第5話 和夫は服を手に入れた。
「……遅いなあ」
俺はビルの屋上に腰を下ろし、夜空を見上げていた。
あれから、どれくらい経っただろう。
女は服を持ってくると言い残し、どこかへ消えてしまった。
もっとも、俺には時計がない。
時間なんて分かるはずもなかった。
「……あっ」
遠くのビルの屋上に、小さな人影が見えた。
見覚えのある女だ。
背中には大きな黒いリュックを背負っている。
女は次々とビルを飛び越え、俺のいる屋上へと着地した。
「はあっ……はあっ……」
膝に手をつき、荒い息を繰り返している。
「おかえり。ずいぶん早かったね」
俺が声をかけると、女は顔を上げた。
「……あんたねえ」
そして、背負っていたリュックを乱暴に下ろした。
「ほらっ!」
「うわっ!」
投げつけられたリュックを、俺は慌てて受け取った。
「一応、そこに入ってるから!」
「おお、ありがとう!」
「言っとくけど、好みのクレームは無しよ!
兄貴のお古を黙って持ってきたんだから!」
「へえ、お兄さんがいるんだ」
「どうでもいいでしょ、そんなこと!」
……なんでいちいち怒るんだろう、この人。
誰かさんみたいだ。
俺はリュックを床に置き、チャックを開けた。
中には、黒っぽいズボンと長袖のシャツ、それに靴下やスニーカーまで入っていた。
「おおっ! すごい! 靴まである!」
「当たり前でしょ! 裸足じゃ困ると思ったから!」
「助かるよ。本当にありがとう」
俺は女に向かって笑った。
「じゃあ、これ。約束の」
「え?」
俺はブリーフの前の部分に指を差し込んだ。
ごそごそ……。
「……ん?」
女が眉をひそめた
。
「よっと」
俺は小さなビニール袋を取り出した。
「ほいっ!」
軽く放り投げる。
「うわああああっ!!」
女が悲鳴を上げた。
慌てて両手を伸ばし、辛うじて袋を受け止める。
だが、受け取った後も、まるで熱湯でも入っているかのように、
右手から左手へと袋を転がしていた。
「うわっ! ちょっ! うわあっ!」
「……どうしたの?」
「ひぃっ!」
「熱かった!?」
「違うわぁぁっ!!」
女は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「どこから出しとんじゃ! ワレぇぇっ!!」
「……え?」
俺は自分のブリーフを見下ろした。
「いや、だって……ポケットないし」
「だからって、そこに入れる奴があるかぁぁっ!」
「落としたら困るだろ?」
「そういう問題じゃない!!」
女は袋を指先でつまみ、汚いものでも見るような目で睨みつけた。
「……最悪」
「……?」
なぜか女は、ものすごく怒っていた。
俺には、その理由がよく分からなかった。
◆
しばらくして。
「……おお、いいじゃん!」
俺は借りた服に袖を通し、その場で軽く身体を動かしてみた。
黒いシャツにズボン。
スニーカーも、少し窮屈ではあるが問題なく履けた。
ようやく人前を歩ける格好になったわけだ。
「うん! ちょうどいいよ!」
「……そう」
女は腕を組んだまま、そっぽを向いていた。
「ちょっと手と足の丈が短いけど」
「…………」
「まあ、全然問題ないよ!」
「……何気に傷つくわ!」
女がムッとした顔で言った。
「ん?」
「兄貴の服が小さいって言ってんでしょ!」
「いや、別に悪い意味じゃ……」
「分かってるわよ!」
……分かってるなら怒らなくてもいいのに。
本当にあいつみたいだよな。
俺はそんなことを考えながら、無意識に鼻へ指を突っ込んでいた。
「…………」
女の目が細くなった。
「……ねえ」
「ん?」
「人の話、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
ほじほじ……。
「……絶対聞いてないでしょ」
「聞いてるって」
ほじほじ……。
「って、おい! 聞けっ!」
「……おっ」
取れた。
俺は指先についた小さな鼻くそを眺めた。
親指と人差し指で、くるくると丸める。
そして。
ピンッ。
何気なく、指先で弾き飛ばした。
「やっぱ東京は空気が汚ねえわ」
俺は結構デカめの声で言った。
「こいつ…」
女のこめかみがピクピク脈動していた。
◆
そのころ。
少し離れた繁華街の裏通りでは、一組の若いカップルが三人の男たちに絡まれていた。
「おいおい、兄ちゃん。ちょっと待てよ」
派手な柄のシャツを着た男が、若い男性の肩を掴んだ。
「……何ですか?」
「何ですか、じゃねえだろ。さっきぶつかったよな?」
「いえ、ぶつかってませんけど……」
昭和のやり方か!
「ああん?」
男は顔を近づけた。
「俺が嘘ついてるって言いてえのか?」
「そ、そんなことは……」
口臭ぇ…
隣にいた女性が、不安そうに彼氏の腕を掴んだ。
「ねえ、もう行こうよ……」
「おっ、彼女かわいいじゃん」
別の男がにやりと笑った。
「なあ、俺らと遊ばねえ?」
「やめてください!」
ほんとこいつらダルい。
「何だよ、ちょっとくらいいいだろ?」
男たちが二人を取り囲んだ。
そのときだった。
ヒュッ――!
夜の空気を切り裂き、何かが飛来した。
あまりにも小さく、あまりにも速い。
誰の目にも、その姿は映らなかった。
次の瞬間。
バチッ!!
「クハッ…!?」
派手なシャツの男が、奇妙な声を上げた。
額のど真ん中に、何かが直撃したのだ。
「……え?」
若いカップルが目を丸くした。
男は白目を剥き、そのまま後方へ倒れ込んだ。
ドサッ!
「お、おい!?」
仲間の男たちが慌てて駆け寄る。
「どうした!?」
「兄貴!?」
倒れた男はぴくりとも動かない。
その額には、小さな赤い痕が残っていた。
まるで、何かに撃ち抜かれたかのように。
「な、何だ!?カチコミか!?」
「どっから撃たれた!?」
男たちは慌てて周囲を見回した。
しかし、そこには誰もいない。
若いカップルも、何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていた。
そして、男の額に直撃した物体が何だったのか。
その場にいた誰一人として、知る由もなかった。
ましてや、それが遠く離れたビルの屋上から飛んできた、
たった一粒の鼻くそだったなどとは。
◆
「……そういえばさ」
俺はリュックのチャックを閉めながら、女に声をかけた。
「何よ?」
「君、名前は?」
「…………」
女は俺を見た。
「……は?」
「いや、名前。まだ聞いてなかったなと思って」
「…………」
女は呆れたようにため息をついた。
「言えるわけないでしょ!」
「……え?」
「当たり前じゃない! 私が何者か、ニュースで見たんでしょ?」
「ああ、そういえば泥棒なんだっけ」
「泥棒って言うな!」
「……じゃあ、何て呼べばいいんだ?」
「知らないわよ!」
女はぷいっと顔を背けた。
俺は少し考えた。
……困ったな。
いつまでも「君」って呼ぶのも変だし。
それに、服を貸してもらった恩もある。
できれば名前くらい知っておきたいんだけど。
「……なあ」
「今度は何よ!」
「じゃあ、俺が名前つけようか?」
「絶対に嫌っ!!」
女の怒鳴り声が、夜の街に響き渡った。
「あ、そうだ」
俺は自分の着ている服を指差した。
「これ、また今度返すよ」
「……いいわよ」
「え?」
「返さなくていい」
女はそう言うと、ふっと視線を逸らした。
さっきまでの威勢のいい声とは違い、妙に落ち着いた声だった。
「……そうなのか?」
「ええ」
女は夜の街を見つめた。
眼下には、無数の車のヘッドライトが流れている。
「もう、会うこともないでしょうし」
その声には、どこか感情が欠けているように感じられた。
まるで、遠いどこかを見ているようだった。
「……そっか」
俺は自分の袖を軽く引っ張った。
「じゃあ、遠慮なく」
「…………」
女は何も言わなかった。
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
女は手の中にある小さな袋を見つめていた。
そして、それを大切そうに握りしめると、ゆっくりと顔を上げた。
「……助かったわ」
「ん?」
「さっきのことよ」
女は俺を見上げていた。
「……本当に、助かった」
「いやいや」
俺は軽く手を振った。
「こっちこそ、服をありがとう」
「…………」
女はしばらく俺の顔を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……その服」
「ん?」
「似合ってるわよ」
「……そう?」
俺は自分の格好を見下ろした。
確かに、サイズは少し小さいけど、悪くない。
「もっといい服、持ってくるんだった」
「いや、十分だって」
「……あんたみたいなイケメンなら、もっと――」
プァァァァァァァン!!
突然、眼下の道路からけたたましいクラクションが鳴り響いた。
「……え?」
俺は思わず音のした方向に顔を向けた。
どうやら車同士が揉めているらしい。
……まったく、こんな夜中に。
そう思って振り返ったときには、女はすでに屋上の縁に立っていた。
「……じゃあね」
女は小さく手を上げた。
「あ、ちょっと!」
俺が声をかけるより早く、その身体が宙へと躍り出た。
黒い影がビルの谷間へ消えていく。
「…………」
俺はしばらく、その場所を眺めていた。
……行っちゃった。
結局、名前も聞けなかったな。
まあ、いいか。
それよりも……。
「…………ん?」
俺は首を傾げた。
何か、妙なことを言ってなかったか?
確か……。
『あんたみたいなイケメンなら……』
「…………」
イケメン?
「……今、イケメンって言った?」
俺は思わず自分の顔に手を当てた。
鼻。口。頬。顎。
……ある。
いや、そりゃあるだろうけど。
「…………」
そのとき、俺の背筋に冷たいものが走った。
……待てよ。
俺は、死んだ。
そして、ルキナとかいう女神に生き返らせてもらった。
名前まで勝手に変えられて。
しかも、気がつけば、とんでもない力まで身についていた。
……ということは。
「…………」
俺はもう一度、自分の顔を触った。
まさか……。
容姿まであいつの価値観で…
一瞬、オークの顔が脳裏をよぎった。
そういえば、こっちに戻ってから、一度も鏡を見ていない。
いや、そもそも生き返ってから、自分の顔をまともに確認した覚えがない。
「……嘘だろ?」
心臓が、嫌な音を立てた気がした。
「…………」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
そして、眼下に広がる街を見つめた。
あれほど帰りたかった日本。
あれほど懐かしかった東京。
なのに今、俺は猛烈に怖くなっていた。
……鏡を見るのが。
俺は今、いったいどんな顔をしているんだ?
◆
都内某所——
夜の闇にそびえ立つ、一棟の高層ビル。
その最上階に近い一室には、街の喧騒とは無縁の静寂が漂っていた。
壁一面を覆う大きな窓。その向こうには、無数の光を散りばめた
東京の夜景が広がっている。
室内には重厚な調度品が並び、床には毛足の長い
絨毯が敷き詰められていた。
部屋の中央に据えられた巨大な執務机。
その奥に置かれた革張りの椅子に、一人の大柄な男が深々と腰掛けていた。
男は太い葉巻を咥え、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
年齢は五十代半ばといったところだろうか。
仕立ての良いスーツに身を包み、厚い胸板と広い肩幅は、
座っていてもなお威圧感を放っている。
コン、コン。
静かな室内に、控えめなノックの音が響いた。
「……入れ」
低く、腹の底に響くような声だった。
扉が静かに開かれる。
姿を現したのは、黒いスーツを着た長身の男だった
。
男は両手に銀色のトレーを持っている。
縁に精緻な装飾が施された、見るからに高価そうな代物だった。
「社長、こちらを」
長身の男は執務机へ歩み寄ると、トレーを音も立てずに置いた。
大柄な男は葉巻を口から離し、ゆっくりと視線を落とした。
「……ふん」
トレーの中央には、小さな物体が載せられていた。
金属とも、鉱物ともつかない奇妙な質感。
磨き上げられた表面が、室内の照明を鈍く反射している。
男はしばらくそれを眺めていた。
やがて葉巻を灰皿に置き、太い指でその物体をつまみ上げた。
手のひらに収まるほどの、小さな装置だった。
金属とも鉱物ともつかない、奇妙な光沢を放っている。
「……ふん。これか」
男は装置を机に置くと、右手を後ろへ回した。
太い指が、首筋をゆっくりと探る。
やがて、ある一点で指の動きが止まった。
男はそこに爪を引っかけると、皮膚の一部をめくり上げた。
その下には、小さな穴が二つ並んでいた。
まるで精密機器の接続端子を思わせる、奇妙な穴だった。
男は再び装置を手に取った。
親指で表面をなぞり、小さな突起を押す。
カチッ。
乾いた音とともに、装置のキャップが外れた。
その内側から現れたのは、二本の細い針だった。
銀色に輝く針は、先ほど首筋に現れた二つの穴と、寸分違わぬ間隔で並んでいる。
男は装置を後頭部へと運んだ。
手探りで位置を確かめ、二本の針の先端を穴に合わせる。
そして、ゆっくりと押し込んだ。
カチリ。
小さな音が響いた。
装置が首筋にぴたりと収まり、まるで最初からそこにあったかのように固定された。
「…………」
その瞬間。
男の動きが止まった。
椅子に深く腰掛けたまま、指一本動かさない。
まばたきさえしていなかった。
「……社長?」
長身の男が小さく声をかけた。
返事はない。
数秒の沈黙。
やがて、男の頬がぴくりと動いた。
「……ぐっ」
喉の奥から、低いうめき声が漏れる。
男の太い指が、椅子の肘掛けを強く握りしめた。
「ぐ……うう……!」
額に太い血管が浮かび上がる。
顔が徐々に歪み、全身が小刻みに震え始めた。
「ぐあああああっ!!」
突然、男が絶叫した。
巨大な身体が大きく仰け反る。
「社長!?」
側近たちが慌てて駆け寄ろうとする。
だが、その瞬間。
「…………」
男の動きが、ぴたりと止まった。
まるで何かの処理が完了したかのように。
深く垂れていた頭が、ゆっくりと持ち上がる。
閉じられていた瞼が開いた。
その瞳に、赤い光が宿っていた。
「…………!」
男は自らの手を見つめた。
ゆっくりと指を開き、そして握りしめる。
何かを確かめるように、何度も繰り返した。
やがて、その口角が不気味に持ち上がった。
「……ふふふ」
喉の奥から笑い声が漏れる。
「……これだ」
恍惚の表情。
赤く輝く瞳が、ゆっくりと細められた。
「あああ…ふふふ……これだ……」




