甘味はあるか
その日の政務は、夕刻を過ぎても終わらなかった。
南区の暴動はひとまず回避された。
王家名義で放出された小麦は、夜明け前には市場へ届き、パンの価格は急速に下がり始めている。兵を出さず、剣を抜かず、腹を満たすことで火種を消す――カイルの案は、少なくとも最初の一手としては成功した。
だが、それで終わりではない。
むしろ、始まりだった。
「北倉庫の帳簿が合わない」
オフィーリアは執務机に広げられた資料を見下ろし、淡々と言った。
「消えた小麦は三千袋。記録上は虫害による廃棄となっているが、実際には廃棄された形跡がない」
「横流しですね」
カイルは書類を受け取りながら答えた。
「しかも、かなり上の人間が関わってる」
「分かるか」
「分かります。下っ端だけで三千袋は動かせません」
言いながら、カイルは帳簿に目を通す。
数字の列を追ううちに、眠気で霞んでいた頭が少しずつ冴えていく。
疲れてはいる。
だが、こういうものを見ると考えてしまう。
誰が得をするのか。
どこで流れが変わったのか。
どの数字だけが不自然に揃いすぎているのか。
元宰相の老人は、よく言っていた。
『嘘をつく人間は、嘘を綺麗に整えたがる』
この帳簿もそうだった。
虫害、雨漏り、輸送遅延。
理由は複数あるのに、損失額だけが不自然に丸い。
作った数字だ。
「三日ください」
カイルは言った。
「流した先を絞れます」
「二日だ」
「厳しいですね」
「お前ならできる」
さらりと言われ、カイルは返事に詰まった。
信頼、なのだろうか。
それとも単なる酷使だろうか。
まだ判断がつかない。
ただ、オフィーリアはもう次の書類へ目を移している。こちらの動揺など、まるで気にしていない。
執務室には羽ペンの音だけが響いた。
夜が深くなるにつれて、王宮は静かになっていく。
廊下を行き交う足音も減り、窓の外に見える庭園は闇に沈んでいた。
それでも女王の執務室だけは灯りが消えない。
机の上には書類の山。
隅には冷めた茶。
燭台の火が揺れるたび、オフィーリアの横顔に淡い影が落ちる。
美しい人だ、とカイルは思った。
だがその美しさは、絵画のような柔らかさではない。
刃物に似ている。
近づけば、こちらが切れる。
「手が止まっている」
冷たい声が飛んだ。
「すみません」
「眠いなら立って読め」
「それは人間の発想ですか」
「王宮の発想だ」
最悪だった。
カイルは諦めて立ち上がり、資料を抱えたまま室内を歩く。
だが、数分もしないうちに足がもつれた。
情けないことに、徹夜続きの身体は限界に近い。
ふらついた拍子に、机の端へ手をつく。
その時だった。
こつん、と軽い音がした。
机の下。
引き出しの奥から、小さな箱が半分だけ覗いていた。
白い紙箱。
王宮の公文書には見えない。
むしろ、街の菓子店で使われるような箱だ。
「……何ですか、これ」
何気なく手を伸ばした瞬間。
「触るな」
鋭い声が飛んだ。
カイルの指が止まる。
オフィーリアがこちらを見ていた。
顔は無表情。
だが、いつもより少しだけ早口だった。
「それは必要ない」
「必要ない?」
「政務に関係ない」
「じゃあ何で執務机の下に?」
「……」
沈黙。
妙だった。
あのオフィーリアが、答えない。
カイルは紙箱を見た。
白い箱。
淡い金の紐。
かすかに漂う、甘い香り。
まさか。
「陛下」
「何だ」
「これ、菓子ですか」
菫色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
揺れた。
確かに、揺れた。
カイルは目を瞬かせる。
オフィーリアはすぐに表情を戻したが、遅い。
今の反応は見た。
「……菓子ではない」
「でも甘い匂いがします」
「気のせいだ」
「箱に店名が書いてあります」
「読むな」
強い命令だった。
しかし、残念ながらもう読めてしまった。
王都南区の菓子店。
しかも、昼間カイルが見かけた店である。クリーム菓子が評判だと、露店の店主が言っていた。
カイルは、紙箱と女王の顔を見比べた。
「陛下、甘いものがお好きなんですか」
「嫌いではない」
「好きなんですね」
「嫌いではないと言った」
ほんの一瞬だけ、気まずそうな沈黙が落ちる。
カイルは必死に笑いを堪えた。
笑えば、たぶん殺される。
少なくとも、書類の山に埋められる。
「見るな」
オフィーリアが低く言った。
「はい」
「忘れろ」
「努力します」
「努力では足りん。忘れろ」
「人間の記憶は命令では消えません」
失言だった。
オフィーリアの瞳が冷える。
カイルは即座に姿勢を正した。
「忘れました」
「早いな」
「生存本能です」
数秒の沈黙。
それから、オフィーリアは小さく息を吐いた。
怒鳴るでもなく、処罰するでもなく。
ただ、諦めたように引き出しを開け、紙箱を取り出す。
中には、白いクリームをたっぷり挟んだ焼き菓子が並んでいた。
ふわりと甘い香りが広がる。
その瞬間。
オフィーリアの菫色の瞳が、ほんの少しだけ輝いた。
本当に、ほんの少し。
普通の者なら気づかない程度の変化。
だが、カイルは見てしまった。
鉄の女王と恐れられる人が、甘いものを前にして、子どものように喜ぶ瞬間を。
「……食べるんですか」
「糖分補給だ」
「なるほど」
「政務に必要だ」
「はい」
「笑うな」
「笑ってません」
「口元が笑っている」
駄目だった。
カイルは咳払いで誤魔化す。
オフィーリアは焼き菓子を一つ手に取り、無表情のまま口へ運んだ。
噛む。
沈黙。
そして、菫色の瞳がもう一度、わずかに柔らかくなる。
「……悪くない」
声はいつも通り低い。
顔も変わらない。
けれど、どう見ても機嫌が良くなっていた。
カイルは理解した。
この人は、甘いものが好きだ。
かなり好きだ。
たぶん、とても好きだ。
「陛下」
「何だ」
「明日、南区の店を調べに行くついでに、何か買ってきましょうか」
オフィーリアの手が止まった。
その反応だけで答えは十分だった。
しかし女王は、あくまで平然と言う。
「……必要なら許可する」
「必要ですか」
「政務に必要だ」
「承知しました」
カイルは深く頷いた。
笑ってはいけない。
絶対に。
けれど、胸の奥が少しだけ軽くなっていた。
鉄の女王。
冷酷で、孤独で、誰より働く人。
そんな彼女にも、隠している小さな楽しみがある。
それを知ったことが、なぜか嬉しかった。
オフィーリアは最後の一つを手に取り、ふとこちらを見る。
「カイル」
「はい」
「誰にも言うな」
その声音は低く、厳しい。
だが、いつもの刃のような冷たさとは少し違っていた。
カイルは姿勢を正し、真面目に答えた。
「もちろんです」
「破れば」
「破れば?」
「タダでは済まさん」
怖い。
やはり怖い。
だが、カイルはもう知ってしまった。
この人は怖いだけではない。
焼き菓子の箱を大切そうに閉じる女王を見ながら、カイルは思う。
王宮に来てから、まだ数日。
それでも、少しずつ見えてきたものがある。
誰も知らない女王の顔。
誰にも見せないはずの、小さな綻び。
そして、それを知ってしまった自分は。
たぶんもう、引き返せない。




