第8話 トラブルある場所に和夫あり
ぐうううう……。
静まり返った路地裏に、間抜けな音がまた響いた。
今日は随分と目まぐるしい一日だった。
俺は死のうと思っていた。
いや、正確には一度死んだのだ。
そして女神に生き返らせてもらい、訳も分からぬまま異世界に放り出され、
気がつけば日本に戻っていた。
しかも、パンツ一丁で。
そこから妙な女に出会い、黒装束の男たちに囲まれ、
挙げ句の果てにはビルの屋上を飛び回る羽目になった。
おまけに、さっきは勅使河原さんまで助けてしまった。
「……何なんだよ、今日一日で」
俺は壁に背中を預け、深く息を吐いた。
普通、生き返った人間にはもう少し猶予というものがあるんじゃないだろうか。
いや、生き返った経験のある人間なんて、そうそういないだろうけど。
「…………」
そこで、ふと気になったことがあった。
……そういえば。
あの女。
ICEとかいう窃盗団の一員だと言っていた、あの女だ。
彼女の動きは、明らかに普通じゃなかった。
ビルからビルへと飛び移り、銃弾をかわし、黒装束の男たちを相手に戦っていた。
そして、その黒装束の連中もだ。
あいつらの動きも、尋常ではなかった。
「……いやいや、待てよ」
俺は腕を組んだ。
どれだけ訓練を積んだ人間だとしても、あんな動きができるものなのか?
少なくとも、俺の知っている人間の反射神経や運動能力を、遥かに超えていた。
もちろん、今の俺は置いといて だ。
ビルの屋上から飛び降りて老人を助けた挙げ句、また屋上まで戻ってしまったのだから。
……我ながら、意味が分からない。
だが、俺の場合は女神によって生き返らせてもらったという、特殊な事情がある。
あの女たちはどうなんだ?
生まれ変わる前の世界では、あんな人間を見たこともなければ、聞いたこともなかった。
テレビでも、ネットでも、そんな話題を目にした記憶はない。
もっとも、俺が世間知らずだっただけかもしれないが。
「……ひょっとして」
俺は顔を上げた。
「この世界、少し変わってるのか?」
……いや、まさか。
見渡す限り、ここは日本だ。
街並みも、車も、行き交う人々も、俺の知っている日本と何ら変わらない。
しかし、あの女や黒装束の連中の存在だけは、どうにも引っかかる。
俺が死んでから、何年も経っているのだとしたら、ありえるかも
知れないが、俺は今日死んだんだ。
それとも、ここは俺が生きていた日本とは、ほんの少しだけ違う世界なのだろうか。
「……まあ、考えたって分からんか」
俺は小さく肩をすくめた。
それよりも、今はもっと切実な問題がある。
「……飯、どうしよう」
そう。
俺には金がない。
一円たりとも持っていない。
財布もなければ、スマートフォンもない。
泊まる場所すら決まっていないのだ。
つまり、このままでは今夜の夕飯どころか、明日の朝飯にもありつけない。
……まずいな。
非常にまずい。
このままでは、また犬と道に落ちた菓子の取り合いをする羽目になるかもしれない。
あのときの屈辱が、脳裏をよぎった。
「…………」
まあ、今度は勝つ自信があるけどな。
……いや、勝ってどうする。
そもそも、犬と食べ物を奪い合う生活なんて御免だ。
俺は頭を掻いた。
「……どうしたもんかなあ」
しばらく考えていると、ふと一つの案が浮かんだ。
「……あ、そうだ」
ルキナだ。
あいつに相談すればいいじゃないか。
そもそも、俺をこんな状況にした張本人なのだ。
せめて当面の生活費くらい、何とかしてくれても罰は当たらないだろう。
……いや、相手は女神だから罰なんて当たらないのか?
まあ、どうでもいい。
「一度、最初のビルに戻ってルキナに電話をかけてみよう」
俺はそう決めると、路地裏の奥へと歩き出した。
幸い、今の俺には人並み外れた身体能力がある。
人目につかない場所を選んで屋上へ上がれば、街中を歩くよりも
ずっと早く移動できる。
……本来、屋上というのは移動に使う場所じゃないんだけどな。
そんなことを考えながら、俺は再びビルの上へと向かった。
しばらくして、俺は最初に日本へ戻ってきた、あのビルに辿り着いた。
古びたコンクリートの建物。
人の気配はなく、どこか時間が止まっているような静けさが漂っている。
「……ここだよな」
俺は建物の中へ足を踏み入れた。
薄暗い通路。
剥き出しのコンクリート。
そして、あの部屋。
「…………」
何も変わっていなかった。
……いや、当然なんだけど。
それなのに、随分と長い時間が経ったようにも感じられた。
たった一日の出来事とは思えないほど、いろいろなことがあったからだろう。
俺は小部屋への扉を開け、ピンク色の公衆電話の前に立った。
相変わらず、無機質な場所に妙になじんでいた。
「……さて、と」
俺は受話器を持ち上げた。
そして、耳に当てる。
トゥルルル……。
「……」
呼び出し音が鳴った。
よしよし。
ちゃんと繋がるじゃないか。
これでルキナに文句の一つでも言ってやれる。
……いや、文句だけじゃ駄目だ。
まずは飯だ。
飯と、寝る場所。
それから金。
できれば身分証明書も欲しい。
ああ、そうだ。今後の生活についても聞いておかないと。
頭の中で要求を整理していると、
ガチャ。
電話が繋がった。
「おっ、ルキナ! ちょっと聞きたいことが――」
『この電話番号は、現在使われておりません』
「…………え?」
一瞬、思考が止まった。
『おかけになった電話番号を、もう一度お確かめのうえ――』
「……え? え?」
ちょっと待て。
どういうこと?
俺は受話器を耳から離し、まじまじと見つめた。
……いや、電話番号って。
そもそも俺、番号なんて押してないぞ?
受話器を上げただけだ。
それで前は繋がったじゃないか。
「…………」
俺は一度、受話器を置いた。
ガチャン。
……よし。
落ち着け。
何かの間違いだろう。
もう一度やってみればいい。
俺は再び受話器を持ち上げ、耳に当てた。
トゥルルル……。
「……頼むぞ」
ガチャ。
『この電話番号は、現在使われておりません』
「…………」
『おかけになった電話番号を――』
ガチャン。
俺は静かに受話器を戻した。
「…………マジか」
思わず、その場に立ち尽くした。
何だか、梯子を外されたような気分だった。
いや、梯子どころじゃない。
崖の上まで連れていかれて、突然「じゃあ、あとは頑張って」
と置き去りにされたような気分だ。
「……逃げられたか?」
そんな考えが頭をよぎった。
……いやいや。
いくらルキナでも、そこまで無責任なことは……。
「…………」
……するかもしれないな。
あいつなら。
何しろ、あの女神の「普通」は、俺の知っている普通とは随分違うのだ。
しかし、だからといって、本当に逃げたと決めつけるのも違う気がした。
ルキナにも、何か事情があるのかもしれない。
神様には神様の都合というものがあるのだろう。
……知らんけど。
俺は公衆電話を見つめた。
考えてみれば、どこかで俺はあいつを当てにしていた。
何か困ったことがあれば、ルキナに聞けばいい。
分からないことがあれば、ルキナが教えてくれる。
そんなふうに、無意識のうちに考えていたのかもしれない。
「…………」
俺は小さく息を吐いた。
そうだよな。
いつまでも、誰かに頼っているわけにはいかない。
せっかく、もう一度人生をもらったのだ。
それなら、今度こそ自分の力で生きていかなければ。
「……そうだな」
俺は独り言のように呟いた。
「いつまでも頼るなって意味かもしれないな」
ルキナが本当にそう考えているのかは分からない。
単に電話が故障しただけかもしれないし、何か別の理由があるのかもしれない。
だが、今はそう思うことにした。
俺はピンク色の公衆電話に背を向けた。
「……よし」
とりあえず、これからは自分で何とかするしかない。
そう決意した、そのときだった。
ぐううううう……。
「…………」
また腹が鳴った。
「……まずは飯だな」
どれだけ立派な決意をしたところで、腹が減っていては始まらない。
俺は情けないため息をつきながら、薄暗い部屋を後にした。
◆
同時刻――。
夜の繁華街。
色とりどりのネオンが街を照らし、通りには大勢の人々が行き交っていた。
居酒屋から漏れる笑い声。客引きの威勢のいい声。どこからともなく響いてくる音楽。
そんな喧騒から少し離れた、雑居ビルの隙間にできた薄暗い路地。
そこに、二人の男がいた。
「……若、これを」
一人の男が、恭しく小さなケースを差し出した。
「……ああ」
若と呼ばれた男は、ケースを受け取ると、中から薄い板状の物体を取り出した。
一見すると、精密機器の部品のようにも見える。
男は慣れた手つきで、その先端にある小さなキャップを外した。
カチッ。
二本の細い針が姿を現した。
「……ふふ」
男は小さく笑った。
そして、首筋に手を回す。
襟元を少しずらすと、迷うことなく二本の針を首の後ろへと差し込んだ。
プツッ。
「……っ!」
男の身体が一瞬、硬直した。
肩が震え、首筋の筋肉が不自然に盛り上がる。
「ぐ……うう……」
苦痛に耐えるように歯を食いしばった。
だが、次の瞬間。
「はああああ…………」
長い吐息が漏れた。
「……来た、来た……」
その声には、苦痛とは明らかに異なる響きが混じっていた。
「くく……これだよ……これ……」
「はああああああああ!」
男は恍惚とした表情で天を仰いだ。
ニット帽にサングラス、そして口元を覆う黒いマスク。
顔の大部分は隠されていたが、ニット帽の端からは鮮やかな赤い髪が覗いていた。
男はゆっくりと両手を開き、握りしめた。
ギュッ。
指の関節が小さく鳴る。
「……最高だ」
その呟きを聞いた傍らの男が、僅かに頭を下げた。
「若、お時間です」
「……分かってる」
赤髪の男は首を左右に傾けた。
コキッ、コキッ。
そして、繁華街の明かりが漏れる路地の出口へと顔を向けた。
「……さて」
マスクの下で、口元が歪んだ。
「ククク…楽しいショーの始まりだ」
一方、その繁華街の大通りでは、異様な光景が広がっていた。
人で溢れ返る歩行者天国。
その中央を、十数人の男たちが我が物顔で歩いていた。
派手な服装。
首元から覗くタトゥー。
周囲を威嚇するような鋭い視線。
彼らは通行人など目に入らないとでもいうように、肩で風を切って進んでいく。
「……おい」
通りの端にいた若者が、隣の友人に小声で囁いた。
「蒼達磨だ……」
「え? 何? 蒼達磨って?」
「しっ! 声がでかいよ!」
若者は慌てて友人の腕を引いた。
「ギャングだよ! 知らねえのか?」
「……ギャング?」
「ああ。最近、この辺りで幅を利かせてる連中だ」
友人は恐る恐る男たちの方へ目を向けた。
「……あの真ん中の奴がリーダーの清水だ」
集団の先頭を歩く男。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
短く刈り込んだ髪に、がっしりとした体格。
周囲の男たちより頭一つ抜けた存在感があった。
特に印象的なのは、その目だった。
獲物を見定める豹のような、鋭く冷たい眼光。
「……ええ、こわ……」
「最近、相当勢力を伸ばしてるらしいぜ」
「何やってる連中なの?」
「金貸しだよ。金を貸して、返せなくなった奴から店の経営権を取り上げたりしてるらしい」
「……それって、ただの借金取りじゃないの?」
「そんな生易しいもんじゃねえよ。無理やり店を奪って、自分たちのものにしちまうんだ」
「……最悪じゃん」
「だから声がでかいって!」
若者は慌てて友人の口を塞いだ。
そんな会話が交わされている間にも、清水たちは通りの中央を進んでいく。
前方を歩いていた人々が、彼らの姿に気づく。
一人が道を譲る。
また一人が脇へ避ける。
やがて、まるで船が水面を切り裂くように、人混みが左右へと分かれていった。
清水はそんな光景を当然のように眺めながら歩いていた。
誰も逆らわない。
誰も目を合わせようとしない。
それが、この街での彼らの日常だった。
……だが。
その流れが、不意に止まった。
「…………」
清水の足が止まる。
前方に、一人の男が立っていた。
黒いニット帽。
サングラス。
顔の下半分を覆うマスク。
帽子の隙間から、赤い髪が覗いている。
男は道の真ん中に立ったまま、清水たちを見据えていた。
周囲の通行人が慌てて避けていく中、その男だけは微動だにしなかった。
「……あ?」
清水が眉をひそめた。
「誰だ?」
ニット帽の男は、少しだけ首を傾げた。
そして、吐き捨てるように言った。
「貴様に名乗る名はない」
一拍置いて。
「……ゴミが」
周囲の空気が凍りついた。
清水の取り巻きたちが、一斉に顔色を変える。
「……ああ?」
「おい、今何つった?」
「てめえ、誰に口きいてんのか分かってんのか?」
だが、清水自身は動じなかった。
ただ、目を細めて男を見ていた。
「……なんだ、てめえ」
低い声が響く。
「どけ」
清水は一歩前へ出た。
「殺すぞ?」
その言葉にも、ニット帽の男は反応しなかった。
むしろ、面白がるように小さく笑った。
「……ふっ」
「……あ?」
清水の声が、さらに低くなる。
そのとき、取り巻きの二人が前へ出た。
「清水さん、こんな奴、俺らで十分っすよ」
「おい、雑魚」
一人がニット帽の男の右腕を掴んだ。
もう一人が左腕を掴む。
「ちょっと顔貸せや」
二人はそのまま男を路地へ引きずり込もうとした。
……しかし。
「……ん?」
男は動かなかった。
「おい、何してんだ。来いって!」
二人が力を込める。
だが、ニット帽の男の身体は、まるで地面に根を張ったようにびくともしなかった。
「……こいつ」
取り巻きの一人が顔を歪めた。
「びくともしねえ……!」
次の瞬間だった。
ドンッ!!
鈍い衝撃音が響いた。
「――っ!?」
男の両脇にいた二人が、ほぼ同時に吹き飛んだ。
何が起こったのか、誰にも分からなかった。
ただ、二つの身体が宙を舞い、周囲の見物人に赤い飛沫が降りかかった。
「……え?」
一人の女性が、自分の頬に付着したものを指で拭った。
赤い。
血だった。
「きゃああああああっ!!」
悲鳴が上がった。
吹き飛ばされた二人は、数メートル先の路面に叩きつけられていた。
喉元から大量の血が噴き出し、身体が激しく痙攣している。
「う、うわああっ!」
「人が! 人が死ぬ!」
「逃げろ!!」
それまで野次馬のように集まっていた人々が、一斉に逃げ始めた。
悲鳴。
怒号。
誰かが転び、別の誰かがそれを飛び越えていく。
通りは瞬く間にパニックに包まれた。
「……なっ」
清水の表情が変わった。
さっきまでの余裕が、僅かに消える。
……何をした?
見えなかった。
目の前で起こったはずなのに、男がどうやって二人を吹き飛ばしたのか、まったく分からなかった。
ニット帽の男は、ゆっくりと両手を下ろした。
「……ふう」
まるで準備運動でも終えたかのように、肩を回す。
そして、清水たちに向かって言った。
「さて……」
サングラスの奥で、赤い光が微かに揺らめいた。
「……ゴミ掃除だ」
その瞬間。
男の姿が二重に見えた。。
「――っ!?」
ドゴッ!!
取り巻きの一人が、突然後方へ吹き飛んだ。
「ぐはっ!」
男は背中から地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「てめえ!!」
別の男が殴りかかる。
だが、その拳が届くよりも早く、ニット帽の男は懐に潜り込んでいた。
ゴキッ!
鈍い音がした。
殴りかかった男の身体がくの字に折れ、その場に崩れ落ちた。
「うおおおっ!!」
さらに二人が襲いかかる。
一人は拳を振り上げ、もう一人は背後へ回り込もうとした。
しかし。
ドンッ!
バキッ!
二人の身体が、ほぼ同時に地面へ叩きつけられた。
「……遅い」
ニット帽の男が呟いた。
その声には、怒りも興奮もなかった。
ただ、退屈そうな響きだけがあった。
「遅すぎる」
「くそっ! 何なんだ、こいつ!」
「囲め! 一斉に行け!」
取り巻きたちが次々と襲いかかる。
だが、結果は変わらなかった。
拳は当たらない。
蹴りも届かない。
それどころか、相手の動きを目で追うことすらできない。
ニット帽の男が一歩動くたびに、誰かが倒れた。
一人。
また一人。
そして、最後の一人が路面に崩れ落ちた。
「…………」
気がつけば、立っているのは清水だけになっていた。
辺りには、倒れた取り巻きたちが転がっている。
遠くからは、逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえていた。
清水はゆっくりと拳を握った。
「……てめえ」
額に汗が浮かぶ。
「何者だ……?」
ニット帽の男は答えなかった。
ただ、清水を見据えたまま、ゆっくりと歩き出す。
「……ようやく、少しは楽しめそうだな」
「……っ!」
清水は腰を落とした。
次の瞬間、ニット帽の男が跳んだ。
「――っ!」
速い!
だが、清水もただの素人ではなかった。
男が繰り出した拳に反応し、咄嗟に両腕を交差させる。
ドガッ!!
「ぐっ!!」
凄まじい衝撃が両腕を貫いた。
清水の身体が後方へ押し込まれる。
靴底がアスファルトを擦り、数歩分の距離を滑った。
「……っ、はあっ!」
清水は歯を食いしばり、何とか踏みとどまった。
……何だ、この力は。
腕が痺れている。
骨が軋むような痛みが走っていた。
たった一撃を防いだだけで、これだ。
「……こいつ」
清水の喉が鳴った。
「……人間じゃねえみてえだ……」
ニット帽の男が、僅かに首を傾げた。
「……ほう」
そして、愉快そうに笑った。
「やはり、お前は雑魚とは違うようだ」
「…………」
「少しは骨があるらしい」
清水は答えなかった。
相手の一挙手一投足を見逃すまいと、鋭い視線を向け続ける。
だが。
「……しかし」
ニット帽の男が呟いた。
「所詮、その程度だ」
その瞬間。
男の姿が消えた。
「――なっ!?」
清水の目が見開かれる。
右か?左か?
いや、後ろ――!
そう考えたときには、もう遅かった。
ドゴォッ!!
「がっ――!!」
ニット帽の男の蹴りが、清水の横腹に深々と食い込んだ。
凄まじい衝撃。
清水の身体が宙へ浮いた。
そのまま独楽のように回転しながら吹き飛び、数メートル先の路面に叩きつけられた。
ガシャァン!!
路肩に置かれていた看板を巻き込み、清水の身体が転がる。
「……ぐ、あ……」
口から血が溢れた。
息ができない。
身体を起こそうとしても、力が入らなかった。
視界が揺れる。
……何だ。
何なんだ、こいつは。
清水は必死に顔を上げた。
その視線の先で、ニット帽の男がゆっくりと近づいてくる。
コツ…コツ…
足音が、妙にはっきりと聞こえた。
「……つまらんな」
男は清水の前で足を止めた。
「もう少し楽しめると思ったんだが」
「……ぐ……」
清水は何か言おうとした。
しかし、口から漏れたのは血の混じった呻き声だけだった。
ニット帽の男は、そんな清水を見下ろした。
「……終わりだ」
そして、ゆっくりと片足を持ち上げる。
「ゴミが」
狙いは、清水の顔面。
その足が振り下ろされれば、清水の命はそこで終わるだろう。
だが――。
「…………?」
ニット帽の男が、不意に動きを止めた。
何かを感じた。
背後からだ。
それまで周囲にいた人間たちとは、明らかに異なる気配。
男は僅かに眉をひそめた。
……何だ?
いつから、そこにいた?
足音は聞こえなかった。
近づいてくる気配すら感じなかった。
それなのに。
確かに、誰かがいる。
男が振り返ろうとした、そのときだった。
「……それくらいにしときなよ」
背後から、若い男の声がした。
妙に落ち着いた、どこか気の抜けた声だった。
ニット帽の男は、ゆっくりと顔を向けた。
そこに立っていたのは、一人の青年。
黒いシャツに、少し丈の短いズボン。
整いすぎた顔立ちのその青年は、困ったような表情でこちらを見ていた。
聖ベベルギウス・和夫だった。




