第99話 揺れても、声は前へ
体育祭まで、あと十日。
校内の空気は、もう完全に体育祭の色に染まり始めていた。
朝の昇降口では、靴を履き替えながら競技の話をする声が聞こえる。
廊下には、紅組と白組の連絡プリントが貼られた。
放課後の校庭からは、日が傾くまで掛け声と足音が響く。
授業中でさえ、黒板に向かう先生の声の奥に、どこか体育祭の熱が残っているようだった。
二年十一組も例外ではない。
紅組と白組。
同じ教室なのに、体育祭の話になると自然に二つの色に分かれる。
けれど、それは対立ではなかった。
勝ちたい。
負けたくない。
でも、お互いの頑張りも見えている。
そんな、少し照れくさい競争心が教室の中にあった。
なつきは席に座り、鞄の横で揺れる黒猫を見つめた。
最近、この黒猫を見るたびに思う。
自分も、ずいぶん変わった。
春樹を遠くから見ているだけだった頃。
春樹と話すだけで一日分の勇気を使っていた頃。
美優や白石祐衣が近くにいるだけで、胸が苦しくなっていた頃。
今だって、苦しくならないわけではない。
春樹が美優と自然に話しているのを見ると、胸は少し揺れる。
祐衣が春樹に丁寧に声をかけるのを見ると、少しだけ自分との差を感じる。
借り人競争で春樹が美優を借りた練習の日は、分かっていても痛かった。
けれど、今のなつきは、その痛みだけで立ち止まらなくなっていた。
紅組がある。
亜衣がいる。
圭がいる。
田辺がいる。
島中がいる。
そして、自分の声がある。
「なつき」
亜衣が隣から声をかけた。
「今日、応援合戦の最終形に近い通しやるって」
「うん。聞いた」
「緊張してる?」
「してる」
「よろしい。緊張してるって言えるのは大事」
なつきは少し笑った。
「亜衣ちゃん、最近ちょっと茜ちゃんみたい」
「え、私が?」
「うん」
「それは光栄だけど、責任が重い」
亜衣は胸を張ってから、すぐ肩を落とした。
「でも今日は茜ちゃん白組側だからね。紅組のなつき担当は私です」
「担当?」
「なつきが沈みそうになったら引っ張る係」
「ありがとう」
素直に言うと、亜衣は少しだけ目を細めた。
「うん」
その時、前方から圭の声が響いた。
「紅組、今日決めるぞ!」
紅秋の声がすぐに返る。
「朝から決めるな。放課後だ」
「気持ちの話!」
「授業も受けろ」
「はい!」
教室に笑いが広がる。
田辺が自分の席で肩を回しながら言う。
「三浦、ほんと体育祭で生きてるな」
島中が笑う。
「当日終わったら燃え尽きそうだな」
「燃え尽きない! 次は文化祭がある!」
「気が早い」
亜衣がなつきに小声で言う。
「圭くん、体育祭後も元気だね」
「うん。すごい」
「紅組には必要な人材」
「本当に」
なつきは笑った。
圭の明るさは、紅組の空気を作っている。
田辺のまっすぐな熱さ。
島中の負けず嫌い。
亜衣のツッコミ。
みんなが少しずつ役割を持っている。
その中に、自分もいる。
そう思えることが、なつきには嬉しかった。
◇
昼休み。
紅組の机の輪には、応援合戦の最終メモが広げられていた。
最初の手拍子。
掛け声。
隊形移動。
最後の拳。
圭の字は相変わらず少し読みにくかったが、亜衣が横に清書してくれていた。
「圭くんメモ、熱意版」
「亜衣ちゃんメモ、提出版」
なつきが言うと、亜衣は得意げに頷いた。
「役割分担です」
圭は少しだけ不満そうに言う。
「俺のメモも読めるだろ」
田辺が紙を覗き込む。
「これは……『紅組、魂』?」
「そう!」
「競技メモじゃねぇ」
島中が笑う。
「でも三浦らしい」
「だろ!」
「褒めてるかは微妙だけどな」
なつきは、メモの中に自分の名前を見つけた。
前列右端。
隣、亜衣。
中央、圭。
後列に田辺と島中。
最初は、前列に立つだけで怖かった。
視線が集まる気がした。
声が出なくなる気がした。
でも、昨日の通し練習で少しだけ分かった。
前に立つことは、目立つことだけではない。
後ろの声を受け取って、前へ出す場所でもある。
紅組のみんなの声を、自分の声と一緒に前へ届ける場所。
「なつき」
田辺が言った。
「今日、前列大丈夫そうか?」
「うん。まだ緊張するけど」
「緊張してても動けてるから平気だろ」
島中も頷く。
「昨日より目線上がってたしな」
「見てたの?」
「列の確認してたら見えるだろ」
島中は少しだけ目を逸らした。
なつきは小さく笑った。
「ありがとう」
島中は返事の代わりに、少しだけ肩をすくめた。
亜衣がにやっとする。
「島中くん、なつきの応援成長記録係」
「勝手に係にすんな」
圭が手を上げる。
「じゃあ俺、なつき声量向上係!」
「圭くんは自分の声量制御係を先に」
「それは難しい!」
「認めた」
みんなで笑う。
なつきは、その笑いの中で息を吸った。
紅組の空気。
熱くて、少し騒がしくて、でも温かい。
この空気があるから、白組を見る時の胸の揺れも、前より受け止められる。
ふと、白組側へ視線が動いた。
春樹達も昼休みの打ち合わせをしている。
美優が応援合戦の前列について話している。
祐衣が記録表を確認し、茜が全体の流れを整え、紅秋が道具係の確認をしている。
蓮が春樹にリレーの走順を見せ、春樹が頷く。
白組は、今日も落ち着いている。
その中で、春樹は自然にいる。
胸が少しだけ揺れる。
けれど、なつきはすぐに視線を戻した。
「大丈夫?」
亜衣が小声で聞く。
「うん」
「今日は早いね。戻ってくるの」
「紅組の確認、まだあるから」
亜衣は嬉しそうに笑った。
「いいね。紅組のなつき」
なつきは少し照れながら頷いた。
「うん」
◇
放課後。
校庭には、紅組と白組の応援メンバーが向かい合うように集まっていた。
今日は、それぞれの通し練習を先生達が確認する日だった。
本番ではない。
けれど、初めて他の組の前で、ほぼ完成形を見せる。
紅組の空気は、いつもより少し緊張していた。
圭でさえ、いつものように騒ぎながらも、目の奥は真剣だった。
「声、飛ばすぞ」
圭が言う。
亜衣がすぐ返す。
「飛ばしすぎない」
「制御された情熱」
「それでいこう」
田辺が低く言う。
「最後、揃えようぜ」
島中も腕を回す。
「白組、綺麗に揃えてくるだろうしな」
「紅組は勢いだけじゃないって見せよう」
亜衣が言う。
なつきは頷いた。
「うん」
その言葉を、自分の中でも繰り返す。
勢いだけじゃない。
紅組の手拍子。
声。
笑い。
熱。
自分の柔らかい声。
全部で紅組になる。
先生の合図で、まず白組が通し練習を始めることになった。
なつきは紅組の列の端で、白組を見た。
白組は、並びから綺麗だった。
前列に美優。
少し後ろに祐衣。
茜が横で全体を見て、紅秋が列の幅を確認する。
春樹は応援合戦の中心ではないが、後方でリレー組として参加している。
蓮も近くにいた。
白組の手拍子が始まる。
紅組より低く、一定で、落ち着いた音。
そこから声が重なる。
美優の声はよく通った。
祐衣の声は大きくはないけれど、丁寧に揃っている。
春樹の声も、少しだけ聞こえた。
短く、低く、でも確かに。
なつきの胸が揺れる。
白組は綺麗だった。
そして、その中に春樹がいる。
美優が前で声を出し、祐衣が後ろで支え、春樹が自然に応えている。
なつきは、少しだけ唇を結んだ。
寂しい。
やっぱり、少し寂しい。
でも、それだけじゃない。
綺麗だと思った。
白組も頑張っている。
春樹も頑張っている。
だから、自分も紅組で頑張りたい。
白組の最後の声が校庭に響き、拍手が起きた。
圭が小さく呟く。
「白組、やるな」
田辺が頷く。
「綺麗だったな」
島中も少し悔しそうに笑う。
「負けてらんねぇ」
亜衣がなつきを見る。
「なつき」
「うん」
「次、紅組」
「うん」
なつきは深呼吸した。
胸は揺れている。
でも、声は前へ出す。
◇
紅組の番になった。
なつきは前列右端に立った。
隣に亜衣。
中央に圭。
後ろから田辺と島中の気配がする。
さらに後ろには、紅組の他学科の生徒達。
たくさんの声が、自分の背中にある。
向かい側には白組。
春樹がいる。
美優も、祐衣も、蓮も、紅秋も、茜もいる。
見られている。
そう思うと緊張で喉が少し詰まりそうになった。
その時、春樹と目が合った。
春樹の視線が、なつきの黒猫へ落ちる。
そして、なつきへ戻る。
小さく頷く。
見つけた。
そう言われた気がした。
なつきは指先に力を入れ、前を向いた。
圭の声。
「一、二、三、四!」
手拍子。
パン、パン、パン、パン。
紅組の音が始まる。
昨日より揃っている。
なつきも叩く。
手のひらに熱が走る。
呼吸を合わせる。
亜衣の声が隣にある。
圭の声が中央から飛ぶ。
「紅!」
「勝つぞ!」
なつきも声を出した。
思ったより、声が前へ出た。
自分でも驚く。
でも止まらない。
「紅!」
「燃えろ!」
手拍子。
一歩移動。
視線を上げる。
白組が見える。
春樹が見える。
美優も祐衣も見える。
でも、今は紅組の声の中にいる。
なつきは、胸の揺れをそのまま声に変えた。
「紅組!」
「勝つぞ!」
最後の拳。
全員が前を向く。
一瞬だけ、校庭の空気が止まった。
それから拍手が起きた。
紅組の中からも、白組の方からも。
なつきは息を吐いた。
終わった。
声が出た。
前列で、逃げずに立てた。
「やった!」
圭が声を上げる。
「声量!」
亜衣がいつものように注意するが、顔は笑っていた。
田辺が低く言う。
「今の、よかったな」
島中も頷いた。
「勢いだけじゃなかった」
亜衣がなつきの肩に軽く触れる。
「なつき、すごい出てた」
「本当?」
「本当」
なつきは胸を押さえた。
心臓がまだ早い。
でも、嫌な早さではない。
やりきった後の鼓動だった。
◇
先生からの講評があった。
「紅組は勢いがあっていいですね。最初の手拍子も揃ってきています。ただし、中央が前に出すぎないように」
全員の視線が圭に向く。
圭は両手を上げた。
「はい!」
笑いが起きる。
「白組は統一感があります。後半の声量がさらに上がるともっと良くなります。どちらも本番までに十分仕上がりそうです」
その言葉に、紅組と白組の両方から小さな安堵の空気が流れた。
練習が終わると、なつきは水筒を取りに行った。
手のひらが熱い。
喉も少し痛い。
けれど、不思議と体が軽かった。
「横田さん」
声がして振り返る。
春樹がいた。
白組の練習を終えたばかりで、少し汗をかいている。
なつきの胸が跳ねた。
「春樹くん」
「声、聞こえた」
なつきは息を止める。
何度も言われた言葉なのに、今日のそれは特別だった。
「本当?」
「うん」
「白組の方まで?」
「うん」
春樹は少しだけ間を置いて言った。
「前より、強かった」
胸が熱くなった。
強かった。
自分の声を、春樹がそう言ってくれた。
「……ありがとう」
「うん」
「白組も、すごく綺麗だった」
「そう?」
「うん。美優さんの声も、祐衣さんの支え方も、茜ちゃんと紅秋くんのまとめ方も。春樹くんも、ちゃんと声出てた」
言ってから、少しだけ照れる。
ちゃんと見ていたことを、言葉にしてしまった。
春樹は静かに頷く。
「見てた?」
「うん」
「俺も見てた」
なつきの胸が、大きく鳴った。
短い言葉。
でも、それだけで十分だった。
「そっか」
なつきは黒猫に触れた。
「見つけてくれて、ありがとう」
「うん」
春樹の視線が黒猫へ向く。
「今日、よく揺れてた」
「応援で動いたから」
「うん」
「落ちないように気をつけるね」
「うん」
その会話は、周りから見ればただの黒猫の話かもしれない。
でも、なつきには違った。
見つけてくれること。
気づいてくれること。
それが全部、この黒猫に繋がっている。
◇
少し離れたところで、美優と祐衣が春樹を待っていた。
美優がこちらを見て、軽く手を振る。
「横田さん、紅組すごかったよ!」
祐衣も微笑む。
「手拍子、とても揃っていました。前列も綺麗でした」
なつきは少し驚いてから、頭を下げた。
「ありがとう。白組もすごく綺麗だった」
美優が笑う。
「紅組は熱いね。圭くん、すごい」
「うん。圭くんはすごい」
「でも横田さんの声も聞こえたよ」
なつきは一瞬固まった。
「私の?」
「うん。前列にいたでしょ? ちゃんと分かった」
祐衣も頷く。
「大きさだけではなくて、聞き取りやすい声でした」
白組の二人にそう言われて、なつきの胸がじわっと温かくなる。
美優や祐衣は、春樹の近くにいる人。
胸が揺れる相手。
でも同時に、こうして自分を見てくれる人でもある。
なつきは、少しだけ笑った。
「ありがとう。すごく嬉しい」
美優は目を細める。
「うん」
祐衣も柔らかく頷いた。
春樹はその隣で、静かに見ていた。
なつきは、少しだけ思った。
胸が揺れる相手と、少しずつちゃんと話せるようになっている。
それは、きっと大事なことだ。
◇
帰り支度をする頃、紅組の輪は今日の成功で少し浮かれていた。
「紅組、いけるぞ!」
圭が言う。
「だから声量」
亜衣が言う。
「今日くらいよくない?」
「よくない。喉守って」
「はい」
田辺がなつきへ言う。
「横田、今日かなりよかったぞ」
「ありがとう」
島中も軽く言う。
「前列、もう大丈夫じゃねぇの」
「まだ緊張するけど」
「緊張しててもできるなら、それでいいだろ」
その言葉に、なつきは少しだけ驚いた。
緊張しててもできるなら、それでいい。
そうかもしれない。
緊張がなくなるのを待つ必要はない。
胸が揺れなくなるのを待つ必要もない。
揺れたままでも、声は出せる。
今日、それを少しだけ知った。
「うん」
なつきは頷いた。
「ありがとう、島中」
島中は少しだけ顔を逸らした。
「別に」
亜衣がにやにやする。
「島中くん、照れた」
「照れてねぇ」
田辺が笑う。
「照れてるな」
「お前まで言うな」
紅組の笑い声が夕方の校庭に広がる。
なつきはその中で、黒猫をそっと揺らした。
揺れても、声は前へ出せる。
胸が痛んでも、紅組で立っていられる。
春樹を見ても、美優や祐衣を見ても、自分の場所を見失わずにいられる。
それは、なつきにとって大きな一歩だった。
◇
校門へ向かう途中、春樹が少しだけ隣に並んだ。
美優と祐衣、蓮は少し前を歩いている。
紅組の亜衣達は後ろで圭の声量についてまだ話している。
ほんの少しだけ、なつきと春樹の間に静かな時間ができた。
「横田さん」
「うん?」
「今日、頑張ってた」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「頑張った」
自分で言えた。
春樹は頷く。
「うん」
「春樹くんも、頑張ってた」
「うん」
「白組、強そう」
「紅組も強そう」
なつきは笑った。
「じゃあ、本番楽しみだね」
「うん」
少し沈黙。
夕方の風が吹いて、黒猫が揺れる。
春樹がそれを見る。
「また見つけた」
なつきは胸の奥が温かくなる。
「私も、春樹くん見つけたよ」
今度は、前より少し自然に言えた。
春樹はなつきを見て、短く頷いた。
「うん」
赤い声。
白い背中。
揺れる胸。
それでも、見つけ合える視線。
体育祭まで、あと十日。
なつきは、黒猫を連れて、また一歩前へ進んでいた。




