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第2話 第一地球人

俺はゆっくりと扉を開けた。


その瞬間、かび臭さとわずかに焦げたにおいが

鼻をついた。


そこには天井の低い、四角い空間が広がっていた。

壁も床も灰色のコンクリートで造られており、装飾らしいものは一切ない。


小さな電球の白い光が無機質な室内を照らしている。

左右の壁際には、太い木材で組まれた棚が並んでいた。


どうやら、ここはオークランドではないっぽい。

俺はもう一度、入ってきた扉を振り返った。

……どうなってるんだ、この部屋は。


真正面に扉が見える。

その横に公衆電話が設置されていた。

ピンク色の小銭を入れるタイプのあれだ。


俺はそっと受話器を上げ、耳に当てた。


トゥルルル…


!? コールしてる…


ガチャ


シーン……


「もしもし?」

とりあえず言ってみた。


「はあ…ここまでの行動を記録すんのか?」

聞き覚えのある女の声だった。

で、なんで出た瞬間からキレ気味なんだよ。


「なんだ急に!」


「チッ…ファイナルアンサー!?」

またそれか。


「ファイナルアンサーで詰めてくるのやめん?」


「はい、じゃあファイナルアンサーね。」


「……」


受話器の向こうでキーボードを叩くような音がする。

パソコンか? 神が?


「名前は?」

ルキナが言った。


「天川大地だよ。知ってるだろ?」


「そいつはもう死んでる。

おんなじ名前にはできねえんだよ。バカかお前?」


「あのさ、どうでもいいけど、なんで、あんたいつも

そんな態度なんだ?

俺にとっては全て初めての事なんだ。

もう少し優しくしてくれたっていいだろ?」


「なぜ神がお前ごときの価値観に合わさねばならんのだ?」


「くっ…こいつ…」

まあ、たしかに…だが腹立つ…


「で、名前ってどうすりゃいいんだ?」


「自分に名前をつけろ。

簡単な事だ。」


「そんな事言われたって…」

まあとにかく目立つ名前は極力控えよう。

よくある名前だ‥‥

田中とか鈴木とか…


「早くしろ、こっちは予定があるんだよ。」


急かしやがって…

田中太郎…鈴木よしお…佐藤みのる…

う~ん…迷うな…


「う~ん じゃあ…」

と俺が言いかけた瞬間。


「聖ベベルギウス・和夫だ。

良い名前じゃろ?」

ルキナが言うのが速かった。


「待て待て!!」


「はい、登録 っと。」

またキーボードをたたく音がする。


「おい! 勝手に!!」


「聖ベベルギウスも和夫もオーソドックスな名前だ。

これなら目立たん。

ありがたく思え。」


…もうどうにでもなれ…


「ああ…もうやってられん…」

受話器の向こうでルキナが小さくつぶやいた。


「……」


しばらく沈黙が続いた。

かすかにルキナの息を吐く音が聞こえた。

たばこ吸ってるのか…


「なあ、あんた、仕事に不満持ってるか知らねえけど

それを相手に当て付けるのやめた方がいいぜ。」


「はっ…知ったような事をお前が言うな。

私はずっとこの仕事を3000年やり続けてきたんだ。

お前ごときに理解されては困る。」


「辞めればいいじゃねえか。嫌なら。」

俺の何気ない言葉だった。


「なっ…なんだと!?」


「だから、嫌なら辞めれば?」


ガチャ…ツーツーツー

電話はそこで切れてしまった。


「なんなんだよ…変な奴だな…

俺、なんか変な事言ったかな…」


で…なんだっけ…俺の名前…聖ベベルギウス・和夫…

はあ…どこが一般的な名前だよ…勝手に名付けやがって。


だが、とにかく、ここがどこか確かめないと。


俺はドアをそっと、少し開けた。

隙間から確認する。


視界には、想像していた以上に広い空間が広がっていた。

天井は高く、太いコンクリートの梁が幾重にも交差している。


ところどころ剥き出しになった鉄骨や配管が天井を這い、

千切れた電気配線が力なく垂れ下がっていた。


床一面には薄く埃が積もり、所々にコンクリートの破片や

細かな瓦礫が散乱している。


静まり返っている。

人の気配はない。

俺はゆっくりドアを開けた。


左手の壁には大きな窓が並び、そこから差し込む色鮮やかな光が、

灰色の床をチカチカと照らしている。。


窓際まで歩き、俺は眼下に広がる景色を見下ろした。

「ああ…」

思わず声が漏れた。


そこには、見慣れた街並みが広がっていた。


夜の帳が下りた都会の空に、無数のネオンが輝いている。

大小様々なビルがひしめき合い、その壁面には色鮮やかな

巨大広告が掲げられていた。


ビルの谷間には幾筋もの道路が走り、車のヘッドライトと

テールランプが途切れることなく流れていた。


真下には大きな交差点がある。

信号が変わると、歩道で待っていた人々が一斉に動き出した。

無数の人影が横断歩道を埋め尽くし、それぞれの目的地へと足早に向かっていく。


そのすぐ手前には、横長の駅のホームと線路が伸びていた。

電車が走り抜けるたび、低い振動が建物に伝わってくる。


その脇をバスが通り過ぎ、歩道には大勢の人々が行き交っていた。

どこからともなく聞こえる車のクラクション。

電車の走行音。

遠くから響く人々のざわめき…


「帰って来たんだ…」

俺の頬に涙が伝った。


目の前に広がる光景を、もう一度見渡した。

見間違えるはずがない。


巨大な広告看板も、駅前の交差点も、見慣れたビルの配置も。


ここは――渋谷だ。


俺が知っている、あの渋谷だった。



◆



夜の渋谷は、相変わらずの喧騒に包まれていた。

巨大な電光掲示板が色鮮やかな広告を映し出し、

ビルの谷間には無数のネオンが輝いている。


スクランブル交差点には大勢の人々が行き交い、

車のクラクションや雑踏のざわめきが絶え間なく響いていた。


その喧騒を切り裂くように、甲高いサイレンが鳴り響いた。


「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」

警察官の怒号が飛ぶ。


人混みの中を、一人の女が駆け抜けていた。


長い髪をなびかせ、車道へ飛び出した女は、

迫り来る車を軽々と飛び越えた。


「なっ……!」

警察官が息を呑む。


女は着地と同時に地面を蹴った。

その姿が、一瞬にして視界から消える。


「どこへ行った!?」

「おい! 前だ! 前にいる!」


数十メートル先。

女は何事もなかったかのように走っていた。


「発砲する! 周囲の安全を確認!」

乾いた銃声が響いた。


パンッ!


「キャーー!」

悲鳴が上がり、人々が一斉に身を伏せる。


しかし、女は振り返りもしなかった。

銃声が響く直前、女の身体がわずかに傾いていた。


「へっ…」

女の口元が緩む。


弾丸はその肩先を掠めることすらなく、背後のアスファルトを叩いた。


パンッ! パンッ! チュン!


続けざまに銃声が響く。


だが女は走る速度を落とさない。

上体を捻り、首を傾け、時には地面すれすれまで身を沈める。


まるで弾丸の軌道が、最初から見えているかのようだった。


「馬鹿な……当たらない!?」

警察官の一人が呆然と呟いた。


女はちらりと背後を振り返った。

赤いルージュの口元には、薄い笑みが浮かんでいた。


女はビルの壁面を蹴り、さらに高く跳躍した。


眼下には赤色灯を点滅させるパトカーと、右往左往する警察官たち。


「ふんっ、馬鹿馬鹿しい」

女は鼻で笑った。


そして、ビルの屋上近くに設置された巨大なネオン看板へと飛び移った。


その瞬間だった。


ドンッ!!


「あうっ!」

何かに激突した。


凄まじい衝撃が全身を襲い、女の身体は跳ね返されるように宙を舞った。


「なっ…なに!?」

空中で身体を捻り、辛うじて看板の端に着地する。


足元の金属板が大きく軋んだ。

女は片膝をつき、顔を上げた。

そこには、一人の男が立っていた。


男は頭を掻きながら、こちらを見ている。

「あの…大丈夫か?」


女は目を見開いた。


おかしい——


自分は全速力で飛び込んだのだ。

普通の人間なら、衝突した瞬間に吹き飛ばされているはずだった。

ところが目の前の男は、よろめくどころか、微動だにしていない。

それどころか、心配そうにこちらを見つめている。


「お、お前……何者だ?」


「え? 俺?」

男は自分を指差した。


「和夫だけど……」


「そういうことを聞いているんじゃない!」

女は立ち上がり、身構えた。


得体の知れない男。

恐るべき身体能力。

これほどの強者が、なぜこんな場所にいる?


女は警戒しながら、改めて男の全身を観察した。

そして、気づいた。

「…………え?」


男は裸だった。

いや、正確には違う。


白いブリーフ一枚。


それだけだった。

「…………」

女の視線が、男の顔と下半身を何度も往復する。

「……お前」


「ん?」


「なんで……そんな格好をしている?」


和夫は自分の身体を見下ろした。

「ああ、これ?」


まるで今日の天気でも聞かれたかのような反応だった。


「いや、俺もよく分かんないんだけどさ」

和夫の顔が赤くなる。


「………」


「気がついたら、このビルにいてさ

暇だからここでボーっとしてたんだ……」

和夫は困ったように笑った。


そして、女に向かって手を差し出した。

「それより、大丈夫か? すごい勢いでぶつかってきたけど」


女は差し出された手を見つめた。

次に、和夫の顔を見る。

そして、もう一度パンツを見る。


「…………」

数秒の沈黙。


「き……」


「き?」


「きゃああああああああっ!!」

夜の渋谷に、女の悲鳴が響き渡った。


「へっ!?」


「変態っ!!」


「ええっ!?」


「この変態!近寄るなっ!」


「ちょ、ちょっと待て! 誤解だって!」


「何が誤解よ! どう見たって変態じゃない!」


「いや、それはそうなんだけど!」


「認めたわね!?」


「認めるも何も、見りゃ分かるだろ!」


「最低っ!!」


女は踵を返すと、隣のビルへと跳躍した。


「あっ! ちょっと待ってくれ!聞きたい事が

あるんだ!」

和夫は慌ててその後を追った。


トンッ。

軽く地面を蹴っただけだった。


ところが、その身体は信じられないほど高く跳び上がり、

あっという間に女の背後へ迫った。


「おーい! 待ってくれって!」


「いやあああっ! 来ないでぇぇっ!」


女は必死に逃げた。

先ほどまで警察官の銃弾を軽々と躱し、余裕の笑みを浮かべていた女が、

今度は顔を引きつらせて逃げている。

しかも、全力で。


「ちょ 待てよ!」


「ついてくるなぁぁっ!」


二人は次々とビルの屋上を飛び越えていった。


眼下の通行人たちが、異様な光景に足を止める。

「……なあ、今の見た?」


「うん……」


「女、逃げてたよな?」


「うん……」


「追いかけてた男ってパンツ一枚じゃなかった?」


「……うん」



そのころ、地上では警察官たちが呆然と空を見上げていた。

「女は?」


「いまだ逃走中です!」


「追跡を!」


「しかし、警部!」


「なんだ!」


「対象を追跡している男がいます!」


「何者だ!?」


「それが……」


警察官は言い淀んだ。

「……パンツ一枚です」


「…………は?」


「パンツ一枚の男が、対象を追いかけています!」


警部はゆっくりと空を見上げた。

遠くのビルの屋上を、二つの人影が飛び越えていく。

先逃げる女。

その背後を追う、ほぼ全裸の男。


「待ってくれぇぇ!」


「変態ぃぃ! 来ないでぇぇ!」

警部は無線機を握りしめた。


「……全車両に通達」


「はっ!」


「逃走中の女に加え、不審な男を確認」


「特徴は!?」


「…………」

警部は一度、大きく息を吸った

。

「白いブリーフ一枚だ」


「…………了解」

こうして、渋谷の夜に新たな事件が発生した。

警察の追跡を振り切った謎の女。

そして、その女を執拗に追いかけるブリーフ一枚の男。


事情を知らない者が見れば、どう考えても変質者によるストーカー行為だった。


ただ一つ、普通のストーカーと違うことがある。


二人とも、ビルの屋上を飛び越えながら走っていた。



「待ってくれ! 俺にとっての第一地球人…」


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