第11話 朝食に議題はいりません
仕事の書類は置いていく、と言った。
だから俺は朝食の前に、ギルドへ来ていた。
「持っていかなければ、先に読むのはいいという判断ね」
隣のソフィが、机の書類と俺を見比べる。
「この一枚だけだ」
「ええ。わたしも気になっていたわ」
今日は依頼の仕事を入れていない。
ただ、昨日の帰り際、リタが手帳の発見記録を確かめたいと言った。俺たちも同じだった。待ち合わせの時刻まで、と三人で決めて、開いたばかりのギルドへ寄った。
ユアンの手帳の一頁。その下に、北方支部の発見記録がある。
リタは紙の端を押さえたまま、しばらく何も言わなかった。爪が紙へ食い込まないよう、指だけを少し曲げている。
「この矢印。右へ曲がるとき、先を二度書くんだ。兄の癖」
俺は原紙へ触れず、横に置かれた写しを寄せた。
警告の端に細い矢印。その脇に、排三、と読める二文字があった。
「字だけでなく、これも?」
「日付の区切りも。人に読ませる気があるのかって、何度も言った」
笑いかけた口が、その途中で止まる。
ミーナが白い布を敷き、紙を裏返した。裏には薄く透けた文字と、泥の染みだけがある。続きはない。
「発見は十一日前です。旧鉱山の外搬入口にあった工具箱から。現場員の署名と、箱の位置を描いた図も届いています」
発見は、俺が騎士を辞めて十四日目。頁の日付はその二日前だった。
三か月前に消えたユアンは、失踪からかなり後まで外へ警告を書き残せたことになる。
「昨日まで生きていた、という証拠ではない」
リタが先に言った。
「でも、この日までは、兄さんが書けたのかもしれない」
「ああ。確かめよう」
リタは日付を指でなぞりかけ、紙の上で手を止めた。
俺は写しを彼女の方へ向けた。今度は、それを両手で持った。
ミーナは問い合わせ状へ必要なことを記した。
現場員がどこまで入ったか。工具箱は誰が使っていたか。今も入口へ近づけるか。
「次の北行きの便へ載せます。返答は北方支部で受け取る手配で」
「頼む。あたしも、拾った人から直接聞きたい」
出発は明日だ。
注文した坑道用の灯りと検査箱は、今日の午後にそろう。縄の長さも、買う前に三人で決めてある。
リタは装備屋の受取票を出し、用意のできる時刻をもう一度見た。
「早く行きたい」
小さな声だった。
「だから、忘れ物で引き返すのは嫌だ。装備は受け取っておく。荷分けは夕方、三人でね」
「頼む。その前に、何か食べろ」
「そっちもね。……せっかくの約束なんだから」
ミーナが原紙を保管袋へ戻した。
排三の記号は、書庫の索引と照合しておいてくれるという。俺たちは写しを受け取り、席を立った。
◇
宿へ戻り、それぞれの部屋で支度をした。
書類は机へ置く。剣と登録証、それに財布を持った。荷物を減らすたび、何か忘れている気がする。
もう一度机を見そうになり、扉を閉めた。
ソフィは宿の前で待っていた。淡い色の襟元に、小さな留め具。旅のときより軽い靴を履いている。
「待たせたか」
「支度が早く済んだだけよ」
「そうか」
「……少し、早く着替えすぎたわ」
彼女が笑った。
俺はその靴に歩幅を合わせた。今日は行程を縮めるためではない。
朝食の店には、窓際の席が空いていた。
俺は壁を背にできる椅子へ手をかけ、向かいからなら通りがよく見えることに気づいた。
「どちらがいい?」
「あなたの顔が見えるなら、どちらでも」
椅子を引く手が止まった。
ソフィは窓に近い方へ腰を下ろす。耳だけは、平然としていなかった。
俺も、その向かいへ座った。
料理を選ぶ木札には、焼いた卵、豆の煮込み、白パンとある。
「わたしは卵。端が少し焦げたものがいいわ」
「そういう指定もするのか」
「村で食べたら、おいしかったの。あなたは?」
同じものを、と言いかけて止めた。
相手の注文に合わせれば早い。だが、今日は急いで席を立つ予定はない。
木札をもう一度見る。
「豆を。パンは二つ」
「ええ。そうしましょう」
料理が来ると、ソフィはすぐに匙を取った。
俺も豆を一口食べる。薄く切った肉が混じっていて、見た目より塩気が強い。
パンへ手を伸ばしたところで、ソフィが卵の端を口へ運んだ。
小さく目を細める。
俺の手が止まった。
視線を戻すのが惜しい朝食は、初めてだった。
「何か、ついている?」
「いや」
「ずっとこちらを見ているから」
彼女は布で口元を押さえた。
俺はパンを皿へ置く。
「見ていたかっただけだ」
ソフィの匙が止まった。
少しして、皿の端へ置き直される。
「……そういうことは、急に言うのね」
「言わない方がよかったか」
「今、取り消さなくていいの」
彼女はもう一口、卵を食べた。
俺もパンをちぎる。どちらからも、次の仕事の話は出なかった。
隣の卓で、子供が匙を落とした。
俺の足元へ転がってきたので、拾って母親へ渡す。新しい匙を持ってきた店員と、母親が同時に礼を言った。
立ちかけた腰を椅子へ戻すと、ソフィが笑っていた。
「今度は、お食事へ戻ってきたわね」
「匙は、俺が洗わなくてもいいらしい」
ソフィは笑いながら、少し遠い塩の器へ手を伸ばした。
届かないと分かると、俺を見る。
「取ってもらってもいい?」
「ああ」
器を渡すと、彼女は自分の卵へ少し振り、二人の真ん中へ戻した。
二人の間に、匙を動かす音だけが少し続いた。
皿の底に残った煮豆をパンでぬぐう。まだ温かい。
ソフィも卵の最後の一口を食べ終えた。
どちらの皿も空になるまで、席を立つ必要はなかった。
茶を頼むと、ソフィが窓の外を見た。
俺は湯気の向こうの横顔を眺めた。今度は気づかれても、急いで視線を戻さなかった。
「次のお休みは、何をしたい?」
「北では、装備の点検と――」
「仕事の予定ではなくて」
「……そうだった」
彼女は訂正を待って、茶を飲む。
向かいの小さな店には、焼き菓子が並んでいた。ソフィは来る途中、そこを二度見た。
「君が気になっている店も、見てみたい」
「気づいていたの?」
「二度目は、歩く速さまで変わった」
「観察の報告はいらないわ」
言いながら、また窓へ目を向ける。
「では、あのお店は今日。次のお休みは、また二人で選びましょう」
「分かった」
茶を飲み終えてから、二人で店を出た。
会計へ向かう前、店員が宿へ届いていた小さな封書を渡してきた。ソフィは裏の王家の印を見て、少しだけ口元を引き結ぶ。
「お姉様から?」
「北へ行く前に届いていたのね。急ぎではないと書いてあるわ」
開いた文の途中に、セルヴァン公国からの客人が王都へ着く頃には、落ち着いて話す時間を取りたい、とあった。
名前は出ていない。ただ、ソフィはその一行だけを折り目の内側へ隠すように封書を閉じた。
焼き菓子店で、俺は胡桃入りを二つ選んだ。ソフィは蜂蜜のものを一つ。
「二つとも食べるの?」
「一つはリタに」
「では、こちらはわたしたちで」
ソフィが蜂蜜の菓子を少し持ち上げた。
代金は、それぞれの財布から出す。胡桃の二つは別々に包んでもらい、リタの分を鞄へしまった。
店の外で、ソフィが自分の菓子を半分に割った。
俺も胡桃入りを割り、半分ずつ交換する。
蜂蜜の方は、指へ少し貼りついた。
「旅には、持っていきにくいな」
「今日は、持って旅をしないでしょう」
そのとおりだった。
紙で指をぬぐい、残りを口へ入れる。
ソフィがそれを見てから、自分の分を食べた。
◇
午後、買い物の帰りにギルドへ寄ると、リタは食堂で装備の受取票をまとめていた。
俺が菓子の包みを差し出すと、少し目を細める。
「買い出しは、順調だったみたいだね」
「こちらは依頼ではない」
「へえ」
それ以上は聞かず、彼女は胡桃入りを一口かじった。
灯りと検査箱も受け取れたという。夕方に荷を分ければ、予定どおり出発できる。
ミーナが、取り寄せておいた資料を持ってきた。
現行の鉱山図にある排出口は、第一と第二の二つだけだった。
「排三に当たる設備が、こちらにありました」
開いた索引の途中を、指で示す。
第三排出口。その隣に、廃止という文字がある。
「廃止なら、もう塞いだということか」
「そこまでは。この索引だけでは分かりません。現地の保守台帳に当たる必要があります」
ソフィが現行図と古い索引を並べた。
リタは菓子を飲み込み、手帳の写しを横へ置く。
「この番号を、兄さんは調べていたのかな」
「そこへ行け、という印かもしれない。現物を見よう」
俺たちが持っていくのは、地図と索引と、頁の写し。
どれにも答えの続きはない。北で、見た者と設備を確かめる必要がある。
俺は揃えた紙を、明日の荷へ入れる封筒に収めた。
その最後にもう一度、地図を見る。
手帳の頁に残った三番目の出口だけが、今の鉱山図から消えていた。




