右腕候補
夜明けの光が、執務室へ差し込んでいた。
窓辺の薄いカーテンを透かした朝日が、書類の山を白く照らしている。
カイルはゆっくりと身体を起こした。
首が痛い。腕も重い。いつの間にか、机へ突っ伏したまま眠ってしまっていたらしい。
昨夜の記憶は曖昧だった。
王宮へ連れてこられ、会議へ放り込まれ、そのまま執務室へ連行され――気づけば、大量の書類に囲まれていた。
辺境で元宰相に叩き込まれた知識がなければ、途中で逃げ出していたかもしれない。
「……終わった」
掠れた声が漏れる。
正直、もう限界だった。
そう思いながら顔を上げ、そして言葉を失う。
向かい側。
オフィーリアが、まだ仕事をしていた。
「……え?」
思わず声が出た。
軍服姿のまま、女王は書類へ視線を落としている。乱れた金髪が肩へ流れ、窓から差す朝日に淡く光っていた。
疲れの色がないわけではない。
だが、その姿勢は崩れていない。
菫色の瞳は、変わらず鋭く紙面を追っていた。
「起きたか」
顔も上げず、オフィーリアが言う。
カイルは目を瞬かせた。
「……まさか、寝てないんですか」
「寝た」
「何時間」
「二時間ほど」
カイルは額を押さえた。
それを睡眠と呼ぶ人間を、彼は知らない。
「短すぎます」
「足りる」
「足りません」
「私は足りる」
会話が終わった。
昨夜から思っていたが、この女王、恐ろしく頑固である。
しかも、自分に対して容赦がない。
「南区の件は動いた」
オフィーリアは淡々と言った。
「備蓄小麦の放出命令を出した。北倉庫の監査も始めている」
さらりと言われた内容に、カイルは目を見開く。
「もうですか?」
「遅ければ意味がない」
当然のように返される。
会議が終わったのは深夜だった。
そこから倉庫を押さえ、商人へ通達を出し、兵の配置まで調整したということになる。
異常な速度だ。
「……凄いですね」
思わず口に出ていた。
オフィーリアが初めて視線を上げる。
「当然だ」
「いや、当然じゃないです」
カイルは苦笑した。
「普通、王族ってもっと……こう」
「こう?」
「命令だけして、後は部下任せかと」
少し失礼だったかもしれない。
だが、オフィーリアは気を悪くした様子もなく、書類へ目を戻す。
「無能な部下ほど、自分で確認せねばならん」
随分な言い草だった。
もっとも、昨日の会議を見た限りでは、否定もしづらい。
誰一人として現場を見ていなかった。
市場価格すら把握していない。
そんな人間たちが、国を動かしている。
その中心にいて。
この女王は、一人で全部背負っているのかもしれない。
「……平気なんですか」
気づけば、問いが零れていた。
「何がだ」
「嫌われるの」
オフィーリアの手が止まった。
執務室が静かになる。
数秒ほどの沈黙のあと、女王は窓の外へ視線を向けた。
「王は、好かれる仕事ではない」
平坦な声音だった。
けれど、どこか諦めにも似た響きがある。
「誰かが嫌われ役を引き受けねば、国は動かん」
朝日が横顔を照らす。
整った顔立ちは美しいのに、不思議と温度を感じない。
「民に石を投げられても構わない。貴族に憎まれても構わない」
そして、静かに言った。
「国が残れば、それでいい」
カイルは返す言葉を失った。
格好いい、とは違う。
凄い、とも少し違う。
ただ――痛々しかった。
この人は、あまりにも一人だ。
その時、扉が叩かれる。
「陛下。朝食をお持ちしました」
「入れ」
侍女がワゴンを押してくる。
簡素な朝食だった。
パンに卵、果物。そして湯気の立つスープ。
侍女が申し訳なさそうに頭を下げる。
「急ぎでしたので、簡易なものしか……」
「構わん」
オフィーリアは短く答える。
そして自然な動作で、スープ皿をカイルの前へ押した。
「食え」
「……え?」
「腹が鳴っている」
言われた瞬間、カイルは固まった。
どうやら聞かれていたらしい。
恥ずかしい。
「いや、でも」
「命令だ」
有無を言わせぬ声音だった。
結局、カイルは匙を手に取る。
一口。
温かな野菜の甘みが、疲れた身体に染みた。
「……美味しい」
思わず零れた声に、オフィーリアの瞳がわずかに揺れる。
「そうか」
それだけだった。
けれど、どこか満足そうに見えたのは、気のせいだろうか。
カイルは匙を置きながら思う。
怖い人だ。
容赦もない。
けれど。
(……放っておけないな)
そう思ってしまった時点で、きっともう遅かった。




