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第9話 闇から闇へ

「……それくらいにしときなよ」


その声に、ニット帽の男がゆっくりと振り返った。

そこには、一人の青年が立っていた。


ピチピチの黒いシャツに、少し丈の短いズボン。

場違いなほど整った顔立ちをしたその青年は、

困ったような表情で男を見つめていた。


「……なんだ、お前は?」

ニット帽の男が低い声で尋ねた。


「いや、ただの通りすがりだけど。」


こういう場合、返答に困るよな…

なんせ身分証が無いんだから。


「……まあ、それはいいとして」


俺は男の足元に視線を落とした。

いかつい男が倒れている。


口元から血を流し、苦しそうに呼吸を繰り返している。

どう見たって、これ以上戦える状態ではない。


「相手はもう戦意を失くしてるだろ。これ以上やっても無意味だよ」


「…………」

ニット帽の男は答えなかった。

ただ、サングラスの奥から和夫を見据えていた。


周囲を見回すと。

通りには、まだ大勢の野次馬が残っていた。


遠巻きに様子を窺う者。

スマートフォンを構える者。

倒れている男たちを見て、青ざめている者。


「おーい!」

俺は彼らに向かって大きく手を振った。


「誰か! 早く救急車を呼んでください!」

その声に、何人かが顔を見合わせた。


「え……救急車?」

「そ、そうだよな……」

「おい、誰か通報したか?」

「警察には電話した!」

「救急車も呼べよ!」

ようやく周囲が動き始めた。


そんな光景を、清水は薄れゆく意識の中で見ていた。

「…ぐ…」


身体が動かない。

息をするたびに、横腹に激痛が走る。

視界はぼやけ、耳鳴りがしていた。

それでも、目の前に現れた青年の姿だけは、妙にはっきりと見えた。


…誰だ、あいつ。

見たこともない顔だ…


この街で自分たちに逆らう人間など、ほとんどいない。

ましてや、あの化け物じみた男の前に、自分から立ちはだかる奴がいるとは。


「や…やめ…」

手を出すなと言いたくても声に出せない。


だが、その青年は不思議なほど落ち着いていた。


「……ふん」

ニット帽の男が鼻を鳴らした。


そして、ゆっくりと両手を広げた。

「私は、この街のゴミを掃除しているにすぎない」

その声は、先ほどまでの低い声とは打って変わり、

芝居がかった響きを帯びていた。


演説好きなんだな…きっと。

俺は心の中で思った。


「こいつらが何をしてきたか、知らないわけではあるまい?」

男は倒れているギャングたちを見下ろした。


「金を巻き上げ、店を奪い、善良な市民を脅し続けてきた連中だ」


そして、周囲の人々に向かって声を張り上げた。

「私は、この街のためにやっているのだ!」


両腕をさらに大きく広げる。

「そうだろう? 庶民の諸君!」


「…………」

一瞬、通りが静まり返った。

誰もが顔を見合わせていた。

だが、次の瞬間。

パチ……パチ……。

どこからか、拍手が聞こえた。


「……そうだよな」

人混みの中から、誰かが呟いた。

「蒼達磨の連中、相当ひどいことやってたらしいぜ」

「俺の知り合いも、あいつらに店を取られたんだよ」


パチパチパチ……。

拍手が少しずつ増えていく。

ヒュウッ!

口笛まで聞こえた。


「いいぞー!」

「やっちまえ!」

そんな声も上がり始めた。


もちろん、全員が賛同しているわけではなかった。

血まみれで倒れている男たちを見て、震えている人もいる。

何も言わず、ただスマートフォンを向けている人もいた。


それでも、ニット帽の男は満足そうだった。

「……ふふ」

まるで観客から喝采を浴びる舞台俳優のように、ゆっくりと頭を下げた。


「ご理解いただけたようで、何よりだ」


「…………」

俺は眉をひそめた。

…何だ、こいつ…


確かに、倒れている連中がろくでもない奴らなのかもしれない。

実際、さっきから聞こえてくる話では、相当ひどいことをしていたらしい。

だからといって。


「……いや、でもさ」

和夫は口を開いた。

「何も殺すことはないだろ?」


ニット帽の男が顔を向けた。

「……何?」


「悪いことしたんなら、警察に捕まえてもらえばいいじゃないか」


「…………」


「こんな大勢の人がいるところで、殺す必要なんてないだろ」

その言葉に、男の口元が僅かに歪んだ。


「ククク…」


「ん?」


「…警察だって?

サツなど権力者の犬だ。何にもしやしないんだよ。」


「だからって殺しちゃいけないと思うけど。」


「貴様…私が誰だか分かっているのか?」


「わかるわけないじゃん、あんた顔隠してるでしょ?」

和夫は素直に答えた。


ギャラリーから小さく失笑が漏れ聞こえる。


「く……」

ニット帽の男のこめかみが、ぴくりと動いた。


「…なんだ、お前」

男はゆっくりと腕を下ろした。


「邪魔だ…」

その声が終わるか終わらないかの瞬間だった。


ドンッ!!


と アスファルトを蹴る音が響いた。

男の姿が、和夫の視界から消える。


いや、正確には消えたように見えるほどの速度で踏み込んだのだ。

一瞬で間合いを詰め、右腕を振り上げる。


先ほどまでギャングたちを一方的に蹂躙していた、あの速度。

普通の人間なら、何が起こったのか理解する間もなく倒されていただろう。

だが。


「――ばかもーん!!」

パァァァンッ!!


乾いた音が、繁華街に響き渡った。


「…………」


一瞬。

本当に一瞬の出来事だった。


和夫が右手を振った。

ただ、それだけだった。

殴ったのではない。

拳を握ってすらいない。


向かってきた男の頬を、平手でひっぱたいたのだ。


……しかし。


その威力は、平手打ちなどという生易しいものではなかった。

「ぶっ――!!」


ニット帽の男の顔が、横へと大きく歪んだ。

マスクが弾け飛び、サングラスが砕け散る。

口元から数本の前歯が飛び出した。

鼻からは赤い飛沫が噴き上がる。


そして。


ギュルルルルルッ!!

男の身体が、猛烈な勢いで回転しながら

そのまま真横へ吹き飛んだ。


「――――っ!?」


周囲の人々が、揃って目を見開いた。

誰も声を出せなかった。

男の身体が一直線に飛んでいった。


ドゴォォォンッ!!


凄まじい轟音が響いた。

通りに面したビルの外壁が砕け、コンクリートの破片が飛び散った。


「…………」

静寂。



ほんの数秒前まで、拍手や口笛が響いていた繁華街が、嘘のように静まり返った。

人々の視線が、一斉に隣のビルへと向けられる。


「…………え?」

誰かが呟いた。

ビルの壁。

地上から数メートルほどの高さ。

そこに。

……人間が生えていた。


いや、正確には、ニット帽の男が頭から壁に突き刺さっていた。

上半身はコンクリートの中。

腰から下だけが、外へ突き出している。

そして、その二本の足が。

ピクピクッ。

誰もが呆然としていた。


先ほどまで圧倒的な力を見せつけていた男が、

たった一発の平手打ちで、ビルの壁に突き刺さっている。

しかも、やった本人は。

「…………あ」

なんか申し訳なさそうな顔をしていた。

やっちゃった。

いや、違う。

俺は別に、あんなことをするつもりじゃなかった。


ただ、いきなり殴りかかってきたから、反射的に手が出ただけで。

それも、ほんの軽く。

周囲の視線が、今度は一斉に和夫へと向けられた。

「……あの人がやったの?」

「……嘘だろ」

「平手打ちだったよな?」

「……見えなかったんだけど」

「何者だよ、あいつ……」

ざわざわと声が広がっていく。


その一部始終を、清水は地面に倒れたまま見ていた。

「…………」


もう、何が何だか分からなかった。

自分たちを一方的に叩きのめした化け物。


その化け物が、目の前の青年に一撃で吹き飛ばされた。

しかも、平手打ちで。


…誰なんだ。

何なんだ…今日は…


清水の霞んだ視界に、和夫の姿が映っていた。

整いすぎた顔立ち。

袖の短いピチピチのシャツと丈の短いズボン。

そして、何より。

あの、困り果てたような表情。

……何で、そんな顔してやがる。


清水には理解できなかった。

あれほどの力を持ちながら、勝ち誇るでもなく、威張るでもなく。

まるで、何か失敗でもしたかのように、自分の手を見つめている。

「………」


清水の瞼が、ゆっくりと落ちていく。

意識が遠のいていく。

その最後の瞬間まで、清水は青年の姿を目に焼き付けていた。


…あいつは…。

いったい…だが助かった…

そこで、清水の意識は途切れた。


ウウウウウウ――。

遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。

一つではない。


いくつもの音が、繁華街へと近づいてくる。

パトカー。

そして、救急車。


「………」

和夫はその音に気づくと、びくりと肩を震わせた。


「……あ」

まずい。

非常にまずい。

警察が来る。


いや、別に悪いことをしたつもりはない。

人が殺されそうになっていたから、止めただけだ。

それだけなのだ。


……ただ。

俺が止めた結果、相手がビルに突き刺さってしまった。

「……」

これ、どう説明すればいいんだ?


『あの人が殴りかかってきたので、軽くビンタしたら飛んでいきました』

……いやいやいや。

そんな説明、誰が信じるんだよ。

むしろ、俺の方が捕まるんじゃないか?

それに、身分証明書もない。

住所もない。


そもそも、本当のことを言ったって変人扱いされて

取り調べされるに決まっている。

「………」

考えれば考えるほど、面倒なことになる未来しか見えなかった。


「……まずい」

和夫は小さく呟いた。


「また余計なことしちゃった……」

ビルの壁から突き出した足を、ちらりと見る。

ピクッ。


……まだ動いてる。

よかった。

いや、よくはないけど。

少なくとも、生きてはいるらしい。


「………」

周囲を見回すと、誰もがこちらを見ていた。

その視線が、何だか妙に怖い。


「……じゃ、じゃあ、あとはよろしくお願いしまーす!」

誰に向けたのかも分からない言葉を残し、俺は踵を返した。


「あっ!」

「おい、待て!」

「行っちゃうぞ!」

背後から声が上がる。


だが、俺は振り返らなかった。

人混みの隙間を抜け、近くの路地へと駆け込む。

そして、誰の目も届かない建物の陰へ姿を消した。


「……ふう」

路地裏で立ち止まった和夫は、深く息を吐いた。


「……何やってんだろ、俺」

本当に、何をやっているんだろう。

飯を食べる金すらないというのに。

気がつけば、また知らない人間の喧嘩に首を突っ込んでしまった。

しかも、今度はビルまで壊してしまった。


「……ああ、もう」

俺は頭を抱えた。


「腹減った……」

結局、何も解決していない。

住む場所もなければ、金もない。

そして、腹だけは相変わらず減っている。

和夫は情けないため息をつくと、再び夜の街へと歩き出した。



◆



その頃。

繁華街には、警察車両と救急車が次々と到着していた。

騒然とする現場。


倒れたギャングたちが救急隊員によって運ばれ、

警察官たちが周囲の人々から事情を聞いている。


そして、ビルの壁に突き刺さった男を前に、

警察官たちは言葉を失っていた。


「……何だ、これは」

「……人間、ですよね?」

「見れば分かるだろ……」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

誰もが困惑していた。


だが、その一方で。

この事件は、すでに別の場所でも動き始めていた。

スマートフォンの画面の中だ。

『何これ!?』

『人がビルに刺さってるんだけどw』

『このイケメン誰?』

『ビンタ一発で吹っ飛んだぞ』

『AIじゃね?』

『いや、現場にいたけどマジだった』

『蒼達磨がやられたらしい』

『あの男、何者?』


動画が投稿される。

共有される。

別のアカウントが転載する。

切り抜かれ、拡大され、何度も再生される。


そこには、ニット帽の男が和夫に襲いかかり、次の瞬間、

凄まじい勢いで吹き飛ばされる様子が映っていた。


そして。

男を吹き飛ばした青年の顔も、はっきりと。

数分後には、同じ映像がいくつものSNSに投稿されていた。

再生回数は瞬く間に増え続ける。

誰もが、その青年の正体を知りたがっていた。


だが、当の本人は。

そんなことになっているとは、夢にも思っていなかった。


聖ベベルギウス・和夫。

本人の知らないところで、その存在は少しずつ世間に広まり始めていた。



だが、和夫の知らないところで、事態はさらに思わぬ

方向へと動き始めていた。


繁華街で起こった、あの一件。

ニット帽の男が次々とギャングたちを倒し、最後には一人の青年によってビルの壁へと吹き飛ばされる。

その一部始終を収めた動画は、瞬く間にSNS上へと拡散されていた。


動画の再生回数は増え続け、様々な憶測が飛び交っていた。

しかし――。

異変が起こったのは、それからおよそ二時間後のことだった。

動画が、消え始めたのだ。

一つ、また一つ。


投稿されていた映像が削除され、共有されたリンクは次々と閲覧できなくなっていった。

そればかりではない。


動画を投稿した一部のアカウントが、突然凍結されるという事態まで起こっていた。

『さっきの動画、どこ行った?』

『消されてるんだけど』

『俺のアカウントまで凍結されたぞ!』

『何かヤバいことでも映ってたのか?』


そんな書き込みさえ、いつしか見当たらなくなっていった。

そして、二時間が経つ頃には、あれほど拡散されていた動画は、

主要なSNSからことごとく姿を消していた。

まるで、最初から存在しなかったかのように。


あれほどの騒ぎが起こったにもかかわらず、

事件はニュースで報じられることもなかった。


大勢の負傷者。

破壊されたビルの外壁。

現場に駆けつけた警察官や救急隊員。

目撃者だって、数え切れないほどいたはずだ。


あれほどの惨劇が起こった繁華街が、何事もなかったかのように

平静を取り戻していた。

そうして、この夜の出来事は人々の記憶から少しずつ

消えていく。


ネオンが輝き、酔客が笑い、客引きが声を張り上げる。

いつもと変わらない、東京の夜。

あの場所で何が起こったのか。

街そのものが、忘れてしまったかのようだった。


「ふあああ」

夜風が、あくびをする和夫の頬を撫でていた。

眼下には、眩しいほどのネオンが広がっている。

行き交う車のヘッドライト。

ビルの窓から漏れる明かり。

どこまでも続く、眠らない街の風景。


その中の、とある雑居ビルの屋上。

正確には、屋上に設置された焼肉屋の巨大な電光看板の上に、和夫は腰を下ろしていた。

赤や黄色の光が、足元で忙しなく点滅している。


『厳選黒毛和牛!』

『食べ放題!』

そんな文字が、交互に浮かび上がっていた。


「…………」

和夫は膝を抱え、ぼんやりと夜空を見上げた。


「……今日は飯にあり付けなかった……」

情けない声が漏れた。


ぐううううう……。

まるで返事をするかのように、腹が鳴った。


「……分かってるよ」

和夫は自分の腹をさすった。

「俺だって食いたいんだよ……」


眼下から、焼肉の香ばしい匂いが漂ってくる。

肉の焼ける匂い。

タレの焦げる匂い。

時折聞こえてくる、客たちの楽しそうな笑い声。


「くううう…」

よりによって、どうして焼肉屋の上なのか…


「……腹減ったなあ」

考えてみれば、今日は本当に色々なことがあった。


死んだと思ったら女神に会い、訳の分からない世界へ連れていかれ、

気がつけば東京に戻っていた。


知らない女に変態扱いされ、黒服の男たちに追いかけられ、

昔の知り合いと偶然再会した。


そして最後には、喧嘩を止めようとして人間をビルに突き刺してしまった。

和夫は両手で顔を覆った。

「……何なんだよ、今日一日……」

まったく、ろくなことがない。


いや、死んだ人間が生き返ったのだから、ろくなことがないとい

うのも贅沢な話なのかもしれないが。

それにしても、もう少し何とかならないものだろうか。

せめて、飯くらい食わせてほしい。


「……ルキナの奴」

思わず女神の顔が浮かんだ。


人を勝手に生き返らせておいて、あとは知らん顔。

「……普通って、何なんだろう」

今さらながら、そんな疑問が頭をよぎった。


和夫は大きくため息をつくと、看板の上にごろりと寝転がった。

夜空には、星がほとんど見えなかった。


その代わり、周囲の高層ビルが放つ光が、空をぼんやりと照らしている。

しばらく、そうしていた。

すると、不意にポケットの中で何かが指先に触れた。


「ん?」


和夫は身体を起こし、ズボンのポケットをまさぐった。

取り出したのは、一枚の名刺だった。


「……ああ」

勅使河原さんから渡されたものだ。

街の明かりにかざしてみる。


『よろずや大福 代表 勅使河原 充香華』

「……よろずや大福、か」

和夫は小さく呟いた。

よろずや。

何でも屋、ということだろうか。


あの勅使河原さんが?

かつて天川家に仕えていた、あの物静かで礼儀正しい執事が、

今は何でも屋をやっているという。

何だか、少し意外だった。


名刺を眺めながら、和夫は今日の出来事を思い返した。

目が見えないはずなのに、まるで昔と変わらない様子だった。

それどころか、姿も名前も変わってしまった自分に、

気づいたような素振りさえ見せていた。


『あなた、何かお困りですか?』

別れ際に掛けられた言葉が、ふと頭に浮かんだ。


「………」

困っている。

それはもう、山ほど。

金もない。

家もない。

食うものもない。


おまけに、自分が何者なのかを証明する手段すらない。

「……困ってるなんてもんじゃないよな」

和夫は苦笑した。


そして、もう一度名刺に目を落とした。

「……行ってみるか」

小さく呟く。


「……明日」

今さら、あの人に頼るのもどうかとは思う。

だが、他に行く当てもない。


それに、久しぶりに会った勅使河原さんが、今どんな暮らしをしているのか。

少しだけ、気になっていた。


和夫は名刺を丁寧にポケットへしまった。

そして再び、看板の上に寝転がった。


眼下では、焼肉屋の電光看板が相変わらず忙しなく点滅している。

ぐううううう……

また腹が鳴った。


「……今日は匂いだけで我慢だ。」

誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


東京の夜は、まだまだ賑やかだった。

だが、その喧騒から遠く離れた看板の上で、和夫はようやく

静かな時間を迎えていた。


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