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乳兄妹

 徹夜明けの王宮は、やけに眩しかった。


 窓から差し込む朝日は清々しいほど白く、磨かれた床はその光を反射している。官吏たちは書類を抱えて足早に行き交い、兵士たちは規則正しく交代へ向かう。


 誰もが、当然のように働いていた。


 つい数日前まで王都南区の露店でパンの値札を眺めていたカイルには、その光景がひどく遠いものに思える。


 いや、遠いというより、単純に眠かった。


「陛下」


「何だ」


「人は、こんなに働くものなんですか」


 前を歩くオフィーリアは振り返らなかった。


 金の髪をきっちりと束ね、黒と金の軍服を乱れなく纏っている。夜通し政務をこなしたはずなのに、その背筋は少しも崩れていない。


「働かない者ほど、よく喋る」


「……仰る通りです」


 返す言葉もない。


 カイルは諦めて歩幅を広げた。


 しかし、どうしても追いつけない。オフィーリアの足取りは速い。こちらが小走りになってようやく距離を保てるほどだ。


 女王の背を追いながら、カイルは王宮の視線を感じていた。


 昨日より、さらに露骨になっている。


 女王が拾ってきた平民。


 突然補佐官にされた男。


 そんな噂が、早くも広まっているのだろう。


 すれ違う官吏も侍女も、表向きは礼を取る。けれど視線の端に混じる好奇と侮りは隠せていない。


「気になるか」


 不意にオフィーリアが言った。


「……少しは」


「なら慣れろ」


 容赦がない。


「王宮では、見られることも仕事のうちだ」


「平民には少々荷が重いです」


「では重さに潰れないよう鍛えろ」


 やはり容赦がない。


 それでも、突き放しているだけではないのだと、カイルには何となく分かり始めていた。


 オフィーリアは甘やかさない。


 だが、見捨てもしない。


 その時だった。


 前方の扉が、断りもなく開いた。


「おい、オフィーリア」


 王宮の廊下に、あまりにも不敬な声が響いた。


 周囲の官吏が一斉に凍りつく。


 カイルも思わず足を止めた。


 入ってきたのは、二十代前半ほどの青年だった。


 癖のある黒髪に、少し気怠げな目元。上等な服を着ているのに、どこか着崩している。貴族らしい気品はあるが、ルーファスのような隙のなさとは違う。


 親しげで、粗い。


 そして、女王を呼び捨てにした。


「ノア」


 オフィーリアの眉がわずかに寄る。


 叱責する声ではなかった。


 むしろ、呆れに近い。


「公の場では陛下と呼べ」


「はいはい、陛下」


 まるで反省していない。


 カイルは内心で目を見開いた。


 この王宮に、オフィーリアへこんな口を利く人間がいるとは思わなかった。


 青年――ノアは、そこでようやくカイルに気づいた。


 眠たげだった目が、すっと細くなる。


「誰、それ」


 初対面にしては、あまりに率直だった。


 オフィーリアは短く答える。


「カイル。補佐官だ」


「補佐官?」


 ノアは数秒、黙った。


 それから、もう一度カイルを見る。


 頭の先から靴の先まで。


 値踏みではない。


 警戒だ。


「平民に見えるけど」


「平民だ」


「お前が?」


「私が決めた」


 沈黙。


 周囲の空気がさらに固くなる。


 ノアは軽く笑った。けれど、その笑みは少しも柔らかくない。


「へえ。珍しいこともあるもんだな」


「ノア・エヴァレット」


 オフィーリアがカイルへ視線を向ける。


「伯爵家の次期当主。私の乳兄妹だ」


 乳兄妹。


 その一言で、カイルはようやく二人の距離感を理解した。


 同じ乳母に育てられた幼馴染。


 王と臣下である前に、幼い頃から互いを知る相手。


 だから、ノアは呼び捨てにできる。


 だから、オフィーリアも即座に切り捨てない。


「よろしく、平民くん」


 ノアが片手を上げた。


 口調は軽い。


 だが目は笑っていなかった。


「カイルです」


「家名は?」


「ありません」


「だろうね」


 棘がある。


 カイルは返事に困った。


 こういう相手は苦手だ。敵意があるのか、試しているのか、判断しづらい。


 ノアは一歩近づき、声を低くする。


「一応言っとくけど」


 その目が、真っ直ぐカイルを射抜いた。


「あいつを泣かせたら殺す」


「……え?」


「ノア」


 オフィーリアの声が少し低くなる。


 だが、本気で怒ってはいない。


 むしろ、困ったような響きすらあった。


 カイルは、そのことに驚いた。


 女王は普段、鉄のように振る舞う。


 言葉は鋭く、判断は早く、誰にも隙を見せない。


 けれどノアの前では、ほんの少しだけ違った。


 過去を共有する者にしか見せない、わずかな緩み。


 それを見て、カイルは少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。


 嫉妬ではない。


 まだ、そんな感情ではない。


 ただ、自分の知らないオフィーリアがそこにいることが、不思議だった。


「で?」


 ノアは机の上に積まれた書類を見て、露骨に顔をしかめた。


「また徹夜?」


「必要だった」


「必要でも寝ろ。前にも言っただろ」


「寝ている」


「二時間を睡眠に数えるな」


 カイルは思わず視線を上げた。


 同じことを言っている。


 するとオフィーリアがこちらを見た。


「何だ」


「いえ。同じことを考える人が他にもいるんだなと」


「余計なことを考える暇があるなら、手を動かせ」


 いつもの冷たい声。


 けれど、ノアがいるせいか、ほんの少しだけ角が丸い。


 ノアもそれに気づいたのだろう。


 彼はオフィーリアを見て、それからカイルを見た。


 何かを測るような目だった。


「……ふうん」


「何だ」


「いや」


 ノアは肩を竦めた。


「少し、変わったなと思って」


 オフィーリアの表情が消える。


「くだらん」


「そうかな」


「失せろ」


「はいはい」


 ノアは笑って退いた。


 そのやり取りに、周囲の官吏たちは相変わらず青ざめていたが、カイルだけは少し違うものを見た気がした。


 鉄の女王。


 恐れられる支配者。


 けれど彼女は、初めから鉄でできていたわけではない。


 そう思った。


 ノアは去り際、カイルの横で足を止めた。


「平民くん」


「カイルです」


「じゃあカイル」


 ノアは薄く笑う。


「あいつは自分のことを後回しにする。見てれば分かるだろ」


 カイルは答えられなかった。


「止められるなら止めろ。無理なら、せめて倒れる前に気づけ」


 それだけ言うと、ノアは背を向けた。


 軽い調子だった。


 だが、その言葉だけは冗談ではなかった。


 オフィーリアは何も言わない。


 ただ、わずかに目を伏せていた。


 カイルはその横顔を見て、胸の奥に小さな重みを覚えた。


 この人は、誰かに心配されることにも慣れていないのかもしれない。


「カイル」


 名前を呼ばれ、我に返る。


「はい」


「仕事に戻る」


「……はい」


 歩き出すオフィーリアの背を、カイルは追った。


 相変わらず速い。


 相変わらず追いつきづらい。


 けれど、先ほどまでより少しだけ、その背中が近く見えた。

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