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第7話 坊ちゃん

「……大丈夫ですか?」

俺は腕の中の老人に声をかけた。


老人はしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「……はて?」

小さく首を傾げる。


「ここは……?」


「…………」

……ですよね。

そりゃ、そうなるよな。


ついさっきまで横断歩道を歩いていたはずなのに、

気がつけば見知らぬ若者に抱えられ、ビルの屋上にいるのだから。


俺だって逆の立場なら、何が起きたのか理解できないと思う。

「ええと……」

どう説明したものか。


トラックに轢かれそうになっていたので、

ビルの屋上から飛び降りて助けました。


……いや、無理だ。

そんな説明、誰が信じるというのか。


そもそも、なぜわざわざ屋上まで連れてきたのかと聞かれたら、

俺にも答えようがない。

俺目当てに人が集まって来るから…いや 無い無い…

いずれにしても咄嗟のことだったのだ。


「……あの、ですね」

俺は老人をそっと降ろした。


老人は足元を確かめるように杖を動かし、

コツ、コツとコンクリートを叩いた。

「……妙ですな」


「え?」


「先ほどまで、私は横断歩道を渡っていたはずなのですが……」


「ああ、はい。そうですね」


「大きな音がして……それから……」


老人は記憶を辿るように、しばらく黙り込んだ。

「……どうにも、思い出せませんな」


「はは……そういうこともありますよね」

……いや、ないだろ。


俺は自分で自分に突っ込みを入れた。

どうしよう。


警察に連れていくべきか?

いや、事情を聞かれたら困る。

そもそも俺の身分を証明できない。


救急車?

怪我はしていないようだが、念のため診てもらった方がいいのかもしれない。


そんなことを考えながら、改めて老人の顔を見た。

白髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、深い皺の刻まれた顔。

年齢は八十を超えているだろうか。

背筋こそ少し曲がっているが、その立ち姿にはどこか品があった。


身につけている服も、決して派手ではないものの、きちんと手入れされている。

「…………ん?」


俺は眉をひそめた。


……あれ?

この人、どこかで見たことがあるような……。

いや、見たことがあるどころじゃない。


この顔。

この落ち着いた話し方。

そして、どこか懐かしい雰囲気。

俺は記憶を辿った。


ずっと昔。

まだ俺が中学生だった頃。

父親の屋敷には、大勢の使用人がいた。

家政婦、料理人、庭師、運転手。


そして、屋敷の中を取り仕切っていた、一人の執事。

いつも背筋を伸ばし、黒いスーツを着ていた老人。


俺が学校から帰ると、決まって玄関まで迎えに来てくれた。

『お帰りなさいませ、坊ちゃん』


……そうだ。

「……勅使河原(てしがわら)さん?」

思わず声が漏れた。


老人が、ぴくりと顔を動かした。


俺は慌てて言い直した。

「あの……ひょっとして、勅使河原(てしがわら)さんですか?」


ちょうどよかった。

これなら、さっきの一件から話題を逸らせるかもしれない。


老人は不思議そうに首を傾げた。

「……え?」


そして、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。

「なぜ、私の名前を?」


「あ……」


「どこかでお会いしましたかな?」


「ええと……」

しまった。


思わず名前を呼んでしまったが、俺はもう天川大地ではない。

少なくとも、外見はまったく別人だ。

しかも、世間では死んだことになっている。

ここで正体を明かすわけにはいかない。


「……ああ、いや。以前、一度お会いしたことがありまして」

咄嗟に取り繕(つくろ)った。


「ああ、そうですか」

老人は穏やかな表情を浮かべた。


「で それは、どちらで?」


「あ いや」


「どこでお会いしましたかな?」


「あ……天川会長の邸宅ですよ」


……ああ、もう。

何でよりによって、そこを口にするんだ、俺は。

もっと適当な場所があっただろうに。


しかし、老人の反応は意外なものだった。

「……天川会長の……」


それまで穏やかだった表情が、僅かに変わった。

「そうですか……」


老人はそう呟くと、口を閉ざした。

「…………」


「…………」


妙な沈黙が流れた。

雨上がりの風が、屋上を吹き抜けていく。

遠くからは車の走行音や、街の喧騒が聞こえていた。


俺は老人の様子を窺(うかが)った。

……何だ?

何か、まずいことを言っただろうか。


それにしても、勅使河原(てしがわら)さんか。

懐かしいな。


昔はよく世話になった。

俺が父親に叱られたときも、さりげなく間に入ってくれたことがあった。

いつも物静かで、滅多に声を荒らげることのない人だった。


母は俺が幼い頃に亡くなり、父は仕事に追われ、

俺と顔を合わせる時間すらほとんどなかった。

たまに家にいても、口を開けば説教ばかり。

食事はいつも一人だった。

何不自由ない暮らしだったが、あの広い屋敷は、

俺にとって冷たい牢獄のような場所だった。

そんな中で、唯一俺を一人の人間として扱ってくれたのが、

勅使河原さんだったような気がする。


……しかし。

どうして、こんなところにいるんだろう。

あの頃から随分と年月が経っている。

とっくに屋敷を辞めていても不思議じゃない。

そんなことを考えていたときだった。


「……実は」

老人が、静かに口を開いた

。

「私も、先ほどから気になっていることがありましてな」


「……え?」


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「あ、はい。何でしょう?」


老人は杖を両手で握り、少しだけ顔を上げた。

そして、まるで昔話でも始めるような穏やかな口調で言った。


「あなたが、天川会長の一人息子……」


「…………」


「大地坊ちゃんではないかと思ったんですよ」


「――っ!?」

心臓に矢が突き刺さったような衝撃が走った。


なっ……!?

何で!?

俺は思わず一歩後ずさった。


「……あ、ああ……いや、まさか!」

声が裏返りそうになる。


「全然違うじゃないですか! 俺と、その……天川大地さんじゃ!」


そうだ。

違う。

顔も違えば、声だって以前とは違っているはずだ。

ましてや、今の俺は誰が見ても別人だ。

分かるはずがない。

絶対に。


「ほほほ……」

老人が小さく笑った。


「……え?」


「お若い方」

老人はゆっくりと首を横に振った。


「わしの目は、見えておらんのですよ」


「…………は?」


俺は思わず老人の顔を見つめた。

よく見ると、その視線は俺の顔を正確に捉えてはいなかった。

杖をついていたのも、単に足腰が弱いからではなかったのかもしれない。



「……目が?」


「ええ。もう随分と前からですな」

老人は何でもないことのように答えた。


「今では、明かりすら分かりません」


「…………」

俺は言葉を失った。


……そうだったのか。

だが、それならなおさら不思議だ。


俺は恐る恐る尋ねた。

「……じゃあ、なぜ……」


「はい」


「なぜ、俺を天川大地さんだと思ったんですか?」


老人は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……気配です」


「…………」

……気配?


「人には、それぞれ独特の気配というものがありましてな」

老人は静かに続けた。

「声や姿が変わろうとも、長い年月をともに過ごした人間には、

分かることがあるのですよ」


「…………」

俺は何も言えなかった。


目の前にいる老人は、確かに勅使河原(てしがわら)さんだった。

かつて俺を『坊ちゃん』と呼び、毎日のように世話をしてくれた、

あの執事だ。


しかし。

俺の顔は変わっている。

身体も変わっている。

名前さえ変わっている。

それなのに。

……気配?

そんなもので、本当に分かるものなのか?


老人は相変わらず、穏やかに微笑んでいた。

まるで、俺が何を考えているのか、すべてお見通しだとでもいうように。


「…………」

俺は、返す言葉がなかった。


「……気配、ですか」

俺は勅使河原さんの顔を見つめた。


老人は相変わらず、穏やかな笑みを浮かべている。


そういえば、勅使河原さんはいつの間にか屋敷からいなくなっていた。

俺がまだ中学生だった頃だろうか。

毎日のように顔を合わせていたはずなのに、ある日を境に姿を見なくなった。


もっとも、当時の俺はそんなことを気に留めるような人間ではなかったが。

「あの……勅使河原さんって、今も天川の屋敷に?」


俺は何気ない調子で尋ねた。

「いえいえ。もう随分と前にお暇をいただきました」


「そうだったんですか……」


「ええ。長い間、お世話になりました。」

勅使河原さんは懐かしむように微笑んだ。


それ以上、屋敷のことを話そうとはしなかった。


俺も深く尋ねる気にはなれなかった。

何しろ、今の俺は天川大地ではなく、聖ベベルギウス・和夫なのだ。

……いや、改めて考えても、とんでもない名前だな。


そんなことを思いながら、俺は勅使河原さんの肩にそっと手を添えた。

「とりあえず、下まで降りましょうか」


「おや、そうですな。ここがどこなのか、さっぱり分かりませんので」


「はは……すみません」

……いや、本当にすみません。


まさか助けた相手をビルの屋上まで運んでしまうとは、俺自身も思っていなかった。

幸い、屋上から建物の中へ入る扉は開いていた。


俺は勅使河原さんの肩を抱くように支えながら、最上階へ続く階段をゆっくりと降りた。

老人の杖が、一段ずつ乾いた音を立てる。


コツン。

コツン。


勅使河原さんは俺に身を任せ、慌てることもなく足を進めた。


最上階の廊下に出ると、エレベーターがあった。

俺は下行きのボタンを押した。


やがて到着したエレベーターに乗り込み、一階へ向かう。

その間、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。


何か聞かれるのではないか。

さっきの出来事を問い詰められるのではないか。

俺は内心、少しばかり身構えていた。


しかし、勅使河原さんは何も尋ねなかった。

ただ、終始柔らかな笑みを浮かべているだけだった。

……昔から、こんな人だったな。


子供の頃の俺がどんなにわがままを言っても、この人が声を荒らげた記憶はない。

父親に叱られたときも、勅使河原さんはいつも静かに傍にいてくれた。

懐かしさと、どこか落ち着かない気持ちが入り混じる。


チン。

エレベーターが一階に到着した。


俺は勅使河原さんを支えながら、建物の外へ出た。

雨はすっかり上がっていた。


濡れたアスファルトには街の明かりが映り込み、

行き交う人々の足音が絶え間なく響いている。


「ここで結構ですよ」

勅使河原さんが言った。


「え? でも……」

俺は周囲を見回した。

この人は目が見えない。


しかも、さっきトラックに轢かれそうになったばかりだ。

そんな人を一人で帰すのは、さすがに気が引ける。


「あの、家まで送りますよ」


「ほほほ。お気遣い、ありがとうございます」

勅使河原さんは小さく頭を下げた。


「ですが、大丈夫です。ここからは一人で帰れますので」


「いや、でも……」


「慣れた道ですからな。どうぞ、ご心配なく」

そう言って、老人は杖を軽く持ち上げてみせた。


……うーん。

本人がそう言うのなら、無理に付き添うのも失礼か。


俺は少し迷った末、頷いた。

「……分かりました。気をつけてください」


「ええ。ありがとうございます」

勅使河原さんは微笑むと、ゆっくりと歩き出そうとした。


そのときだった。

「……ああ、そうそう」


「はい?」


老人が足を止めた。

そして、こちらへ顔を向けた。

「あなた、何かお困りではないですか?」


「……え?」

ドキッとした。


まるで、今の俺の状況を見透かされたようだった。


困っているか、だって?

そりゃもう、困っているなんてものじゃない。

金はない。

家もない。

携帯電話もない。

身分証明書だってない。

おまけに、世間では俺は死んだことになっている。

そして、今着ている服は、ついさっき知り合った女の兄貴のものだ。

……改めて考えると、なかなか悲惨な状況じゃないか。


「あ……」

思わず口を開きかけた。


しかし、すぐに思い直した。

いやいや。

こんな年老いた人に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


それに、どう説明するんだ?

異世界で女神に生き返らせてもらったら、なぜか日本に戻ってきまして……なんて。

絶対に頭のおかしい奴だと思われる。


「あ……いえ! 大丈夫です!」

俺は努めて明るい声を出した。


「お気になさらず!」


「……そうですか」

勅使河原さんは、それ以上追及しなかった。

ただ、少しだけ微笑みを深くした。

「では、一応これを」


そう言って、上着の内ポケットに手を入れた。

取り出したのは、小さな名刺入れだった。


そこから一枚の名刺を抜き、俺に差し出す。


「あ、どうも……」

俺は反射的に受け取った。


「何かございましたら、いつでもお訪ねください」


「はあ……」


「あなたは、わしの命の恩人です」

勅使河原さんは、杖を身体の前に揃えた。


そして、深々と頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」


「い、いや! そんな! 頭を上げてください!」

俺は慌てた。

かつて屋敷で世話になった人に、こんなふうに礼を言われるなんて。

何だか、妙に居心地が悪い。


「どうか、お元気で」

勅使河原さんは最後にそう言い残すと、杖を左右に動かしながら歩き始めた。

コツン。

コツン。


その足取りは、先ほどまでトラックに轢かれそうになっていた老人とは思えないほど、落ち着いていた。


俺はしばらく、その後ろ姿を見送った。

やがて勅使河原さんは、行き交う人々の間に紛れ、雑踏の中へと消えていった。


「…………」

……不思議な再会だったな。

まさか、こんなところで勅使河原さんに会うなんて。

それも、よりによって俺が助けることになるとは。


世の中、何が起こるか分からないものだ。

俺は手元の名刺に目を落とした。

白い厚手の紙に、黒い文字が印刷されている。

飾り気のない、実に簡素な名刺だった。

そこには、こう書かれていた。


よろずや大福

代表 勅使河原 充香華(てしがわら みちかけ)


「……よろずや?」

俺は小さく呟いた。


よろずや……って、何でも屋ってことか?

便利屋みたいなものだろうか。


それにしても、代表とは。

勅使河原さん、屋敷を辞めた後は自分で商売を始めたのか。

……何の仕事をしているんだろう。


まさか、あの歳で家具の運搬や引っ越しの手伝いなんてことはないだろうし。

いや、そもそも目が見えないんだよな。

ますます分からない。


「……大福、ねえ」

何だか和菓子屋みたいな名前だ。


そんなことを考えていたときだった。

「……ねえ、あの人じゃない?」

近くを歩いていた女性の声が耳に入った。


「え?」

俺は顔を上げた。


二人組の女性が、こちらをちらちらと見ている。

「ほら、さっきの……」

「えっ、ほんとだ。絶対そうだよ!」


……ん?

何だ?

今度は反対側から歩いてきた若い男が、俺を見て足を止めた。

「うわ、すげえ……」

「何が?」

「いや、あの人。顔、やばくね?」

「……マジだ」


……おいおい。

またかよ。

俺は思わず顔を伏せた。


そうだった。

今の俺は、あの女神が勝手に作り上げた、妙に整いすぎた顔をしているのだ。

さっきもそのせいで、女の人たちに追いかけ回されたばかりじゃないか。


「ちょっと、写真撮っていいかな?」

「声かけてみようよ!」


……まずい。

非常にまずい。

ここでまた騒ぎになるのは御免だ。

俺は名刺を慌ててポケットに押し込んだ。


「……一旦、撤収しよう」

誰に言うでもなく呟く。

そして、何食わぬ顔で歩き出した。

……つもりだったのだが。


「あっ! 行っちゃう!」

「待って!」

背後から声が上がる。


……待たん!

俺は人混みを抜けると、近くの路地裏へ駆け込んだ。

濡れた路面を蹴り、建物の陰へと身を滑り込ませる。


「……ふう」

ようやく人目から逃れた俺は、小さく息を吐いた。

まったく。


日本に帰ってきたというのに、どうしてこうも落ち着かないんだ。

俺はポケットの中にある名刺を指先で確かめた。


……よろずや大福。

勅使河原さん、か。

懐かしい人に会えたことが、少しだけ嬉しかった。


それと同時に、胸の奥には妙な引っかかりが残っていた。

あの人は、俺のことを坊ちゃんだと言った。

顔も見えないのに。

姿も声も変わっているというのに。


「……気配、か」

俺は小さく呟いた。


そんなもので、本当に人が分かるものなのだろうか。

考えてみても、答えは出なかった。

ただ一つ、確かなことがある。

俺はこの世界に戻ってきて、初めて――

かつての自分を知る人間と出会ったのだった。


グゥゥゥ……

「それにしても腹が減ったな…」

俺は一人虚しくつぶやいた。


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