第6話 和夫と老人
ようやく服を手に入れた俺は、ビルの屋上から地上へと降り立った。
目の前には、見慣れた渋谷の繁華街が広がっている。
色鮮やかなネオン。
ひっきりなしに行き交う車。
そして、夜も更けたというのに、途切れることのない人の波。
「……懐かしいな」
思わず呟いた。
ここは、かつて俺が何度も足を運んだ場所だった。
女たちと飲み歩いたり、高級クラブで夜を明かしたり。
ある意味無敵だった…勘違いだったが…
だけど何もかもが懐かしい。
……いや、今は感傷に浸っている場合じゃない。
「とりあえず、トイレを探そう……」
俺は周囲を見渡した。
別に用を足したいわけじゃない。
探しているのは、鏡だ。
できれば全身が映るような、大きな鏡がいい。
何しろ、俺はまだ自分の姿を確認していない。
あの女が最後に言い残した言葉。
『あんたみたいなイケメンなら……』
あれが、どうにも引っかかっていた。
社交辞令とかリップサービス的なものかも…
「店に入れば、鏡くらいあるんだろうけどな……」
俺はポケットに手を突っ込んだ。
右。左。
……何もない。
財布はもちろん、スマホもない。
文字どおりの無一文だ。
飲食店に入って、トイレだけ借りるという手もあるが、
俺にはそれをやる勇気が無い。
「……公衆トイレを探すか、たしかもう少し行った
ところにあった気が…」
そう呟いて、俺は雑踏の中へ足を踏み出した。
◆
「……ん?」
しばらく歩いていると、妙なことに気がついた。
すれ違った女性が、俺をちらりと見た。
そして、数歩進んだところで振り返る。
……二度見?
まあ、気のせいだろう。
そう思って歩き続けた。
だが。
「……ねえ、今の人……」
「えっ、うそ……」
「ちょっと、見てよ……」
今度は三人組の女性たちだった。
俺とすれ違うなり、何やら小声で話し始めた。
そのうちの一人が、俺を指差している。
「…………」
……何だ?
俺は思わず自分の服を見下ろした。
黒いシャツ。
黒いズボン。
少し丈が短いけど、別におかしな格好じゃない…
と思いたい…
靴だって履いている。
……まさか。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
顔か?
やっぱり、顔なのか?
「……嘘だろ」
急に足取りが重くなった。
気がつけば、周囲の視線が妙に気になり始めていた。
「あの人、すごくない?」
「え、ちょっと待って……」
「モデルさんかな?」
ひそひそと交わされる声。
振り返る人。
立ち止まる人。
スマホをこちらへ向ける人までいる。
「…………」
……まずい。
これは、かなりまずい。
俺はいったい、どんな姿になってしまったんだ?
もしかして、顔のどこかに妙なものでも生えているのか?
角とか。
いや、まさかな。
でも、あの女神だぞ?
俺の名前を聖ベベルギウス・和夫にした、あのルキナだぞ?
何をされていても不思議じゃない。
「……鏡だ」
早く鏡を見なければ。
俺は歩く速度を上げた。
すると。
「あっ、行っちゃう!」
背後から声が聞こえた。
「ちょっと待って!」
……ん?
振り返る。
数人の女性が、こちらに向かって歩いてきていた。
いや、歩いているというより、小走りだ。
「…………」
俺は再び前を向いた。
……気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、さらに歩調を速める。
しかし。
タッタッタッタッ……。
背後の足音も速くなった。
「……え?」
ちらりと振り返る。
増えている。
さっきは三人くらいだったはずなのに、いつの間にか十人近くになっていた。
「ねえ、待って!」
「写真だけでも!」
「ちょっと、押さないでよ!」
「…………」
な、何だ?
何が起こっている?
俺は思わず走り出した。
ただし、全力ではない。
さっきのビルの屋上で分かったことだが、
今の俺はどうやら普通の人間とは違うらしい。
本気で走れば、どんなことになるか分からない。
こんな人混みの中で、あの速度を出すわけにはいかなかった。
だから、あくまでも普通の人間が走る程度の速さを保った。
……つもりだった。
「待ってぇ!」
「きゃあ! 走った!」
「追いかけて!」
「…………は?」
後ろを振り返る。
そこには、先ほどよりもさらに大きな集団ができていた。
ほとんどが女性だ。
しかも、なぜか楽しそうに走っている者までいる。
「な……なんだ!?」
俺は目を疑った。
見知らぬ女性たちが、集団で俺を追いかけてくる。
何だ、この状況は。
俺、何かしたか?
いや、してない。
少なくとも、地上に降りてからは何もしていない。
「……まさか」
俺の背筋を冷たいものが走った。
やはり、容姿がおかしいのか?
それも、ただおかしいという程度じゃない。
人が思わず追いかけたくなるほど、珍妙な姿になっているのではないか?
「……冗談じゃないぞ!」
俺は人混みを縫うように走った。
だが、背後の足音は一向に減らない。
それどころか、騒ぎに気づいた人たちが次々と振り返り、何事かと集まってくる。
「何? 誰かいるの?」
「芸能人?」
「えっ、どこどこ?」
「…………」
まずい。
このままじゃ、ますます人が増える。
俺は周囲を見渡した。
すると、建物と建物の間に、細い路地が見えた。
……あそこだ!
俺は人の流れを抜け、狭い路地へ飛び込んだ。
「こっちに入った!」
背後から声が上がる。
だが、俺は構わず走った。
路地の奥。
曲がり角が見えた。
「……よし」
俺は角を曲がった。
その瞬間、地面を蹴った。
トンッ。
身体がふわりと浮き上がる。
いや、浮き上がるなんてものじゃない。
気がつけば、俺は建物の屋根よりも高い位置にいた。
「……おっと」
慌てて身体の向きを調整する。
そして、近くのビルの屋上へ、音も立てずに着地した。
「…………」
……やっぱり、すごいな。
今の俺の身体。
自分でやっておいて何だけど、ちょっと怖い。
俺はそっと屋上の縁へ近づき、下を覗き込んだ。
「……あれ?」
「どこ行ったの?」
「こっちに来たよね?」
「えー、いないじゃん!」
先ほどの女性たちが、路地の中で右往左往していた。
何人かはさらに奥へ走っていき、別の者たちは周囲の建物を見上げている。
「……ふう」
俺は胸を撫で下ろした。
どうやら、うまく撒けたらしい。
しかし……。
「…………」
俺は自分の顔に手を当てた。
いったい、何がどうなっているんだ?
あれだけの人数が、俺を追いかけてきた。
しかも、ほとんどが女性だった。
……俺の容姿が、それほど物珍しいということなのか?
「……勘弁してくれよ」
もう一度、頬を触る。
鼻。顎。額。
触った感じでは、特におかしなところはない。
でも、鏡で確認したわけじゃない。
……ああ、もう!
早く自分の顔が見たい!
その時だった。
ポツッ。
「……ん?」
足元のコンクリートに、小さな黒い点ができた。
ポツッ。
また一つ。
そして、もう一つ。
俺は空を見上げた。
「……雨?」
いつの間にか、夜空には分厚い雲が広がっていた。
ポツ、ポツ、ポツ……。
雨粒が次々と落ちてくる。
「……うわっ」
俺は慌てて、屋上に設けられた設備の陰へと移動した。
ちょうど、上部に張り出した屋根がある。
雨をしのぐには十分だった。
「……はあ」
俺は壁にもたれかかった。
眼下には、相変わらず渋谷の街が広がっている。
見慣れた景色。
見慣れた建物。
何もかも、以前と同じように見える。
なのに。
「……俺は、これからどうすればいいんだろうな」
思わず独り言が漏れた。
財布もない。
スマホもない。
住む場所だって、どうなっているか分からない。
おまけに、世間では俺は死んだことになっている。
そして、今の自分がどんな姿なのかすら分からない。
「……参ったな」
俺は深くため息をついた。
その間にも、雨脚はどんどん強くなっていった。
ザァァァァァァッ!!
「うわっ!」
突然、視界が白く煙った。
まるでバケツをひっくり返したような雨だった。
屋上に叩きつけられた雨粒が跳ね上がり、排水口へ向かって勢いよく流れていく。
向かいのビルさえ、霞んで見えた。
「……すごい雨だな」
俺は屋根の下から、その様子をぼんやりと眺めていた。
ところが。
数分もしないうちに。
……ピタッ。
雨が止んだ。
「…………」
あまりにも突然だった。
さっきまで轟音を立てていた雨が、嘘のように静まり返っている。
雲の切れ間からは、再び夜空が覗いていた。
「……ゲリラ豪雨ってやつか」
俺は屋根の下から出た。
濡れたコンクリートの上には、大小いくつもの水溜まりができている。
そこに、周囲のビルのネオンが映り込んでいた。
赤。青。黄色。
色とりどりの光が、水面の上で揺らめいている。
「……ん?」
そのときだった。
何気なく足元へ向けた視線が、ある一点で止まった。
大きな水溜まり。
そこには、向かいのビルの明かりが鮮やかに映っていた。
そして。
その光の中に、もう一つ。
人影が映っていた。
黒いシャツ。
黒いズボン。
少し丈の短い袖。
「…………」
俺はゆっくりと足を止めた。
……あれは
水面の中の人物も、同じように足を止めている。
俺が少し身体を傾けると、その人物も身体を傾けた。
「…………」
心臓が、どくんと鳴った。
俺は恐る恐る、水溜まりへ近づいた。
そして、ゆっくりと身を屈めた。
街のネオンに照らされた水面。
そこには、はっきりと映っていた。
今の、俺の姿が。
「……誰?」
無意識に、そんな言葉が口から漏れた。
水溜まりに映っているのは、見知らぬ青年だった。
整った目鼻立ち。
すっと通った鼻筋。
形の良い唇に、どこか中性的な雰囲気を漂わせる顔立ち。
少なくとも、天川大地の顔ではない。
「…………」
俺は水面に顔を近づけた。
映し出された青年も、こちらへ顔を寄せる。
右を向けば右を向き、左を向けば左を向く。
……間違いない。
これは、俺だ。
「……何だ、これ」
思わず頬に手を当てた。
水面の青年も、同じように頬に触れている。
……いや。
それよりも。
俺は、この顔を知っている。
初めて見るはずなのに、どこかで見た覚えがあった。
「……誰だっけ?」
記憶を辿る。
何かのドラマだったか?
いや、違う。
歌番組?
それとも、雑誌の表紙?
確かに見覚えがある。
だが、どうしても思い出せない。
俺は眉間に皺を寄せ、しばらく水面を睨みつけていた。
そして。
「……あっ!」
不意に、思い当たった。
「AIだ……」
そうだ。
この顔は、実在する誰かのものじゃない。
以前、ネットで何度も見かけたAI動画。
そこに登場する、人工知能が描き出した人物の顔だ。
「……ああ、そういうことか」
俺は小さく頷いた。
あの手の動画に出てくる人物は、どれも妙に整った顔をしていた。
もちろん、細かく見れば違うのだろう。
だが、俺にはどこか似通っているように感じられた。
整いすぎた目鼻立ち。
左右の均整が取れた輪郭。
誰が見ても美形だと言いそうな、癖の少ない顔。
まるで、大勢の人間が思い描く理想の容姿を、一つにまとめたような。
……そうか。
俺はもう一度、水溜まりを覗き込んだ。
「……ルキナの奴」
恐らく、あの女神は俺が言った通り容姿を人間に合わせてくれたのだろう。
そして、彼女が考える美少年の平均が、これだったというわけだ。
「…………」
俺はしばらく、自分の顔を見つめていた。
嬉しいかと聞かれれば、別に嬉しくはない。
かといって、残念かと聞かれても、そういうわけじゃない。
確かに、整った顔だとは思う。
少なくとも、醜い姿に変えられたわけではなさそうだ。
だが、これが自分の顔だと言われても、どうにも実感が湧かなかった。
鏡の向こうにいるのは、俺ではなく、誰か別の人間。
そんな感覚だった。
「……どう思えばいいんだろうな」
思わず苦笑した。
名前を変えられたときは、腹が立った。
だが、顔を変えられたことについては、怒ればいいのか、感謝すればいいのか、それすら分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
「……これじゃ、目立つよな」
俺は深いため息をついた。
さっきの女性たちの反応を思い出す。
二度見され、指を差され、挙げ句の果てには集団で追いかけ回された。
あの顔が原因だったのなら、今後も同じことが起こるかもしれない。
「……困ったな」
財布もない。
スマホもない。
住む場所もない。
そのうえ、街を歩けば人目を引く。
……どうしろっていうんだ。
俺は夜空を見上げた。
雨雲はすっかり流れ去り、ビルの隙間には僅かに星が見えていた。
「……しばらく、屋上生活かな」
冗談のつもりで呟いた。
だが、今の俺には、それが案外現実的な選択に思えてしまった。
◆
俺は屋上の縁に立った。
眼下には、雨上がりの渋谷の街が広がっている。
濡れたアスファルトがネオンを反射し、まるで街全体が光をまとっているようだった。
「……さて、と」
軽く膝を曲げる。
そして、隣のビルへ向かって跳んだ。
トンッ。
あっけないほど簡単に、向かいの屋上へ着地した。
「……ほんと、どうなってるんだろうな。この身体」
以前の俺なら、助走をつけたところで到底届かない距離だ。
それが今では、少し跳ねる程度の感覚で飛び越えられる。
俺はそのまま、次のビルへ飛び移った。
さらに、その次へ。
高層ビルの間を縫うように、夜の街を進んでいく。
不思議なことに、怖さはほとんどなかった。
足場までの距離も、着地する位置も、何となく分かる。
身体が勝手に、必要な動きを選んでくれているようだった。
「……便利なもんだな」
そんなことを考えながら、次の屋上へ足を踏み出そうとした。
そのときだった。
「…………ん?」
何かが、意識の端に引っかかった。
音ではない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
ただ、妙な気配を感じた。
「……何だ?」
俺は足を止めた。
そして、何気なく視線を下へ向けた。
そこには、大きな交差点があった。
雨上がりの横断歩道を、数人の歩行者が渡っている。
その中に、杖をついた老人がいた。
背中を丸め、一歩ずつ慎重に歩いている。
老人は集団から引き離され孤立していた。
「…………」
なぜだろう。
俺の視線は、その老人から離れなかった。
そして、次の瞬間。
交差点の向こうから、一台の大型トラックが走ってきた。
「……あ」
歩行者用の信号は青。
当然、トラック側の信号は赤だ。
だが、トラックは減速する気配を見せない。
運転手が何かに気を取られていたのか、それとも信号を見落としていたのか。
理由は分からない。
ただ、トラックはそのまま交差点へ進入しようとしていた。
「……まずい!」
運転手も、ようやく異変に気づいたらしい。
車体が不自然に揺れた。
次の瞬間。
キィィィィィィッ!!
甲高いブレーキ音が、夜の街に響き渡った。
濡れた路面の上を、巨大なタイヤが滑る。
「きゃあああっ!」
「危ない!!」
悲鳴が上がった。
横断歩道を渡っていた人々が、一斉に逃げ出す。
だが、老人だけは動けなかった。
突然の出来事に驚いたのか、その場に立ち尽くしている。
杖を握った手が、小さく震えていた。
トラックが迫る。
あと数メートル。
いや、もう数歩もない。
「…………!」
その瞬間。
俺は考えるより先に動いていた。
屋上の縁を蹴る。
ドンッ!!
足元のコンクリートが、小さく砕けた。
身体が宙へ飛び出す。
次の瞬間には、向かいのビルの壁が目の前に迫っていた。
俺はその壁を蹴った。
さらに、もう一度。
ダンッ!!
身体が弾丸のような速度で加速する。
周囲の景色が、一瞬で後方へ流れていった。
だが、不思議と老人の姿だけは、はっきりと見えていた。
杖を握る手。
驚きに見開かれた目。
迫り来るトラックの巨大な車体。
俺は腕を伸ばした。
そして。
「……よっと!」
老人の身体を抱きかかえた。
そのまま地面を蹴る。
いや、地面に触れたかどうかすら、よく分からなかった。
次の瞬間には、俺の身体は再び上空へ舞い上がっていた。
眼下で、トラックが横断歩道へ滑り込む。
ガガガガッ!!
激しい音を立て、巨大な車体が停止した。
周囲から悲鳴が上がる。
だが、そのときにはもう、俺たちはそこにはいなかった。
「…………」
俺は空中で身体を捻り、先ほどまで立っていたビルの屋上へと向かった。
そして。
トンッ。
何事もなかったかのように、両足で着地した。
腕の中には、杖を握ったままの老人がいた。
「…………」
俺は老人を見下ろした。
老人も、俺を見上げていた。
互いに、しばらく言葉が出なかった。
眼下では、トラックのクラクションが鳴り響いている。
だが、屋上には不思議なほど静かな時間が流れていた。




