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第11話 全てお見通し

ガコン……。

小さな振動とともに、俺たちを乗せた床が静かに下降を止めた。

「…………」

……止まった?


俺は恐る恐る周囲を見回した。

だが、何も見えない。

真っ暗だった。


上も下も、右も左も。

自分がどれほど深い場所まで降りてきたのかさえ、まったく分からない。


「……え?」

俺は思わず声を漏らした。


「え? え? ちょっと……ここ、どこですか?」


返事はない。

いや、正確には、向かいに勅使河原(てしがわら)さんが座っているはずなのだが、

その姿すら見えないのだ。


……何なんだよ。

いったい何なんだよ、この店!


昨日は女神に変な世界へ飛ばされ、今日は何でも屋の床が突然動き出した。

……もう勘弁してくれ…俺は普通に生きたいだけなんだ…


そんなことを考えていると――。

ふわっ…

どこからともなく、柔らかな光が灯った。


「……ん?」

天井の一部が、ぼんやりと明るくなっている。


それに続くように、壁際にも淡い光が広がり始めた。

まるで夜が明けるように、暗闇が少しずつ薄れていく。


やがて、部屋全体がゆっくりと明るくなっていった。

「…………」


そして。

完全に周囲を見渡せるようになった瞬間――。


「…………は?」

俺は、思わず口を開けた。


そこには、想像を絶する光景が広がっていた。

広さは、およそ三十坪ほどだろうか。


先ほどまでいた二階の事務所とは、まるで別世界だった。

壁という壁に、無数のモニターが埋め込まれている。


大小様々な画面が、隙間なく整然と並んでいた。

それだけではない。


天井からは太い柱のような構造物がいくつも吊り下がり、その四方にもモニターが取り付けられている。


どこを向いても、画面、画面、画面。


そして部屋の最も奥。

正面の壁には、他のものとは比較にならないほど巨大なモニターが設置されていた。


映画館のスクリーンを思わせるほどの大きさだ。

ただし、今はどの画面も真っ黒だった。

どうやら、電源が入っていないらしい。


「…………」

俺は呆然と、その光景を眺めていた。


……何だ、ここ。

いや、本当に何なんだ?

秘密基地?

軍の司令室?

それとも、映画に出てくるようなハッカーのアジト?


少なくとも、商店街の寂れた雑居ビルの地下にあるような設備じゃない。

「こ……ここは?」


ようやく絞り出した俺の問いに、勅使河原さんはいつもの柔和な笑顔を浮かべた。

「仕事場ですよ」


「…………」

……仕事場?


「……あの、仕事場って……」


「ええ。私どもの仕事場です」


「…………」

いやいやいや。


何でも屋ですよね?

電球を交換したり、犬を探したり、家具を運んだりする、あの何でも屋ですよね?

……何でこんなものが必要なんだ!?


俺はもう一度、部屋を見回した。

何度見ても、理解が追いつかない。


「ほほほ……」

俺の様子がおかしかったのか、勅使河原さんが楽しそうに笑った。


「そうだ。面白いものをお見せしましょうか」


「……面白いもの?」


「ええ」

そう言うと、勅使河原さんは、自分が座っている一人掛けのソファの肘掛けに手を伸ばした。

指先で何かを探るように、表面をなぞる。


そして。

カチッ。

小さな音がした。

その瞬間だった。


パッ!


「うわっ!?」


壁一面のモニターが、一斉に点灯した。

それに続き、天井から吊り下がったモニターにも、次々と映像が浮かび上がる。

一瞬にして、部屋の雰囲気が変わった。

真っ黒だった無数の画面が、それぞれ異なる景色を映し出していたのだ。


「…………!」

俺は思わず立ち上がりそうになった。


「これって……」


画面に映っているのは、街だった。

人通りの多い繁華街。

信号待ちをする車の列。

雑居ビルが立ち並ぶ細い路地。

スナックが入ったビルの廊下。

川沿いの遊歩道。

バス停でスマートフォンを眺める人々。

駅前のロータリー。

コンビニの駐車場。


見覚えのある場所もあれば、まったく知らない場所もある。

その一つ一つが、まるで誰かの目を通して見ているかの

ように映し出されていた。

しかも、映像は絶えず切り替わっている。


交差点の風景が消えたかと思えば、次の瞬間には駅の改札口が映る。

別の画面では、路地裏を歩く男の姿が、違う角度から捉えられていた。


「……防犯カメラ?」

俺は呟いた。


どう見ても、街中に設置されている監視カメラの映像だった。

……いや、待て。

こんなに大量の映像を、どうやって集めてるんだ?

警察だって、こんなことができるのか?


「ふむ……」

勅使河原さんは、俺の疑問など気にも留めず、ソファの肘掛けに指を滑らせていた。


「……これですね」


カチッ。

再び、小さな操作音が響いた。

すると。

部屋の奥にある巨大モニターが、ゆっくりと明るくなった。


「…………?」


そこに映し出されたのは――。


「…………え?」


見覚えのある風景だった。

雑居ビルが立ち並ぶ繁華街。

道路に散乱したゴミ。

そして、地面に倒れている数人の男たち。

その中心に立っているのは、赤い髪をした、ニット帽の男。


「…………」

……あ。

俺は息を呑んだ。

……昨日の。

昨日の、あの乱闘騒ぎだ。


映像の中で、ニット帽の男が何かを叫んでいる。

その前に、一人の青年が立っていた。

黒いシャツに、少し丈の短いズボン。

妙に整った顔立ち。


「…………」

……俺じゃん。

いや、俺なんだけど。

こうして客観的に見ると、やっぱり何かおかしい。

顔が良すぎるが、服がダサすぎる…


……いやいや、そうじゃない!

問題はそこじゃない!

「……これ……」

俺は巨大モニターを指差した。


「はい。あなたですね?」

勅使河原さんが、何でもないことのように答えた。


「…………」

……バレてる。

完全にバレてるじゃん!

画面の中では、ニット帽の男が俺に向かって飛びかかっていた。


そして――。

バシンッ!!

俺の右手が、男の顔を捉えた。

男は凄まじい勢いで吹き飛び、身体を回転させながら、近くのビルへと突っ込んでいく。


……うわあ。

映像で見ると、余計にひどい。

あれ、本当に俺がやったのか?

……いや、やったんだけど。


「…………」

俺は思わず目を逸らした。


しかし、勅使河原さんは何も言わない。

責めるでもなく、驚くでもなく。

ただ、穏やかな表情でそこに座っていた。


カチッ。

映像が切り替わった。


「……え?」


今度は、別のビルが映し出された。

その屋上に、一人の青年が立っていた。


……俺だ。

次の瞬間、青年は屋上から飛び降りた。

いや、飛び降りたというより、ほとんど垂直に落下している。

地上へと一気に降り立ち、車の前にいた老人を抱きかかえる。

そして、再び跳躍した。


抱きかかえた老人とともに、ビルの屋上へと着地する。

「…………」


……昨日の、あのときだ。

勅使河原さんを助けた場面。

それが、最初から最後まで映っていた。


……何で?

何でこんな映像まであるんだ?

俺は勅使河原さんを見た。

老人は、相変わらず微笑んでいる。


カチッ。

さらに、画面が切り替わった。

今度は夜だった。

街の明かりが、暗い空をぼんやりと照らしている。

画面の中央には、大きな焼肉屋の看板。


そして、その上には――。

「…………」


一人の男が寝そべっていた。

黒いシャツ。

少し丈の短いズボン。

……俺だ。


「…………」


……いや。

ちょっと待って。

これまで撮られてたの!?


看板の上で、だらしなく寝そべっている俺。

時折、腹を押さえたり、空を見上げたりしている。


……うわあ。

恥ずかしい。

めちゃくちゃ恥ずかしい。

何だよ、これ。

昨日の俺の行動、全部見られてるじゃないか!

しかも、よりによって焼肉屋の看板の上で腹をさすってるところまで!


「…………」

俺は、ゆっくりと勅使河原さんに顔を向けた。


「……すべて、ご存じだったと?」


「ええ」

即答だった。

しかも笑顔。


「…………」

……ああ。

なるほど。

だからか。

だから、俺が今日ここへ来ることも、分かっていたような口ぶりだったのか。

いや、それにしたって……。


「……でも」

俺は、ふと疑問に思った。


「勅使河原さん、失礼ですけど……」


「はい?」


「……目が、見えないんですよね?」


「ええ。そうですよ」

老人は、何のためらいもなく答えた。


「……だったら、どうやって?」


俺は周囲のモニターを見回した。

どれだけ大量の映像があったところで、目が見えなければ確認できないはずだ。

それに、さっきから勅使河原さんは、まるで画面の内容を正確に

把握しているかのように操作している。


……どういう仕組みなんだ?


「ああ。それはですね……」

勅使河原さんは、にこりと笑った。

そして、自分の耳を指差した。


「……耳?」

よく見ると、耳の中に小さな器具が収まっていた。

補聴器のようにも見える。


だが、耳の形にぴったりと収まっていて、注意して見なければ気づかないほど小さい。


「……それ、補聴器ですか?」


「ほほほ。似たようなものですね」

勅使河原さんは、楽しそうに笑った。


「紀里子ですよ」


「……え?」


「紀里子が、こちらに指示を送ってくれるのです」


「…………」

……紀里子さん?


さっき、スーパーの袋を両手に提げて帰ってきた、あの人?

コーヒーを入れてくれた、あの普通の女性が?


俺はもう一度、壁一面のモニターを見回した。

そこには今も、東京の街の様々な風景が映し出されている。

そして正面の巨大モニターには、焼肉屋の看板の上で寝そべる俺の姿があった。


「…………」


……何なんだよ。

本当に。

この人たち、いったい何者なんだ?

そんな俺の困惑をよそに、勅使河原さんは相変わらずにこやかだった。


「よろずとは……」

勅使河原さんが、ゆっくりと口を開いた。


「……はい?」

突然の言葉に、俺は首を傾げた。


「様々な困りごと、という意味ですよ」


「……はあ」

……それは、まあ。

何となく知っている。

だから何でも屋のことを『よろず屋』って呼ぶんだろうし。


「私どもの仕事は、そうした困りごとを解決することなのです」


「……なるほど」

俺は曖昧に頷いた。


しかし、周囲を見回すと、どうにも納得がいかない。

壁一面に並ぶ無数のモニター。

天井から吊り下がった、これまた大量のモニター。

そして、正面に鎮座する巨大なスクリーン。


……いやいや。


困りごとを解決するのに、こんな設備が必要なのか?

「現に、今も……」


勅使河原さんはそう言うと、ソファの肘掛けに手を伸ばした。


カチッ。


小さな操作音とともに、正面の巨大モニターの映像が切り替わった。


「……あれ?」

そこに映し出されたのは、つい先ほどまで俺たちがいた二階の事務所だった。

見覚えのある本棚。

古い木製の机。

そして、部屋の中央に置かれた応接セット。


……ん?

俺は画面に顔を近づけた。


ソファには、紀里子さんが座っていた。

その向かいには、スーツを着た中年の男性と、制服姿の警察官が座っている。

どうやら、さっき訪ねてきた渋谷署の人たちらしい。


……あれ?

ちょっと待てよ。

ソファ……?

「…………」

俺は自分の尻の下にあるソファを見た。

それから、画面の中のソファを見た。

……え?


さっき、俺たちと一緒にソファも床ごと下がってきたよな?

じゃあ、上にあるあのソファは……。

……予備?


いや、そういう問題じゃないだろ。

何でそんな仕組みになってるんだよ、この建物!


俺が一人で混乱していると、突然、モニターから人の声が聞こえてきた。


『ええ……この男は小物です』

スーツ姿の男性だった。


『おそらく安物のチップをつかまされたのでしょうが……問題は、その流通経路でして。現在、割り出しに難航しております』


「……チップ?」

俺は思わず呟いた。

……何の話だ?


すると、巨大モニターの映像が切り替わった。

いや、正確には、画面の一部分が拡大されたのだ。


スーツの男が手に持っているスマートフォン。

その画面へと、カメラがぐんぐん寄っていく。


「…………!」

そこに映っていたのは、一人の男の顔だった。

赤い髪。

ニット帽。

そして、サングラス。


「……あっ!」

思わず声が漏れた。

……こいつ!

昨日の!


あの、偉そうに演説していた男じゃないか!

俺に殴りかかってきて、思わずビンタしたら、ビルの壁に頭から突き刺さってしまった……。


「…………」

……生きてるのかな、こいつ。

ちょっと心配になってきた。


『この男は確か……』

モニターの向こうで、紀里子さんが口を開いた。


『眞流斗(まると)不動産のバカ……じゃなかった、一人息子。眞流斗 角司(まると かくじ)ですね』


「ぷっ…………」

……今、バカって言ったよな?

絶対言ったよな?


さっきまで、あんなに上品で丁寧だった紀里子さんが。

俺は思わず、勅使河原さんの顔を見た。


しかし老人は、何事もなかったかのように微笑んでいる。


……聞こえてるよね?

今の。


『ええ。その眞流斗角司です』

スーツの男が頷いた。


『ニューロ手術を受けた富裕層が、このように娯楽として殺人を楽しむ。

警察としては、非常に懸念しておりまして……』


「…………」

……え?

俺は画面に視線を戻した。

……ニューロ手術?

富裕層?

娯楽として……殺人?


『ええ、引き続き……』

紀里子さんが何かを答えかけた、そのときだった。


プツン。

巨大モニターが真っ黒になった。


「……あ」

突然のことに、俺は思わず声を上げた。


「とまあ、こんな具合です」

勅使河原さんが、穏やかに言った。


「私どもは、いわゆる情報屋ですな」


「…………」

……情報屋。


「……はあ」

間の抜けた返事しか出てこなかった。

……情報屋って。

何だ、それ。


俺の知ってる何でも屋とは、だいぶ違うぞ。

いや、違うどころじゃない。

警察がわざわざ相談に来る。


東京中の監視カメラを自由に見られる。

地下には、映画に出てくる秘密基地みたいな設備がある。

……これ、普通の会社じゃないよな?


俺は改めて周囲を見回した。

無数のモニターには、今も東京の様々な場所が映し出されている。

道行く人々。

車の流れ。

建物の出入口。

駅のホーム。

どこにでもある、ごく普通の日常の風景。

しかし、それらすべてが、この小さな地下室に集められているのだ。


「…………」

……俺。

ひょっとして。

とんでもないところに来ちゃったんじゃないか?

そもそも、俺がここに来た理由は何だった?


仕事だ。


そう、仕事を探しに来たんだ。

身分証がなくても働ける場所を紹介してもらえないかと思って。

それなのに、気がつけば秘密の地下室で警察の捜査情報を聞かされている。

……どうしてこうなった?


「あの……」

俺は恐る恐る口を開いた。


「ひょっとして、俺……」


「場違いではないか、と?」


「……え?」

勅使河原さんが、俺の言葉を先回りした。


「ほほほ……」

老人は楽しそうに笑った。


「まあ、確かに。うちは就職の斡旋業ではありませんからね」


「…………」

……ですよね。

うん。

それは何となく分かってきました。

というか、もっと早く教えてほしかった。

俺は小さくため息をついた。


……さて、どうしたものか。

ここで仕事を紹介してもらえないとなると、また振り出しに戻ってしまう。

身分証もない。

金もない。

住む場所もない。

そして何より――。


……腹が減った。


そんなことを考えながら、ぼんやりと壁のモニターを眺めていた。

そのときだった。

「…………ん?」

視界の端で、何かが動いた。


俺は何気なく、そちらへ顔を向けた。

壁の上方にある、一枚のモニター。

そこには、ビルの屋上が映っていた。

いや、違う。

屋上だけじゃない。

人がいる。


「…………」

数人の人影が、ビルの上を走っていた。

そして――。

跳んだ。


「……え?」


一人、また一人。

ビルとビルの間を、軽々と飛び越えていく。


「…………!」

……何だ、あいつら!?

いやいやいや!

普通、そんなところを跳べるわけないだろ!

しかも、あの速さ。


まるで地面を走るように、建物の屋上を駆け抜けている。

俺は思わず身を乗り出した。


「…………」

……待てよ。

あれ?

何か……。

見覚えがあるような……。


モニターの中で、一人の人物が大きく跳躍した。

着地と同時に身体を低く沈め、後ろを振り返る。

その瞬間、映像が拡大された。


「…………!」

俺は目を見開いた。


「あいつは!」

思わず声が出た。

……間違いない!

あの女だ!


昨日、俺が出会った女。

黒ずくめの男たちに追われていた、あの女だ。

そして何より――。

今、俺が着ている服を貸してくれた女!


「…………」

……何で、また追われてるんだ?

いや、そもそも何でビルの上を走ってるんだ?

昨日もそうだったけど、あいつら、普通じゃない。


……まあ、人のことは言えないんだけど。

「何か、興味を引く映像でもありましたかな?」

勅使河原さんの声がした。


振り返ると、老人は相変わらず柔和な笑みを浮かべていた。


「……いや、その……」

俺は口ごもった。


どう説明したものか。

昨日、女の人を助けました。

その人に服を貸してもらいました。

ちなみに、その前はパンツ一丁でした。

……うん。

言えるわけがない。


「…………」

俺は再びモニターを見上げた。


女の姿は、すでに別の画面へと移っていた。

ビルからビルへ。


常識では考えられない速度で、夜ならぬ昼間の東京を駆け抜けていく。

……昨日のニット帽の男。

あの女。

黒ずくめの連中。


そして、さっき聞こえてきた『ニューロ手術』という言葉。

何かが、俺の知らないところで動いている。

そんな気がした。


「あの……勅使河原さん」


「はい?」

俺は、少し迷ってから尋ねた。


「この東京では……いったい何が起こってるんでしょうか?」


「…………」

初めて、勅使河原さんの笑みが薄れた。


「……ふむ」

老人は小さく唸り、考え込むように口を閉じた。

その表情は、先ほどまでの穏やかなものとは少し違っていた。

俺は、黙って返事を待った。


「…………」


部屋には、低い機械音だけが響いている。

壁一面のモニターでは、相変わらず東京の街が動き続けていた。

やがて勅使河原さんが、ゆっくりと口を開こうとした――。

そのときだった

。

ガチャリ。

部屋の奥にある扉が開いた。


「おじいちゃん!」

明るい女性の声が響いた。

紀里子さんだった。


「…………え?」

俺は思わず振り返った。


……あれ?

さっきまで上で警察の人と話してたよな?

いつの間にこっちへ?


いや、それ以前に。

……どこから入ってきたんだ?


紀里子さんは、そんな俺の疑問などまったく気にする様子もなく、

にこやかに言った。

「今日はすき焼きよ」


「…………」


……え?

「和夫さんも、食べていくでしょ?」


「…………」

すき焼き。

……すき焼き?


俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。

すき焼き。牛肉。豆腐。長ねぎ。しらたき。

甘辛い割り下。

そして、溶き卵。


「…………」


……すき焼き。

その瞬間だった。


カチリ——

俺の中で、何かのパズルがはまったような気がした。

……ああ。

そうか。

俺は、ようやく理解した。

昨日から、ずっとおかしなことばかりだった。

女神に生き返らされて。

知らない世界に飛ばされて。

訳の分からない連中に襲われて。

人を助けたら、逆に警察に追われるんじゃないかと怯えて。

焼肉屋の看板の上で、一晩中、腹を空かせていた。

金もない。

家もない。

身分証もない。

仕事もない。

これからどうやって生きていけばいいのか、まったく分からなかった。

そんな俺に。

この人は。


「……食べていくでしょ?」

そう言ったのだ。


「…………」

俺は紀里子さんを見つめた。

何でもないことのように、笑っている。

まるで、昔から知っている相手を夕飯に誘うように。


「…………」

……何だよ。

それ。

そんな簡単に言うなよ。


俺、昨日から何も食べてないんだぞ。

しかも、すき焼きだぞ?

牛肉だぞ?

……夢みたいじゃないか。


俺は何か言おうとした。

だが、喉の奥が妙に詰まって、うまく言葉にならなかった。

「…………」


紀里子さんが、不思議そうに首を傾げる。

「……和夫さん?」


「あ……」

俺は慌てて口を開いた。


「……はい」

ようやく、それだけ答えた。


「……いただきます」

その声は、自分でも驚くほど小さかった。

だが、紀里子さんは嬉しそうに笑った。


「よかった。じゃあ、準備するわね!」

そう言って、再び奥の扉へと向かっていく。


俺は、その後ろ姿をぼんやりと見送った。

「ほほほ……」

向かいでは、勅使河原さんが静かに笑っていた。


壁一面には、今も無数の監視カメラの映像が流れている。

東京中の出来事を映し出す、巨大な秘密の部屋。


その中心で、俺はただ一つのことを考えていた。

……すき焼き。

……ようやく、飯が食える。


女神と言えば?という問題があるとすれば

俺は間違いなく答える。

勅使河原 紀里子 と。




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