第12話 その呼び方は、いつからですか
「久しぶりだな、アイザック」
名前を呼ばれただけで、肩の力が抜けた。
リュネル支部の馬車置場で、栗色の髪を高く結んだ女が手を上げている。
レオナ・アシュフォード。五年前に同じ混成班で働いた騎士だ。北方駐屯隊の小隊長になったと、打ち合わせの通知にはあった。
「隊長になったんだな」
「君が副隊長になったと聞いたときは、部下が大変そうだと思ったんだが。自分でやると、なかなか難しい」
「俺の部下は、そんなに苦労していたか」
「本人に聞いたら、はいとは言わないだろう」
言い返す前に笑ってしまった。
レオナも笑い、俺の右肩へ目をやる。
「支部の連絡で、怪我をしたと聞いた。握手は左か?」
「握る分には問題ない」
「その問題ないを信用すると、あとで困る」
俺が出した右手を見ながら、彼女は左手を差し出した。
仕方なく左で握る。昔より掌が硬くなっていた。
その向こうで、ソフィが俺たちの手を見ていた。
目が合うと、襟の留め具へ指をやる。
今朝、王都を出て、北行きの荷車と同じ歩調でここまで来た。
夕方の打ち合わせが済めば、今日は宿へ入る。一日歩いたあとだというのに、ソフィの背筋は急に伸びていた。
「今の仲間だ。ソフィと、リタ」
「レオナだ。同じ道を行く間、よろしく」
ソフィは会釈し、リタは短く手を上げた。そのまま、荷台の一番上を指す。
「あの箱、覆いからはみ出してる。雨を吸うよ」
「助かる。直させよう」
レオナが兵を呼んだ。
俺も荷台へ手をかける。すぐに、両側から声が来た。
「肩」
「担当者がいる」
ソフィとレオナだった。
二人は顔を見合わせる。
「止めないと、始めるのよ」
「止めても、軽い方ならと言い出す」
今まさに、その箱なら軽い、と言うところだった。
俺は手を引っ込めた。
リタが自分の荷袋を持ち直す。
「よかったね。説明する手間が減った」
俺が減らしたいのは、注意される回数の方だ。
◇
小部屋の鍵を職員が取りに行く間、ソフィが俺の隣へ来た。
「その呼び方は、いつから?」
「名前か。生まれたときからだ」
「レオナさんが、あなたを呼ぶ方の話よ!」
リタが荷袋へ顔を伏せた。
俺はソフィの方へ向き直る。留め具を直す指が、さっきと同じ場所で止まっていた。
「五年前、街道救援で一緒になったときからだ。君の専属護衛になる前だな」
「その頃から、ああいうふうに話すのね」
「ああ。同じ隊にずっといたわけではないが、遠慮をする相手ではない」
ソフィは小さくうなずいた。
それから、確かめるように俺を見る。
「……わたしも、呼び捨てにしているのに」
聞こえなかったことにできる声の大きさだった。
しなかった。
「君に呼ばれたら、ちゃんと返事をしているだろう」
「ええ。用件も、すぐ聞いてくれるわ」
「用がないときは?」
「それは、次に用ができたときに――」
「だから、用がないときの話をしているの!」
リタの肩が荷袋の向こうで揺れた。
「名前を呼ばれたら、まず無事か、痛いところがあるか、予定が変わったかを聞く癖がある」
「全部、用件ね」
「癖だ」
「直せる?」
すぐにうなずくには、妙に難しい質問だった。
「……練習はする」
「では、わたしが呼ぶから。アイザック」
「何だ」
「ほら!」
今度は、リタが声を殺しきれず笑った。
返す言葉が止まった。
そこへ職員が鍵を持ってきた。リタが真っ先に扉を開ける。
ソフィは俺を追い越すとき、少しだけ頬を膨らませていた。
◇
扉を閉め、ソフィ本人の了解を得て、レオナへ巡察状を渡した。
本名を聞いたレオナの目が、彼女と書面の間を一度往復する。
「承知しました。隊へ伝えるのは、担当と行程に必要なことだけにします」
「人前では、ソフィでお願い」
「分かった。では、ソフィ。北へ行くのは、君も望んでいることなんだな?」
ソフィはうなずいた。
「リタのお兄さんを探したいし、村へ届いたものの出所も知りたい。危険が増えたら、戻ることも三人で相談するわ」
固定結界は張れるが、動く馬車を長く包むことは難しい。そう自分から伝えると、レオナは夜営地の支点を一緒に見てほしいと頼んだ。
俺が説明を足す前に、二人の話がまとまる。
「なるほど。今は、君が全部答える必要はないんだな」
レオナが俺へ言った。
「そうなの。この人のお返事を待つと、話が別のところへ行く場合もあるから」
ソフィはこちらを見ずに言う。
さっきの言葉には、まだ返事ができていなかった。
レオナ隊は救援物資の護送、俺たちは調査隊の捜索。
同じ道では見張りと斥候情報を共有し、隊に別命令が来ればそこで分かれる。互いの任務を確認して、地図を広げた。
第三排出口の古い保守台帳なら、グランフェルの修理工房に残っている可能性があるという。
「地図から消えた理由までは知らない。工房で控えを探し、現物と比べた方がいい」
レオナは工房街を指した。
リタが自分の図へ印を写す。俺たちが王都で見つけた番号に、訪ねる先ができた。
北の橋に通行制限があるという話は、彼女が最新の巡回図を宿へ持ってきてから詰めることになった。
◇
食堂で、レオナが壁際の椅子を引いた。
「ここでいいだろう、アイザック。入口が見える」
「ああ。覚えていたのか」
「別の席だと、会話の途中で何度も後ろを確認するからな」
ありがたく座ろうとすると、ソフィがその隣の椅子へ手を置いた。
「では、わたしはここに」
向かいにも席は空いていた。
俺が椅子を引くと、彼女は礼を言い、膝が触れないくらいのところへ腰を下ろした。
レオナは俺たちの向かいに座る。リタもその隣へ来た。
黒パンとスープが運ばれると、ソフィはパンを割り、迷わず椀へ浸した。
「旅に慣れたね」
レオナが言う。
「パンを武器にしない程度には」
「彼は道具の用途に厳しいからな」
「本人は、書類を食事の邪魔に使うことがあるけれど」
俺は匙を置いた。
「昨日の朝食には、持っていかなかった」
「ええ。ちゃんと覚えているわ」
ソフィがこちらを見て笑った。
俺も、菓子を半分に割って渡してくれた手を思い出す。
向かいでレオナが、一度、匙を止めた。
「昨日は休みだったのか」
「ああ」
「それで二人で朝食。……君も、少し変わったな」
レオナはそう言い、スープを飲んだ。
変わったのは、どの辺りだろうと考える前に、昔の話が始まった。
「昔はひどかった。混成班へ来た初日に、全部の荷札を書き直していたんだ。文字が揃っていないからと」
「積み違いを防ぐためだ」
「それで最後の一箱を積み忘れかけた」
リタが顔を上げた。
「何の箱?」
「……荷札だ」
ソフィが布で口元を押さえた。
笑いが収まる前に、レオナが続ける。
「私が積んでおいた。礼を言われるかと思ったら、次から目録へ先に印を付けてくれ、と」
「礼も言っただろう」
「二番目にね」
ソフィがとうとう声を出して笑った。
俺の隣へ座ったせいで、笑うたびに肩が触れる。
荷札の失敗を、今夜だけは訂正しなくてもいい気がした。
「わたしの知らない話ばかりで、少し悔しいわ」
笑い終えたソフィが言った。
レオナは匙を椀へ置き、彼女の方へ体を向ける。
「今の彼の失敗は、君に聞くべきかな」
「全部話すと、スープが冷めるわ」
「一つずつ頼む」
「報告を求めるな」
俺が言うと、リタまでこちらを見た。
「いつも求めてる人が言う?」
否定できない。
ソフィは俺の顔を見てから、少し考えた。
「昨日は、次の休みに何をしたいか聞いたら、装備の点検と言ったの」
「だろうな」
「でも、そのあと、一緒に行きたい店を選んでくれたわ」
レオナの口元の笑みが、少しだけ静かになった。
「それは、私の知らない話だ」
ソフィが俺を見る。
答えを試されているようで、俺は椀を置いた。
「あの店は、俺も行きたかった」
「ええ。知っているわ」
さっきより近いところで、彼女が笑った。
レオナはしばらく俺を見たあと、パンを割った。
「今の君と働くのも、楽しみだな」
からかう調子とは少し違っていた。
俺はうなずいた。彼女が五年前と同じままでもないことは、部下へ声をかける姿を見れば分かる。
食卓の話は、北でうまいものが食える宿へ移った。
◇
食後は宿の談話室を借りた。
ソフィが椅子に座り、靴を脱いで踵を確かめる。赤くなりかけた場所へ布を当て、靴下の皺を伸ばした。
俺が手当ての袋を出す前に、終わっていた。
「任せられることが増えた?」
巡回図を持って戻ったレオナが、小声で聞いた。
「俺が、任せるのを覚えている途中だ」
「それは大仕事だな」
彼女は笑って、図を広げた。
ベルカより北にある吊り橋へ、印が付いている。荷車の軸幅と、載せてよい重さに制限があるという。
リタが自分たちの車の幅と比べ、首を横に振った。
「このままでは通らないね」
「小車の手配はしてある。荷を分けて渡し、向こうの車へ積み替える予定だ」
レオナが説明する。受け取る人手も、現地で確かめる必要があった。
リタは渡す順を、ソフィは濡らしてはいけない品を見ていく。
明日はベルカへ。橋は、その先だ。
出発時刻を決めると、レオナは部下の待つ別の宿へ戻り、リタも自分の部屋へ上がった。
残った地図を畳んでいると、隣から声がした。
「アイザック」
「何だ。靴がまだ痛むか?」
「それは、自分で手当てしたわ」
顔を上げる。
ソフィは靴を履き終え、こちらを見ていた。
「用がないときにも、呼んでいいでしょう?」
小部屋の前で言われたことを、ようやく思い出した。
俺は地図を袋へ入れた。
「ああ。嬉しい」
ソフィが瞬きをする。
「そういう返事も、できるのね」
「用件を聞く方が、慣れている」
「嬉しい、の方も練習しておいて」
言われて、俺は少し笑った。
それから彼女の名を呼んだ。
「ソフィ」
「なあに?」
すぐに顔がこちらへ向く。
伝える用事は、特にない。
困った。用がなくても呼びたいというのは、こういうことか。
「……明日の朝は」
「起床時刻なら、もう聞いたわよ」
ソフィが吹き出した。
「違う。明日の朝、起きたら……おはようと言う」
「それは、ずいぶん大きな練習ね」
「失敗しないように、今から決めておく」
「決めなくても言っていいのよ」
俺も笑い、言いかけた予定を飲み込んだ。
それぞれの部屋へ向かう短い廊下を、二人で並んで歩く。
今夜は、もう少し長い廊下でもよかった。
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