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お前の目が必要だ

 甘味の箱を見つけてしまった夜から、二日が経った。


 王宮の空気は、表向きには何も変わっていない。


 官吏たちは相変わらず書類を抱えて廊下を行き交い、侍女たちは音もなく働き、兵士たちは女王の執務室の前で姿勢を崩さない。


 だが、カイルへ向けられる視線だけは明らかに増えていた。


「例の平民だ」


「本当に補佐官になったのか」


「陛下の執務室に出入りしているらしい」


 囁きは小さい。


 けれど、聞こえないほどではない。


 好奇、侮り、警戒。


 王宮は身分の世界だ。家名も持たない平民が、女王のすぐ近くに置かれている。それだけで、誰かの感情を逆撫でするには十分だった。


 カイルは書類束を抱え直し、何も聞こえなかったふりで歩いた。


 慣れている、と思う。


 辺境にいた頃も、平民というだけで軽く見られることはあった。


 だが王宮の視線は、もっと湿っている。直接殴られるわけではない。けれど、足元からじわじわと泥を染み込ませてくるような嫌な感じがした。


「生きていたか」


 不意に横から声がした。


 振り向くと、ルーファス・ヴァレンタイン公爵が立っていた。


 今日も隙のない軍服姿である。灰銀の髪は乱れなく整えられ、表情には余計な感情がない。


「……公爵」


「陛下の執務室で徹夜が続いていると聞いた」


「はい」


「生きているなら上出来だ」


「それ、冗談ですか」


「事実だ」


 真顔だった。


 カイルは少しだけ力が抜ける。


「公爵も経験が?」


「三日で倒れた」


 意外だった。


 この完璧そうな貴公子でも倒れるのか。


「陛下は?」


「倒れない」


 ルーファスは短く言った。


「倒れないように見せるのが、上手いだけだ」


 その言葉に、カイルは黙った。


 冷たい男だと思っていた。


 だが、少なくともオフィーリアを見ていないわけではないらしい。


「君を認めたわけではない」


 ルーファスは淡々と続ける。


「だが、北部の徴税資料の読み方は悪くなかった」


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「今の流れでそれは無理があります」


 ルーファスの眉が、ごくわずかに動いた。


 怒らせたかと思ったが、そうではないらしい。


「……口も少しは回るようだな」


 それだけ言うと、ルーファスは視線を外した。


 以前ほどの拒絶はない。


 それでも距離はある。


 当然だ。


 カイルはまだ、この王宮で何者でもない。


 その時、廊下の向こうから数人の貴族が歩いてきた。


 彼らはカイルを見るなり、あからさまに表情を曇らせた。


「平民風情が」


 聞こえる声量だった。


「陛下も何をお考えなのか」


「王宮の品位に関わる」


 カイルは足を止めなかった。


 止めれば負けだと思った。


 しかし、胸の奥が小さく軋む。


 何を言われても平気なつもりだった。だが、オフィーリアの名前を出されると、妙に腹が立つ。


 その瞬間。


「失せろ」


 低く、澄んだ声が廊下を切った。


 空気が凍る。


 いつの間に来ていたのか、オフィーリアが立っていた。


 黒と金の軍服。束ねられた金髪。菫色の瞳。


 ただそこにいるだけで、場の主導権が変わる。


「陛下……」


 貴族たちが青ざめて頭を下げた。


 オフィーリアは表情を変えない。


「私の人事に口を出すな」


「し、しかし」


「耳が悪いのか」


 声は荒くない。


 だからこそ、怖い。


「失せろと言った」


 貴族たちは言葉を失い、逃げるように去っていった。


 廊下に残った沈黙の中で、カイルは小さく息を吐く。


「ありがとうございます」


「勘違いするな」


 オフィーリアは前を向いたまま言った。


「使える駒を守っただけだ」


「はい」


 そう答えながら、カイルは思う。


 きっと以前なら、その言葉をそのまま受け取っていた。


 けれど今は違う。


 この人は、優しさを優しさとして渡すのが下手なのだ。


 そのことを、少しだけ知ってしまった。


 ルーファスが静かに二人を見ていた。


 何か言いたげだったが、結局何も言わずに礼を取る。


「陛下。私はこれで」


「働け」


「承知しております」


 去り際、ルーファスはカイルへ一瞬だけ視線を向けた。


 警告でも敵意でもない。


 ただ、見定めるような目だった。


 執務室へ戻ると、机の上にはまた書類の山が築かれていた。


 カイルはそれを見て、現実逃避したくなる。


 だが、オフィーリアは当然のように椅子へ腰を下ろした。


「南区の小麦価格は安定し始めている」


「はい」


「だが、報告だけでは足りん」


 オフィーリアは一枚の地図を広げた。


 王都南区。


 市場、倉庫、職人街、貧民の多い路地。


 カイルがよく知る場所だった。


「現場を見る」


「視察ですか」


「お忍びで行く」


 カイルは少し驚いた。


 女王自ら、城下へ。


 しかも、お忍びで。


「危険では?」


「だからお前を連れていく」


「自分、剣は使えませんよ」


「知っている」


「足も遅いです」


「それも知っている」


「ではなぜ」


 オフィーリアは地図から顔を上げた。


「お前は民の顔を見ている」


 短い言葉だった。


 けれど、カイルは返事に詰まる。


「私は報告を読む。命令も出す。だが、王宮にいる限り見えないものがある」


 菫色の瞳が、真っ直ぐこちらを見た。


「お前の目が必要だ」


 胸の奥が、妙に熱くなった。


 信頼、なのかもしれない。


 少なくとも、ただの駒に向ける言葉ではなかった。


「……分かりました」


「明朝、南門へ出る」


「服装は?」


「目立たぬものにする」


 カイルは一瞬、女王の軍服姿を見た。


「陛下が目立たない格好を?」


「何だ」


「いえ」


「言え」


「想像できません」


 沈黙。


 オフィーリアの瞳が少しだけ冷える。


「失せたいのか」


「黙ります」


 即答した。


 けれど、わずかに空気が緩んだ気がした。


 その夜、カイルは知らなかった。


 翌日の城下で、女王が想像以上に目立つことを。


 そして、鉄の女王が民の前で見せる、もう一つの顔を知ることになることを。

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