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第12話 スキヤキ

二階の事務所の奥。

そこには、申し訳程度の小さなキッチンと、こぢんまりとしたリビングがあった。

先ほどまでの地下施設とは、まるで別の世界のようだ。


壁一面を埋め尽くすモニターもなければ、映画館のような巨大スクリーンもない。

少し古びた食器棚に、小さな冷蔵庫。

壁際には、使い込まれた電子レンジが置かれている。


そして部屋の中央には、三人で囲めば少し窮屈に感じるほどの小さなテーブル。

その上には、簡易コンロが一つ。


コンロの上では、浅い鉄鍋がぐつぐつと音を立てていた。


「…………」

……すき焼きだ。

本当に、すき焼きだ。

牛肉。

長ねぎ。

焼き豆腐。

しらたきに、しいたけ。

甘辛い割り下の中で、具材がゆっくりと煮えている。

立ち上る湯気が、部屋いっぱいに広がっていた。


……ああ。

何ていい匂いなんだ。

俺は、思わず唾を飲み込んだ。


昨日の夜。

焼肉屋の看板の上で、腹を空かせながら肉の匂いだけを嗅いでいた俺。

あのときは、まさか翌日にこんなご馳走を目の前にするとは思いもしなかった。


……生きててよかった。

いや、一度死んでるんだけど。


「和夫さん、さ」


「……はい?」


紀里子さんが、瓶ビールを片手に、俺の方へ顔を向けた。

そして、空いている方の手で、俺の前に置かれたコップを指差した。

「ほら、コップ」


「……」


「ビール、飲むでしょ?」


「あ、いや……そんな、注いでもらうなんて……」

俺は思わず背筋を伸ばした。

というか、身体が勝手に強張ってしまった。


「自分でやりますから!」

慌てて瓶を受け取ろうとすると、紀里子さんは小さく笑った。

「そんなに硬くならなくてもいいんですよ」


「……」


「今日はお客さんなんですから。遠慮しないで」


……お客さん。


「ほら、和夫さん」


「あ……じゃあ……」

俺は恐る恐るコップを持ち上げた。


紀里子さんが瓶を傾ける。

琥珀色の液体が、透明なコップを満たしていく。

細かな泡が立ち上り、白い層を作った。


その向こうには、湯気を立てる熱々のすき焼き。


何だろう。

この光景。

ビールを注いでもらっている。

目の前には、温かい料理がある。

向かいには、穏やかに微笑む勅使河原さん。

隣には、にこやかな紀里子さん。

たったそれだけのことなのに。


ふと、昔のことを思い出した。

天川の家を追い出されてからの日々。

いや……追い出される前から、そうだったのかもしれない。


大きな屋敷。

広すぎる食堂。

磨き上げられた長いテーブル。


そこには、いつも豪華な料理が並んでいた。

高級な肉。

見たこともない魚。

名前すら知らない料理。

けれど、そこに父の姿はなかった。

母は、俺が幼い頃に亡くなっている。


そう言えば俺は…

誰かと笑いながら食事をした記憶など、ほとんどない。


……そうか。

俺は…

誰かと一緒に飯を食うなんて、いつ以来だろう。


ビールがコップに注がれる音が、妙に大きく聞こえた。

「はい」

紀里子さんが瓶を戻した。 


俺はコップを持ったまま、俯いた。

……あれ?

何だ?


「…………」

膝の上に、小さな雫が落ちた。

ぽたっ。

もう一つ。

……何だよ。

気がつくと、涙が溢れていた。

止めようと思っても、止まらない。


「……和夫さん?」

紀里子さんの声がした。


「……あ、いや……」

俺は慌てて顔を背けた。


「す、すみません……」

いい年した男が食事にありつけた喜びと

皆で食卓を囲むという幸せが心のキャパを超え

涙として溢れてきたのだ。


「……ううっ……」

だが、駄目だった。


「……こんな食事……初めてで……」

ようやく、それだけ言えた。


「…………」

紀里子さんは、何も言わなかった。


勅使河原さんも、黙っていた。

俺は恥ずかしくなって、ますます俯いた。

……変な奴だと思われたかな。

突然泣き出すなんて。

けれど。


「……そう」

紀里子さんが、柔らかな声で言った。


「じゃあ、今日はいっぱい食べてくださいね」


「…………」

顔を上げると、紀里子さんは優しく笑っていた。

勅使河原さんも、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


「ほほほ……遠慮はいりませんよ、和夫さん」


「…………」

……やめてくれ。


そんな優しい顔をされたら。

また……。

ぽたっ。

「……ううっ……」

……ああ、もう。

涙が止まらないじゃないか。

そのときだった。


ぐうううううううう……。

「あ…………」


部屋に、何とも情けない音が響き渡った。

……俺の腹だ。


一瞬、沈黙が流れた。


「……ぷっ」

紀里子さんが、口元を押さえた。

「ふふふ……」

「ほほほほ……」

勅使河原さんまで笑い始めた。


……恥ずかしい。

穴があったら入りたい。

いや、さっき地下の秘密基地に入ったばかりなんだけど。


「ふふっ……お腹、空いてたんですね」


「……はい」

俺は小さく頷いた。

「……ものすごく」


「じゃあ、早く食べましょう」

紀里子さんはそう言うと、勅使河原さんのコップを手に取った。


「おじいちゃんは、少しね」


「はあ…わかってるとはいえ 辛いねぇ」


「当たり前でしょ」

紀里子さんは、笑いながらビールを注いだ。


コップの四分の一ほど。

ほんの少しだけだった。

「はい、これで我慢してね」


「ほほほ……仕方ありませんな」


「…………」

俺はそのやり取りを、何となく眺めていた。

……お酒、あまり強くないのかな。

まあ、年齢も年齢だし。

そのときの俺は、特に気に留めることもなかった。


「さ、食べましょう!」

紀里子さんが、鍋の蓋を取った。

ふわあっ……。

白い湯気が、一気に立ち上った。


「…………!」

……うおおおおお!

何だ、この匂い!

甘い!

香ばしい!

肉の脂と割り下が混ざった、何とも言えない香りが鼻の奥をくすぐる。

……駄目だ。

もう限界だ。


「はい、和夫さん」

紀里子さんが小鉢を差し出した。

中には、溶き卵。


「卵は大丈夫?」


「は、はい!」


「じゃあ、まずお肉ね」

紀里子さんは鍋から牛肉を取り上げ、俺の小鉢へと移してくれた。

薄く切られた肉が、卵の中へと滑り落ちる。

その上に、長ねぎと焼き豆腐。


「はい、どうぞ」


俺は小鉢を両手で受け取った。


……重い。

いや、実際には大して重くない。

でも、何だかものすごくありがたいものを受け取った気がした。


「いただきます」

俺は、静かに手を合わせた。


そして箸を持つ。

小鉢の中では、まだ湯気が立ち上っていた。

卵をまとった牛肉。

その表面には、甘辛い割り下が艶やかに絡んでいる。

俺は、ゆっくりと肉を持ち上げた。

……いくぞ。


ぱくっ!

……ん?

な。何だ、これ。

噛んだ瞬間、肉がほどけた。

柔らかい。柔らかすぎる!

口の中いっぱいに、牛肉の旨味が広がっていく。

そこに割り下の甘さと醤油の香り。

そして、卵のまろやかさが加わって……。

「…………!!」

……なんじゃこりゃあああああ!!

うますぎる!!

何だよ、これ!

肉って、こんなにうまかったのか!?

いや、待て。

俺、前世ではそれなりにいい肉も食べてたはずだぞ?

それなのに。

……何でだ?


何で、今まで食べたどんな料理よりもうまいんだ!?

俺は目を見開いたまま、固まってしまった。


「……和夫さん?」

紀里子さんが、不安そうに声をかけてきた。


「……辛かったですか?」


「…………!」

俺は慌てて首を振った。

ぶんぶんぶん!

違う!

全然違う!

むしろ逆!

うますぎて、言葉が出ないんだ!


「……大丈夫?」


こくこくこく!

俺は何度も頷いた。

そして、再び箸を動かした。

……うまい。


焼き豆腐に染み込んだ割り下。

甘く煮えた長ねぎ。

歯ごたえのあるしいたけ。

そして、また牛肉。


……ああ。

幸せだ——


俺は、ほとんど無言で食べ続けた。

紀里子さんが何かを話しかけてくれていたような気もする。

だが、正直なところ、あまり覚えていない。

今の俺には、目の前のすき焼きが世界のすべてだった。


「ほほほ……」

勅使河原さんが、楽しそうに笑っている。


「ずいぶん気に入っていただけたようですな」


「……んぐっ!」

俺は慌てて口の中のものを飲み込んだ。

「は、はい! すごくおいしいです!」


「それはよかった」


「まだありますからね」

紀里子さんが、鍋に新しい肉を入れながら言った。


「……はい!」

……ああ。

天国だ。

ここは天国なのかもしれない。

……女神ルキナのいるところより、よっぽど天国じゃないか。


そんなことを考えながら、俺は再び肉を頬張った。

しばらくして。


「ところで、和夫さん」

勅使河原さんが、ふと思い出したように口を開いた。


「……はい?」

俺は箸を止めた。


「一つ、お尋ねしてもよろしいですかな?」


「……何でしょう?」


「和夫さんは、苗字を覚えていらっしゃらないのですか?」


「…………」

俺は、ぽかんと口を開けた。

……苗字?


「私も、少し気になっていたんです」

紀里子さんが、横から言った。

「和夫、としかおっしゃらないでしょう?」


……いや。

ちょっと待って。

どういうことだ?

俺、ちゃんと名乗ったよな?

今日、事務所に来たとき。

確かに言ったはずだ。


「……いえ」

俺は箸を置き、姿勢を正した。

「聖ベベルギウス・和夫です」


「…………」

「…………」

二人とも、黙ってしまった。


……ん?

何だ?

その反応。


勅使河原さんは、少し首を傾げている。

紀里子さんも、不思議そうな顔をしていた。


「……あの?」

俺は恐る恐る尋ねた。

「……何か?」


「いえ……」

紀里子さんが、困ったように笑った。

「和夫さん、もう一度お名前を言っていただけます?」


「……え?」

……何で?

いや、別にいいけど。

「聖ベベルギウス・和夫です」


「…………」

「…………」

まただ。

二人とも、同じ反応。

……え?

何?

俺、そんなに変な名前なのか?

いや、確かに変だけど。

女神が勝手につけた名前だし。

俺だって、好きで名乗ってるわけじゃない。


「……和夫さん」

紀里子さんが、少し身を乗り出した。

「和夫って言う前に、何て言ったの?」


……え?

何て言ったって……。

聖ベベルギウスだけど。


「……あの、聖ベベルギウスって……」


「…………?」

紀里子さんは、さらに首を傾げた。

勅使河原さんも、何かを考えるように黙っている。

「…………」


……あれ?

おかしい。

どうも、話が噛み合わない。

俺は頭の中で、もう一度自分の名前を繰り返した。

聖ベベルギウス・和夫。

……うん。

普通に言えてる。

俺には、ちゃんと聞こえている。

でも、この二人には……?

「…………」

……まさか。

俺は、ある可能性に思い至った。


聖ベベルギウス。

あれは、女神ルキナがつけた名前だ。

もともと、この世界の言葉じゃなく…

……もしかして。

この名前の一部分は、地球の人間には発音できない音なのか?

いや、発音できないというより……。

聞き取れない?

人間の耳では、言葉として認識できないような、特殊な発声になっているとか?


……あり得る。

あの女神なら、やりかねない。

いや、絶対にやりかねない!

普通の名前にしてくれって頼んだのに、聖ベベルギウスだぞ?

そもそも、普通の基準が根本的におかしいんだ、あの女神は!


「……和夫さん?」

紀里子さんが、俺の顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」

「……あ、はい」

俺は慌てて頷いた。

……どうする?

説明するか?

女神に転生させられて、聖ベベルギウスという名前をもらいました、と。

……無理だ。

そんな話、誰が信じるんだよ。

それに、そもそも名前が聞こえてないんだから、説明のしようがない。


俺は少し考えた。

そして、小さく息を吐いた。

「……はい」


二人が、俺の言葉を待っている。

「……覚えてません」

俺は、そう答えた。


……また嘘をついてしまった。

でも。仕方ないじゃないか。

俺だって、何でこんな名前なのか知りたいくらいなんだから。



◆



「……そうですか」

勅使河原さんは、小さく頷いた。


「まあ、仕方ありませんな。無理に思い出そうとする必要はありませんよ」


「……はい」

俺は曖昧に返事をした。

……いや。

正確には覚えているんだけど。

言っても伝わらないんだから、どうしようもない。


「でも、不思議ですね」

紀里子さんが、首を傾げた。

「お名前だけじゃなくて、和夫さんの身元がまったく分からないなんて」


「……え?」

俺は思わず顔を上げた。


「……身元?」


「ええ。実は、少し調べさせてもらったんです」


……調べた?

いつの間に?


「ほほほ……」

勅使河原さんが、穏やかに笑った。

「お気を悪くなさらないでください。うちも商売柄、初めてお会いする方については、ある程度調べることがありましてね」


「……はあ」

……まあ、あんな設備があるくらいだ。

調べること自体は、別に不思議じゃない。

いや、不思議じゃないってことはないんだけど。

……もう何が普通なのか分からなくなってきた。


「それがですね……」

紀里子さんが、少し困ったような顔をした。

「和夫さんに関する情報が、何も出てこないんです」


……そりゃそうだろうな。

この世界に来たの、昨日だし。


「顔認識でも照合してみたんですけど……」


「……顔認識?」


「ええ。これだけ特徴的なお顔ですから、何かしら記録があると思ったんです。でも、該当する人物が一人もいなくて」


……特徴的。

まあ、確かに。

この顔、女神が勝手に作ったものだからな。


「それに、昨日の映像も不思議なんです」


「……昨日?」


「ええ。和夫さんが突然、渋谷のビルの屋上に現れたところまでは確認できたんですけど……それ以前が、どうしても追えなくて」


……えっ。

そこまで調べたの!?

俺は思わず箸を止めた。

……まずい。

これ以上調べられたら、何か変なことがバレるんじゃないか?

いや、もう十分変なんだけど。


「普通なら、どこかから歩いてきたり、電車に乗ってきたり、

何らかの移動経路が残るはずなんです」

紀里子さんは、考え込むように腕を組んだ。

「でも、和夫さんの場合、それがまったくないんですよね……」


「ふむ……」

勅使河原さんも、難しい顔をした。


「これだけ手掛かりがないというのも、珍しいですな」


「……そうね」


二人とも、真剣に考え込んでいる。

……何だか申し訳ない。

……女神に転生させられました、なんて。

言ったところで、絶対に信じてもらえないだろうし。


俺は、すき焼きの入った小鉢に目を落とした。

先ほどまであれほど夢中になっていたのに、何となく箸が進まなくなってしまった。


……どうしたものか。


このまま、ずっと身元不明の人間として生きていくことになるのか?

そもそも、戸籍とか住民票とか、どうするんだ?

仕事をするにしても、銀行口座を作るにしても、身分証が必要だろうし……。


……ああ。

考えれば考えるほど、問題だらけじゃないか。

俺は小さくため息をついた。


そのときだった。

ふと、あることを思い出した。


……そういえば。

あの猫。

今日、ここへ来たとき。

ビルの階段にいた、あの白い猫。

左右で目の色が違う、白い猫…

俺が階段を上がろうか迷っていると、まるで案内するように先を歩いてくれた。

そして、この事務所の扉の下にある小さな出入口から、中へ入っていった。


……あれ?

そういえば、あの猫。

どこへ行ったんだ?

事務所に入ったときは、勅使河原さんの足元にいたような気がするけど……。

それから、一度も見ていない。


「あの……」

俺は、何気なく口を開いた。


「そういえば、あの猫はどこへ行ったんですか?」


……ん?

二人の動きが止まった。


紀里子さんは、鍋に伸ばしかけていた箸を止めたまま、俺を見ている。

勅使河原さんも、先ほどまで浮かべていた笑みを消していた。


……あれ?

何か、変なこと言ったか?

「いや、あの猫ですよ」

俺は、慌てて説明した。

「さっき、ここにいた白い猫です。目の色が左右で違う……」


「…………」

紀里子さんの顔から、すっと表情が消えた。


「……あの」

小さな声だった。


「……和夫さん」


「……はい?」


「冗談でも……それは……」


……冗談?

何が?

俺は、二人の顔を交互に見た。


勅使河原さんは、しばらく黙っていた。

そして、静かに口を開いた。

「……和夫さん」


「……はい」


「うちに、猫はいませんよ」


「…………」

「……いや、でも……」

俺は思わず言い返しかけた。

だって。

確かにいたよな…

あの白い猫が、俺の方を振り返って……。

それに、事務所に入ったときだって……。


……待てよ。

俺は、ふと口を閉じた。


二人の表情が、あまりにも真剣だったからだ。

紀里子さんは、少し青ざめたような顔をしている。

勅使河原さんも、何かを考え込んでいるようだった。


……まずい。

何か、触れちゃいけない話だったのか?

「あ……」

俺は、慌てて笑顔を作った。

「そ、そうでしたか……」


「た、多分、野良猫か何かだったんでしょうね。俺、

勝手にここの猫だと思い込んじゃって……」

……何言ってんだ、俺。

自分でも苦しい言い訳だと思う。

「変なこと言って、すみませんでした」

俺は小さく頭を下げた。


しばらく、沈黙が続いた。

鍋の中では、相変わらずすき焼きがぐつぐつと煮えている。

先ほどまであんなに賑やかだった食卓が、急に静かになってしまった。

やがて。


「……大福」

紀里子さんが、ぽつりと呟いた。


「……え?」


「この事務所の名前、よろず屋大福っていうでしょう?」


「……はい」


「大福って、昔ここにいた猫の名前なんです。

元々野良猫でね。いつの間にか居着いてしまって。」


「………」


紀里子さんは、懐かしむように目を細めた。

「右の目が青くて、左の目が緋色だったの」


……それ。

まさしく、あの猫じゃないか。

「とても人懐っこい子でね。おじいちゃんのことが大好きだったんです」

紀里子さんは、小さく微笑んだ。


けれど、その笑顔には、どこか寂しさが混じっていた。

「……もう十年も前になります」


「…………」


「ある日、突然いなくなっちゃったんです」

紀里子さんは、ゆっくりと話し始めた。

「いつもなら、夕方には帰ってくるのに。その日は、夜になっても帰ってこなくて……」


「…………」


「次の日も、帰ってこなかった」

俺は、黙って聞いていた。

「それで……二日後の朝」

紀里子さんの声が、少しだけ小さくなった。

「ビルの前で、死んでいるのを見つけたんです」


「…………」


「身体に怪我をしていて……多分、どこかで車に轢かれたんでしょうね」

紀里子さんは、視線を落とした。


「それでも、何とかここまで戻ってきたんだと思います」


……そんな…悲しすぎる。


「……帰ってきたかったんでしょうな」

勅使河原さんが、静かに言った。


「大福にとって、ここが家でしたから」


「…………」

俺は、何も言えなかった。


紀里子さんは、しばらく俯いていたが、やがて何かを思い出したように顔を上げた。

「……そうだ」


「……?」


「ちょっと待ってくださいね」

そう言って、テーブルの端に置いてあったスマートフォンを手に取った。

画面を指で何度か操作する。

「確か……この辺に……」


写真を探しているらしい。

俺は、黙ってその様子を見守った。


「……あった」

紀里子さんが、スマートフォンを俺の方へ差し出した。

「この子です」


「…………」

俺は、画面を覗き込んだ。

そこには、一匹の白い猫が写っていた。

どこか気品漂う顔。

そして。

右目が青。

左目が緋色。


……間違いない。

……こいつだ。

今日、階段で俺を見ていた猫。

俺をこの事務所まで案内してくれた、あの猫だ。

……でも。

十年前に死んだ?

じゃあ……。

俺が見たのは、いったい何だったんだ?

背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。

……化け猫?

いやいやいや。

ちょっと待て。

そんなもの、いるわけ……。


……いや。

女神がいるんだよな…

俺、実際に会ってるし。

死んだ人間が生き返って、別の世界に飛ばされるくらいなんだから……。

……猫の幽霊くらい、いてもおかしくないのか?


いや。

おかしいだろ。

普通に考えたら、おかしいだろ!

俺は、もう一度スマートフォンの画面を見た。

写真の中の白い猫は、まっすぐこちらを見つめていた。

……大福。

お前、いったい何者なんだ?


「……和夫さん?」

紀里子さんの声に、俺は我に返った。


「あ……はい」


「……本当に、似た猫を見たんですか?」


俺は、少し迷った。

……どう答えたものか。

でも、ここで本当のことを言ったところで、

二人を余計に悲しませるだけかもしれない。


「……ええ」

俺は、小さく頷いた。


「多分……よく似た猫だったんだと思います」


紀里子さんは、しばらく俺の顔を見つめていた。

そして、静かに微笑んだ。

「……そうですか」


それ以上、何も聞かれなかった。


俺も、何も言わなかった。

ただ、頭の中では、今朝の光景が何度も繰り返されていた。

階段に座っていた白い猫。

俺を振り返る、左右で色の違う瞳。

そして、事務所の扉に開いていた、小さな猫用の出入口。


……確かに。

確かに、あそこにいたんだ。

……じゃあ、あれは。

本当に……。



◆



「ところで、和夫さん」


「はい」


突然、勅使河原さんが口を開いた。


俺は、慌てて顔を向けた。


「あなたは、仕事を探しているとおっしゃっていましたね?」


「あ……ええ」

俺は、少し戸惑いながら頷いた。

「まあ……そうなんですけど……」


「ふむ」

勅使河原さんは、ゆっくりと頷いた。

そして、いつもの柔和な笑顔を浮かべた。

「でしたら……」


「……?」


「ここで、働きませんか?」


……ん?

俺は、箸を持ったまま固まった。


さっき、この人、自分で言ってたよな?

ここは就職の斡旋(あっせん)業じゃないって。


俺は、勅使河原さんの顔を見た。

老人は、相変わらず穏やかに微笑んでいた。



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