第3話 帰還
夜の街を、俺は走っていた。
いや、正確には走っているというより、
飛んでいると言った方が近い。
ビルの屋上から屋上へ。
自分でも信じられないほど軽々と、建物の間を飛び越えていく。
「おーい! 待ってくれって!」
「来るなぁぁっ! この変態!」
前を走る女が振り返り、悲鳴を上げた。
……だから変態じゃないって。
確かにパンツ一枚なのは認める。
だが、俺だって好きでこんな格好をしているわけじゃない。
それにしても、あの女は何者なんだ?
ビルの屋上を軽々と飛び越えるなんて、普通の人間にできる芸当じゃない。
……まあ、俺もやってるんだけど。
そんなことを考えながら、女の後を追っていたときだった。
『……今日未明、埼玉県内の山林で、男性の遺体が発見されました』
どこからか、ニュースを読み上げる女性の声が聞こえてきた。
立ち止まり何気なく視線を向ける。
俺の視界がズームしていく。
色鮮やかな看板が立ち並ぶ通りの一角に、大型家電量販店があった。
その店頭には、何十台ものテレビが並んでいる。
どの画面にも、同じニュース番組が映し出されていた。
『亡くなっていたのは、元・天川ホールディングス会長、天川大作氏の息子、天川大地氏とみられています』
「…………」
『警察は、現場の状況などから自殺の可能性が高いとみて、詳しい経緯を調べています』
画面が切り替わった。
山林の映像。
規制線。
そして、画面の隅に表示された一枚の顔写真。
「…………」
見覚えがある。
いや、見覚えがあるどころじゃない。
そこに映っていたのは、俺だった。
『天川ホールディングスは、日本有数の資産を保有する企業グループとして知られています』
女性アナウンサーの淡々とした声が、夜の街に流れていた。
『去年、創業者である天川大作会長が死去。その後、同社の株式の六十パーセントを、元秘書の黒原与志之氏が取得し、事実上、グループのトップとなったばかりでした』
「俺にはもう関係ない事だ……」
事実を打ち消すように首を振った。
『続いてのニュースです』
アナウンサーの声が、俺を現実へと引き戻した。
『最近、世間を騒がせているパルクール窃盗団、通称「ICE」が、再び姿を現しました』
「…ん?」
『ICEは、驚異的な身体能力を駆使して高層建築物などに侵入する窃盗グループで、警察が行方を追っています』
テレビ画面が切り替わる。
そこには、夜の渋谷の映像が映し出されていた。
赤色灯を点滅させるパトカー。
逃げ惑う人々。
そして、ビルの壁面を駆け上がる数人の人物。
その中の一人の女。
「……あれ?」
見覚えがある。
ついさっきまで追いかけていた女じゃないか。
『警察によりますと、ICEは渋谷区内の施設に侵入し、重要な軍事機密を含むデータを盗み出した疑いが持たれています』
軍事機密?
窃盗団?
……あの女が?
『犯行グループの一部は現場から逃走しており、警察が現在も行方を追っています』
「…………」
俺はゆっくりと顔を上げた。
遠くのビルの屋上に、小さな人影が見えた。
あの女だ。
もう随分と離されてしまったらしい。
女は何度も後ろを振り返りながら、建物の間を飛び越えていた。
「……なるほどね」
どうやら、ただの変わった女というわけではなさそうだ。
しかし、今の俺には、そんなことよりも確かめたいことが山ほどあった。
あの女なら、何か知っているかもしれない。
「……よし」
俺は軽く膝を曲げ腰を落とした。
女との距離は、すでに数百メートル。
普通なら追いつけるはずがない。
だが、不思議と追いつける気がした。
足元に力を込める。
次の瞬間。
ドンッ!!
凄まじい衝撃音とともに、足元のコンクリートが砕けた。
「うおおおおお!?」
自分でも驚くほどの加速だった。
周囲の景色が、一瞬にして後方へ流れていく。
ネオンの光が幾筋もの線となり、ビルの輪郭が霞んだ。
風が全身を叩く。
いや、風というより、壁に突っ込んでいるような感覚だった。
「な、なんだこれぇぇっ!?」
涙と鼻水が後ろに飛んで行った。
叫んだときには、すでに女の背後まで迫っていた。
そして、そのまま女を追い越す。
「えっ?」
すれ違いざま、女が驚いた顔をしたのが見えた。
遅れて風が女の髪をなびかせる。
俺は慌てて足を踏ん張った。
ガガガガッ!!
靴を履いていない足が屋上のコンクリートを削り、細かな破片が飛び散った。
……痛くない。
自分の足を見下ろしている場合じゃない。
俺は顔を上げ、女の方へ向き直った。
「おーい!」
「…………っ!?」
女が目を見開いた。
つい先ほどまで遥か後方にいたはずの男が、なぜか目の前に立っている。
しかも、相変わらず白いブリーフ一枚。
俺は両手を広げ、女の行く手を塞いだ。
「ちょっと待ってくれ。聞きたいことがあるんだ」
女の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「なあ、君って泥棒なんだって?」
俺はできるだけ親しみを込めて、笑顔で話しかけた。
「…………」
女は答えなかった。
ただ、俺の顔をじっと見つめている。
その目は、明らかに警戒していた。
「さっきニュースで見たんだよ。なんだっけ、アイス? とかいう窃盗団の……」
言い終わるより早く、女が動いた。
トンッ!
軽く地面を蹴ったかと思うと、俺の右側をすり抜け、隣のビルへと跳躍した。
「あっ、ちょっと!」
俺も慌てて地面を蹴った。
次の瞬間には、女の目の前に立っていた。
「だから、ちょっと待ってくれって」
「なっ!?」
女は空中で身体を捻り、俺を避けるように着地した。
そして、間髪入れずに反対方向へ駆け出す。
俺は再び、その行く手に回り込んだ。
「おーい!」
「くっ!」
女は歯噛みすると、今度はビルの外壁へ向かって走り出した。
壁を蹴り、看板の支柱を足場にして、一気に上へと跳躍する。
見事な身のこなしだった。
……まあ、俺もついていけるんだけど。
「おーい、危ないぞ!」
「うるさいっ!」
俺が先回りして屋上の縁に立つと、女は空中で急停止でもしたかのように身体を翻し、元の場所へと飛び降りた。
そして、また走る。
俺も追う。
女が右へ行けば、俺も右へ。
左へ行けば、俺も左へ。
いや、正確には追いかけているわけじゃない。
なぜか、走り出した瞬間には女の前に立っているのだ。
「だから待てって!」
「なんなのよ、あんたぁぁっ!」
そんなことを何度か繰り返した末、女はとうとう足を止めた。
「はあっ……はあっ……」
肩を大きく上下させ、俺を睨みつける。
「……もう、いい」
「おっ、やっと話を聞いてくれる気になったか?」
「…………」
女は深く息を吐いた。
そして、うんざりしたように口を開いた。
「……何が望み?」
「え?」
「だから! 何が目的なのよ! お金? それとも、私を捕まえたいわけ?」
「いや、別に」
「……は?」
「ちょっと聞きたいことがあるだけなんだ」
女の眉間に深い皺が寄った。
「…………」
「なあ、ここってさ」
俺は周囲を見渡した。
夜空にそびえるビル群。
遠くで明滅するネオン。
眼下を走る車のヘッドライト。
見慣れたはずの景色。
それでも、どうしても確かめておきたかった。
「ここは地球で、日本の渋谷で間違いないよな?」
「…………はあ?」
女は口を半開きにした。
「……何言ってんの、あんた?」
「いや、だからさ。ここは地球だよな? 日本の、東京の、渋谷だよな?」
「当たり前じゃない!」
女は呆れたように両手を広げた。
「いかれてんの!? あんた!」
「…………」
「そんなこと聞くために、あんなに追いかけ回したわけ!?」
俺は女の言葉を聞きながら、ゆっくりと夜空を見上げた。
「……そっか」
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
「……良かった」
「……え?」
「良かったぁ……」
視界が滲んだ。
どうしようもなく、涙が溢れてきた。
「うっ……ぐすっ……」
「…………」
「本当に……帰ってきたんだなぁ……」
俺は両手で顔を覆った。
「ううっ……良かった……本当に……」
「…………」
女は一歩、後ずさった。
「……ちょっと」
「うううっ……」
「……あのさ」
「ぐすっ……」
「…………」
女は困惑した表情で、目の前の男を見つめていた。
夜の高層ビルの屋上。
ネオンに照らされた街を背景に、白いブリーフ一枚の男が、肩を震わせてむせび泣いている。
しかも、つい先ほどまで自分を執拗に追いかけ回していた男だ。
どう考えても、まともではない。
女はさらに半歩、距離を取った。
「……気持ち悪っ」
「…………」
「いや、マジで……」
「…………」
「…………」
しばらくして。
「……でさ!」
和夫は突然、顔を上げた。
「ひっ!?」
女が小さく悲鳴を上げる。
つい今しがたまで号泣していた男が、何事もなかったかのように、すっきりとした顔をしていた。
「ありがとう! 助かったよ!」
素直に礼が言えたよ。ルキナ。
「…………は?」
「いやあ、安心した!」
和夫は目元を拭い、にっこりと笑った。
「でさ、もう一つ聞きたいんだけど」
「……まだあるの?」
「最近、何か変わったことってない?」
「…………」
「日本にさ」
女はしばらく和夫を見つめていた。
そして、深いため息をついた。
「……はあ?」
「いや、だから。最近、日本で何かおかしなことが起こったりしてないかって」
「…………」
「例えば、普通じゃ考えられないような事とか」
「…………」
女は額に手を当てた。
「あのねえ……」
「うん」
「まず、あんた自身が普通じゃないって自覚ある?」
「え?」
「その格好で、ビルからビルへ飛び移って、女を追いかけ回して……」
「いや、だから、それは……」
「しかも、地球かどうか確認したいとか言い出して、いきなり泣き始めるし!」
「…………」
「普通じゃないことが起こってるかって? 今、まさに起こってるじゃない!」
「……ああ、まあ、そうか」
確かに。
言われてみれば、その通りかもしれない。
俺は自分の格好を見下ろした。
白いブリーフ。
裸足。
……うん。
普通じゃないな。
「……まあ、それは置いといて」
「置いとくなっ!」
女が声を荒らげた。
だが、その直後だった。
「…………」
女の表情が、ふっと変わった。
何かに気づいたように、俺の肩越しへ視線を向けている。
「……あるわ」
「え?」
女が小さく呟いた。
「変わったこと」
「本当か!?」
俺は思わず身を乗り出した。
「何だ? 何が変わったんだ?」
女は答えなかった。
ただ、ゆっくりと片手を持ち上げる。
そして、俺の背後を指差した。
「……あれ」
「……ん?」
そのときだった。
ぞくり、と。
背筋を何かが這い上がるような感覚がした。
「…………」
何だ?
今、何か……。
さっきまで感じなかった、妙な気配。
一つではない。
二つ、三つ……。
いや、もっとだ。
俺はゆっくりと振り返った。
「…………え?」
いつの間に現れたのだろう。
そこには、黒い装束に身を包んだ人影が立っていた。
顔の大半を黒い布で覆い、目元だけを覗かせている。
一人。二人。三人……。
気がつけば、隣のビルの屋上にも、看板の上にも、
同じ格好をした者たちが立っていた。
その数は、十人を優に超えている。
誰一人として言葉を発しない。
ただ、こちらを見つめていた。
「…………」
俺はもう一度、女を振り返った。
「……知り合い?」
女は答えなかった。
先ほどまでの呆れた表情は、すっかり消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、鋭い警戒の色。
女はゆっくりと腰を落とし、身構えた。
俺も再び背後を振り返る。
黒装束の集団は、いつの間にか退路を塞ぐように散開していた。
ネオンの光が、その黒い影を不気味に照らし出している。
風が吹いた。
誰かの装束が、ばさりと音を立てた。
女はぎゅっと上着のポケットを握りしめた。




