を割り振る。ソフィは積み替え場の風上に低い防壁を張った。砂が収まると、薬箱の縄を掛ける手がよく見えた。
「この高さで足りるかしら」
「ああ。縄を掛けやすい」
礼を言った兵へ、ソフィがうなずく。
そのとき、対岸から黒い覆いの荷車が近づいてきた。御者台の横で、痩せた男が片足を引きずっている。
「そちらを止めろ」
男は橋番へ、灰色の金具を見せた。
「鉱山監督の便だ。先に通す」
荷台は低く沈んでいた。覆いの下で、金属が鈍くぶつかる。
「重さを量るまで、通せない」
橋番が言うより先に、レオナが一歩前へ出た。
「この橋は、誰の荷でも一台ずつだ。覆いを開けるか、こちらの順を待て」
「王都の荷が、北の鉱山を止めるのか」
「薬も北へ行く」
男の目が、俺たちの荷車に立てた地図筒へ動いた。第三排出口の索引を入れた筒だ。
「廃止された穴を探す者までいる」
声は低かったが、聞き間違えなかった。
リタも弓へ手を添える。
「その話を、どこで聞いた」
俺が問うと、男は笑わなかった。代わりに御者へ短く合図する。
荷車が急に後ろへ下がった。覆いの端から、灰色の粉が風へ散る。橋番が叫び、近くの兵が荷を押さえた。
「ソフィ、風を止めろ。リタ、左だ」
防壁が低く傾き、粉を河原側へ押し流す。その隙に、男は橋の脇の獣道へ走った。
片足を引くはずの足取りが、石場へ入ると急に速い。
俺とリタが追う。木立の陰で、男が振り返った。投げた小石が俺の足元で砕ける。
「止まれ!」
返事はない。斜面を越えた先に、鉱山側へ続く細道がある。俺が距離を詰める前に、男は崩れた土手の向こうへ消えた。
追えば、薬も兵も置く。
「戻る」
リタがうなずく。道に落ちていた小さな鉛札を、布越しに拾った。
欠けた冠の印。その一つの先端だけが、途切れている。
橋へ戻ると、黒い荷車は橋番の詰所へ留め置かれていた。御者は何も知らないと言い、荷台からは空の木箱しか出てこない。
男だけが消えた。
ソフィが杖を下ろす。頬には粉ひとつ付いていなかったが、地図筒を胸へ抱いている。
「あなたたちが戻るまで、拍手は待っていたわ」
「今は、拍手より先に言う」
俺は彼女の手から筒を受け取った。
「助かった。君がここにいてくれてよかった」
ソフィは一度だけ目を伏せた。
「……それは、追いかける前に言って」
橋を渡る薬箱を見送りながら、俺たちは北へ続く道を見た。
地図から消えた出口を探すことは、もう誰かに知られている。
◇
その夜、焚き火へ足を向けると、レオナが湯を渡してくれた。
「今日は、岸に残れたな」
「向こうに、手が足りていた」
「前なら、自分がやる方が早いと言っただろう」
否定できず、椀を受け取る。
リタは兵と見張りの交代を確かめていた。靴下を干し終えたソフィが来ると、俺は湯をもう一杯注いで渡した。
レオナが少し場所を空け、ソフィも火のそばへ座る。
「五年前も、君は両方を引き受けようとしたな」
レオナの声が静かになった。
ソフィが彼女を見る。
「二人で、街道の救援へ行ったとき?」
「そうだ。今日は皆で渡れたが、あのときは道が分かれた」
俺が答えた。
ソフィは次の言葉を急かさず、椀を両手で持ち直した。
「土砂が落ちて、避難民を連れた俺たちと、山側の別働隊が離れた。向こうには、負傷者もいた」
薪が短く鳴った。
俺は湯を置いた。今も思い出す音がある。山側から返ってこなかった笛の音だ。
「戻れば、連れている人間を夜の斜面へ残す。進めば、あちらを助けに行けない」
レオナが続きを引き取った。
「私も進む方へ賛成した。指揮を押しつけられたわけではない」
「だが、最終の合図は俺が出した」
「そこを、なかったことにはしない。私の返事も、なかったことにしないでくれ」
俺は顔を上げた。
彼女は怒っていなかった。だが、聞き流してよい声でもなかった。
進んだ先で、避難民を宿へ入れた。別働隊の仲間を失ったと知ったのは、その後だ。
選んだ理由は今も言える。だからといって、あの笛の音が消えるわけではない。
「……分かった」
ソフィが椀へ目を落とした。
「あなた一人が決めたことでは、なかったのね」
許されたとは思わなかった。
ただ、記憶の中に一人で立たなくてもいい、と言われた気がした。
俺は冷めかけた湯を飲んだ。レオナも椀を傾け、それから火を見た。
しばらく、薪のはぜる音だけが続いた。
見張りの交代を告げる声がした。
レオナは立ち上がり、長槍を取る。
「見回りへ行ってくる。君の番までは、休んでいてくれよ」
「分かっている」
彼女は一度うなずき、兵の待つ方へ歩いていった。
その背を見送り、ソフィが俺へ顔を向ける。
「話してくれて、ありがとう」
「いつか、君にも話したかった」
俺は椀の縁を指でなぞった。
話せるときが来るまで待っていたら、何年でも過ぎた気がする。
「君の護衛を辞めたのも、仕事が苦しかっただけではない」
ソフィの手が止まった。
「あのときのように、何かを選ばなければならなくなったら。君まで大切になりすぎて、護衛として考えているのか分からなくなった」
言ってから、もう湯へ逃げられないと気づいた。
ソフィは俺を見ていた。
「……わたしが、困らせていたことも本当でしょう」
「そうだ。それは、本当に困った」
彼女が小さくうなずく。
「ただ、それだけではなかった。自分の判断まで、信じられなくなったんだ」
「今は?」
「今は、君にも決めてもらっている」
火が小さくなった。
ソフィは薪を一本足し、俺の左隣へ座り直した。
「では、今夜はここにいたいわ。あなたの話を、聞けるところに」
俺はうなずいた。
誰かが近くにいるだけで息を詰めた日々があった。今は、その同じ人が隣へ来ると、ようやく息を吐ける。
しばらく二人とも、火を見ていた。
「……何も、話さなくてもいいのよ」
ソフィが言った。
「ずっと聞いているというのも、困らせるかしらと思って」
「いや。いてほしい」
声に出すと、思っていたより短かった。
彼女は少しだけ目を伏せ、隣に置いた椀へ手を伸ばした。
「それなら、そうするわ」
今度は、俺から少しだけ近くへ座り直した。
肩が触れる手前で止まると、ソフィが顔を上げた。
「近いか」
「まだ、間があるわ」
薪一本より狭い隙間だった。
どう返すか考えているうちに、向こうから左腕へ温かさが触れた。
「これで、聞こえるでしょう?」
「さっきから、聞こえている」
「では、そのままでいいわね」
ソフィは火へ顔を向けた。耳の赤さまで、焚き火のせいにはできそうになかった。
俺も椀を持ち直した。
見張りの交代までに湯を飲み終えるくらいは、できるはずだ。
隣から、小さな笑い声がした。
◇
グランフェルへ着いたのは、ベルカから北へ進み始めて六日目だった。
三十三日目。山の斜面に沿って屋根が並び、町の奥に、古い巻き上げ塔が黒く立っている。
レオナは隊を駐屯地へ向け、俺たちは支部へ入った。
到着を報告すると、ミーナが送った問い合わせの控えが届いていた。頁の発見者には、翌日の午後に会えるという。
修理工房の一覧を出してもらい、索引にある第三排出口の番号を示した。
受付が対応する行政台帳の写しを持ってくる。保守の依頼先には、ベルネット工房とあった。
リタが椅子を引いた。
「ここから、実物を追えるね」
俺は工房の名を追い、その先の欄で指を止めた。
持ってきた索引では、第三排出口は廃止になっている。
だが、同じ設備の修理欄に押されていたのは、修理費支払済み、の印だった。
「使わない出口を、直したの?」
ソフィが二枚を見比べる。
まだ、日付と工事の中身を確かめてはいない。
俺は工房の名を手元の紙へ写した。
「明日、何を直したのか聞こう」
廃止された出口には、修理代を払ったという記録が残っていた。
その紙の上へ、リタが橋で拾った鉛札を置く。
北へ来る前から、誰かがこの番号を知っていた。
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