第10話 味の迷走《あじのめいそう》
王城の中で、若い娘たちが自由に使える庭はただ一つ——儀庭。
昼時になると、白石の上に光が跳ねて、庭っ娘たちのゆるふわな騒ぎが始まる。
昼の清らかな陽光が東屋の屋根を優しく包み込み、修行の合間に集まった娘たちの顔を穏やかに照らしている。
そんな長閑な昼下がり、東屋の前では、瑠映が色壺を抱えたまま、昨日訪れた露香小路で目撃したという世にも奇妙な屋台の新商品について、興奮冷めやらぬ様子で話しだした。
※ 露香小路:朝霞街の南側に位置する、美味しい食と華やかな香りに満ちた賑やかな通り。瑠映と夜凛がお気に入りの場所で、二人でよく訪れている。
芳華は水盤のそばで袖をつまみながら、不思議そうに瑠映を見つめた。
瑠映:「昨日ね、露香小路の道に出とるいつもの屋台でさぁ、新商品が出とったんよ~……」
芳華:「どんなやつなん?」
瑠映は色壺をしっかりと抱え直し、お品書きに書かれた文字の衝撃を思い出すように言った。
瑠映:「『飲む焼き菓子』って書いてあったんよ~……ほんまぶち気になったわぁ」
芳華は想像がつかないといった風に、のんびりとした調子で首をかしげた。
芳華:「なにそれー」
その言葉を聞くや否や、黒耀は巻物を胸の高さで広げ、昼の光で自分の影が乱れないように位置を整えてから大真面目な顔で話し始めた。
黒耀:「詩巻を飲むのは不可能ですが、焼き菓子も無理です! 焼いて固めたものを液体として啜るなど、概念の破綻であり、文人としてあってはならないことです!」
そこへ、舞衣の袖を右から払うようにして、夜凛が白石の上にそっと風を送りながら割り込んできた。
夜凛:「舞で味を整えちゃげるけぇ! ほら、風の力でその未知なる風味を――」
芳華は慌てて夜凛の前に手をかざし、両手を大きく振って的確に制止した。
芳華:「整えなさんな~! 焼き菓子がどっか飛んでいくんよ~! 余計に口に入る前に粉々になって消えてしまうじゃろ!」
二人のやり取りを横目に、琴雪はすでに深読み書を胸の高さで開き、息を整えてから静かに独自の考察を言い放つ。
琴雪:「これは“味の迷走”じゃ。甘味の乱れは心の乱れであり、心の惑いは文化の乱れ……つまり、屋台の文字が揺らいだということは——」
その深遠な思想を断ち切るように、紅牙は他者の影を踏まんように一歩進み、短く冷徹に場を締めた。
紅牙:「……違う。食うな。」
瑠映は名残惜しそうに声を尖らせ、情けない顔で身をよじって反論した。
瑠映:「食わんかったら味がわからんのんよ~! うち、どんな味がするんか確かめてみたくてたまらんのんじゃけぇ!」
儀庭の昼時は、今日もおかしな話でゆるりと騒がしい。
前衛的な新商品から始まったささやかな大騒ぎの余韻が、ぽかぽかとした陽だまりの中に柔らかく溶けていく。
【昭華の豆知識】
●『味の迷走』
昭華王朝の風俗美学において、甘味処や屋台の創作が過激になりすぎ、味の想像と実際の味が大きくずれて人々の心が惑う現象を指す言葉。当時の王朝文化では「甘味の乱れは心の乱れ」とされとったけぇ、こうした屋台の新商品はしばしば文人たちの間で熱い文化談義の種になっとったんよ。洗練された庭っ娘たちが、手元のお品書きの文字に心地よく翻弄される姿は、日常の豊かさを表す象徴として尊ばれていた。
●“甘味は心の揺れ”
深読み家たちの思想においては、甘味の感じ方は人間の内なる「心の揺れ(精神の可視化された動き)」と密接に結びついとったんよ。
今日の、奇妙な看板に五感を心地よく圧倒されて「焼き菓子が飛んでいく」「食わんかったらわからん」と微笑み交わす大騒ぎも、瑠映が“飲む焼き菓子”という未知の響きに心を奪われてふわふわと弾んでいた証拠であり、日常の小さな変化すらも身体全体で受け止めて笑いに変えてしまう、庭っ娘たちの雅で生き生きとした日常の名残なんじゃね。
儀庭の昼時は、今日もゆるりと始まり、ゆるりと騒がしくなる。
それこそが昭華王朝の、いつもの日常じゃった。




