第4話 例のブツ
「……ブツを渡せ」
黒装束の一人が、低い声で言った。
その男だけは、ほかの者たちより一歩前に出ていた。
顔の下半分を黒い布で覆い、鋭い眼光を女に向けている。
「……渡せるわけないじゃない」
女は身構えたまま、吐き捨てるように答えた。
「そうか……」
男は小さく頷いた。
「ならば、力ずくで奪うのみ」
そして、片手を上げた。
「やれ!」
その一言を合図に、黒装束たちが一斉に動いた。
「っ!」
女は素早く身を翻した。
正面から迫る男の拳を紙一重でかわし、その腕を掴んで身体を捻る。
男の身体が宙を舞い、屋上の床に叩きつけられた。
だが、次の瞬間には別の男が背後から襲いかかる。
女は振り返ることなく身を沈め、繰り出された蹴りをかわした。
そのまま片手を地面につき、身体を回転させる。
鋭い蹴りが男の脇腹に突き刺さった。
「ぐっ!」
男がよろめく。
しかし、女に休む暇はなかった。
次から次へと黒い影が迫ってくる。
拳。蹴り。鋭い手刀。
女はそのすべてを巧みにかわしていた。
まるで相手の動きが、あらかじめ分かっているかのようだった。
「……すげえな」
俺は思わず感心した。
さっきから見ていると、あの女は本当に身のこなしが軽い。
まるでアクション映画でも見ているようだ。
……いや、映画じゃないんだけど。
そのときだった。
「甘い」
一際低い声が響いた。
先ほど命令を下した男が、女の懐へ踏み込んでいた。
「しまっ……!」
ドゴッ!!
鈍い音が響いた。
男の拳が、女の腹部を捉えたのだ。
「がはっ!」
女の身体がくの字に折れ、そのまま後方へ吹き飛ばされた。
ガァンッ!!
背後にあった鉄骨に、激しく背中を打ち付ける。
「かはっ……!」
女は床に崩れ落ちた。
咳き込みながら起き上がろうとするが、身体に力が入らないらしい。
片膝をついたまま、苦しそうに肩で息をしている。
「……終わりだ」
黒装束の男がゆっくりと歩み寄った。
その背後から、ほかの者たちも女を取り囲む。
「さあ、大人しく返してもらおう」
女は男を睨みつけた。
だが、立ち上がることはできなかった。
そのとき、俺はふと疑問に思った。
「あのー……」
「…………」
「あのー、ちょっといい?」
黒装束たちの動きが止まった。
俺は遠慮がちに手を上げた。
「その女性が持ってるものって、あんたたちの物だったの?」
「…………」
一斉に俺に視線が集まった。
黒装束の男は、まるで今初めて俺の存在に気づいたかのように、ゆっくりと顔を向けた。
「……誰だ、こいつは?」
男は女に尋ねた。
「知らないわよ!」
女が怒鳴った。
「さっきから勝手に追いかけてくるのよ! この変態!」
「…………」
男は俺の全身を見渡した。
頭から足の先まで。
そして、もう一度、下半身へ視線を戻す。
白いブリーフ。
「……はっ」
男が鼻で笑った。
「なるほど。ということは、お前も同業か」
「……ん?」
「しかし、その格好で仕事とはな」
男は呆れたように首を振った。
「ずいぶんと変わった趣味をしている」
「いや、同業って何のこと?」
「とぼけるな」
「いや、とぼけてないって。俺は和夫だ」
「…………」
「だから、か・ず・お」
男はしばらく黙っていた。
「……ふざけているのか?」
「至って真面目だけど? てか、無職だ。」
素寒貧の無職だよ…くうう…
「…………」
男は小さく舌打ちした。
「お前は、この女が持っている物が何なのか知っているのか?」
「いや?」
俺は首を傾げた。
「知らないけど?」
「……そうか」
男は何かを納得したように頷いた。
「確かに、運び屋には中身を知らされていない者も多い」
「いや、だから!」
俺は少し声を張り上げた。
「運び屋じゃなくて、和夫だって!」
「…………」
男は額に手を当てた。
「……話にならんな」
そして、俺を睨みつけた。
「いいか。お前が何者であろうと、我々には関係ない」
「その通り。」
「今すぐ、ここから立ち去れ」
「え?」
「さもなくば……殺す」
男の声が、一段と低くなった。
周囲の黒装束たちも、俺に向かって身構える。
……殺すって。
物騒な連中だな。
俺は困ったように頭を掻いた。
「いや、そう言われてもさ……」
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
「……あ」
俺はゆっくりと腕を上げた。
そして、男の背後を指差した。
「なあ、あれ……」
「……何だ?」
黒装束たちが、一斉に振り返った。
そこには。
「…………」
女がいた。
四つん這いになり、屋上の床をゆっくりと這っている。
片手を前に出し、そろそろと身体を引き寄せる。
そして、また片手を前へ。
まるで誰にも気づかれていないと信じているかのように、
少しずつ非常階段のほうへ近づいて行っていた。
「…………」
女の動きが止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
黒装束たちと目が合った。
次に、俺を見る。
「…………」
その目には、はっきりと怒りが浮かんでいた。
……あれ?
俺、なんかまずいことした?
「貴様っ!」
黒装束の男が怒鳴った。
「逃げられると思ったか!」
「くっ!」
女は慌てて立ち上がろうとした。
だが、遅かった。
男の手が伸び、女の首根っこを掴んだ。
「きゃっ!」
ドサッ!
女は再び床へ押し倒された。
男はその背中を押さえつけ、顔を地面に押し付ける。
「離しなさいよ!」
「大人しくしろ!」
「くっ……!」
女は必死にもがいた。
だが、先ほど受けた一撃が効いているのか、思うように身体が動かないらしい。
「……まったく、手間をかけさせる」
男は女を押さえつけたまま、その上着を探り始めた。
「ちょっと! やめなさい!」
「黙れ!」
そして、内ポケットから何かを取り出した。
小さな袋だった。
手のひらに収まるほどの大きさで、中には何かが入っているらしい。
「……あったぞ」
男は袋を掲げた。
女の表情が険しくなる。
「返せ!」
「ふん……」
男は女の言葉を無視し、傍らに立つ黒装束へ袋を放り投げた。
「確認しろ」
「はっ」
受け取った男は袋の口を開き、中身を覗き込んだ。
しばらく無言で確認していたが、やがて小さく頷いた。
「…………」
それを見た男も、静かに頷き返した。
「……よし」
俺はその様子を眺めながら、首を傾げた。
……結局、何が入ってるんだ?
◆
「……よし、引き上げだ」
黒装束の男が、低い声で告げた。
その言葉を合図に、周囲の男たちが一斉に動き始める。
「……この女はどうします?」
傍らにいた男が、リーダーらしき男に耳打ちした。
男はちらりと女を見下ろした。
「放っておけ」
「しかし……」
「ねずみ一匹殺したところで、何にもならん」
吐き捨てるように言うと、男は踵を返した。
女は地面に押さえつけられたまま、悔しそうに唇を噛みしめている。
「……待ちなさいよ」
その声は、かすかに震えていた。
「それを……返せ!」
しかし、男は振り返らなかった。
代わりに、少し離れたところに立っていた俺に視線を向けた。
「……悪いな」
「ん?」
「これは頂いていく」
男は片手を軽く上げた。
「じゃあな」
次の瞬間、黒装束たちは一斉に屋上の縁へと駆け出した。
そして、次々とビルの谷間へ身を躍らせる。
黒い影が夜の闇に溶け込むように消えていった。
あとには、静けさだけが残された。
遠くから聞こえる車の走行音。
絶え間なく明滅するネオン。
俺は黒装束たちが消えていった方向を、しばらく眺めていた。
「……行っちゃったな。
変な連中だった。」
「…………」
返事はなかった。
振り返ると、女は地面に両手をついたまま、俯いていた。
「……くそっ」
小さな声が漏れた。
「……ちくしょう」
女は拳を握りしめた。
そして。
ドンッ!
地面を叩いた。
「ちくしょおおおっ!!」
もう一度。
ドンッ!
「なんで……なんでよ……!」
女は額を地面につけたまま、肩を震わせていた。
その目には、涙が浮かんでいる。
「……あれを手に入れるのに」
声が震えた。
「どれだけの犠牲があったと思ってるのよ……」
「…………」
「みんな……あれを手に入れるために……」
女は言葉を詰まらせた。
俺は黙って、その様子を見つめていた。
やがて、女がゆっくりと顔を上げた。
そして、視線が俺に。
「…………」
その表情を見て、思わず身構えた。
……怖っ。
さっきまで泣いていたはずなのに、今は鬼のような形相で俺を睨みつけている。
「……お前」
「……ん?」
「お前のせいだ……」
「…………」
「お前さえ現れなければ!!」
女が叫んだ。
「お前が邪魔しなければ、あんな奴らに捕まることもなかった!」
「…………」
「お前が……あんなところで私を指差したりしなければ……!」
……ああ。
あれか。
確かに、逃げようとしていたところを教えちゃったもんな。
「…………」
俺は何も言えなかった。
女は再び俯いた。
「……もう終わりよ」
「……え?」
「私は……組織から消される」
女は力なく呟いた。
「きっと……」
その声には、先ほどまでの怒りも勢いもなかった。
ただ、諦めだけが滲んでいた。
「…………」
俺は女を見下ろした。
……そんなに大変なことなのか。
確かに、何だか物騒な連中だったけど。
それにしても……。
「なあ」
「…………」
「そんなに大事なものなの?」
女は答えなかった。
俺は首を傾げた。
「これ」
「…………え?」
女が顔を上げた。
俺は右手の親指と人差し指でつまんだものを女に見せた。
夜風に吹かれ、袋がひらひらと揺れている。
「…………」
女の目が、ゆっくりと大きくなった。
「…………え?」
俺は袋を軽く揺らした。
「これだろ?」
「そ……」
女の口が半開きになった。
「それ……!!」
「うん?」
「それぇぇぇっ!?」
女は飛び起きた。
先ほどまで立ち上がることすらできなかったのに、驚くほどの勢いだった。
「なっ……なんで!?」
「何が?」
「なんで、あんたがそれ持ってんのよ!?」
「ああ、これ?」
俺は袋を見つめた。
「さっき、あのリーダーっぽい人が子分に渡しただろ?」
「……う、うん」
「そのときに、すり替えたんだよ」
「…………」
女は固まった。
「…………は?」
「だから、すり替えたの」
「ええええええっ!?」
女の叫び声が、夜のビル街に響き渡った。
「ど、どうやって!?」
「どうやってって……」
俺は少し考えた。
確かに、どう説明すればいいんだろう。
あの男が袋を放り投げたとき、何となく取れそうな気がしたのだ。
だから、取った。
そして、代わりに別のものを渡した。
……それだけなんだけど。
「うーん……」
俺は頭を掻いた。
「説明するの、難しいな……」
「難しいって……!」
女は俺の手元と顔を交互に見つめた。
「そんな……あいつら、誰も気づいてなかったじゃない……」
「そうみたいだな」
「そうみたいだな、じゃないわよ!」
女は両手で頭を抱えた。
そして、しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「……なんで?」
「ん?」
「なんで……取り返してくれたの?」
さっきまでの険しい表情が、少しだけ和らいでいた。
俺は女を見つめた。
「だってさ」
「…………」
「君には借りがあるから」
そう言って、にこっと笑った。
「……借り?」
「うん」
俺は頷いた。
「君のおかげで、ここが地球だって分かったからさ」
「…………」
「俺は本当に助かったんだ。ありがとう」
女は呆気に取られたように、俺を見つめていた。
やがて、その視線が俺の手元へ移った。
「……じゃあ」
「ん?」
「早く返して」
女はすっと手を差し出した。
「…………」
……切り替え早いな。
「いや、ちょっと待って」
「……何よ?」
「渡すのに、一つ条件があるんだ」
「…………!」
女の表情が変わった。
差し出していた手を、ゆっくりと引っ込める。
「……条件?」
「ああ」
「な……何よ……」
女は警戒するように俺を見つめた。
そして、その視線が少しずつ下へと移動する。
胸。
腹。
そして。
白いブリーフ。
「…………」
女の顔が引きつった。
「……まさか」
「ん?」
「……あんた、何を要求するつもり?」
俺は少し困ったように笑った。
そして、自分の身体を見下ろした。
「いやあ……」
「…………」
「着るもの、持ってきてくれない?」
「…………」
女は瞬きもせず、俺を見つめた。
「……は?」
「だから、服」
俺は自分のブリーフを指差した。
「さすがに、この格好じゃ街を歩けないだろ?」
「…………」
「靴もあったら助かるんだけど……」
女はゆっくりと顔を上げた。
そして、深く息を吸った。
「…………」
「……ダメか?」
夜の東京。
高層ビルの屋上で、白いブリーフ一枚の男が、申し訳なさそうに頭を掻いていた。




