眠らない女王
王宮の廊下は、夜になっても明るかった。
いや。
正しくは、“女王の執務室だけ”が明るかった。
「……まだやるんですか」
カイルは思わず呟いた。
目の前には、紙。
紙。
紙。
そして紙。
積み上げられた書類の山は、もはや壁だった。
穀物流通、税率、南区警備、冬季備蓄、地方報告。
頭が痛い。
さっきまで平民だった男に処理させる量ではない。
対して。
机の向こうに座るオフィーリアは、平然としていた。
黒い軍服姿のまま、羽ペンを走らせている。
灯りに照らされた金色の髪が淡く揺れ、菫色の瞳は書類へ向けられたままだ。
疲れた様子が、まるでない。
「当然だ」
短い返事。
「南区は明日には動かねばならん。遅れれば暴動になる」
そう言って、次の書類へ視線を落とす。
「……寝ないんですか」
「寝る」
一拍。
「三時間ほど」
「三時間!?」
思わず声が裏返った。
オフィーリアがちらりと見る。
「何だ」
「短すぎません?」
「足りる」
「足りません」
「私は足りる」
会話が終わった。
怖い。
そして強引だ。
だが、同時に。
(……この人、働きすぎだろ)
とも思う。
会議が終わったあとも、オフィーリアは休まなかった。
官僚への指示。
倉庫在庫確認。
市場価格の再調査。
兵の配置見直し。
全部、自分で見ている。
もっと、命令だけ出す人間だと思っていた。
違う。
この女王は、自分で動いている。
それも、異常なくらい。
「おい」
低い声。
気づけば、オフィーリアがこちらを見ていた。
「何ぼうっとしている」
「……すみません」
「遅い」
「頑張ってます」
「頑張るのは当然だ」
理不尽だった。
カイルはため息を飲み込む。
だが、文句を言いながらも手は動かした。
老人に仕込まれた知識が役に立つ。
穀物価格。
税率。
地方差。
王都の物流。
思ったより、理解できた。
すると。
「……ほう」
珍しく、オフィーリアが顔を上げた。
「何ですか」
「お前」
菫色の瞳が細くなる。
「ちゃんと読めるのだな」
「馬鹿にしてます?」
「少し」
即答だった。
失礼だ。
だが。
少しだけ、空気が柔らかい。
初めてだった。
怖いだけではない。
人間っぽい反応。
「勉強は好きだったので」
「平民が?」
「変ですか」
「珍しい」
オフィーリアはペンを止めた。
「誰に習った」
カイルは少し迷う。
「……昔、辺境にいた老人に」
「教師か」
「そんな立派なものじゃ」
一瞬、迷ったあと言う。
「元宰相でした」
沈黙。
初めて。
オフィーリアの動きが止まった。
「……何だと?」
「左遷されてた人です」
「名は」
「アルトス・レイヴン」
空気が変わった。
オフィーリアの瞳がわずかに揺れる。
驚いている。
初めて見た表情だった。
「死んだと聞いていた」
「去年」
短く答える。
冬だった。
最後まで嫌味な老人だった。
『王を見ろ、カイル』
『王の器を持つ者がいたら、逃がすな』
今なら、少し分かる。
あの老人が何を見ていたのか。
オフィーリアはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言う。
「……そうか」
珍しく、それ以上は何も聞かなかった。
静かな時間が流れる。
羽ペンの音だけが響く。
気づけば、窓の外は真っ暗だった。
もう限界だった。
「……帰っていいですか」
「駄目だ」
即答。
「えぇ……」
「今夜から働けと言った」
「突然すぎます」
「何か文句でもあるのか?」
通じない。
当然だった。
カイルは机に突っ伏しそうになる。
眠い。
腹も減った。
もう無理だ。
すると。
ふいに、書類が差し出された。
「これも」
「まだあるんですか!?」
「当然だ」
鬼だ。
本当に鬼だった。
しかし。
差し出された紙を受け取る瞬間。
オフィーリアの視線が止まる。
「……お前」
「はい?」
「字が綺麗だな」
カイルは固まった。
初めてだった。
この女王が、自分を少しでも認めたような言葉を言ったのは。
けれど、次の瞬間。
「使える」
仕事道具扱いだった。
(褒められたのか……?)
分からない。
ただ。
少しだけ。
悪くない気分だった。




