第九話 聞の迷走 《ききのめいそう》
王城の中で、若い娘たちが自由に使える庭はただ一つ——儀庭。
昼時になると、白い石畳の上に光が跳ねて、庭っ娘たちのゆるふわな騒ぎが始まる。
昼の清らかな陽光が東屋の屋根を優しく包み込み、修行の合間に集まった娘たちの顔を穏やかに照らしている。
そんな長閑な昼下がり、東屋の前では、芳華が袖をつまみながら、昨日訪れた露香小路での可笑しな出来事を思い出して、不思議そうに首をかしげていた。
瑠映は色壺を抱え直しながら、芳華の様子を覗き込んだ。
芳華:「昨日ね、露香小路で『こんにちは』って、言われたんかと思うて返事したらさぁ……」
瑠映:「したら?」
芳華は昨日の小路の賑わいと、耳の奥に残る奇妙な残響を思い出すように言った。
芳華:「よう聞いたら『この荷物持ちますか』じゃったんよ~……ほんまぶち恥ずかしかったわぁ」
その言葉を聞くや否や、黒耀は巻物を胸の高さで広げ、昼の光で自分の影が乱れないように位置を整えてから大真面目な顔で言った。
黒耀:「詩巻の聞き間違いでもそんなことは起こりません! 音の並びが違いすぎます! 挨拶と荷物の確認を混同するなど、文人としてあってはならないことです!」
そこへ、舞衣の袖を右から払うようにして、夜凛が白い石畳の上にそっと風を送りながら割り込んできた。
夜凛:「舞で声を拾っちゃげるけぇ! ほら、風の力で鼓膜の響きを——」
瑠映は慌てて夜凛の前に手をかざし、両手を大きく振って的確に制止した。
瑠映:「拾いなさんな~! 声がどっか飛んでいくんよ~! 余計に何言いよるか分からんようなるじゃろ!」
二人のやり取りを横目に、琴雪はすでに深読み書を胸の高さで開き、息を整えてから静かに独自の考察を述べた。
琴雪:「これは“聞の迷走”じゃ。音の乱れは心の乱れであり、心の惑いは文化の乱れ……つまり、芳華の耳が揺らいだということは——」
その深遠な思想を断ち切るように、紅牙は他者の影を踏まないように一歩進み、短く冷徹に場を締めた。
紅牙:「……違う。断れ。」
芳華はさらに困惑した表情になり、情けない声をあげて身をよじって反論した。
芳華:「断ったら気まずいんよ~! せっかく親切で声をかけてくれたんじゃけぇ!」
儀庭の昼時は、今日もゆるりと騒がしい。
聞き間違いから始まったささやかな大騒ぎの余韻が、ぽかぽかとした陽だまりの中に柔らかく溶けていく。
【昭華の豆知識】
●『聞の迷走』
昭華王朝の風俗礼法において、街の雑踏の中などで他者からの呼びかけを全く異なる言葉へと聞き違えてしまい、それによって行動を誤ってしまう現象を指す言葉。当時の王朝文化では、耳に届く「音の整合性」が人間の理性を表すものとして極めて重んじられていたため、こうした些細な聞き間違いであっても、個人の精神文化の一部として深く考察されとったらしいんよ。
●“音は心の形”
深読み家たちの美意識においては、周囲の音をどのように受け取るかという知覚のあり方は、その者の「心の形」をそのまま映し出す鏡のようであるとされとったんよ。
今日の、奇妙な聞き違いに五感を心地よく翻弄されて「拾いなさんな」「断ったら気まずい」と微笑み交わす大騒ぎも、芳華の心がふわっと跳ねていた証拠として風流に解釈され、日常の小さな悪戯を身体全体で受け止めて笑いに変えてしまう、庭っ娘たちの雅で生き生きとした日常の名残なんじゃね。
儀庭の昼時は、今日もゆるりと始まり、ゆるりと騒がしくなる。
それこそが昭華王朝の、いつもの日常であった。




